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エンディング

 初めに感じたのは暗さで、その次に覚えたのは息苦しさというか圧迫感である。同時に思い出す。ここはダイブマシーンの中で、その身を安全のために軽く固定されていたのだ。


 「…………兄さん……」


 少しすれば目が慣れて来たのか僅かな計器の明かりに照らされて、そこからの脱出方法が図示されているのが目に入る。


 「……姉さん…………」


 辰也は今更になって自分が仕出かした事の重大さに慄いていた。後悔とも寂寥ともつかない苦い味が口一杯に広がり、されど既にどうしようもない。


 テキパキと身体の拘束を解いていく傍らふと眼もとに手をやれば、そこには確かに濡れた痕跡があった。


 直ぐに体の拘束を解除し、ノロノロと上体をベッドに起こして入り口のレバーを引く。同時にダイブマシーンの壁が車の扉のように開き、そこから眩いばかりの無機質な白いLEDの輝きが洪水のように溢れていた。


 辰也が思わず目を庇い、


 「……っえ!?」


 そして、その輝きに負けぬよう瞳を大きく見開いたのだ。これ以上無い程に大きく見開かれた瞳は、輝きの中で確かにそれを見つけたのである。


 その長身に負けず劣らずの長さで束ねられた髪は亜麻色、凛として勝気な表情がその魅力を盛り立てる。メリハリのある体をシンプルなジャケットで着飾り、されど随所に散りばめられたアクセサリーや意匠が彼女の美しさを述べる。デニムのショートパンツからのすらりと伸びた脚はカモシカのように整っていた。彼の姉のような完全無欠のカサブランカのような美しさではなく、より手近なヒマワリのような美しさ。


 いずれの要素も辰也の心を捉えて離さないものだ。


 「ああ……っ!?」


 言うまでもなく、長野紗耶香その人である。彼女は辰也の視線の先で怒っていた。烈火の如く内心の怒りを発現させていたのである。彼はそれを、仰天のあまり口をパクパクさせながら見ていた。


 「だから……! これはどういう事って訊いてんのよ!?」

 「あ……あ……そんな!? 神様ッッ!? …………ッ……」


 彼女の怒りと彼の驚きは、紗耶香の隣で乾杯している相手に向けられていたのだ。


 「……兄さんッッ!!? 姉さんッッ!!?」


 魂の抜けたような顔で辰也が吠えるのと、それに気付いた4人が振り向くのは同時だった。


 彼は生涯その光景を忘れないだろう。眩い程の光で彩られた中では、小粋な濃紺のスーツの胸ポケットから取り出したブランデーの小瓶で兄姉が酒を飲み交わしていたのである。


 「シン、戻って来たのね……」

 「さっきぶりだな! ……どうしたシン、そんな顔して……」


 辰也の顔に万感が籠り、泣きそうな顔で歓喜を叫ぶ。なにしろ、それだけでもなかったのだから。


 「……Hey! Puck、そこは感動のあまり笑う所、ですよ?」

 「アメリア……ッ!」


 在りし日のナーガホームが、そこに再現されていたのである。


 我慢できなかった。生まれ落ちた感情はあっさりと臨界点を越えて涙へと変わる。辰也は感激のあまり不可思議な声を喉元から零すと、我がことながらみっともない程取り乱して4人のもとへと縋っていた。


 だが、その間も彼の強烈なまでの孤独感を覚えてしまった瞳は見逃さない。姉である竜子の腕には紗耶香が乱暴に、だがその存在を確かめる様に取っている。そして、そのすぐ横では龍樹の腕にアメリアが動物のようにべったりとくっついて離れようとしなかった。


 「Nah! Ameliaではなく、Rachel(ラケル)ですっ! 良く間違われますが、レイチェルではないですよ?」

 「みんな……! 生きてたんだッッッ! ははっ! あれ……? おかしい、嬉しいのに……涙が……止まらないや……ッ! ……ぅうう、夢じゃ……ないッ!」


 辰也にはそれが限界だったのだ。


 耳をすませば会場のそこかしこで同様の光景が現れている。実際直ぐ近くのダイブマシーンの陰では、ちゃっかり化粧を落とした流花に対して琴子が縋りついてもいた。


 だが、そんなことはどうでも良い。


 歓喜の叫び声を上げて動かなくなってしまった彼に対し、龍樹は慰める様に優しく声をかける。


 「やっぱりな。そんな事だろうと思ったよ」


 無論彼も竜子もアメリアも、幽霊などではない。彼はこの展開を読み切っていたからこそ、最後の賭けに出たのである。猛り狂った紗耶香と辰也に対し、彼はゆっくりと飲み込みやすいように説明を始めていた。


