第六話 不運
二日前に姉になったばかりの深雪と風呂場の脱衣場で出くわしてしまった。
しかも、よりによって裸だ。
これがもう少しタイミングがズレて、彼女がもう湯船に入っているか、あるいは服を脱ぐ前なら、そうと察して回避できたのだろうが――。
俺としてはどうしようもない状況だ。
これから親父と雪代さんの再婚はどうなってしまうのか。
いや、それどころか、俺は法的に大丈夫なのか?
もうこれはどう見ても水沢家の危機的状況だろう。
しかし、肌が白いなぁ。
それに、お腹のくびれが凄いな。
控えめとはいえ、胸もちゃんとある。
女性の体は全然、男とは違うのだな、と俺は変なところに感心してしまった。
冷静なのではない。
たぶん、俺の脳はパニックを起こしていて、現実逃避していたと思う。
先に口を開いたのは深雪の方だった。
「ふう。いつまでそうしてるつもりよ」
深雪がため息をついて、そう言った。
「あ、ああ、悪い、ごめん」
これは謝って回れ右をすれば、許してもらえるパターンかもしれない。
相手が冷静な奴で助かった。
俺はそう思って、回れ右をしたのだが。
「すーっ、きゃああああ!」
「ええーっ?!」
思い切り息を吸って悲鳴を上げる深雪。
なんだ、今のは。
俺をはめようとしてるのか?
戦慄する。
深雪が水沢家との関係を嫌っているなら、ここは潰す大チャンスだろう。
迂闊だった。
彼女は再婚に賛成だと言ったが、本心とは限らない。
あの場を収めるためだけの方便かもしれなかった。
「どうした!」
親父がどたどたと走ってくるのが分かったので、俺は素早く脱衣場を出て、ドアを閉める。
これで、目撃被害は最小限に食い止められた。
「竜人? 説明しろ。何があった」
親父が中を気遣った顔で問う。
「いや、中に入ったら、裸の深雪がいて…」
「お前なあ。何やってんだ? ちゃんと謝ったのか?」
「謝ったけど」
「そうか。深雪ちゃん、悪かったな。こいつは後でキッチリとっちめておくから、ゆっくり風呂に入っててくれ。おい、行くぞ、バカ息子」
「俺が悪いのか…?」
「当然だ。お前、深雪ちゃんのせいにするつもりか?」
「いや、そうじゃないけど…」
元はと言えば、深雪が家族の風呂の順番の話を聞き逃したから…いや、そうじゃないな。
順番をきちんと決めておかなかったことと、連絡が行き届いていなかったことと、俺がノックをし忘れたせいだ。
女性がいる部屋にはノックして許可を得てから入る、そんな取り決めも一昨日に交わしていた。
重罪じゃねえか……。
目の前が暗くなる。
「あはは、ひょっとして、お姉に引っぱたかれた? お兄ちゃん」
「いや。そうじゃないが」
「ああ、先に深雪が入ってたのね。ごめんなさい、竜人君、私も気付かなくて…」
雪代さんもそう言ってくれるが。
「いや竜人、お前が気付かないのが悪いんだぞ」
「そうだな。ノックも忘れた。というか、中にいるとは思わなかったから…」
俺は力無く言う。
「ああ。次から、いなくても念のため、ノックしとけ。あと、洗面所もこの際だ、改装した方がいいかもな」
親父が言うが、風呂場の脱射場とは独立した洗面所にすれば、少なくとも食後の歯磨きで今のようなアクシデントは起きないだろう。
それでもさっきの俺の場合、歯磨きした後で風呂に入って結局やらかしていた気がするが。
「ええ? その程度で改装って、必要ないですよ。お風呂の順番とノックを気を付ければ充分です」
雪代さんが言うが、どうだろうなあ。
「ふふ、家族水入らずで入っちゃえばいいんだよ。あはは」
小雪は面白がっているが…。
「小雪、茶化さないの。お姉ちゃんが出てきたら、からかったらダメよ」
「はぁい。別に見られて減るもんでもなし」
「小雪!」
「はいはい、言わないっての」
小雪は、雪代さんが背を向けたところで、俺に向かって親指を立ててウインクするが、笑えないなぁ。
俺はため息をついて無視する。
「じゃ、竜人、お前は部屋で謹慎してろ」
「分かった」
「深雪ちゃんが出てきてから言い分を聞いて、それから沙汰を出す」
「はい」
「沙汰だなんて。一言謝って終わりでいいでしょう」
雪代さんが取りなしてくれた。
「ま、それも深雪ちゃんの話を聞いてからにしよう」
「竜人君が嘘をつくとでも?」
「そうじゃないが、一応言い分を聞いたってことにしておいた方がいいだろう」
「そうですね。じゃあ、悪いけど、竜人君、そういうことだから」
「ええ」
部屋に戻る。
すぐにノックがあった。
「はい」
「ボクだけど。入って良い? お兄ちゃん」
声の主は小雪だった。
「いいぞ」
「さっきはごめんね、ちょっとからかいすぎたかも」
「ああ。まあもういいよ」
「だって、漫画みたいな展開で、おっかしくてさあ」
「ああ、まあ、面白かったのは分かるが、頼むから深雪の前でそれは止めてくれよ?」
「ええ? まあ、お姉ちゃん、そこまで怒ってないと思うけどねー」
「どうだかな。深雪ちゃんて男と付き合ったこと、無いんじゃないのか?」
「ボクの知る限りでは無いと思うけど、お姉ちゃん、割と秘密主義だからねえ。どうだろ」
「む…」
「ええ? 男の免疫がある方が、お兄ちゃんは都合がいいんじゃなかったの?」
「ああ、いや、まあ、都合が良いとか悪いとか、それは置いとこう。話はそれだけ?」
