(8)大人なんかじゃない
その後、お祖母ちゃんは病院と家との往復が忙しく、一時的におやつは市販品になった。それはどうでもいいのだが、俺は小学生から算数を聞かれ、自分のテスト勉強が後回しになっていた。まあ、別に大したことじゃないけど。
お祖母ちゃんには、例の事は何も聞けずにいた。あまり二人きりになることがなかったし、疲れているようで聞き辛い。心なしか、その話題を避けているようでもあった。
一度だけ、もう琴音が寝てしまった後母さんと話した。
「例の話……何か聞きたい事ある?」
「……恵太おじさんのこと、祖父ちゃん、って呼んだ方がいい?」
「うーん……お母さん、このこと知ったの去年なのよね。それからお父さん、とは呼べてないからなあ……今まで通りでもいいけど。任せるわ」
あっさりしたもんだな。そんなもんなの? じゃあ、俺もあっさり聞いてみるか。
「お祖母ちゃんとおじさんって、結婚してた時期があったの」
すると母さんは俺の顔をじっと見て、何かを決心したように軽く頷いた。
「そうね、もう大体の事わかる年齢ね……」
それからの話は、やっぱりちょっと理解できない所もあった。
なぜ普段は桜井を名乗っていたか、恵太おじさんが今は帰化して日本国籍だけど、実は韓国人だったという事も初めて知り、それで曾祖父ちゃんが警察官だったから祖母ちゃんと結婚できなかった、ということだった。昔はそんな制約があったんだな。
――ということは、俺にも韓国の血が流れてるってことだよな。
でも、それは公言する必要はない、とも言われた。いずれ、大人になればその意味の本質はわかるから、と。
それで、米田の祖父ちゃんと結婚したんだけど、その時にはもう母さんは祖母ちゃんのお腹にいたらしい。
それは……やっぱり、ちょっとショックだった。
チャラチャラした大人の話ならわからなくもないけど、あんな真面目そうに見えるお年寄り達にも若い頃そういう……なんていうかなあ……間違いっていうか浮気? ……あったんだ、って信じたくなかった。米田のじいちゃんが大好きだっただけに、余計ショックだった。お祖母ちゃんだって、そんなことするような人には見えないのに。
ただ、皆真剣だったんだよ、どうしようもなかったみたいよ、と言われて俺は納得したフリをした。佳之も、いつか誰かを本気で愛した時わかってあげられるようになると思うよ、と言われた。本気で愛する……よくわからないけど、ぼんやり橋口の顔が浮かんだ。
もう俺、否定しないわ。橋口の事、好きなんだと思う。
もし大人になって橋口と結婚したいって思った時に親友の……例えばだけど、ヒデノリの子供が橋口のお腹にいたら……って思ったら、やっぱり絶対無理だと思った。ヒデノリが、オレ橋口と結婚できないけど、お前も橋口の事好きだろ、だからよろしくな、なんて言われたら絶対ぶん殴るわ。
米田の祖父ちゃんも死ぬ1年前まで知らなかった、母さんを自分の子だと思ってたっていうからには、お祖母ちゃんが浮気した、ってことなんだよな……そこらへんがちょっとな……大人になっても理解できる気がしない。
米田の祖父ちゃんよりも本当は恵太おじさんの事が好きだった、ってことかな。だから、今一緒にいるのかな。でも、俺の記憶の中では米田の祖父ちゃんとお祖母ちゃんはめっちゃ仲良かったし、逆に恵太おじさんとお祖母ちゃんは、普通に「他人」だったし祖父ちゃん死んでしばらくは、お祖母ちゃんは恵太おじさん嫌いなんだな、って思ってたし……
数学のどんな問題よりも難しい。大人になったらこういうことも理解できるようになるのか、それとも理解できた時が大人になった時なのか。
約1ヵ月後の日曜日、恵太おじさんが退院してきた。右半身に軽い麻痺が残ったらしく、車椅子を母さんが押して家に入ってきた。ただでさえ人差し指と中指が動かない手が、ぶらん、と力なく肩についているだけだった。ただ、リハビリをすれば手も動くようになるし歩けるようになるから、と昨日から業者の人が来て家中に手摺が取り付けられているところだった。
