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フョードル・ドストエフスキー著 原卓也訳(1979)、「賭博者」、新潮社発行
白亜に囲まれた街を見るも惨めな3兄姉弟が進む。後ろでは気絶したパックをポリーナとタイムが力を合わせて運んでいた。ポリーナは世紀の一番になったと興奮を隠し切れず、対照的にタイムは今にも死にそうな体で頭痛を堪える様にして進んでいる。
一方のティーは無表情にもかかわらず、一目で激怒しているのが理解できる圧倒的な威圧感を発生させながら無言でパフの首根っこを掴んで有無を言わせずに引きずっていた。パックが気絶から復活していない為、ひとまず宿を目指しているのである。
「あ、あの、竜子さん? そろそろ立たせて……くれ……」
「ふんッ!!!!」
そしてこの中で一番肩身の狭い兄は、激高した妹の視線を前に沈黙させられている。荷物ですらもう少し大事に扱われるだろうという手荒さで引きずられていたのだ。時よりそれを見た他のプレイヤー達が目を丸くし、声を潜めて噂し合う。
ティーはそのまま宿の一室にパフを引きずっていくと、兄に対して一切口を利かないまま弟を膝枕して看病することにした。
「うわああぁぁ!? あれ? 姉さん? ……夢?」
「パック、大丈夫だった?」
パックが目を覚ました時、そこは宿屋の一室だった。途端、彼の顔に歓喜が浮かぶ。
「良かっ! 良かっっった!! 本当に、夢で良かったッッ!!!」
「現実よパック。言い難いのだけど……」
起き上がったパックは、視線の先で気まずそうにしているタイムとトロピカルジュースを楽しむポリーナに目があった。同時に絞められた鳥のような声が漏れ出し、狼狽すると思わず姉の手を握っていた。
すっかりギャンブルがトラウマになってしまったのである。
そんな彼を守る様にティーは抱きしめると、渋々といった風情で現実を突きつける。
「大勝利よ。これ以上無い程に、ね。むしろ、あったら今度こそ殺すわ」
「えっ? ね、姉さん、今なんて……?」
彼の最愛の姉は、顔を般若に変えながら敬愛する兄を睨む。その美人ゆえの迫力に思わず聞き返していた。
その気持ちが痛い程理解できたティーは、優しく一音ずつをはっきりさせて伝える。
「勝ったのよ。ギャンブルに」
「う……嘘!? だって、だって最後は待ち望んだ黒じゃなくて……」
「いやいや待て待て。何時俺が黒に賭け…………何でもないですすいません」
抗議しようとしたパフをティーは黙殺する。彼女だって信じられないのだ。しかし、確かにポリーナから払い戻しが来ていた。そして帰り際に涙を流しながら歓喜の渦に包まれているギャンブラーたちにも、きっちりと返している。
「0よ」
「……はい?」
「だから、0。最後に兄公が0に賭けたの。そして、ルーレットも0だったわ。1目賭けは倍率36倍で、元の金額が300,000Lだから……」
即座に出せないその金額。これ以上に無い程興奮して、満面の笑みを浮かべたポリーナから受け取ったその金額。ティーも大きすぎて即座に計算が正しいか分からなかったその金額。
パックは信じられない物を見るかのような表情で、子供のように両手を使って数えていた。
「………………10,800,000? 1千……80万……りーふ?」
「そう。10,800,000L。何とか当初の目的を達成できたわね。二度とやらないでしょうけど」
ティーは念押ししながら、その言葉をパフにすり込むように頭をぐりぐりと締めていた。あまりの金額の大きさにパックは都合3度も数え直し、結論に達していた。
「1千80万円……。これで、素早丸買える?」
「正確には、1千60万Lよ。お金を一部返したからね」
「……待って! 待って待って待って! そんな、都合の良い事ありえないよ!? え、何それ? 神様、実在したの? そうか! バターは日頃の行いが良いから!」
「落ち着きなさい」
姉の咎める様な視線を受けて、ようやくパックは足が地についていた。そして、それ以上に気まずそうなタイムと目が合い、直ぐに逸らされる。
「イカサマに決まってるでしょ」
「…………はい?」
