外伝 パックこと長家辰也に関する一考察
ある春の雨の日の事。お休みなのを良い事に、後のプレイヤー名“パック”こと長家辰也は、ゆっくりと惰眠を貪っていた。春眠暁を覚えず。その諺通りに彼が目を覚ました時は、朝と言うより午前に近い時間である。
寝癖でボサボサになった髪を無意識に撫でつけながら、辰也は手早く着替えて顔を洗って、リビングへと向かっていた。なにやら彼の兄と姉が話し合っているらしく、所々漏れ聞こえている。
「おはよう、弟」
「おはよう、シン」
彼が来た時、居間は色々な物で混ざり合っていた。兄がかけているクラシックの名曲。窓の外に降り注ぐ雨の音。2人が飲んでいる紅茶の香り。辰也には慣れた、長家家の空気である。
「ふぁーあ。おはよう兄さん、姉さん」
彼が欠伸をする頃には、兄姉は動き出している。竜子が彼の分の朝食を用意する為に台所に向かい、龍樹は辰也用の紅茶を淹れるために瞬間湯沸かし器のスイッチを入れていた。
「あ! 姉さん、あれ飲みたい! 特製ココア!」
「分かったわ」
辰也は長家家の末っ子で、親代わりの兄姉の愛情を一身に受けて育っている。その結果、兄姉よりも危機感の少ない環境で育ったがゆえに抜けている所があるのだ。もっとも、それに関しては兄姉の望むところでもあり、特に気にはしていない。
竜子がサラダを用意する音が響く中、辰也は兄の入れたかぐわしい紅茶を無造作に口に運ぶ。龍樹の趣味全開のそれはそれなりに値が張る代物なのだが、辰也にそんなことは分からない。
「ねぇ、兄さん。さっきは何を話してたの?」
「ん? あぁ。ちょっと、竜子が世話になったみたいで、お礼参りに行こうかと……」
「殴り込み!? 良いよ行くよ! 相手は誰!? また姉さんに変な男が!?」
辰也は危うく紅茶を吹き出しそうになっていた。淹れたて熱々の為、少ししか口に含まなかったのが幸いしてどうにか我慢しきる。
実際この兄弟は以前に竜子のストーカーに対し、愉快な三者面談を強いた末散々に言い負かして諦めさせた経歴があるのだ。
龍樹に至ってはコネを最大限活用して探偵を雇い、ストーカーの個人情報はおろか直近1週間の行動を全て把握して書類化している。
彼は、怒らせると怖いのだ。それを辰也は身をもって学んでいた。そんな兄が呑気に紅茶を嗜んでいるあたり、今回はそれほど深刻ではないのかもしれない。
辰也がそう思った所で龍樹は静かに窓の外を指さした。
「実は、サヤちゃんなんだ……」
「……!? サヤ姉さんッ!?」
今度こそ辰也はむせた。まさかの展開に動悸が激しくなり、彼の頭は混乱の極みである。紅茶どころの騒ぎではない。
「姉さああん!? いくら男運が無いからって、女性には手を出さないでええええッ!?」
「……馬鹿弟、そこに直りなさい」
慌てた辰也は姉に詰め寄り、何時も通り手加減された正拳を鳩尾に食らって崩れ落ちる。
「あ、お礼参りって、そのまんまの意味な」
「兄さん! 先にそれを言ってよぉ!?」
3人が揃ったことで、長家家は日常の風景を取り戻していた。
「初恋の話?」
「そうそう。恋と愛の話」
辰也は食事を越えて姉特製のココアを満足げに堪能している所であった。そして、地雷を踏んだことに内心で冷や汗をかき始めている。
なにしろ彼の初恋は現在まで継続中なのである。気恥ずかしさもあって、兄姉にも言っていない秘中の秘なのだ。
「そ、そうなんだ。僕はあんまり役に立てないかも」
「そうね。貴方の場合現在進行形だしね」
しっかり姉にはばれていたが。目を剥いた辰也は肝を冷やすあまり、思わず目を逸らしていた。この姉は肝心なところで人を見る目は持ち合わせているのだ。それこそ、龍樹が驚くほどに。
当然家族としての付き合いも長く、ある意味当たり前の結果である。
辰也の初恋は、麗しの憧れの相手なのだ。それはチョコレートのように甘い思い出である。
――こんにちは、シン君! リューはいる?
