(9)家族って、なんだろうな
母さんが恵太おじさんの車椅子を押しながら部屋から出て来た。母さんは明らかに泣いていた顔だ。恵太おじさんも、やはり目を赤くしていたけれど見てはいけないような気がして、台所へ行き夕飯の準備をしていたお祖母ちゃんを手伝った。
それなのに琴音は遠慮なしに、母さんの顔を覗き込む。どうしたの、と心配そうに涙声で聞くもんだから、母さんは琴音を抱き寄せて大丈夫よ、と言いながらまた涙が出てきたじゃないか……これだから、末っ子は。
俺だって心配なんだ。でも、俺はしっかりしないといけないんだ。
俺達が夕飯を食べ終わりそうな頃に、父さんも来た。少しだけ肉じゃがをつまんだけれど、すぐに器を下げリビングから手招きをした。
「皆さん、ちょっとこっちに来てくれますか」
リビングに、父さんと母さん、お祖母ちゃんと恵太おじさん、俺と琴音が集まると、そんなに広くはないから割と距離が近い。最近あまり俺に近寄りたがらない琴音が、珍しくぴったりくっついて座った。また何言われるのか不安なんだな……わかるよ。
父さんが、そんな俺らを見てフウッ、と深呼吸し、ニカッと笑った。
「なあ! 最近、皆難しい事ばっかり考えて、暗い顔してるけど……考えてもみろよ、おれ達家族は、生まれ変わるんだよ! 新しいスタートを切るんだ! ワクワクしないか?」
学生時代演劇をやっていた父さんは、まるで舞台の上にいるかのような口調で俺達を見まわし、両手を広げて言った。母さんがプッと吹き出すと、琴音も笑った。俺もちょっと、ホッとしてニヤッとしてしまう。
「史彰君……本当に、ありがとう。そう言ってくれて本当に嬉しいよ――そうだな、皆には確かに私の過去の身勝手のせいでこんな風になってしまってから、辛い思いをさせていると思う。でもそういう風に思ってくれるなら、こんなに嬉しい事はないよ」
「そうですよ、こんな経験滅多にできるもんじゃないですよ。おじさん……いや、お義父さん! 僕はそう、呼びたいです。この歳になって、年上の家族が増えるとは思いませんでした、嬉しいです! これからもよろしくお願いします」
父さんは――本心なんだろう、笑顔なんだけど目には涙をためていた。それを見たら、俺もなんだか泣けてきた。でも、それはあったかい涙だった。こんなにあったかい涙、今まで知らなかった。
母さんも泣きながら笑ってる。お祖母ちゃんは……ハンカチで顔を覆ってしまってるけど……恵太おじさんは左手をギュッと握りしめていたが、父さんが求めた握手に応じて力強くその手を握った。琴音は俺に泣き顔を見られそうになって慌てて顔をそらす。
今まで、ずっと悪い方へと考えていた。米田の家から切り離されるんじゃないか、苗字変わって学校の奴らが余計な詮索するんじゃないか、変な噂流すんじゃないか、と。
でも、そうだ。父さんの言う通りだ。そりゃあ、経緯を考えたら複雑な気持ちもあるけれど、俺達は新しい家族として新しいスタートを切るんだ。そう思えば、何かが吹っ切れた気がした。
「佳之、琴音。わかってくれるよな?」
「うん……でも俺達、もう米田の親戚と会えないの」
「そういうわけじゃないわ。ただ、お正月や結婚式みたいな親族の集まりにはもう、呼ばれないかもね……でもいいのよ、賢太郎や翔太郎の家族はこっちに時々は来てくれるって」
「俺……お祖母ちゃんが心配だ」
正直に言った。俺としてはそれさえ安心できれば他の事はいいんだ。
すると、それまで……この件についてはそもそも最初からほとんど語ることのなかったお祖母ちゃんが、意を決したように口を開いた。
「私は大丈夫。もう、この歳になったら怖いものなんて、そうないのよ」
そしてお祖母ちゃんは、俺に微笑みかけた。
「佳之……ありがとうね。優しいのね」
恥ずかしいような、くすぐったいような、何かが腹の底から湧いてくるような、何とも言えない不思議な気持ちだった。
「それから……これは、今、決めた事だけど」
お祖母ちゃんはゆっくりと祈りを捧げるようにひざまづき、恵太おじさんをじっと見つめ、その左手を包むように握った。
「恵太……ごめんなさい。私は……稲垣に戻るわ」
そこにいた全員が、えっ、と言ったまま言葉を失った。お祖母ちゃんは、おじさんを見上げ手を握ったまま大粒の涙をこぼした。
