(3)行きたくない理由……?
陸上部の部室は、野球部と並んでグランドの一番端っこにある。毎回、ヒデノリとそこまで競争する。俺は200mでヒデノリは長距離なんだけど、このダッシュのタイムはそう変わらない。だから、その日の荷物や体調でどっちが勝つかわからない、それが面白い。
「佳之、なんだよ、今日遅っせー」
「うるせえ、荷物、重てえんだよ」
ハアハア言うのもそんなに長くはない。何度か大きく深呼吸すればすぐ普通に戻る。
練習着に着替えてウォームアップして、グランドをゆっくりと走り出す。ペースを見ながら、スピードアップ。9月の夕方といっても、まだまだ日差しは暑く、ちょっと止まると汗がどっと出てきた。遠くでツクツクボウシが鳴いている。でも、時折吹く風は湿気がなくて確実に秋の匂いがした。
橋口……まだ怒ってるのかな……橋口……ごめん……橋口……なんだよ、せっかく名案だと思ったのに……橋口……ごめん……
はっ。なんだよ、俺。走りながら橋口の事しか考えてねえ。
中学入学して、最初に話しかけてきた女子があいつだった。出席番号、俺の前だったからな。前から回してきたプリントを俺がボーっとして取り損ねて、床にばらまいたのを
「ほらあ、ちゃんと受け取らないから」
ひまわりみたいに笑いながら一緒に拾ってくれた。
同じ小学校出身の奴からは、何となく敬遠されてた、っていうか……俺もまあ、皆の事バカにしてたかもれない。唯一、ヒデノリだけが友達だったが、1年の時は違うクラスだったんだ。だから、このクラスに気軽に話せる人がいなかった。
それを、橋口はお構いなしにバンバン話しかけて来た。ズケズケと色んな事を根掘り葉掘り聞いてくるし、最初は結構鬱陶しかったりしたんだけど、明るいし……まあ、見た目も悪くないし……何日か経たないうちに「佳之」って呼ばれるようになって、なんかその……嬉しかったのも事実だ。
そんなことをぼんやり考えながら走っていると、橋口がグランドに面した渡り廊下の所にいるのが見えた。一人で、階段になっている所に座って……こっちを見てる?
気にはなったが先輩の手前勝手に走るのをやめるわけにもいかず、30分走った後も校舎から離れた所でスタートダッシュの練習したりして結局部活が終わる18時まで抜けられなかった。
いくら何でももう帰ってるだろう。渡り廊下が見えるところまで行ってみたが、そこにはもう誰もいなかった。
制服に着替えるのが面倒だったので、練習着のまま帰ろうと校門に向かっていると、橋口がいた。なんだ、まだいたのか……目を合わせられず通り過ぎようとした時、佳之、とちょっと遠慮がちに呼ばれた。
「佳之、あの……今日ごめん……」
「何が」
「あの塾……佳之のお祖母ちゃんがしてるんだってね。マリエが小6まで通ってたって」
マリエは俺と同じ小学校で、お母さんが看護師かなんかでいつも遅くまであの家にいた。大人しいから俺と話すことはほとんどなかった。
「ああ」
「ほんと! ごめん、何も知らなくて、あんな事言って……」
「いいよ、俺もちゃんと説明すればよかった」
俺達は、どっちが合図するでもなく歩き始めた。これを言うために、こんな遅くまで残ってたのか。
「今日、お母さんに話してみる。私、行きたい」
「ふーん」
「佳之もいつも行ってるんでしょ」
「妹が大抵行ってるからな。うちも親遅いからよく夕飯食べて帰る」
「へえ……じゃあさ……わからない所あったら、教えてくれる?」
「え、や、祖母ちゃんが英語で、数学も教えてくれるおじさんいるし」
「なんだ、佳之教えてくれないの」
「そりゃ……わかるとこなら」
「わかるでしょ、大抵」
「さあ――じゃあ、親がいいって言ったら木曜日、行くか?」
「うん! 木曜部活ないんだよね? 連れてって」
信号が青に変わり、橋口は嬉しそうな顔で大きく手を振って帰って行った。
あんまガッついて俺の方から「どうだった?」なんて聞けないから、朝ちょっと後姿を見かけても話しかけなかった。気になって仕方なくて、午前中の授業は適当に頭を流れて行った。ようやく昼休みになって橋口のクラスの前を往復してみることにした、じゃなくて、たまにはあっちのトイレに行ってみようかと思っただけだ。
トイレに行くときには窓も閉まってて姿が見えず、帰りもダメか、と思ってたらいきなり後ろから背中をバンっと叩かれ振り返ると橋口が立っていた。そして、大きく両腕を挙げた。
「マル! 行っていいって!」
顔を赤くして嬉しそうに笑った。
「お、おう……良かったな。じゃあ、明日放課後」
「うん、よろしくね!」
教室に帰るとヒデノリが俺の机にうつぶせていた。
「おい、なんで俺の席座ってんだよ」
「あー、佳之ぃ、どこ行ってたんだよお、寂しかったよお」
「アホか、トイレ」
「こっちのトイレいなかったじゃんよお、わざわざあっちのトイレ行って誰と話してたんだよお」
……くっそ、見てたな、こいつ。
「うるせえ、ニヤニヤすんな」
「お前もさっきまでニヤニヤしてたじゃねえかよお」
……くっそお。
「早くどけ!」
「佳之ぃ、耳赤いよお」
「っるせ!」
俺は笑いながら無理やりヒデノリを椅子から引きずり下ろした。ヒデノリも笑いながら下ろされまいと応戦して、机や椅子ガッタガタ言わせて周りの女子から顰蹙買ったっていうか、もう男子うるさい、とキャラキャラ笑われた。俺はあんまり女子に好かれてないと思うけど、ヒデノリは面白いし女子に気軽に話しかけるから人気あるんだよな。
上機嫌で家に帰ると、珍しく父さんが帰っていた。大学の准教授をしている父さんは、いつも帰りが遅くて滅多に会うことがない。
「佳之、ちょっと進路の事」
「ああ、何?」
「お前、本当に灘高行かないのか」
「いや、まだはっきりとは決めてないし」
「行くのならそろそろ塾に行った方がいいんじゃないか。それからな……お前が行くなら皆で引っ越す」
「え、どういうこと?」
「まだ正式には言われてないけどな、神戸の私立大学に教授として来ないかと誘われてるんだ。返事を待ってもらっている。お前の入学と同じ時に行こうと思えば行ける。当然お前は寮に入ることになるけど、近くに居られる方がいいだろうし」
「え……ああ、うん……」
「琴音の為にもいいと思うんだ。どうだ、チャレンジしてみないか」
「あ、でもさあ……俺がダメだったら父さんはどうするの」
「大丈夫だ、お前ならきちんと対策すれば絶対通るから」
「いや、でも……もし、入試の時病気とかしたら……」
「――なんだ、行きたくない理由でもあるのか?」
そう聞かれて、陸上の事より橋口の顔が浮かんだ自分に驚いた。いやいや、違うだろ?
「いや……別にないけど。まあ、ちょっと陸上やめるの、嫌かなあ、って……」
「ははっ、灘高にだって陸上部くらいあるだろ」
「ああ、うん、まあ多分」
「じゃあ、とりあえず塾の事は母さんに言っておくから。父さんももう一回向こうの大学に話聞いてみるよ」
「……はい」
神戸に、引っ越す……
行くのか? 俺。行っていいのか?
なんでだよ、橋口の顔ばっかり浮かんでくる……