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外伝 天使と蝶、川辺にて

 「レイチェル・ゴールドベルグさん。滞在目的は?」


 後の“AME(アメリア)”ことRachel Paper Goldbergは、降り立った日本の玄関口たる成田空港で、その妖精と形容される表情を盛大に引き攣らせていた。


 それは、彼女の目の前の入国管理官が放った下手くそな英語のせいである。


 「えっと、その……観光です」


 おずおずと語る彼女を尻目に、入国手続きは滞りなく進んで行く。だが、唖然とした彼女の表情が晴れる事は無かった。


 ――確かに時々間違えられる名前だけどさ。それにしたってゴールドベルグはないでしょ……。私の苗字はゴールドバーグだって!


 日本人は英語ができない。それを知っていた彼女は事前に言語を学ぶことで、今回の旅行に備えてきていた。お陰で片言であれば日本語も話せる。だが、肝心の日本人の英語力はというと、彼女をして冷や汗をかくほどの物であった。


 「良い旅を!」

 「ありがとう」


 英語ができないことを除けば親切な入国管理官と別れた彼女は、ファーストクラスの旅客機を降りたその足で休憩用のラウンジへと向かっていた。そこで合流する手筈になっているのである。


 周囲に人が居ないのを良い事に、彼女は廊下で一人ごちていた。


 「大丈夫……よね?」


 Rachel生まれて初めての一人旅は、始まったばかりなのである。




 「やっぱり、飲み物と言えばコークですっ!」

 「アメリア……故郷でもそれを飲んでるのかしら?」


 青い湖を望む白い部屋で、アメリアはバターと話し合っていた。“水没都市”の美しい風景は、一時ヒートアップした女たちを落ち着かせるには十分だったのである。


 ノスタルジックな黒い炭酸飲料を一気飲みしてから小さくげっぷをすると、アメリアは思わず懐かしい我が家に思いを馳せていた。巨大な邸宅にはプールはおろか私設動物園まで完備され毎晩のように近隣の名士たちが集まって豪華な宴に興じる。


 幼いアメリアは姉と共に適度にそれに参加しつつ、時には自室でハンバーガーを齧って遊戯に興じることを選べる身分なのだ。


 「そう言えば、アメリアはどうして日本に来たの? フェアリーテイル・アドベンチャーの体験会は、アメリカでも開催されてたわよね?」


 ぷはあっと息を吐いた天使に、バターは疑問をぶつけていた。抜群の庶民間を漂わせる天使は、それにあっけらかんとして答えを述べる。


 「Yup! もちろんThe statesのにも参加するです! ただ日本と合衆国は同じ日付でも時差があるので、頑張れば両方に参加できるのです!」

 「強行日程じゃない!? お金は大丈夫なの!?」


 バターが思わず目を剥くのも無理はない。最新鋭のプライベート超音速旅客機を利用すれば、どうにか間に合う程度である。あまりゆっくりはできないし、何より多額の費用が必要である。


 「Ofcourse! ……というか、祖父が全て準備してくれたです! 可愛い孫娘の為に、わざわざ関係者用のチケットまで準備してくれましたっ!」

 「なんて……なんてアメリカン! ……あれ? ってことは、アメリアもパフさんたちと同じく関係者枠ってこと?」


 その問いにアメリアは胸を張って頷く。


 「ハイ! 私の本名はRachel Goldbergと言います! このゲームの製造元であるGeneral Informationとも深い関係なのです!」


 Goldberg。合衆国においてその名前を知らない人間は数少ない。全米屈指の、そして世界屈指の巨大多国籍企業であるゼネラル・インフォメーション。その中枢にしてIT革命の時代から名を馳せた富豪の一族なのだ。


 まさかの大富豪の登場に、小市民のバターは思わず自身の言動を思い返し冷や汗を流していた。




 「お嬢様! ようこそ日本へいらっしゃいました!」

 「出迎えご苦労様。確か貴方は……」

 「ヘイグで御座います! お陰様でゼネラル・インフォメーション・ジャパンの代表を務めております! いやぁ、それにしてもお美しい。まさにこの世に君臨された天使のようでございます……!」


 一般の人はそのお値段の前に近付こうともしない豪華なラウンジで、Rachelはピシリとしたスーツ姿で最大限の礼装を整えた男から、歯の浮きそうな言葉をマシンガンのように浴びせられていた。仄かに香る柑橘系の香水が、鼻先をくすぐる。