 「PKの死に様を見たか? あいつら、最期の瞬間まで死の恐怖を感じさせずに戦っていただろ? あれでおかしいと思ったんだよ……」

 「あ……あはは……なーるほど……流石は兄さんだなぁ……」

 「それになにより、辰也。お前だよ」


 子供のように笑い声をあげた辰也を、龍樹は指さしていた。


 「……僕?」

 「イレヴンバックさ。お前一度死んだけど、イレヴンバックで蘇生できたじゃないか? もしHP0=死なら、そんなことはできないだろう?」


 その言葉は驚くほど辰也の胸にストンと落ちていた。龍樹の言う通りだったのだ。時の巻き戻しなんてことができるのはゲームの中だけ。これを見た龍樹は確信に近い自信を得たのである。


 「Wow! スゴイです! じゃ、じゃあパフは、あの時から死なないって分かってたですか!?」


 仮想現実では再現できないほどうっとりと頬を染めたラケルが甘える様に龍樹の胸に顔を埋めてすり寄る。彼はそれを優しくあやしながらも、とんでもないことを言ってのけたのだ。


 「いや、実は最初からだな」

 「さ、最初!? ど、どういうことですか龍樹さんッ!?」


 驚きのあまり怒りを放り投げた紗耶香に対し、彼は仲間たちを見渡す。


 「一番最初のオープニングで、GIの人間が頭から丸かじりにされて死んだだろ?」

 「……さすが兄さんね。私……もっと速く気付くべきだったわ……」

 「ど、どういうことなの兄さん!? 僕、全然分からないよ!?」


 辰也の脳裏におぼろげながらあの時の光景が蘇ってくる。確か、GIのヘイグとかいうフサフサのハゲが“終わりの竜”に食い殺されたのだ。ボリボリという気味の悪い咀嚼音と共に血がぶちまけられて……


 「このゲームのプレイヤーが死んだ時のエフェクトは、“空中に消える”だ」

 「あ……。……ってことは、あれは演出だったの!?」


 正確にはツベルクによって一部改変された演出である。そもそも龍樹の知る医療用ダイブマシーンに人を殺せるほどの威力は無い。


 これら3つの情報から、龍樹はデスゲームではないと推測していたのである。


 それを聞かされた辰也は紗耶香と共に、思わず納得の声を漏らしていた。当時は気付かなかったが、後から思ってみればとても簡単な事だったのだ。


 辰也はそれを眩しそうに見ていた。龍樹はこれまでも、そしてこれからも彼の目標であり続けるのだから。


 「やっぱり……兄さんは凄いや……。」

 「その凄い兄を、お前は倒して見せたじゃないか、ナーガ君」


 優しく微笑んだ兄に対し、辰也もようやく晴れやかな顔を見せることができた。そうして彼は生まれて初めて対等な者として、彼に物言う事ができたのである。


 「兄さん」

 「なんだ?」

 「僕には(ナーガ)の称号は勿体無いよ。精々が竜の子(ドラゴネット)だし。……だから、ナーガの称号は兄さんに返すね」


 その言葉に龍樹はおどけたように大袈裟に残念がって見せる。もっとも片腕にはアメリア改めラケルがくっついたままなのでとてもコミカルな仕草であった。


 なにより、辰也は龍樹とは違うのである。


 「……僕はナーガに相応しくない。それに……」

 「シン……」

 「僕は、兄さん(ナーガ)の後を継がないもの」


 その宣言に龍樹は、大切に育ててきた子供が成長して巣立っていくような、喜びと悲しみの混ざったミルクティーのような顔をしていた。


 そう。辰也も一人前の大人として、親元を巣立つ時が来たのである。


 「兄さんの後を継ぐのは、姉さんに任せるよ。僕は……僕の道を行く。紗耶香と二人で歩んでいく……!」


 龍樹は瞠目した。だが一瞬だ。


 「そうか……。頑張れよ。疲れたなら、休みに来ても良いからな」 

 「Wahoo!!! Puck! 良く言ったです! それでこそ、ですッ!」


 ラケルと共に温かい声援を送り、辰也は自身をもってそれを受け入れることができていた。


 そう。ラケルである。彼女は現実に戻ってからはテンションが最高潮に達したまま一向に下がらないのである。そして幼さゆえの無鉄砲さは彼女を突き上げる情動のままに動かしていた。


