(10)バレてる……
そして1月、俺達家族は「村山」になり、お祖母ちゃんは「稲垣 美晴」になった。とはいえ、生活は特に変わらなかった。大人は銀行や保険なんかの手続きが大変、と言ってたけど。
賢太郎おじさんは、お祖母ちゃんが稲垣に戻ることに大反対したけれど、結局米田側にもそれで納得してもらうかわりに法事などは今まで通り呼ぶ、という条件でおさまった。
始業式の日、案の定いくつか表彰があったがそれはまだ「広瀬川」のままだった。放課後、古長先生に呼ばれた。
「昨日、お母さんから電話で聞きました、苗字の事。どうしようか、これからの表彰状とか色んな……公式の書類とか部活動の関係は、どうしても村山君になっちゃうんだけど」
「……どっちでもいいです」
「あらそう? お母さんは今年度いっぱいは、っておっしゃってたけど」
「いや、もう変わってもいいです」
「……そう。教室でも、もう村山君でいいのかな」
「はい」
先生は、殊更改めて紹介などはしなかったが、俺はプリント類にも普通に「村山 佳之」と書き、先生達も次第に「村山君」と呼ぶようになり……案の定、離婚したらしい、とかそういう噂は立ったが別に弁解もしなかった。言いたい奴には言わせておけばいいし、事情が事情だけに変な風に取る奴もいるだろうし、説明が長くなりそうで面倒だった。それでも緩やかに、「村山 佳之」は浸透していった。
うっかり「ひろ……」と呼んであっ、しまった、という顔をする奴もいる。俺が恐い奴だと思っているのか慌てて言い直すのがなんだかちょっと面白かったりして、笑って「いいよいいよ、どっちでも」と言っているうちに、話しかけてくる奴が増えてきた。まあ、横で茶々入れてくれるヒデノリのお陰もあったりするんだが。ヒデノリのお陰で、男子はほとんど「佳之」と呼ぶようになった。
たまに女子が3人くらいで
「村山君、数学教えて」
なんて言って来るようになったのが、ちょっと……何ていったらいいのか、照れくさいんだけど、先生よりわかりやすい、ありがとう、なんて言われて悪い気はしない。
勉強教えて、その相手がパッとひらめいて、わかった、やった、って顔を見るのが好きだ。ゾクゾクするくらい――先生、か……悪くないよな、将来の職業として。親は東大行けって言うけど……もちろん、それもいいけど、何ていうかなあ……勉強ばっかりじゃなくて、陸上もしたいけどもっと色んな世界を見たい。そしてそれを先生になって伝えたい。大学の教授とかじゃなくて……本当は子供が好きだ。
まだ俺自身中学生だし、これからどうなるかはわからない。
でも、少なくとも勉強ばっかりするのは嫌だ――俺は、春山に行く。灘高の過去問集は、本棚の一番隅っこに押し入れた。なんで捨てないか、って? 暇すぎて死にそうな時にでも解いてやろうと思ってる。
それに、せっかく俺達家族は新しいスタートを切ったんだ。長距離走で言ったら、まだ呼吸すら慣れていないデッドゾーンだ、もう少ししたらきっと気持ちよく走れるセカンドウィンドがくる。ゴールがいつかなんて全然わからないけど、今はまだ、一緒に走りたいんだ。
「佳之、この前の進路希望調査、どこ書いた?」
「ん、春山」
「よかったあ! 私も」
「……プッ、お前大丈夫なのかよ」
「笑うな! この前の全県、平均60いったんだから!」
「へえ、頑張ったな」
「うん、佳之のおかげ!」
「俺じゃねえだろ、恵太先生と美晴先生だろ」
「うん、そうなんだけど、ここに連れてきてくれた佳之のおかげ! もう、お母さん喜んじゃってさ」
へえ……そうか。60ならもうひとふん張りだな。一緒に、春山行けるかもしれない。
恵太先生が、杖をつきながら庭から上がってきた。完全にとは言えないが、幸いにもリハビリは順調で杖を突けば歩けるし、言葉も少しずつしっかりしてきた。驚いた事に、今まで動かなかった右手の人差し指と中指にも感覚が少し戻ったらしい。それを知った時一番喜んだのは祖母ちゃんだった。
「あれはね、私を守る為に怪我して神経を切ってしまったの。だから、嬉しくてね……」
へえ、好きな人を守る為に……いきさつは教えてくれなかったけど、ちょっとかっこいいな。
「佳之、菜摘ちゃん、宿題終わったか?」
「恵太先生、聞いて! この前の全県、私偏差値60いったんだよ! だから、志望校春山って書いちゃったんだ」
「へえ! 頑張ったな。じゃあ佳之と一緒だな」
「でもまだ60じゃ心もとないだろ、数学もうちょっと頑張れよ。恵太先生、こいつもっとしごいてよ」
「ははっ、佳之先生は厳しいな。そうだな、佳之と菜摘ちゃんが同じ高校に行けるように、頑張って教えようなあ」
えっ、ちょ……なにそれ。もしかして、バレてる? 恵太先生の顔を見ると、ちょっとニヤッと笑った……くっそう、バレてんのかよ……自分でもわかるくらい、顔が熱くなった。
橋口は……誰か好きな奴とかいるのかな。最近良くうちのクラスに来て、ヒデノリとも楽しそうに話してるけど、まさかヒデノリじゃないだろうな……うわっ、勘弁してくれよ、それだけは。
絶対、負ける。