 彼女には良くあることなので、何時も通り天使の笑顔を浮かべつつも内心が初めての異国の風景に飛んでいた。


 「何卒、ゴールドバーグ会長にはよろしくお伝えください!」


 イタリア人も驚く勢いでたっぷり5分間彼女を賛美し続けたヘイグは、ようやく結論に達していた。それは彼女も良く言われる類の物である。


 一方のRachelも物静かな日本のラウンジをアメリカ人の騒音でかき乱すことに罪悪感を感じ始めていたので、溜息一つと引き換えに出発していく。


 既にヘイグが私費で雇い入れたリムジンが空港に到着しており、彼女はそれに乗るだけである。あまりにも有名な一族の彼女は、一人旅とはいえ結局のところ誰かしらの庇護下にあるのだ。おそらく今も、私服姿の護衛がついて来ているのだろう。


 「ゴールドバーグ会長には本当にお世話になりました。また父君の方にも目をかけて頂きまして誠にありがたく……」


 Rachelは左耳から入ってくるヘイグの美辞麗句を、綺麗に右耳から流して窓の外の風景に集中していた。行き先はこの国有数の港町である。そこにある最高級ホテルで一泊して、英気を養ってから遊びに行くのだ。


 世界初のVRMMO“フェアリーテイル・アドベンチャー”。それは祖父の人生の集大成にして父の出世作である。尊敬する2人の会心の作を前に、彼女は指を咥えて見過ごすことができなかったのだ。


 そこでヘイグは気もそぞろなRachelに気付くと、慌てて話題を変える。下手に彼女の機嫌を損なえば、ヘイグは明日にでも解雇されて路頭に迷う事になるのだ。必然とその対応は、爆弾を解体するかのような慎重な物にならざるを得ない。


 「よ、よろしければ、お嬢様のキャラクターに関しては私共の方で強化致しましょうか?」

 「……? 強化? どういうことかしら?」


 彼の必死の思いに、彼女も興味を惹かれて視線を彼に向けていた。それにほっとしたスーツ姿の男は、必死で彼女も楽しませようと言葉を紡いでいく。


 逆に言えば、彼女に気に入られれば出世は思いのままなのである。


 「はい! 元々私共の方でVIPの方にはゲーム開始後に“便宜”を図る予定なので御座います。よろしければお嬢様に当たっては、先にそのご要望をお伺いしておこうかと……」

 「……いらないわ。せっかくのゲームをチートで台無しにするのも興醒めだし」

 「さ、左様でございましたか! これは大変失礼をば致しました!」


 Rachelは内心の落胆を隠し切れなかった。どうやら目の前の男は古いタイプの人間らしく、あまりプレイヤーの気分が分かっていないのだ。


 そうでなくとも、普段から特別扱いされている彼女を今更特別扱いしても、なんの興味も湧かないのである。


 「会場の防衛の方は大丈夫なの? 本国の方ではツベルクの狗共との争いが激しくなってるみたいだけれど?」


 そのRachelの言葉に、ヘイグは少しだけ言葉を失っていた。彼女は姉と違って栄達には関心の薄い小娘だと聞いていたのだ。だが、同時にそれがゴールドバーグ会長からのメッセージだとも理解できる。


 ヘイグは窓の外の海を眺める彼女を安心させるように、努めて優しくバリトンを響かせながら胸を張る。


 「御安心下さい! 当社のハッキング対策に敵う者はおりません。また会場の物理的な防衛に関しても、ツクモセキュリティサービスに依頼しております!」

 「疑うわけじゃないけど、気を付けてね。本国でもそう思っていた人たちが狗に出し抜かれて、御爺様の大目玉を食らったんだから……」


 ジト目で見やるアメリアに、ヘイグは毅然と笑って返していた。




 「……でも、結局はこんなことになってしまったです……。私は……何て言ってお詫びしたら良いか……」

 「アメリア……」


 アメリアは部屋の一角で、暖かな日差しとは対照的に寒さに震える様に自分の身体を抱き締めていた。その瞳は俯き、悲しみの色を他人に見せまいとしている。


 罪の意識が、影のように彼女に付きまとっていたのだ。彼女が悪いわけではない。だが、その責任を感じざるにはいられ無かった。


 誰かが脱落していくたびに、彼女の心は軋んでいく。それを引き攣った顔で眺めることしかできないのだ。


 大富豪でも同じ人間に変わらない。バターは気が付けば彼女を優しく抱き止めていた。


 アメリアはずっとそれを思い悩んでいた。でもそれを口にしたら仲間に嫌われてしまうかもしれない。そんな思いもあって、誰にも言えなかったのである。


 たった一人、乙女の秘密を共有し合ったバターを除いては。


 ギュッと抱き締められたアメリアは、バターの身体の暖かさによって冷め切った心が徐々に安らいでいくのを感じていた。涙こそ流さないものの、背中を優しくさすられて、柔らかな胸に顔を埋めているうちに、少しずつ心に溜まった澱のような物が流れていくのを感じていた。