 「と、ところでPuff……じゃなくてNāga! こ、ここで一つ自明の理を聞いて欲しいです!」

 「ラケル?」


 まさかこのタイミングで来ると思ってなかった龍樹に対し、彼女はずびしっと音がなりそうな勢いで指と言葉を突き付けたのだ。


 「だ、大好きですッ! ずっと……傍で見守っていまシたっ!」


 愛する男が子育てを終わらせてフリーになった瞬間、彼女の決断は速かったのである。そのまま胸の中で荒れ狂う思いを一切合切ぶちまけていた。激しい恋の想いが濁流となって彼に向かったのである。


 「貴方の事……愛してですッ!」

 「愛して死ね!? 殺害予告!?」


 だが、悲しい事に言葉が足りていなかった。その結果空気の読めない辰也が2人の世界をぶち壊してしまい、思わず周囲から降り注ぐ冷たい視線に身を縮こめる。


 「シン君……ちょっと私と日本語講座、しよっか?」

 「そうね。私も言わなきゃいけないことがあるし……」


 失敗に気付いた妖精天使がさめざめと涙を流しそうになる中、哀れな彼は姉と紗耶香の手によって連行されていく。一方、紳士の龍樹は失敗を聞かなかったことにしていた。


 それを敏感に感じ取った妖精が期待の籠った視線を向けてくるのに対し、彼は優しい笑顔で言葉を返していく。


 「ラケル……気持ちは分かった。とっても嬉しいよ」

 「……Aah! ……そ、それでは……!? 一緒にthe Statesに……!?」


 その途端ラケルの脳内をバラ色の未来が浮かび上がる。一緒に実家に帰って家族に紹介される龍樹。彼の立てた功績に感嘆し、うちの娘で良ければと嫁に出されるラケル。満面の笑みで彼女を応援してくれる兄姉。


 一瞬の間に次々と脳内の場面が移り変わっていく。


 だらしない口元の緩みを抑えきれない彼女の幸せな妄想が結婚式場を通り越した辺りで、返答がもたらされていた。


 「ごめんな? 気持ちは嬉しいけど、俺はそれに答えてあげられないんだ」


 同時に会場をラケル渾身の絶叫が響き渡る。あまりの大声に周りが感動の再会から現実に戻される中、彼女は口から魂が抜けそうな顔でそれを受け止めていた。


 彼女は一瞬沈黙し、直ぐにまた叫び出す。


 「ヴワアアァァァッ!!!? な、なんでですがぁぁぁぁぁッッ!? 私達、間違いなぐ神様が祝福しだカップルでずよぉぉぉぉッ!?」


 首根っこに抱き着くどころか、締め始めたラケルに対し龍樹は苦笑いでそれを告げていた。何しろ彼女は必死で隠していたが、龍樹はそれをきちんと見抜いていたのである。


 「あのな、ラケル?」

 「な、なんですかっ!? い、今ならまだ取り返しがつきますよっ!?」


 必死で縋りつく彼女に対し、龍樹の答えは変わらなかった。


 「いくら日本でも、15歳の女の子に手を出したら犯罪なんだ……」

 「My!? な、な、何のことでショウか! お、大人のLadyたる私にはさっぱり……」

 「ラケル……せめてJunior hischool位は卒業しないと……。それに、そんな相手の求婚を受け入れる男を、ラケルの家族はどう思うかな?」


 急所をつかれたラケルは思わず天を仰いだ。まさにその通りなのである。ラケル・ゴールドバーグ。外見は大人っぽく見えるものの、その年齢は言動と一致する15歳。日本でもアメリカでも結婚はできないし、手を出した暁にはもれなく警察に連行される年齢である。


 ラケルはぐぬぬと力なく燃え尽きていた。


 龍樹がそう思った瞬間である。彼女が再び立ち上がったのは。そのまま渾身の雄叫びを上げると再び龍樹に対し、今度は正々堂々と宣戦布告をしたのである。


 「私の名前はラケル・ペイパー・ゴールドバーグだっ! 栄えある合衆国の名のある一族の末席に連ねる者! 私はアメリカ人として運命を絶対に諦めないっ! 絶対あなたの妻になってやるですっ! 覚悟するですっ! 否ッ! 今に貴方に相応しい女になって、貴女の方から求婚をさせて見せるですっ! だから…………」