彼女は大体いつも、そんな言葉で長家家に遊びに来るのである。時には呼び方が“リュー”の代わりに“あいつ”だったり“あんにゃろう”だったりしたのだが、初恋補正のかかった彼の記憶には綺麗な思い出として保存されている。
長野紗耶香。姉の親友にして腐れ縁の相手である。
辰也はその馴れ初めを聞いている。なんでも勝気な性格が災いしてイジメのターゲットになっていた紗耶香を、竜子が颯爽と救い出したのだとか。それを聞いた時の辰也は悔しかった。できれば彼女を自分の手で地獄から救い出したかったのだ。
もっとも、竜子が紗耶香と出会った時には、辰也はまだ紗耶香と出会ってもいない。恋は盲目で、そんな事にも気付いていないのだ。
それくらい、紗耶香の容姿は辰也の心に焼き付いて離れないのである。何時から好きになったのかも分からない。気がつけば好きで好きで、どうしようもないくらい好きだった。
それを自覚したのは、彼が小学生の時である。
玄関のチャイムに気付いて扉を開けた辰也を待っていたのは、普段とは打って変わってがちがちに緊張した紗耶香であった。だが、様子がおかしい。
普段の彼女なら特に気にせず家に上がって竜子の部屋まで行くのだが、今日は何故かしおらしく、もじもじと制服のスカートの裾を指で忙しなく弄っている。見れば彼女は登下校に使うカバンまで持ち合わせており、辰也はその姿に首を傾げざるを得なかった。
なにしろ紗耶香ときたら、竜子の在宅を確認した癖に、まるで彼女がいないことを望むようにふるまっているのだ。
辰也がよくよく見れば、紗耶香の頬は赤らんでいるように見えた。
ここまで来れば鈍感な辰也にだって分かる。そう、今日はバレンタインだ。つまり、そういう事なのだろう。
思わず跳ね上がる心臓をひた隠しながら、辰也は姉の不在を告げていた。それに紗耶香はとても嬉しそうに残念がって見せたのである。彼女はパタリと玄関の扉を閉めると、辰也にもチョコレートをくれた。
手作りのそれは、丸いチョコをオレンジ色の和紙で包んで紐で括り、リボンを巻いたものである。だが辰也にはそんなことは関係ない。貰うのが例え安物でも、同じように飛び跳ねただろう。
跳ね上がる鼓動。綻ぶ口元。荒い息。この時の全身で感じた喜びを、辰也は今でも覚えている。チョコレートのように甘い思い出である。
だが、チョコレートとは本来とても苦い物なのだ。砂糖を入れているからこそ濃厚な甘みがあるのである。
「何だよそれっ!? 姉さんにそんなことするなんて!」
辰也は姉の事情を聞いて憤慨していた。彼の感じる所では、姉が一方的に振り回されているだけなのである。彼からすればフラれた男もフラれた女も、ただのピエロでしかない。だからこそ、無関係な姉を中傷する言葉に心から憤りを感じていたのだ。
「落ち着いてシン、私は気にしてないわ」
「でも!?」
なら何故そんなことを相談しているのか。辰也はそこまで口にしそうになったところで、兄が小さく指を振ったことに気付いて止まっていた。あくまで姉の問題であり、大事なのは彼女の気持ちなのだ。
龍樹は静かにティーカップを傾ける。
「人間は、自分で思っているほど周囲から関心を持たれていない。そいつらは自分達が世界の中心だと思って踊っていたようだが、現実は違った。それだけの話だろ?」
「……そうね」
龍樹はすっかり相手に対して興味を失っていた。彼の予測では、勝手に盛り上がっていた2人は遠からず元の鞘に収まる。2人の酔いしれる架空世界は、結局のところ2人の間でしか共有されない。世界に男と女が1人ずつしかいないのであれば、結ばれるのは自明の理である。
そして、竜子の脅威になる可能性も低い。
彼の興味は妹の心のケアに移行しているのだ。
「……愛と正しさ。私はあの時正しさを選んだ。それに後悔は無いわ。でも……」
竜子は迷いながらも、一応の結論を得ていた。それは正しさである。ただ、それは万人に当てはまることではない。
これが龍樹なら愛も正しさも、家族の前では等しく放り捨てられる程度の物である。彼は家族の為なら、愛を囁けなかろうが、檻に繋がれようが気にしない。
竜子は不安だったのだ。彼女は兄のように冷徹なほどの強さを持てないのである。彼女の瞳には迷いが残り、それを誤魔化すように辰也に尋ねていた。
「シン、貴方ならどう? どちらを選ぶ?」
「僕は…………」
答えは決めていた。彼の手元にあるのは特性ココア。ココアにチョコを混ぜ込んだ、甘さ湧き立つホットチョコレートなのである。
彼は兄姉と違って酷い失恋は経験していない。彼の恋は現在も継続中で、同時にとてつもない難所にあるのだ。
辰也は廊下でそれを、死の瀬戸際のような顔で見ていた。見ることしかできなかった。