 「アメリア、顔を上げて」

 「Yup……」


 バターの胸の中で妖精が潤んだ瞳を持ち上げる。白い肌と青い血管が浮き上がりそうなその顔は、正に人形のように美しい。バターのスポーツで鍛えられた日焼けした肢体とは異なるものだ。


 同性すらも魅了しそうなほどの愛らしいそれに、バターは優しく紡いでいた。


 「いのち短し恋せよ乙女……。アメリア、大丈夫よ。嘆くのは終わってからで十分だわ。今はただ、脱出することだけを考えましょう?」


 ――過去よりも、今を生きましょう? 


 多感な少女に、大人のLadyはそう言っていた。


 「それにね……?」


 不思議そうな顔の妖精に向かって、バターも少女のような顔で嘯いていた。


 「まだアメリアの恋を聞いてないんだけど?」

 「My!? い、いいじゃないですか!? もう十分ですっ!」


 ジタバタと悶える妖精を、バターは捕まえて離さない。そのまま2人してベッドに倒れ込んでうりうりとくすぐると、観念したアメリアから聞きだしていく。


 「そ、その……、最初は言葉が通じて安心できたです! でも、そのうち頼れることに気付いて……気がついたら身も心も任せてしまっていたというか……」

 「あ! ちょっと分かるかも! 優しいだけじゃなくて頼れる男の人って格好良いよね!」

 「Yup! ソウです! そんな感じですっ!」


 そうして気が付けば、暗い影は少しずつ遠ざかっていた。アメリアは信じて疑わないのだ。この難局も皆で力を合わせれば、必ず突破できるという事を。


 「特に、次々と問題を解決していく姿は凛々しいというか……格好良いというか……」

 「まさにアメリアの王子様?」

 「それですっ! 一緒に居ると、あたかも自分がPrincessのような気分になるというか」


 そう言ってからアメリアは可愛い悲鳴を上げると、バターの隣で枕に顔を埋めて足をバタバタさせて悶えていた。


 幼いアメリアからは、パーティーを引っ張っていくパフの姿がこの上ない程強く見えたのだ。気恥ずかしさを振り切った彼女はバターと取り出したコーラで乾杯しながら、恋の喜びを叫んでいた。


 「Aah……! My precious prince! 日本語なら……地獄に仏っ!」

 「っけはぁ!? 間違いなく違うわ!? 待ってアメリア、それはおかしい!?」


 彼女は、この時もアメリアのままだった。その独特の形容詞にバターがコーラを咽る中、アメリアは頬を染めてはにかむ。


 「私……あの人の為なら我が身を盾にすることもできそうです!」

 「……アメリア、その前にお姉さんと日本語を勉強しましょ?」


 瞳をキラキラと輝かせて語る年下の一途な少女に、バターは日本語を教え込むことを決める。愛は相手に伝わる言葉で囁かなくては意味が無いのだ。


 かくして、アメリアとバターの日本語講座が始まったのである。


 「Butter……! 本当にありがとです!」

 「良いのよ。アメリアには私の夢もかかってるんだからね!」


 必死の思いで食らいついてくるアメリアに、バターは慈しみを覚えながらも教え込む。


 「さぁ、私の言ったことを繰り返してみて! “御機嫌よう、お姉さん。今日は良い天気ですね”!」

 「Yup! Go機嫌you、おねーさん。凶は酔い転機ですね!」


 微妙だった。バターが思わず泣き笑いを浮かべる中、アメリアはふと気づく。


 「何故、ティーに対する挨拶から始めるです? 私としては、パフへの愛の言葉を知りたいというか……」

 「……分からないと思うけど、彼女結構ブラコンだからね? まずは彼女を攻略しないと」


 天女のように美しいティターニアは、同時に兄や弟に近付いてくる女に対して般若に豹変すると、姑のようにチクチクといびるのである。その残念さを知っているバターとしては、天使が嫁いびり似合うのだけは避けたかったのだ。


 ティーもアメリアを妹のように可愛がってはいるが、それとこれとは話が別である。親無しの長家兄姉弟の絆はとても強いのだ。


 アメリアは言葉を学ぶ。恋する人の為に。


 アメリアは覚悟を決める。恋する人の力になる為に。


 バターはそれを眩しくも嬉しそうに応援していた。やがてティーが帰還したのを機に、短い蝶と妖精の宴は終わりを告げる。平和な日々は暫くの間、続くのだ。


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