 スポットライトのように光と視線を独占した彼女は、ギロリと視線を横に向ける。そこでは辰也が能天気に叱られている所であった。


 だが針の筵状態からの脱出口を探っていた彼はその気を逃さず、逃げる様にラケルへと意識を向ける。彼女は上出来だとニヤリと笑い、唇を舐めた。


 「貴方の妻は私ですッ! だからパックッ! ティーッ! しっかり浮気しないか見張るですっ!」


 その余りの剣幕にパックはつい頷いてしまい、ラケルは堂々と勝利を確信していた。それを龍樹はただ、苦笑いで眺めるしかなかったのである。


 どの道、限界が来たようなのだから。


 「お、お嬢様!? どうなされましたかッ!? おい、そこのお前、離れろッ!!!」


 同時にそこへ慌てて駆け寄る影があった。この中では龍樹とラケルにしか理解できない英語で警告した彼は、このゲームの主催者でもある。始まりを告げたヘイグが、終わりも告げに来たのだ。


 彼は数あるVIPの中でも最大限気を遣う相手であるラケルの悲鳴を聞きつけて、泡を吹きながら現れたのである。


 そしてさっぱりと状況の分からない彼は龍樹に対し英語で罵りを浴びせ、それが尚更ラケルの怒りを買ってしまう。


 彼女とて、彼には言いたいことが山ほどあったのだ。


 「ヘイグ! この様は何なのよッ!? あれほどツベルクに気を付けろと言ったのに!? それと、彼に謝りなさい!?」

 「な、何をおっしゃられるのですかお嬢様!? それとそこのお前、離れろ! そのお方はお前のような男が気軽に話しかけて良い存在ではないのだぞ!?」


 瞬間、空気が凍った。ラケルは理解したのである。これが彼女の行く末に待ち受ける運命なのだと。激怒した彼女は龍樹が口を挟むよりも先に怒鳴り返していた。


 「ヘイグッ! 他にやることがあるでしょッ!? ツベルクの連中はどうしたの!? セキュリティサービスをけしかけないさいよ!? あの連中ぅ……! タダで帰してもらえるとは思わない事ね!」

 「で、ですからお嬢様……。さきほどから何をおっしゃられているのかさっぱり……。確かにオープニングこそ手違いがありましたが、それ以降は全て恙なく…………」

 「恙なく? これの? どこが? 問題だらけじゃないッ!? っこのGIの恥晒しが!?」

 「そうは言われましても!? 仮想現実監視班からは異常なしとしか報告が……」

 「落ち着けラケル。今ので分かった」


 八つ当たりも兼ねて怒りをぶつけていたラケルは、同時に恋する人の甘い声を聞くや借りてきた猫のように大人しくなっていた。思わず自分の醜態に泣きそうになりながら頭を抱えているのである。


 「Nāga! えっと、その、何でショウか?」

 「犯人さ。ツベルクに寝返った奴だ。監視班だよ」


 その言葉と同時に彼女の混沌としていた脳内が驚くべき勢いで収束していく。ラケルも合点が行っていたのだ。今回の醜態はツベルクの暗躍だけではなく、GIの裏切者も噛んでいるのだ。


 「何だお前っ? お嬢様に近づくな! このお方は…………」

 「何だとはご挨拶ですね……。同盟を結んだ相手を忘れたのですか?」


 龍樹は平静さを失ったヘイグがこれ以上の失態を重ねる前に助け舟を出していた。すなわち、自身の名刺を相手に提示したのである。


 効果は覿面で、ヘイグは目の前の相手がGIの同盟相手の代理人であることに気付き、冷や水をぶっかけられたかのように冷静さを取り戻し慌てて誤魔化していた。


 「ツクモ!? い、いや、その、申し訳ない。まだ日本語が不自由な物で……」

 「……そのようですね。それよりも、直ぐに監視班に追手を。うちのセキュリティサービスに連絡を取って下さい。データは既に奪われた後でしょうが、ノウハウだけなら守れるかもしれません」


 抜け目のない龍樹は既にツベルクを出し抜くべく行動を開始していた。ラケルが素早くヘイグに従う様に命じ、彼は真っ青になって自身の不幸を呪いながら動き出す。


 それを龍樹はラケルを庇う様にしながら見送っていた。




 辰也は突然の展開について行けず、目を白黒させながら眺めていた。彼の意識はもっと重要な所に吸い寄せられていたのである。彼はそれを聞き逃さなかったのだ。


 恐れを抱いて震える様に、恐る恐る確認する。


 「あ、あのさアメリア……じゃなくてラケル?」

 「My? なんですか、パック? ……じゃなくてシン?」


 ひとまず落ち着きを取り戻した天使が無邪気に聞き返すのに、彼は不安を隠せなかったのである。脂汗と冷や汗が同時に出た。状況はかなり悪かったのだ。しかも隣の紗耶香はまだ気づいていない。