そう。全てはポリーナとパフの掌の上だったのである。それに気付かずまんまと醜態を晒したティーは激怒し、文字通り素手で人を殺せる女の殺気を浴びせられたパフは謝りっぱなしだったのだ。
「ハァハァ。つまり、それは、こういう事なのですよ!」
それこそ男を骨抜きにしそうな蕩ける笑みを浮かべたポリーナが自信満々に説明しだし、タイムに頭をはたかれるところから始まる。
“Polina”は元々、某国の世界最大級のカジノでディーラーを務めていた。彼女は一日ずっとルーレットを回す生活をしている。一日に何回、何十回、何百回と、それをひたすら繰り返す日々。
「そうなるとですね……自然とルーレットの出目をある程度制御できるようになるのです!」
「だから、最初に俺は訊いたんだよ。“お前ディーラーだろ?”“ゲームのルーレットは出目を選べるのか?”って」
「ハァハァ! そして、私は答えたんです! “むしろやり易いです”ってね!」
パックは開いた口が広がらなかった。既に説明を受けていたらしく、ティーは腕を組んだまま椅子に座って黙り込んでいる。同様にタイムがややイラついているのは、彼も知らされていなかったからであろう。
現実のルーレットはゲームよりもずっと複雑で、ディーラーですらも出目を完全に制御することはできない。が、彼女は気付いたのだ。このゲームのルーレットの挙動はとても素直であり、かつ出目が完全にランダムなわけでもないことに。
つまり、同じタイミングで同じ勢いで球を転がすと、同じポケットに収まるのである。不正防止の為、ルーレットは外部からの影響を完全にシャットアウトするからだ。
「そして! 話は進んだのです! “借金がお勧めです!”と!」
「で、俺も“それで良い”って言って話が進んだわけだ」
そしてパックは開いた口が塞がらぬまま、今度は目を見開く結果になる。彼はそっぽを向いた姉の代わりに、おそるおそるそれを口にしていた。
「兄さん……最初から全部分かってたの?」
「当たり前だろ? というか、俺たちは金を集めに来たのであって、遊びに来たんじゃない。カジノに来た理由は簡単で、金を借りに来たんだよ」
ルーレットの期待値は基本的にマイナスである。客の一人一人が大勝ちすることはあっても、カジノ全体で見れば客側の負けなのだ。言い変えればカジノ側にはたくさんの金が集まるわけであり、大金を貸してくれる見込みがある。
だからパフはポリーナの所に来たのだ。
「兄さん……信じてたッ!!」
「ああ弟よ! よしよし、もう大丈夫だぞ……!」
感極まったパックは思わずパフに縋りつき、兄はそれを優しく受け止める。妹と違って弟は鉄拳を飛ばしたりしないのだ。
そこでタイムのジト目を無視したポリーナが立ち上がり、興奮をそのままに自身の計画を打ち明けていく。
「私としても協力は吝かではないのですっ! 私達だって、まだ死にたくないですしね!」
「僕たちはカジノを利用して、プレイヤー間の金銭を再分配していたんだ」
そして、それこそタイムが生粋の賭博者であるポリーナに協力している訳なのである。
“境界の海”攻略に当たっては、船の購入や改造等で多額の現金が必要となる。しかし通常のプレイならともかく、既に攻略のタイムリミットは迫っておりどうしても速く金を集める必要性が生まれた。ポリーナたちはそこに目を付けたのだ。
「お金は少額が分散していても意味は無い。誰かがそれを一カ所に纏めて、再分配する必要がある。だから攻略の見込みのないプレイヤーから巻き上げた資金を、見込みのあるプレイヤーに渡していたんだよ。ルーレットを通じてね」
もはやパックにはタイムの言葉が何が何だかさっぱりわからなかった。意味は分かるのだが、ただのルーレットに秘められた奥深い謀にただただ感心するばかりである。
そこで興奮して虚空に向けてハァハァしていたポリーナが話の主導権を取り戻す。
「ところが、一つ問題が立ち上がりました。ガロウを筆頭とした、早漏の馬鹿が予想以上に多かったのです。攻略の為に命がかかっているのは分かりますが、たった3回ルーレットが偏っただけで詰め寄るので迷惑してたんですよ。これだから困るんですよねー。素人さんは」
――カジノが会員制を取るのも納得ですよ!