こそこそと気配を隠した彼の視線の先では、龍樹が来客用にお茶を淹れている。そして、紗耶香はその彼に向けて真っ赤になって体を緊張で振るわせながら、チョコレートを渡していたのだ。
弟分である辰也への物とは違う、ハート形で赤色にラッピングされた、本気のチョコだった。見る影もなく緊張した紗耶香が、それでも必死で龍樹に普段のお礼と感謝をチョコに添えている。
辰也はその内容を良く覚えていない。その衝撃的な光景に、それどころではなかった。彼はふらふらと廊下に倒れ込むと、真っ青になってうなだれてしまう。
死刑宣告でも聞いてるかのように心臓が泣き叫び、されど全身を襲う脱力感のせいで一歩も動くことができなかったのだ。速く逃げだして、部屋にでも閉じこもりたかった。だが現実は残酷で、彼に逃げることを許さない。
辰也にとっては幸運にも、そして紗耶香にとっては不運にも、その結末は当たり障りのない物になっていた。
紗耶香は初めての告白に緊張で頭が全く働かなくなり、普段の強気をすっかり失っていたのである。それどころか、彼女自身何を言ってるのか分からなくなるほど、支離滅裂になっていた。
愛を告げたいけれど、失敗はしたくない。
その矛盾した感情が彼女の中で荒れ狂い、結局最後まで感謝は言えれど肝心の言葉を言うことはなかった。
龍樹がそれを察して、少しずつ彼女の言動を誘導したのである。当時の龍樹は16歳で、対する紗耶香は13歳。彼は上手く話を纏め、彼女の初恋を綺麗な形で実らずに終わらせたのだ。
変に紗耶香との関係が拗れれば、それは彼の愛する妹や弟にも影響を与えかねない。
そのそつのない対応に、辰也は歯軋りしながら兄へと視線を送っていた。その瞳には激しい情念が渦巻いている。彼が生まれて初めて兄に向けた、強烈な嫉妬である。あまりに強すぎる感情に彼自身狼狽し、そこで初めて自身の初恋に気付いたのである。
この時から彼が龍樹や竜子へ向ける親愛と、紗耶香へ向ける愛は明確に区分されるようになったのだ。
その日、辰也は頭を悩ませた。誰よりも頼れる兄は、何よりも高い壁となって彼の前に立ち塞がったのである。
だが、直ぐにその答えは出す必要が無くなる。その後の紗耶香との関係は何も変わらなかったし、龍樹との関係も変わらなかった。それはとても居心地の良い時間であり、彼はついにそれを投げ出したのである。
彼の噛んだチョコレートは恐ろしいほど苦く、それでも結局はチョコレート。優しい甘みが口一杯に広がって、彼を虜にしていた。
「僕は、僕には分からない。……まだ。それじゃ、駄目かな……?」
辰也は結局、愛を選ぶことはできなかった。愛と断言するには、兄姉の優しさは強すぎたのである。その正直な言葉を、龍樹は優しく微笑みながら聞いていた。
「それで良いと思うぞ?」
「え?」
「別に“一番”を無理に決める必要も無いだろ? 例えるなら洋食と和食を比べてるようなもので、無理に決める必要はない。“両方大事”も立派な答えだ」
辰也は拍子抜けしていた。言われてみればその通りだったのだ。愛と正しさなんて比べる物でもないし、無理に比べるにしたって状況にもよるだろう。
答えなんてない。それもまた一つの形なのだ。
「――だから兄公……兄さんは強いのね」
そのやり取りを見て、竜子は納得していた。彼女は空手を嗜んでおり、実際喧嘩になれば兄弟が束になっても叶わない。にもかかわらず、彼女は龍樹相手に勝てる気がしなかった。
それは、これによるのだ。
「本来決められない物すら決めてしまうほどの強い意思。それが、兄さんの……」
「……何を大袈裟な。それを言うなら、お前だって土壇場で私情に流されず正しい道を選ぶ強さがあるじゃないか」
唐突な褒め言葉に、龍樹は背中がむず痒くなっていた。思えばその日は朝からずっと黒い雲に覆われ、夜中かと見紛うばかりの天気である。天気が暗いと話まで暗くなるようだ。
「良し! こうなれば今日はパーティーだ! 俺が奢るから、何か食べに行こうぜ!」
突如立ち上がった長家家の大黒柱の言葉に、妹と弟は思わず上を向いていた。長家家は決して裕福ではなく、外食どころか出前を頼む事すら少ない。
その貴重な機会には、嫌が応にも盛り上りを見せる。
「偶には贅沢も、良いわね」
「それでこそ! 流石兄さんだっ!」
「良しっ! 2人とも俺について来い!」
話はこれで終了である。3人は笑いながら何を食べようかを相談していく。その過程で、同じように雨に予定を潰された紗耶香が遊びに来て、結局4人で食事と洒落込んだのだ。
他愛無い、長家家の一日である。
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