 「あのさ、さっき言ったよね?」

 「Yup! 言ったです! ……多分」


 間違いなかった。冷や汗が増していくのに慄きながら、彼はそれを口にしたのである。


 「その、“ずっと傍で見守っていました”って言ったよね?」

 「Sure! このゲーム、HPが0になるとGhostになるですっ! だからっ! ちゃんとみんなの活躍を隣で見守ってましたっ!」


 そう。ゲームオーバーになると、自由に身動きがとれる代わりに一切干渉できない幽霊になるのである。もちろんスキップは使えないし空も飛べないので、ついて行くには並々ならぬ苦労がいる。


 ラケルは戦死した後もきっちりと背後霊としてナーガホームについてまわり、数々の死闘に対し声援を送っていたのである。


 つまり……


 「ってことは……“終わりの竜”を倒した後も!? ぼ、僕の……告白もッ!?」


 パックは憤慨していた。そして、その言葉にラケルは全てを察し、視線を逸らしていた。彼女だけではない。辰也が恐る恐る向けた視線に対し龍樹も、そして竜子も、決して目を合わそうとしなかった。


 「ぎ、ぎゃぁぁぁぁ!? ま、まさか、あれ……聞かれてたのッ!?」


 同時に紗耶香が全てを察し、竜子に詰め寄っていた。彼女は自分の心のアルバムに入れた思い出が、自分と辰也だけの物だと信じていたのである。


 「うわぁぁぁ!? に、兄さん見てたの!? ラケルも!? 姉さんも!?」

 「……その、まぁ、なんだ、リュー」

 「…………私に振らないでよ……ラケル?」

 「My!? 私にも振らないでほしーですっ!?」


 気まずかった。これ以上無い程に。


 辰也は耳まで真っ赤になると、同じく赤面した紗耶香と一緒に頭を押さえてジタバタしていた。


 「うわあぁぁぁ!? ぼ、僕の秘密が!?」

 「いやあぁぁぁ!? 私の秘密が!?」


 そして、そこで竜子は一つ思い出していた。同時に般若の迫力を背負った彼女に対し、思わず龍樹とラケルは道を譲ってしまう。彼女はそのまま悶える親友に迫ると、脅迫するように尋ねていた。


 「ところで……紗耶香」

 「な、何よ!? 私の恥ずかしい話をしに来たのっ!? 良いもん良いもん! 私はシン君の言葉で感動して……」

 「“続きは戻ってから”……どういう意味かしら?」


 空気が凍てつく。紗耶香の肩が竜子に掴まれていた。空手を嗜む修羅の握力は強く、服に深い皺が刻まれ彼女は思わず痛みに怯んでしまう。


 思わず紗耶香は文句を言おうとして、押し止まる。目の前の親友は美しさを放り出して激怒していたのだ。それも、長い付き合いである紗耶香がほとんど見たこと無い程に。


 「痛いっ! 痛いって!? リュー!?」

 「教えて。どういうこと? 戻ったら、私の可愛い弟に何をするつもりだったの?」

 「な、なんだって良いじゃない!?」

 「良くないわ。貴女……まさか、私の弟を誘惑するつもりじゃないでしょうね?」


 嫉妬である。竜子は不器用なので表に出さないが、とてもとても兄弟を慕っているのである。慕いすぎて、兄弟にすり寄る汚らしい女を排除するほどに。


 それを見たラケルは恋の心強い仲間に安堵するべきか、類まれな強敵に慄くべきか迷っていた。


 「紗耶香、調子に乗らないで。確かに貴女は私の親友だけど、シンに手を出すっていうなら話は別よ」


 始末する。言外にそういうプレッシャーに紗耶香は負けそうだった。


 だが、困った淑女を救うのはいつだって騎士の仕事である。


 「姉さん! 紗耶香を離して!?」


 愛する人の危機を感じ取った辰也が割って入り、あろうことか彼女を庇う様に竜子の前に立ち塞がったのである。


 その頼もしさに思わず紗耶香の頬がにやけ、竜子の頬は引き攣った。辰也は強く、頼れる男になったのである。


 チャンス到来だった。今なら紗耶香は竜子を越えられそうな気がしたのである。


 「ふへへ。私……一人っ子だったから、憧れてたんだ。お義兄ちゃんとお義姉ちゃんに……」


 氷点下の空気に辰也ですら内心でビビる中、彼女は止まらない。長年の劣等感を覆す時が来たのである。


 「今……何て言ったのかしら紗耶香?」

 「お義姉ちゃん……! 今後ともよろしくね! 私、シン君と幸せになります!」

 「サヤ姉さん……!」


 その堂々とした宣言に辰也が思わず瞳を潤ませる中、竜子の闇がますます深まっていく。殺気と惚気が渦巻くカオス空間と化したそれに耐えられずラケルは龍樹の陰に隠れ、彼はやむなく天使を庇っていた。


