外伝 蝶と妖精、花畑にて
良く磨かれた美しい白い大理石でできた部屋に、余計な装飾はいらない。ただ一幅の絵画が飾られていれば十分である。窓の向こうには深い青みを持った湖が鎮座していて、それ自体が一つの宝石のような美しさを持っている。
“水没都市”。その中州に存在する宿屋では、2人の人物が横に座ってただ窓の外を流れる白い雲を眺めていた。しかしながら息を呑むほど美しい風景も、2人の話題にはならない。もっと重要なことを話そうと、アメリアは頬を染めつつバタフライの整った顔立ちを見上げていた。
「す、好きな人ができたです! きっと運命の人です! 聞けばButterは昔から付き合いがあるとか。是非、色々教えて欲しいです!」
一気呵成にそう言うと、彼女は深呼吸を一つしてから、まるで告白の返事を待つ乙女のようにバターの返事を待った。不安とそれ以上の期待が入り混じった表情は、まさしく天使、あるいは妖精と形容されるのにピッタリである。
その愛らしい表情を見ると同時に、バターは湧き上がる複雑な思いを押し殺すのに必死だった。
「……アメリアはどうして好きになったの?」
「What’s!? そこ訊くですか!? 恋に理由なんて不要ですよっ! ……でも、年上らしくて頼れる所とか、辛い時でも笑わせてくれるところとか、本当に危ない時はしっかり助けてくれる所とか……」
でれっと表情を崩して天使は思いの丈を語っていく。それをバターは眩しい物でも見るかのようにしていた。
彼女にはとても共感できたのだ。
「そんなことはどうでも良いですっ! 教えて欲しいです! その……パフの事を!」
湧き上がるミルクティーの甘さとコーヒーの苦さを、バターは必死に喉奥に飲み干していた。
長野紗耶香が長家龍樹に初めて会ったのは、もうずっと前の事だ。それは彼女にとって複雑な間柄である竜子の、いじめ問題が巻き起こった時のことである。
その時紗耶香は小学生で、何の気なしに学校生活を過ごしていた。彼女は元々勝気というか気が強く、それゆえ気に入らないことをはっきりと嫌だと言える少女だったのである。
そんな時だった。クラスにいじめの嵐が吹き荒れたのは。彼女は正々堂々と正面から首謀者を糾弾し、それゆえターゲットになったのである。
後の事は思い出したくも無い。ただ、彼女は全ての友人を失ったことは確かだった。気の強い彼女のやることは正しく、それゆえ他人にはお節介に映ることがあったのである。一人又一人と櫛の歯が欠ける様に裏切られていき、気が付けば彼女はたった一人で残酷ないじめの渦中にいた。
そこに手を差し伸べてくれたのが竜子である。
紗耶香は竜子を一目見た時から確信していた。
――こいつとは気が合わない、と。
それは嫉妬である。同年代の子よりも少しだけ心の成長が速かった彼女は、即座に理解していたのだ。自分には勝てる要素が何一つない事を。
そしてそれはまさしく事実である。彼女が竜子に勝っているのは運動神経位の物で、それ以外のあらゆる要素、容姿もスタイルも学力も人望も、何一つ勝てない。
折しもいじめを受けて凹んでいた紗耶香は、生まれて初めて自信を失っていた。
そんな時だ。初恋の相手に出会ったのは。
「Yup! それは、間違いなくパフですね! …………What’s!? ちょっと、ちょっと待つです!」
「どうしたの? アメリア」
聞いてない、と言わんばかりにアメリアは泣きそうな表情を浮かべていた。おそらくパックがこの場に居たら、同様の表情を浮かべるだろう。この2人は生まれも育ちも違うのに、何故か似ているのだから。
「Rival……そんな……Butterみたいな大人のLadyがRivalだなんて……!?」
ずーんと落ち込んだアメリアに対し、バターは湧き上がる苦笑を隠し切れなかった。
結論から言うと、紗耶香は直ぐにまた上を向いて歩きだしていたのだ。
まだ竜子との関係も今ほど整理されておらず、どこかたどたどしかった時の事。紗耶香は空気の読めない竜子によって心配されて、長家家に遊びに連れていかれたのだ。
内心では気乗りしなかったのだが、現状紗耶香に友人らしい友人は竜子しかいない。竜子はクラスで地位を獲得していたし、自分を見捨て逃げた奴等と会うなんて反吐が出る。
その時は何とも思わなかった。紹介された竜子の弟は無邪気で可愛いらしい男の子で、逆に兄は年齢以上に大人びた子供だった。
そんなことを思われているとは露知らず、龍樹は紗耶香を覗き込んだのである。それで十分だったのだ。
当時の紗耶香はいじめの影響で傷を幾つか負っていたし、龍樹は竜子が急速にやつれていくのに気づいていた。たったそれだけで、彼は事実を悟ったのである。
次の日からクラスで不思議な事が起こったのだ。まず裏切った友達が全員頭を下げに来た。もっとも彼らは紗耶香に謝りに来たのでなく、紗耶香を通してクラスの頂点に立った竜子に謝りに来たのである。
