三話 少し前の彼女
この回を今年の夏に会ったある作家さんに贈ります。
1
それは、ボクが高校生になる前の事。
中学三年生だった頃のボクには、世界は灰色に映っていたんだ。
「ねえ、あの子知ってる?」
「ああ、三年A組の山城栞でしょう」
「あの子、ちょっとおかしいよね~。女子なのに、ボクだなんて」
「ホント。一部の男子からは、それがいいだなんて言われて調子に乗ってんじゃないの?」
いつからか、ボクは女の子達の間でそんな陰口を叩かれるようになっていた。
ボクは最初から『ボク』だったわけじゃない。
幼い時にお母さんを亡くしたボクはそれから、しばらくお父さんとふたりで暮らしていた。
それが変わったのは五年ほど前。
お父さんが再婚をした。お母さんが亡くなってから、ボクもそうだけどお父さんはもっと寂しそうだったから、新しいお母さんができる事はいい事だと思ったんだ。
でもその新しいお母さんには、男の子が――ボクの弟になる子もいたんだ。
新しい家族と仲良くなりたくて、仲良くしなくちゃ、と思って、『私』は『ボク』になって弟と遊ぶようにしてたんだ。
秋の紅葉に染まる帰り道を歩く。その日は、気分を変えるために千羽池の方を歩くことにした。千羽池では秋祭りが近いので、その準備が始まっていた。屋台が出始めている。
紅、黄色、紅葉――千羽池の散歩道の木々の葉は、色とりどりに色付いているのにボクにはそう見えない。
色を失って、灰色に見えたんだ。
どうしてかな?
なんでだろう?
胸の中が悲しい気持ちで一杯だから?
涙が零れそうになる。
どうしよう。家族の前では何にもないよ、って笑っていたいのに。
それから、美術の時間の課題のことも思い出した。
来週、提出なのにまだ何も描けていない。
でもこんなんじゃ、何を描いたらいいかなんて分からないよ。
どんな色を乗せたらいいんだろう?
そんな事を考えながら、千羽池の散歩コースを歩いていると、ふと見つけたんだ。
柵を大きく乗り越えて、池の鳥をカメラで撮ろうとしている男の人を。
うん、今にも落ちてしまいそうだった。
そうしている内にバランスが取れなくなって。
「マ、マズイ!すまない、そこの君!カメラを頼む!」
そのひとがカメラを投げる。
ボクはなんとかそれを受け止める。
そして、そのひとは池に落ちていった!
2
「いやあ、すまない。助かったよ!」
池に落ちてビシャビシャのコートとシャツ、黒のチノパン姿の男の人はそれでも笑ってボクにお礼を言う。
「コイツは僕の長い愛用品でね。相棒みたいなものかな。だから、どうしても壊したくなかったんだ。ありがとう」
そのひとは、カメラを大切そうに撫でながら頭を下げる。
歳はどれくらいだろう。二十歳を超えた辺りの若い人。
「その、どういたしまして」
ボクも釣られて頭を下げた。
「君はおもしろい子だね」
そのひとは、そんなボクを見て言った。
ボクはおもしろい――おかしい子なのかな?
学校での事を思い出す。
分かっているんだ。このひとはそんなつもりでいったわけじゃないんだって。
それでも。
「どうしたんだい?顔が曇ってしまったね。何か僕が気に障る事を言ったかい?」
首を横に振る。
「そっか。なら――明日の今頃、時間は空いているかい?」
ボクは頷く。
「ならお礼をさせてほしい。相棒を助けてもらったから。本当は今からでもいいんだけど……」
そのひとは、自分の服を見る。
確かにずぶ濡れのままだと、風邪をひいてしまうかもしれない。
「だから明日、またここで会おう!」
明るい笑顔。
「はい!」
それに応えるように笑う。
この日はそのまま、さよならをしたんだ。
3
次の日の放課後、ボクはそのひとに連れられて千羽池の近くの喫茶店に入った。
「昨日のお礼だから、なんでも好きなの頼んで。僕の奢りだから!」
ボクはメニューと睨めっこして、アイスココアを選んだ。
「え、それだけでいいの?慎み深い子だな。甘いの苦手?」
「そんな事はないです……」
「なら、この店のおススメはこれだ!」
そう言って、そのひとはジャンボパフェを頼んだ。そのパフェはいちごやチョコレート、マショマロが乗っていてとても美味しいそうだった!