「あ、うん。ショックだった?」
「まあ、ちょっとな。別にそこまで共同生活を上手くやろうとは思ってなかったが、やっちまった感じだ」
「まあねえ。でも、そこまでじゃないよ。押し倒して襲ったり、下着を盗んだりってレベルじゃ無いんだし」
「まあ、そうだな」
ただ、それだと犯罪レベルだけどな。フォローのための比較対象が犯罪とは悲しい。
「元気出して。後でお姉ちゃんには上手く言っておくし」
「あー、うん」
「…と、こ、ろ、で、お姉ちゃんの裸を見た感想は?」
「ノーコメントだ」
「えー? 興奮した! とか、綺麗だったとか、胸が残念とか、なんかないの?」
「うーん、肌が…いや、ノーコメントだ。記憶にございません」
「もー、キミはどこかの政治家ですか」
「そうじゃないが、俺がどう言ったところで、悪意があると思われたり、悪い方に受け取られるとなぁ」
「じゃ、表向きはノーコメントで良いから、ボクには正直なところを話してよ。仲の良い妹は味方に付けないと損だよ?」
ノーコメントで通す方が安全だが、それだと、小雪を信頼していないという風に受け取られる可能性があるな。
「じゃ、絶対に深雪には言わないってことで」
「うん、言わない。絶対」
よし。
「肌がビックリするぐらい白くて、あと、体が女の子だったな」
俺は第一印象を正直に述べた。
「あはは、そりゃそうだよー、ああ見えてちゃんと女子だから。男子だと思ってたの?」
「いやいや、そういう意味じゃ無くて、体つきが、ううん」
「うっわー、やらしー、きゃー」
「うるさい。もういいだろ。出てけ」
「はーい」
小雪が部屋から出て行った後、俺はベッドに体を放り投げて大の字になる。
「うー、くっそー」
罪悪感というか、あそこでノックしていればとか、中にいるのを気付いていればとか、早く謝って出ていればと、色々頭に後悔の念が浮上してくる。
ただ、対策についてはもう出たので、過去のことを悔いてもあまり意味が無い。
後は深雪との関係改善をどうするか、そちらを考えた方が良さそうだ。
とはいえ、年頃の女性の思考回路なんて、俺に分かるわけがない。
小雪とは性格が明らかに違うし、小雪より大人なんだよな。
いや、大人と言うより、冷めた部分がある。
ミルフィーユならどう考えるんだろうか。
って、彼女はAIだ。
だが、人間を模して作られた思考回路なら、こういうときの模範解答のようなものを示してくれるかもしれない。
それはただの現実逃避なのかもしれないが、それでもあの優しいミルフィーユに何かアドバイスしてもらえればという一抹の期待から、俺はサイドコアを起動させた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
最初の広場に出た。
外はすっかり暗くなり、夜空には星と、例の二つの月が輝いていた。
赤と青の巨大な月。
綺麗なもんだな、と思った。
綺麗と言えば、深雪の裸が思い浮かんでしまったが、くそ、それは今いいから。
俺は頭を振り払って、深雪の裸を頭の中から追い出す。
当分、この裸には悩まされそうだ。やれやれ。
広場には昼間ほどではないが、それなりに冒険者達がいた。揺らめく篝火の光に照らされ、笑ったり真剣な顔で話していたりしている。
今日はどこの狩り場に行くか、あるいは明日の予定でも話し合っているのかもしれない。
深雪をこのミッドガーデンに誘って一緒にプレイすれば、仲良くできるのかな?
とりとめの無い思いつき。
まあ、後で誘ってはみるが、望み薄だな。ゲームは好きじゃ無さそうだったし、小雪と一緒にプレイしていないのはそういうことなのだろう。
ここでこうしていても仕方ないので、街の中心部に向かって歩く。夜のフィールドは敵が強くて危険だと小雪から聞いているので、外に出るつもりは無い。
石畳の路地を歩いていくと、そこは酒場なのか、陽気な男達の笑い声や、不思議な音色の弦楽器の調べが響いてくる。
騒がしいところに行きたい気分でも無かったので、俺はそのまま通り過ぎてさらに歩く。
「つっても、ミルフィーユには会えないか」
彼女とはまた明日、護衛に付くと言う話をして別れている。
何となく会えるのではと思ってここまで来たのだが、まあいい、しばらく夜の街でも探索してみるか。
路地を適当に歩いていると、上に行く階段を見つけた。
興味本位で上がってみる。
階段は建物の屋上へと続いていた。
その先に、ぽつんと一人、白い鎧の騎士がいた。
淡い色の金髪かどうかは暗がりのせいで判然としなかったが、兜は着けておらず、ふわっとした髪型の女性だったのでもしやと思い、近づいていく。
彼女もこちらに気付いたようで、手すりから離れて身構えた。
「あ、いや、何もしません」
俺は両手を顔の横に挙げて、敵意が無いことを示した。
「ああ、リュートさん、良かった」
少しほっとしたようなミルフィーユは、不安を覚えたのだろうか。高レベルの上位騎士なのに。
俺はその点を謝罪しておく。
「すみません、脅かしてしまいましたね」
「いえ、護衛も付けずにこんな人気の無いところに来たものですから」
ミルフィーユが微笑むが、月明かりに照らされた彼女は、蒼い髪のようにも見え、どこか幻想的だった。