 「うへへ。駄目よシン君。これからは、ちゃんと紗耶香って呼んでね?」

 「ッ!? うん! 紗耶香……」


 うっとりした顔で甘い響きを幸せそうに口にする。たったそれだけで辰也の胸に暖かな幸せが駆け上るのだ。長い間焦らされてきた彼の愛は過敏で、今は我慢しているものの夜になればどうなるかは分からない。そしてその手の平は確かにきつく結ばれていた。


 それを見せつけられた竜子はますます憤慨し、弟を寝取られるというドロドロとした嫉妬をぶつけていく。紗耶香にはそれが心地よかった。


 「お・義・姉・さ・ん! 不束者ですが、よろしくお願いします!」

 「は? 認めない……。私の……私の可愛い弟に……よりにもよって女が……ッ!!?」

 「あぁ嬉しい! まさか、こんなに速く一家の女として認めてもらえるなんて!」

 「違う! そうじゃない……」

 「分かってる分かってる! 嫁になった以上、女ではなく母になります!」

 「……ッッ!?」

 「うへへ、私の名前長野だけど……これからは長家になるのかぁ……私もナーガの家族に入れるのね!」


 話が通じているようで、通じていなかった。されどラケルはどこかで見た光景を思い出す。


 「あっ! 前と役割が逆になってるですっ!」

 「……結局のところ、あの2人は似た者同士だったってことか……」


 そこで龍樹は思わず目を瞑っていた。時間も迫っていたし、弟からの救いを求める視線もあったのである。彼は本日最後の演目を見るべく仲裁に入っていた。




 我に返った彼女は真っ青になった表情を隠しもせずに、無意識の内に義手を撫でていた。それは彼女が忌々しい事故で利き手を失ってからの癖なのである。落ち着きがない時に、思わず硬質のそれを触るのだ。


 だが彼女の不安を他所に、彼はご機嫌だった。それも、今までに一度も見たことも無い程に。鼻歌を歌いそうなほど軽やかな足取りで彼は進む。既に作戦は成功している。回収こそ失敗したものの、データを奪ってGIの面子は潰したし悪評の種も巻いた。どこぞの灰色の魔法使いのせいでその種が大きく育つ見込みは薄かったが、それでも十分である。


 どちらにしろ、GIにも九十九にも規模で劣るツベルクハウンドからすれば驚異的な戦果なのだ。


 「あーネウロ? 走らなくて良いの? あの買収したディレクター、逃げられずに捕まったみたいだけど……」


 その隣では彼女、プレイヤー名ネウロポッセの隣を歩いていたオラクリストが尋ねていた。彼女は怯えているのだ。何せ捕まったディレクターはただでは済まされないだろう。GIは決して善良な企業ではない。良くて僻地への島流し。悪ければ……


 「大丈夫よ。悔しいけど、ナーガホームのお陰で“公式には”全て予定通り終わったもの。ここでGIが私達を攻撃するには大義名分が必要よ。そして、その大義名分を知られてしまえばGIも危機的状況に陥るわ」

 「その通りだ」


 そこで4人の前を進んでいたヨロレイホーが後ろに言い聞かせるようにしていた。なにしろスターファイアときたら黙り込み、その表情は完全に凍り付いていたのだ。


 ナーガホームがゲームクリアに達した鍵は紛れもなくチートであり、それは彼の失態から悟られたのである。彼は蛇の舌らしく白色の魔法使い(サルマン)の足を引っ張ってしまったのだ。


 実に良い気味だった。彼は普段から彼女を障害者と馬鹿にしているのである。


 「全く、まさに王道のRPGになってしまったな。見事だ灰色の魔法使い(ガンダルフ)。 しかし、まさかこんなに面白い相手がいたとは……!」


 彼らツベルクハウンド社業務部秘書課特別プロジェクトチーム、通称“ドラグハウンド”の今回の戦績を纏めるなら次のようになるだろう。“試合に勝って勝負に負けた”。


 結果が全てのビジネスの世界において、それは紛れもない勝利なのである。


 既に彼らは会場の建物から脱出しようとしていた。涼しくなった秋の日差しを受けたヨロレイホーが愉快そうに笑う。


 「帰るぞ。皆が首を長くして報告を待ってるからな」


 彼が敷地の出口である門を越えようとしたところで、ネウロポッセの視界から消えた。転んだのである。オラクリストが何をやっているんだと半眼視する中、ネウロは笑えなかった。