特にトイレは車椅子が入るにはちょっと狭いし不便だから、とセンサードアが取り付けられていた。
おじさんは俺と琴音の顔を見て、ただいま、とニッコリ笑ったつもりなんだろうけど、少しひきつったような笑顔だった。
「ちょっと、言葉聞き取り辛いかもしれないけどな、よろしくな」
やっぱりどんな顔したらいいのかわからなかった。琴音は意外と今までと変わらず、どちらかと言うと世話をするのを楽しんでいるように見えた。恵太おじさんは、それをとても嬉しそうに見ている。
「佳之、小学生の算数、みてくれたんだってな。ありがとう」
「いや、別に。簡単だったし」
「菜摘ちゃんのは?」
「ああ、わかるところは」
どうも、「サ行」「タ行」がうまく発音できないみたいだった。しゃべるのも、ゆっくりだ。でも、うん、わかる。大丈夫。元々右手は不自由だったので、左手で大抵のことはできるから歩く事以外、生活には不自由しないらしい。
「どうしてるか気になってね。早く帰らせてくれって先生に頼んだんだけど、やっぱり1カ月かかったよ」
「部活、忙しくて……お見舞い行けなくてごめんなさい」
「いいんだよ、気にするな」
恵太おじさんの顔をじっと見た――この人が俺の、本当のお祖父ちゃん。
今回うちの家族が「村山」になるのは、倒れてまだ意識がはっきりしないうちに決まったけれど、もう知っているらしかった。
祖母ちゃんと母さんは、業者の人の対応をしたりおじさんの部屋を車椅子が通りやすいようにするのに忙しいようだ。琴音は母さんにひっついてまわっている。
「どうした」
「いや……やっぱ、似てるな、って。アルバム見た時、びっくりした」
「ああ、見たのか……」
「爪、見せて」
俺はおじさんの左手を取って、自分の手と並べ見た。母さんと俺と同じ、正方形に近い爪だった。おじさんは一瞬フッと笑ったけれど、すぐ少し悲しそうな顔になった。
「すまなかったな……お前に許可も得ずにこんな話になって……村山を継ぐかどうかはまた、成人した時にでも決めてくれればいいから」
何と言ったらいいのかわからなかった。まだ、心の整理がつかないでいた。
その夜は父さんも来て、久し振りに皆揃って食卓を囲んだ。恵太おじさんは左手が使えるので箸は問題なかったが、片方の口の端の感覚がないらしく火傷や食べこぼしに気を付けなければならないようだった。その世話をお祖母ちゃんが甲斐甲斐しくしている姿は、夫婦以外の何者でもなかった。
祖父ちゃんがもういない今、これからこの二人はこうして生きていくしかないのか。
「史彰君、この度はありがとう。改めてお礼を言うよ。急な話でそちらのご家族もさぞかし戸惑った事だろう」
恵太おじさんが父さんに頭を下げた。
「いえいえ、うちはいいんですよ。事情もわかってくれたし、僕も仕事上区切りがつくまでは一応広瀬川のままでいいので、大丈夫です」
「そうか……それは良かった」
「それよりも米田が……」
そう言いかけて母さんに肘でつつかれ父さんは俺達の方を見て、しまった、というような顔をした。
――それよりも米田が。
……そうだよな、母さんは米田の長女として育ったのに……いや、一番立場が悪いのはお祖母ちゃんなんじゃないか。大丈夫なのかな……お祖母ちゃんは村山にはならないんだろうか。
その夜、俺はまた琴音が寝た後母さんの部屋に行った。
「米田の方からなんか言われてるの」
母さんはパソコンの画面を睨んだまま、深くため息をついた。
「……まあね――ねえ、佳之」
「ん?」
「私達は何があっても『家族』だよね」
「え? ああ、うん」
「もしかしたらこれから、ちょっと米田の家とゴタゴタするかもしれない、それは覚悟しといて。でも、お父さんもお母さんも、佳之も琴音もひとつの『家族』だからね。それは、忘れないで。いい? 佳之は……米田のお祖父ちゃんの事、好きだったよね……っていうか、あの人の事嫌いな人はいなかったと思うんだ」