ポリーナは憤慨しつつも、何故が潤んだ瞳でパフやパックに舐める様な視線を送っていた。外面は文句のつけようが無い彼女だが、パックには猛獣に品定めされているようで居心地が悪い。
それを誤魔化そうとパックは当然の質問をぶつけていた。
「あの、それなら銀行みたいな形をとっても良かったのでは?」
訊いて即座に失敗を確信していた。ポリーナがニタリと笑ったのだ。何処かの誰かに似ている、悪巧みをしている顔に間違いない。
「んー良い所に気付きましたね、弟君。ポイントは二つです。銀行の場合、相手の人となりが分からないという欠点があります。レベルだけで選んだらPKでしたとか、最悪ですよ。それから……もう分かってくれたと思いますが、ギャンブル程人間の本性が現れるものはありません」
ぎらついたポリーナの視線にパックは絡み取られていた。この女は何食わぬ顔でギャンブルに身を焦がす者達を観察し、その愉悦に浸っているのである。
パックの悲しみも、ティーの義憤も、全てこの女の興奮を盛り立てるためのスパイスでしかないのだ。
「これは……近年稀に見る大感動劇でした! ハァハァ! 大好きな兄が道を間違えた時は、殴ってでも糺そうとする姉ちゃんの強さ! ハァハァ! 兄の失敗を見て、非難するよりも我がことのように反省し謝罪する弟君の素直さ! ハァハァ! エェェェェクセッレントッッッ!!! たまらないわ! ハァハァ! 私これが見たくてこの商売やってんですよハァハァ! 最高のご褒美で……うっ! ふぅ……」
この場に居る誰もが、限度を超えた醜態を見せつけながら興奮するポリーナにドン引きしていた。パフですら彼女に視線を合わせることはできなかった。
ポリーナ。その本性は悪党にして変態である。いつの間にかティーは教育上宜しくない女を、パックの視界を閉ざすことで対応していた。
体を抱き締める様にして恍惚とした表情を浮かべる変態を尻目に、タイムが話を戻す。組んでいるだけあって彼のスルースキルは半端ではないのだ。
「ま、まぁ。とにかく助かったよ。これでナーガホームは当初の目的を達成できたんだろ? こっちとしても、今回の一件は最高の宣伝になったよ」
パフとポリーナの共演は、結果的にWin-Winの関係を構築している。ナーガホームは稼いだ金をもって素早丸を購入して攻略に資する。カジノ側はガロウの撒いた悪評を払拭し、更に一瞬で1千万を超える金額が出たと積極的に宣伝するのだ。そうすることでカジノの客を増やし、プレイヤー間の現金の再分配を促進する。
それとは別にポリーナはギャンブルの魔力で人間を絡めとり、現実世界でもカジノに招こうと画策している。彼女からすれば“フェアリーテイル・アドベンチャー”は所詮ゲームであり、真に重要なのはリアルマネーの方なのだ。
「と言うわけなのです。ナーガホームの方々には花丸をあげましょう。是非是非、リアルの方にも来てくださいね! 後で名刺渡しますからね! ハァハァ! なんだったら、身体のルーレットもつけちゃいますよ!?」
「ポリーナ! ハウスッ!」
すっきりした表情が再び興奮と愉悦に染まり始めた所で、タイムが躊躇なく場を締めに入っていた。彼は彼で護衛の他に来店者の名簿作りや宣伝メールの送付等、仕事があるのである。今日が最後のかき入れ時なのだ。
かくして、長家3兄姉弟の大冒険は終わっていた。
再び“夜の遊園地”に戻る道すがら、パックは気付いたことを兄に尋ねていた。
「ねぇ兄さん。もしポリーナが最後のルーレットを外してたらどうするつもりだったの?」
「……あぁ。それなら大丈夫。あの女はそれまでの6回を全部的中させてたからな」
そもそも、椅子に座ったパフはポリーナから次のポケットを教えられていたのである。具体的には……脚だった。彼の右足を1の位、左足を10の位として、ポリーナは事前に蹴って伝えていたのである。
テーブルと椅子に阻まれた上に、皆ルーレット盤に集中していたので気付かなかったのだ。また万が一にも失敗した場合、彼は周囲の空気を利用して土下座することで、借金するつもりだったのである。
「それにスキップかけて見てたから、出目を狙ってるのも直ぐに分かったしね」
「……兄公。まさか……」
そう。パフは意味もなくペンギンスーツを着込んだわけではない。スキップを唱えた場合、エフェクトが発生する。しかし分厚い着ぐるみはそれを押し隠し、最後まで椅子から動かなかった彼は残像のエフェクトも発生させていない。
「俺が意味もなく“ペンギンマン!”とか遊ぶわけないだろ?」
「「…………そ、そう」」
「そこは否定してくれよ!?」
もちろん、嘴の中の彼にはばっちりエフェクトが発生している。それをポリーナは見逃していたのだ。
一行はそこで転移門に辿り着いたので、バターたちに連絡を取ってからベガに戻る。再びのネオンも、港町の健康的な明るさとは違って目を細めるほどではない。
パックはこの数時間でとても成長したような気がしていた。その成長を感じ取ったパフは気が付けば笑みを浮かべる。
「終わり良ければ、全て良し!」
その兄弟の微笑みに、ティーもまたつられて笑顔になっていた。見れば遠くからアメリアの呼ぶ声が聞こえている。やることは一つしか残されていない。
「「お前が言うなッ!」」
姉の正拳と弟の蹴りが兄を捉えていた。
「What’s!? 何やってるです!? 喧嘩良くないです!」
「大丈夫よアメリア。だって兄公は蹴られて喜んでたんですもの」
「My!?」
それをやってきたアメリアは、複雑そうな顔で聞きとどける。