 「狗も歩けば棒に当たるってやつだな」


 正確には転ばされたのである。目の前の男に。思わずオラクリストが息を呑む傍ら、ネウロポッセは即座に献身的にヨロレイホーを庇っていた。それだけの危険があったのである。


 「貴様……パフか!」

 「浮遊島に置き去りにされた気分はどうだ? GIの仮想現実の素晴らしい眺めが、堪能できただろう?」


 長家龍樹。目下の所彼女が最大限警戒をするに値すると判断した敵の姿である。いや、彼だけではない。ナーガホームのメンバー4人が彼の後ろに勢揃いしていたのである。それどころか、いつの間にか背後からは九十九系列のセキュリティサービス部門の社員が続々と駆け付けてくるではないか。


 日も暮れぬうちからなりふり構わない報復に出たのかとオラクリストが真っ青になる中、ヨロレイホーは自身のライバルへと真正面から向き合う。


 「ふん。何だ、何の用だ?」

 「何だとは何だ。せっかく盛大に見送りに来てやったっていうのに」


 2人とも笑っていて、されどその眼だけ笑っていなかった。ヨロレイホーからは炎のような闘志が沸き上がり、パフからは氷のような敵意が溢れ出しているのである。


 空間に空疎な笑い声が響いていく。


 「いやぁ、お陰様で大成功でしたよ! 御社のお陰で近年稀にみる感動の超大作となりました! だから、一言お礼を言おうと思いまして!」

 「……それは結構。こちらとしても協力した甲斐があったというものだ」


 こちらからはネウロポッセが、向こう側からはラケルが激しい敵意をぶつけ合う中、龍樹はそれを取り出す。


 何てことは無い。革製の小さなケースに入れられたそれは、名刺だった。思わずヨロレイホーの表情が苦い色に染まり、されど同様に彼も自身の名刺で応える。


 「……株式会社ツベルクハウンド業務部秘書課課長補佐、鎧井玲児。なるほどね、()()児課長()佐、でヨロレイホーと。ははぁ、まだ若いのに大した地位に……」

 「えぇ。当社は実力主義なんですよ。……九十九商事株式会社経済協力部の長家龍樹……役職は無し。意外ですね。かなりの実力をお持ちなのに……流石は古豪」


 それは宣戦布告である。龍樹は既に家族に危害を加えたツベルクを許す気はないし、鎧井もまた手強いライバルとの戦闘など望むところ。


 ――やってくれたな! 老企業の末端社員の分際で! この落とし前は必ずつけさせてやる!

 ――その程度の実力で良く言うよ。笑わせるな。本気で俺に勝てると思っているのか?


 両者は言わずとも、意思を汲むことができたのだ。戦いは終わってなどいない。これからが本番である。


 「……お客様はお帰りのようだ。道を開けて差し上げよう」


 龍樹がそういうと、ラケルが不機嫌そうに鼻を鳴らすと同時にナーガホームの面々が通せんぼを止める。その道路には既にツベルクが呼んだ車両が来ているのである。


 妖精が、蝶が、姉弟が必死に睨みつける中、ドラグハウンドの面々は進んだ。


 車道に寄せられた大型のバンに4人が乗り込むや、速やかに発車する。それは即座にカーブを曲がって龍樹や辰也からは見えない方へと進んで行った。




 「おい」

 「は! 何でしょう、鎧井課長補佐!」

 「追手がかかってるはずだ、適当に撒け」


 鎧井はバックミラー越しに眺めていた。あの男、長家龍樹は間違いなくこの車両に乗っている全員を殺す気で来るだろう。今度はゲームではなく現実が舞台、失敗は許されない。


 それを鎧井は愉快そうに見ていた。


 「……くくくっ! 上等。実に面白い! まったく、最高のラスボスだよあの男は! しかし今に見ていろよ、その首必ず掻き切ってくれるッ!」

 「し、しかし、鎧井、どうするのだ!? あの様子では既に俺達の個人情報は……!?」

 「洗いざらいバレてるだろうな。命が惜しいなら会社の“寮”で暮らすことだ」


 そこでようやく我に返ったスターファイアに対し、鎧井はどうでもよさそうに呟く。この男は無能ではないが有能でもない。実力で言えばオラクルやネウロの方が上だろう。ただ鎧井が旗揚げした当初から仲間という事で、それなりの優遇をしているに過ぎないのだ。