一口食べるとクリームの甘さや、果物の酸味が口の中に広がる。
見た目の通り、美味しかった!
「顔がやっと輝いたね!やっぱり女の子はそうじゃないとね!」
そのひとがパフェを夢中で食べるボクを見て微笑む。
頬にクリームを付けたボクは、少し恥ずかしかった。
「あそこは、僕が高校生の時からあるお店でね。昔はよく行ったんだよ!」
喫茶店を出た後、ボク達は千羽池を並んで散歩する。
そのひとは、高校生の時の思い出を楽しげに笑いながら話す。
水上高校での日々、授業や写真部での活動を。
聞いているだけで、ボクも楽しい気持ちになれた。
「あなたは、今どんなお仕事をされているんですか?」
そのひとの事が気になって聞いてみた。
「僕かい?僕はプロのカメラマンなんだ」
そう言って、懐からカメラを取り出す。それは昨日のカメラ。
「世界の色々な所に行って色々な物や場所、色々な人達を撮ってる。写真を見てみるかい?」
ふたり立ち止まってから、写真を見せてくれる。
そこに映っていたのは世界の色々な風景――砂漠やジャングル、雪に覆われた世界、街並み。ただ広がる海。蒼い空。
そこには色々な人達がいた。その人達は様々な表情をしていた。泣いたり、怒ったり、笑ったり、微笑んでいたり。
ああ、世界はなんて広いんだろう!
なんて色々な人達がいるんだろう!
どうして、こんなに様々な色に溢れているんだろう!
ボクは知らない世界を、その写真を通して想像する。
「僕はね、カメラさえあればどんな世界とも、どんな人達とも繋がる事ができるんだ!」
「それは、とても素敵なことですね!」
「そう、思うだろ!」
そのひとはカメラを、ボクも知る世界に向ける。
「でも、カメラはそれだけじゃない。こうして見慣れた世界だってファインダー越しに見れば、何だって特別に見えるんだ!」
それから、ボクにもカメラを覗かせてくれる。
そこにあったのは――見慣れた筈なのに、そうは思えない色とりどりの世界。
見上げれば青い、蒼い空。
そう、特別だったんだ。
ボクは気が付いた。
いつだって世界は同じ日、同じ時、同じ瞬間は無いんだって。
いつだって色に溢れているんだって。
ボクはそれを忘れていたんだ。
目から涙が零れた。
「ど、どうしたんだい?急に泣きだして」
そのひとが慌てている。
「嬉しかったんです、世界は色々な色に溢れているんだって思い出したんです!」
ボクは泣きながらも、思いっきり笑った。
「そっか、それなら良かった!」
そのひとも笑ってくれた。
それから、しばらくボクは放課後にそのひとと会うようになった。
月代悠さんと。
カメラの事を、写真の事を沢山教えてもらった。
悠さんの撮った――蒼い空の写真を貰った。
全部、全部ボクの大切なものだ。
けれど、悠さんは千羽池の秋祭りが終わった後、また世界に旅立っていった。
写真を撮るために。
元々、秋祭りを撮るために日本に戻ってきたらしい。
ボクは約束した。
また、来年の秋に会おうって。
4
ボクの目の前には、白紙の美術の課題がある。
でも、もう大丈夫。
ボクは色を、自分で乗せられる!
ボクは悠さんと見た蒼い空のように――画用紙を青で塗りたくった。
その絵を見て、先生は何か言いたそうにしてたけど、ボクは満面の笑みで提出した。
そして高校生になったボクは悠さんが見ている世界を、少しでも見たくて写真を始めたんだ。
ボクの部屋のガラス立てには、悠さんから貰った写真を大事に飾ってある。
あのひとに今年も会えますように、って。
元々これは、ある作家さんの作品群を読んで考えついたものでした。
その時点では、この部分に少し形を変えただけのもので連載作ではなかったんです。
でもそのあと様々な人々との出会いがあって「色彩スプライン」となり、今こうして発表することができました。
多くの人との出会いとその人達に感謝を込めて。
次回は木村君の少し前のお話。