俺は、どのことについてかわからないけど、とにかく母さんが言ったすべての事に対してコクリ、と頷いた。
「だからね、だからこそ、どうしてもお祖母ちゃんと恵太おじさんを『許せない』っていう人もいるの……」
いつしか母さんは涙声になった。
「お母さんは……お祖母ちゃんも恵太おじさんも、お祖父ちゃんの事も皆好き。お祖母ちゃんが、お祖父ちゃんと同じお墓に入りたい、って言うのもわかる。だけどね……やっぱり、まずは生きてる人の幸せを考えるのが一番大事かな、って思ってる」
もう、母さんは既に「俺に」話すというより自分を納得させるために話しているようだった。
「お祖父ちゃんは……ちゃんと遺言、書いてくれたし、賢太郎や翔太郎も……気に、するな、って……ごめん」
俺がティッシュを数枚渡すと、母さんは涙をふいて鼻をかんだ。
「でも、やっぱりね……いくら、向こうがいいって言ってもそういうわけにはいかないかも」
「俺は……よくわかんないけど……いいよ、母さんと祖母ちゃんがいいようにしたらいい」
「ありがとう。佳之も、大人になったね」
「別に……よくわかんないって言ってるじゃん」
「ふふっ、性格までおじさんに似てるかも」
「おじさんはもっと優しいだろ」
俺は少し照れくさくて、そそくさと部屋を出た。
そうか……そうだよな、やっぱり、米田の人達とはもう縁を切られる、とかそういうことかもしれない。辛いよな、お祖母ちゃんは……米田側にしてみれば、裏切者、ってことになるんじゃないだろうか。そして、俺達一家は米田からしたら完全に「他人」だ。いくら恵太おじさんが親戚のように米田家に尽くしてきたと言っても、他人には変わりないんだもんな……
祖父ちゃん……俺、どうしたらいいんだろうな。祖父ちゃんの遺言が見たいよ。なんて書いてたんだろう、こうなること、わかってて書いたのかな。祖父ちゃんは、母さんが恵太おじさんの子供だって知ってどんな気持ちだったんだろう。お祖母ちゃんが浮気してた、って知ってどんな気持ちだったんだろう。
二人は、親友だったって……親友と恋人に裏切られてたって気分……やっぱり、想像もできない。でも、前にちらっと聞いたことあるんだ。祖父ちゃんが死んだら恵太おじさんと一緒に住むように、お祖母ちゃんに勧めたのは祖父ちゃんだった、って……
益々わかんねえ……どうしたら、そんな考えになるんだ? やっぱ、俺まだ子供だわ。
夕方、部活が終わってお祖母ちゃんの家に行くと、丁度橋口が帰る所だった。
「ああ、お疲れ! 恵太先生、思ったより元気そうだったね、良かったじゃん。じゃあ、帰るね」
「ああ、おう……じゃあな」
橋口の事、好きだって自覚したらなんか異常に恥ずかしくなって、ろくに顔も見ないままだった。小学生も、もう誰も残っていなかった。
恵太おじさんと母さんが、寝室で話し合っているようだった。
「あら、佳之、お帰り。もうおやつっていう時間じゃないわね」
「え、でも腹減った。ちょっとちょうだい」
テーブルで宿題をしながら、お祖母ちゃんの作ったスコーンを頬張る。今日はなんだかパサパサしてる気がした。
「お祖母ちゃん……」
「なあに」
「お祖母ちゃんは……祖父ちゃんと恵太おじさん、どっちが好きだったの」
夕飯の用意をしていたお祖母ちゃんは、ちょっとの間動きを止めたけれど俺の方を見ないで、でも少し穏やかに笑った。
「お祖父ちゃんに決まってるでしょう」
「お祖母ちゃんは……村山にならないの」
「そうねえ……わからなくなってきたわ、何か一番いいのか……」
大根を千切りにし、氷水にざっと入れた。それから、祖母ちゃんは冷蔵庫の方へ向き一言、
「ごめんね、佳之」
そう言って、やっぱり泣いていたみたいだったから俺はまた、宿題に専念するふりをした。
大人が……皆、辛い思いをしている――
俺にできることって、何だろう。