 「それで、どうするんですー? 私達、このままだとヤバくないですか?」

 「知れたことを。このままでは俺達はGIか九十九、どちらかの報復を受ける。タダでは済まされん! 生き延びたいのなら、奴等を滅ぼすしかない! ……どうやらあの男とは決着を付けねばならんようだな。こうなった以上、お前達も逃げられるとは思わないことだ!」


 それを聞いたオラクルが面倒事に嫌そうな顔をする中、ネウロがそれを指摘する。


 「当面の敵は……GIと九十九商事、ですか?」

 「あぁ! 奴はラスボスにならざるを得ないだろう! 何せ、いくらあの男が優秀でも九十九商事の所属ではな」


 鎧井はツベルクの創業者の流れを汲む一族の出である。加えて実力もあった。そこに今回の功績も加えれば、数年中には更なる出世を遂げるだろう。一方の長家は庶民の出である。その実力は確かだが、九十九のような巨大組織では鎧井ほどの出世は望めないだろう。2人の差は時間がかかればかかるほど開いていく。


 「焦る必要はない。時間は我々の味方だ。個々の力でラスボスに及ばないのであれば、組織の力で打倒すれば良い」


 資金、部下、設備。あらゆる物が鎧井の有利を示しているのだ。


 「今に見ていろ長家龍樹! せっかくの実力も旧態企業の中で活かせずに、暗い洞窟の底に沈むが良い!」




 「ねえ兄さん。本当にこれで良かったの?」

 「どうした、弟よ」


 一方、辰也は龍樹と二人で会場に戻っていた。紗耶香は竜子と話し合いの続きがあったし、ラケルはくっついて来るつもりだったのだがGI側の事情がそれを許さなかった。GIは遅ればせながら事情を知って大わらわなのである。彼女は証人として無念そうに仕事場へと向かっていた。


 「……どうにかGIの大失態は糊塗できたけど……それってツベルクの悪事もまた隠してしまうってことだよね? これって、ようするに泣き寝入りってことなんじゃ……」

 「その通りだよ。あの鎧井、少しはゲームができるようだ」


 涼しい風の吹き抜ける中で、兄弟は話し合っていたのである。辰也は納得がいかなかったのだ。ツベルクのような悪事を働く企業が、公然とのさばっている現状に。


 「許せないッ!! これが初めてじゃないんだよね!? どうして奴等の横暴を止められないの!? 警察は何をしているの!?」


 辰也はまだ若く、それ故に受け止められなかったのだ。彼はここに来る途中でぷんすかと怒るラケルからツベルクの悪事を散々聞かされてきたのである。


 その答えに龍樹は思わず苦笑していた。辰也は無邪気なまでに国家権力を信じていて、龍樹のような立場からすれば懐かしさすら感じるのである。


 「残念だが、企業の力をもってすれば国家に影響力を行使するのは難しくない」

 「…………それじゃあ」


 ツベルクは日本にも合衆国にも無数の拠点を置いている。そこから生まれた雇用や納税は、双方の国家にとっても無視しえない量である。まして、利潤の一部は政治献金に回っているのだ。


 「兄さん……でも、僕は。こんなのは……」


 それを聞いた辰也は思わず無力さに歯噛みしていた。現実は複雑だ。ここは資本主義社会。現金、不動産、証券、あるいは各種利権等の資本がものをいう世界なのである。


 彼は恐れているのだ。ツベルクはきっと兄を攻撃してくることに。そして弟の彼も又、それに対して無関係ではいられないだろう。紗耶香も竜子も、ラケルだって。


 「落ち着けって。目には目を、企業には企業だ。少なくとも今回の件でGIは怒り心頭だろうから、なにがしかの報復はするだろうさ」


 それでも辰也は不服だった。確かにGIの報復でツベルクは滅びるかもしれない。だが、滅びた所で第2第3のツベルクが現れない保証はないのだ。そんな彼の不満を察したように、龍樹は笑った。


 「なぁシン」

 「……なぁに? 兄さん」


 涼しい風が兄弟の間を駆け抜けていく。


 「御伽噺の竜の子フェアリーテイル・ドラゴネットは、立派な大人に成れたんだ。これにて終幕、めでたしめでたし」

 「…………」


 それ以上を望みたい辰也に対し、龍樹の言えることは一つだけだった。


 「それでも不満があるのなら、変えれば良いさ。自分でな。だってもう、お前は大人なんだから……」


 再び涼しい風が兄弟の間を吹き抜ける。龍樹はその心地良さを堪能しながら、風景に視線を向けた。急ぐ必要は無い。


 すっかり大人になった弟からどんな答えが返ってくるのか、龍樹はそれを楽しみに待つことにしたのだ。


→後書き

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