(6)不測の事態
それから橋口は、書道部のある火曜日と金曜日以外はほぼ毎日通った。別に約束したわけじゃないけど木曜日は俺も部活がないので、自然と大体同じくらいの時間に行く事になる。
話しながら行く時もあったが、大抵は距離を置くか俺が時間をずらす。それでも、追いついてしまって追い抜きざまに声をかけられる。二言三言交わしてさっさと行こうとすると、橋口は早歩きでついてくる。
「ただいま」
「こんにちはー」
「あ、お兄ちゃんと菜摘ちゃん、お帰り! 今日はわたしがおやつ係だよー」
手を洗いテーブルに着くと、琴音がスコーンとアイスミルクティーを出してくれた。
「お祖母ちゃんとおじさんは?」
「今日なんか……よくわからないけど、お祖父ちゃんの会社に会議に行ってたら長引いちゃって遅くなる、ってさっき電話あった。私が鍵開けたの」
「じゃあ、今日は琴音ちゃんが小学生にも全部おやつ出してあげたんだ? 偉いね」
「へへっ、もうそれくらいできるよぉ」
橋口に褒められたのがよほど嬉しかったようで、低学年の子にミルクティーのお代りを注いであげたりしていた。
それから15分位でお祖母ちゃんだけ帰ってきた。
「ごめんなさいね、会議が長引いちゃって……ああ、琴音ありがとうね」
「恵太おじさんは?」
「ああ、ちょっとね。今日は遅くなると思うわ」
お祖母ちゃんは慌ただしく小学生の方へ行って、皆の宿題を覗き込んでいるが、何となくソワソワして心ここに在らず、だ。
玄関が開く音がし恵太おじさんが帰ってきたのかと思ったら、母さんだった。表情が厳しい……?
「ただいま……お母さん、ちょっと」
入ってくるなり母さんはお祖母ちゃんに声を掛け寝室に入って行った――胸騒ぎがする。何か、トラブルがあったに違いなかった。まさか、恵太おじさん……?
誰も大人がいない状態で、小学生の方がうるさくなり収拾がつかなくなった。
「おーい、小学生、うるさいぞ」
声をかけたが治まらない。部屋の方へ行って、一番うるさい4年生のヨシキの腕をとり座らせた。
「皆お前につられてるだろ、小さい子にお手本見せろよ」
「……だって、こいつが……」
「ケンカしたのか?」
「おれの事バカにする、貧乏って」
見る見る、涙目になった。
「なんて言ったんだよ」
そう言われたハヤトも半泣きになりながら首を振る。
「そんなこと言ってない……鉛筆、2本つなげてて面白いな、って言っただけ……」
「泣かなくていいから。ハヤトは本当にその鉛筆いいな、って思ったんだろ」
コクリと頷く。
「な、バカにしたんじゃないんだよ」
「おれん家が貧乏で新しい鉛筆買えないって言いたいんだろ」
それは、もしかしたら本当のことかもしれなかった。だから、きっとこんなに傷ついている。
「違うって、ほんとに面白いと思ったんだって」
「……ほんとに?」
また、ハヤトは大きく頷いた。
「……じゃあ、これ、やる」
ヨシキは小さくなった鉛筆を2本、接着剤でお尻同士くっつけてその上に電車の柄のセロテープを巻いている、両方が尖った鉛筆を差し出した。
「えっ、いいの?」
ぱあっと笑顔になる瞬間を見てしまった。たまんねえ。思わずフッ、と笑ってしまった。
もう、どちらも泣いてなかった。
「な、ちゃんと話せば伝わるんだから」
「うん!」
仲良く話しはじめた二人に、ああ、でも静かにしろよ、と頭をポンポン、と軽く叩いてまたダイニングテーブルに戻った。
橋口が、両手で口元をふさいでいるがニヤニヤしているのがわかる。
「なんだよ、何がそんなに面白いんだよ」
「ふふっ、……優しいね」
「ばっ……」
顔から火が出るってこういうことか。俺の事を優しいなんて言う奴、今までいなかった。いつも、冷たいとか人を馬鹿にしてる、とか口が悪いとか……性格で褒められたことはなかった。やべえ、耳まで熱い。
「……宿題終わったのかよ」
「ああ、ちょっとこれ教えてよ」
数学のプリントの、最後の問題を指差す。何度も書いては消したであろう跡があり、消しゴムのカスの山が几帳面に右上にまとめられていた。
「これ、グラフ書いてみろよ……いや、そうじゃなくって……これはこうだろ、比例すんだから……そう、それで」
ふっと顔を上げると結構な至近距離に橋口の顔があった。まつ毛、長ぇな……
「で? で? どうすんの、これを……佳之?」
はっ、俺、何見てんだ。
「や、……ああ、で、これを……どうするんだっけ、あれっ」
その一言に橋口がプッと吹き出して大笑いした。
「はははっ、佳之でもそんなこと言うんだ! いや、意外! おっかしー」
「ちょっ、何がおかしいんだよ! ほら、ちゃんとやれよ、ってかお前、少しは自分で考えろ!」
「えーもう散々考えたし」
「中学生、うるさーい」
琴音が少しニヤニヤしながらわざわざテーブルまで言いに来た。
「うるせえ、あっちいけ」
その時、寝室のドアが開く音がして母さんとお祖母ちゃんが出てきた。深刻そうな顔をしている……もしかして、恵太おじさんに何かあったのか……?