紗耶香としては内心で怒り心頭だったが、それを表に出さないだけの分別は持ち合わせていた。そうしている内に彼女は竜子の最大の副官として扱われるようになっていく。
主に、無邪気に親友の爆誕を喜ぶ竜子の手によって。
紗耶香は竜子に匹敵するほどの逸材であり、かつ竜子には何一つ勝ち目がないという絶妙なポジションだったのである。紗耶香はそれに不満だらけだったが、竜子は満足だった。
そんな内心を押し隠して一矢報いようと気を張っている内に、紗耶香は気付いていた。一連の流れの中で、誰かが糸を引いているのだ。彼女はこれこそ竜子をぎゃふんと言わせるチャンスだと思って、それを手繰ってみる事にした。
謝りに来て、必死で竜子に媚を売る奴等に訊いたのである。糸を辿っていくうちに、初めはバラバラだったそれが少しずつ一本に収束していくのが分かった。
それが竜子のパワーの源泉だと思い込んだ彼女は喜んでそれを手繰っていく。そうして行きついたのは、件のいじめっ子だったのである。
何のことは無い。いじめっ子は残された自身の人望をフル活用して、必死に竜子に詫びていたのだ。その頃は既にいじめられっ子になっていた彼に、紗耶香は思い切って訊いてみた。
何故そんなに必死になって許しを請いているのかと。
てっきり、いじめから守ってくれと願っているのだと思ったのだ。だが竜子は彼の事を恨んではいない。だから、尚更理解できなかった。
彼の答えは簡単。彼は竜子に謝っているのではなかったからだ。
彼は紗耶香を通して竜子に謝るのを通じて、後ろにいた人物に詫びていたのだ。
龍樹だった。
彼は大切な妹を守りたかった。いじめっ子は龍樹の逆鱗に触れていたのだ。彼は容易にはいじめっ子を許さず、間接的かつ的確に攻撃を開始する。
すなわち、投書である。
龍樹は自身のコネをフル活用して全ての情報を収集すると、それを的確にばらまき始めたのだ。いじめっ子が最大限ダメージを受ける形で。
いじめっ子の親が、兄弟が、友人たちが、悉く投書や噂話を通じて彼の悪行を知ることになる。同時に教師陣にも手が回された。
彼らは龍樹の情報をインプットし、それに則って動き始める。
――全ての物事は動機、いわば因果関係によって支配されている。
初恋の手痛い失敗によって学んだそれを、彼は最大限生かしていた。いじめっ子が二度と同じ真似ができないよう、十重二十重に監視の首輪をかけたのである。
人々の正義感を燃料に稼働する監視網は、いじめっ子が少しでも悪事を働くと反応し、彼の行動を抑制した。それ故にいじめっ子は一切の反撃ができなくなり、逆にいじめられる立場になってしまったのである。
龍樹が初めて作り上げた動機の網は習作で、それゆえ欠陥があったのだ。彼はいじめっ子自身を計算に入れておらず、結果として彼を追い込んでしまっている。
だが、彼はそれを見て何とも感じなかった。
それを掴んだ紗耶香は、正々堂々龍樹にそれを突き付けたのだ。別に彼を批判する気は無かった。ただ優位に立ちたかったのである。龍樹に対して優位に立つという事は、彼の構築した動機によって動かされる人の群れの優位に立つということなのだから。
その時の龍樹の顔を、紗耶香はよく覚えている。いつもサヤちゃんと呼んで可愛がってくれていた優しいお兄さんではなかったのだ。
――さて、こいつをどうしてくれようか。敵ではないようだが……
言わずともそれが伝わって来た。そこで紗耶香は初めて、妹の友達という括りから長野紗耶香という個人として認識されたのである。
それを明確に肌で感じ取った彼女は、即座に降伏していた。
紗耶香にとって竜子が負けたくない相手だとすると、龍樹は絶対に勝てない相手だった。それを肌で感じ取ったのだ。
そしてそれゆえ、彼の圧倒的な力に心奪われた。
人間を思い通りに動かす力。物事の因果を理解し、動機を生み出す力。直接手を下さずとも、複雑極まりない世の中を動かす力。
未熟極まりないものの、少しずつそれを理解し始めていた龍樹の存在は、紗耶香にとって強烈だったのだ。彼は彼女にとって生まれて初めて見る、格上の強い男だったのである。
それ以降、彼女は急速に竜子と仲良くなっていく。何のことは無い。彼女に対して遠慮しなくなったのである。恩人の彼女はぶっきらぼうな外面に対して本心はとても穏やかで、一緒に居て安心できる人間だったのだ。
紗耶香は見誤っていた。竜子は単に良い子なだけじゃない。紗耶香と同じように、間違っていることに従わない強さを持っているのである。それは強者ゆえの孤独を感じていた双方にとって、対等な相手としてそれを癒すことができた。それは彼女の劣等感を補うどころか余りあるものである。
なにより、竜子と仲良くしていれば龍樹とも会える。次に会った時の龍樹は、名前の通りドラゴンに見えた。ただし、大樹の陰に横たわって眠っている。彼の眠りを妨げない限り、その牙を剥くことは無いだろう。そして同じ木陰で休む仲間になれば、ドラゴンは彼女もまた守ってくれるのだ。