「相談もなしに……ごめんなさいね。これまで通り、ここで一緒に暮らすことには変わりないけれど、私はもう、米田でいることはできないわ……かと言って、あなたと籍を入れることもできない。それが、私のせめてもの償い……」
「お母さん」
母さんがお祖母ちゃんに縋って激しく嗚咽を漏らした。
恵太おじさんは、そんな二人を唇をかみしめ辛そうに見ていたが、ゆっくり口を開いた。
「わかった……そうしよう。美晴の言う通りだ。俺の方こそ……すまない」
お祖母ちゃんは顔を上げ、おじさんだけを見つめながら言った。
「ただ、その変わり……私、洗礼を受けるわ」
「えっ」
「神の御名のもとに……夫婦になりましょう」
「いいのか」
お祖母ちゃんは静かに微笑みながら頷いた。でも少しだけ悲しそうにも見えた。その悲しみは、恐らく米田の祖父ちゃんに向けられたものだろうという事くらいはわかる。
そしてゆっくり立ち上がり、俺達を見渡した。
「例え苗字や戸籍が違っても、私達は家族であることに変わりはないと思うのよ。恵太に付き添って教会へ通うようになって、益々そう感じたわ。これからも今まで通り……いえ、今まで以上に家族として過ごしてもらえるかしら」
「うん、わたし……まだわからないこともたくさんあるけど、皆と一緒にいたい。苗字はどうでもいいの、このまま皆でいられれば。だって、皆大好きだもん」
ははっ、思ってること全部琴音に言われた。
「俺……最初は、大人は勝手だな、って思ってたし、俺なりに複雑な気持ちもあるんだけど……お祖母ちゃんがそう決めたならそれでいいと思う。俺は――いいよ、村山を継ぐよ、おじさん」
「ありがとう……ありがとう、佳之、琴音。……自慢の、孫だよ」
するとお祖母ちゃんがフフッと笑った。
「言ってみたかったんでしょ、それ。良かったわね」
とおじさんの肩をポン、と叩いた。
「いやぁ……ちょっと、照れるな。心の中ではずっと思ってたよ」
皆、笑った。泣いてるんだけど、笑った――うん、これでいい。俺達は、誰がなんと言おうと「家族」だ。
帰りの車の中で、恵太おじさんの呼び方をどうするか考えた。琴音はあっさり、
「ん? 普通に『おじいちゃん』でよくない?」
と言うけれど、俺はなんかやっぱり「祖父ちゃん」と言ったら「米田のじいちゃん」なんだよな……
恵太じいちゃん、村山じいちゃん、けいじい、むらじい、じいじ、おじい様……うーん、わからない。
祖父ちゃんは許してくれるかな。くれるよな。きっといたずらっ子みたいに笑ってこう言うだろう。
「ええって、ほら、早う呼んだりや。俺の事は気にせんでええから。めっちゃ喜ぶで、あいつ」
そうだよな。祖父ちゃん、わかった。
祖父ちゃん……血がつながってなくても、祖父ちゃんと俺達も家族だったし、大好きだった。太陽みたいな人だった。俺も、祖父ちゃんみたいに大きな心で家族や友達を愛せる人になりたい。
恵太おじさんは……そうだな、言ってみれば月のような人だ。静かに、暗い夜道を照らして導いてくれる人。祖父ちゃんとは違う形で心が広い人だと思う。優しい。対照的だよなあ……お祖母ちゃんはなんでそんな、対照的な二人を好きになったんだろう。
俺にもいつかそういう事がわかる時が来るんだろうか。今はどう考えたってわからないけど……そして、米田の祖父ちゃんの気持ちも。
なあ、祖父ちゃん。祖父ちゃんは、亡くなる前に俺達が本当の孫じゃない、ってわかってどんな気持ちだった? 全然、普段と変わらなかったけどなあ。病気で、もうベッドの上か車椅子か、って時でもいつも笑ってて、冗談ばっかり言って……祖父ちゃんの関西弁、好きだった。お祖母ちゃんも若い頃は関西弁だったって聞いてびっくりしたけどな。
駅前の、この県で一番高いビルも、なんかすごい賞を取ったっていう丘の上の美術館も、隣の県のでかい博物館も、祖父ちゃんが設計したって聞いてびっくりしたし実際、そこに行ってみるとどこもなんていうか……近代的で洗練された中にほっこりするようなスペースがあったりしてすごく気持ちいいんだ。
あ、あと俺が小さい時に描いた落書きにインスピレーションもらった、っていうお店もあったよな。俺がそこをすごく気に入って、何度も行きたいって駄々こねた、って。
俺の自慢の祖父ちゃんだった。尊敬してるんだ。してただけに血がつながってないってことはショックでもあったけど。でも、いいんだよな、尊敬する気持ちに変わりはないよ。
血、って何だろうな……家族って、何だろう。
俺は、自分の手をじっとみつめた。