母さんが、今残ってる小学生の親の携帯に電話をし始め、こちらの不測の事態で今日はもうお迎えに来て頂くかお宅までお送りしますので、と言っている。今日はたまたまなのか大人がいないから帰ったのか、小学生は5人しかいなかった。
17時の時点で子供は全員帰宅し、橋口も帰った。
「母さん、不測の事態って何」
「ちょっとね……あとでちゃんと話すから。佳之と琴音は今から家に送るからちゃんと、シャワー浴びて寝ときなさいね」
「父さんも遅いの?」
「うん……ま、親族会議ってとこね」
途中弁当屋でから揚げ弁当を2個買い、家の前で降ろされた。母さんは慌てた様子でまた車を発進させて行ってしまった。助手席にいたお祖母ちゃんは、ずっと黙ったままだった。
恵太おじさんが今日帰ってこなかった事と何か関係があるのだろうとは思うんだけど、それなら何で「親族会議」なんだろうな……恵太おじさんは親戚じゃないのに。
次の日の朝、今日おばあちゃんも恵太おじさんもいないからね、家に直接帰っておいで、と言われた。何があったのか聞きたかったが、明日ゆっくりね、としか言われなかった。――胸騒ぎがする。
朝、橋口と校門でばったり一緒になって、昨日どうだったの、と聞かれた。何とも説明の仕様がなく、さあ、わかんねえ、と言い捨て走って教室に向った。
*
土曜日の朝、珍しく家族揃って朝食を摂った。食器を下げリビングに戻ると父さんが新聞を読みながら俺に聞いた。
「佳之、今日部活は」
「昼から」
「そうか、じゃあ……ちょっと琴音も、こっちに座って」
家族全員がリビングのソファーに座るなんてめったにない事だった。冷房の要らなくなった9月の風が、北側から入ってきてカーテンを揺らす。夏前に母さんが下げた、金魚の絵が描いてあるガラスの風鈴が、遠慮気味にチリン、と鳴った。
母さんが、一度ため息をついて話し始めた。
「恵太おじさんね、昨日からちょっと入院してるの」
「えっ、どうしたの」
「軽い脳梗塞で……命に別状はないし薬だけで今は落ち着いてる、大丈夫よ。1ヶ月くらいで退院できそう」
「それで? 何をあんなにこの前話し合ってたの」
「あのね……ああ、お母さん回りくどい言い方嫌いだからはっきり言うけどびっくりしないでね。あなた達は、1月から苗字が変わります」
「えっ……も、もしかして離婚?」
「ええっ、やだよお! 何で? どうして?」
たまにいるんだ、休み明けたら苗字変わってて親が離婚した、っていう奴。
「ううん、離婚じゃないの。お父さんもお母さんも、佳之も琴音もよ。『村山』っていう苗字になるの」
「え? 誰、それ」
「恵太おじさんの、本当の苗字」
「……え? 意味わかんねえ。恵太おじさんって桜井じゃないの」
「本当は村山なの。わけあってね、ずっと桜井を名乗ってたけれど、本当は違うの」
俺は、そう聞いたって、どうしてうちの家族がムラヤマになるのかさっぱり理解ができなかった。