「……神様は……残酷です…………」
「アメリア、まだ話は終わってないわ」
アメリアは絶望しつつも必死で気力を再構築し、バターに対して戦いを挑む悲壮な覚悟を決めていた。それをバターは優しく躱す。まだ、肝心の部分が終わってないのだ。
明るい日差しが白亜の壁を通して室内を明るく反射する中、アメリアは顔を上げていた。
紗耶香渾身の愛の告白は、見るも無残に散っていた。それは2年後の冬の日の事である。日に日に募っていく龍樹への想いに身を焦がした紗耶香は、一日千秋の思いでこの日を待っていたのだ。
必死の思いで手作りしたチョコレートは、結局義理チョコを越えるものではなかった。彼女の頭を混乱してしまい、それゆえ土壇場で愛を告げる事が出来なかったのである。
もちろん紗耶香は直ぐに気付いていた。龍樹のやり方を間近で見ていた彼女は、自分が少しずつ誘導されていることを理解できた。その遠回しの断りに愕然となってしまい、それが混乱に拍車をかけたのである。
何のことは無い。親友と同じ龍の樹の下で休む紗耶香は、庇護者に過ぎないのだ。それは守るべき対象ではあっても、対等な存在ではない。
紗耶香は傍に居るだけで満足してしまい、龍樹と共に並び立つだけの気概を持てなかったのである。
失恋だった。そのショックは大きく、青白い顔をしている辰也にも気づかず家に帰っていた。彼女は何処まで行っても竜子と並んで立っており、それは龍樹の下なのである。
それどころか心の奥底では認めているのだ。紗耶香では決して竜子には勝てないことを。竜子にも勝てないのに、どうやって龍樹と肩を並べるというのか。それは彼女の初めての挫折だった。
散々泣いて、意味もなく竜子に心配をかけて、彼女はそれでも上を向いて生きていく。
挫折した彼女はその時気付いたのだ。シン君と呼んで可愛がっている彼など、必死になってたどたどしくも紗耶香を慰めている。勝負とは単純な優劣だけではないのである。
「Ay……Butter、その、私、とんでもない勘違いを……」
「良いのよ。もうずっと前の話で、諦めはついてるから」
天使が天使たる由縁は、とても素直な事である。アメリアは気が付けばバターを応援していたのだ。自身の事は置いといて、矛盾を物ともしないだけの無垢さ。誰もが子供の時に置き忘れてくるものだ。
気が付けばバターは優しくアメリアの髪を梳いていた。さらさらとした金髪は人目を引くし、青い瞳はサファイアのように美しい。人形のように均整の取れた肢体は、いつも溢れんばかりの感情を発露させ、傍に居る人を元気にさせるだけの力がある。
「アメリアなら、諦めないのね……」
「……? Yup! 当然です! むしろ、恋のHurdleは高い方が燃えるのですっ!」
力強くそう言い切るだけの純真さ。壁がどれほど高かろうが、いつか越えられると信じられる無邪気さ。今のバターには持ち合わせていないそれは、彼女の誇る強さである。
「アメリア! 良い? 諦めちゃ駄目よ? 現状に満足せずに高みを目指していけば、いつか大樹を昇り切ることができるわ!」
「Of course! ……でも、そうはいっても、不安になることはあるです……。だからButter、これからも相談に乗って欲しいです!」
バターは微笑んで、窓の外を眺めながら頷いていた。
「もちろん! そうと決まれば作戦を練らなきゃね! リュー……じゃなくてティーも呼んで作戦会議よ!」
「Nah! それはいらないです!」
バターはアメリアに意表を突かれていた。鳩が豆鉄砲食ったような顔をしているには理由がある。アメリアはそれを確信していたのだ。
「この分野に関してはButterの方が優れてるです! だってティーは口説かれる側ですっ!」
「……それもそうね! 流石私だわ! ティーをこんなにも簡単に出し抜くなんて!」
アメリアなりの励ましを、バターはくすぐったそうに受け入れていく。彼女は優しい言葉をかけられるのには慣れているが、真心の籠った言葉には弱いのである。特に目をキラキラさせている年下の女の子には。
「でも、ティーがいれば色々役に立つわよ? その、龍樹さんだって男なんだから……その、ね? エッチな本とかで、好みが分かるわよ?」
「My!? そん、な……」
バターの遊び心にアメリアはどっぷりと浸っていく。妖精の結論は速かった。
「王子様がPornoなんか持っているはずないです! とはいえ、男性ですからその手のブツは必要でしょう。つまり、私の写真を持ってるですね!? 既に相思相愛だったです!」
「待ってアメリア! 時間軸が乱れてるわ!?」
まさかの言葉にバターは思わず目前で急にそわそわし出したかと思うと、体を抱き締めてくねくねしている妖精の正気を疑っていた。天使は純真な天使であり、ぶれないのである。




