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外伝 パフこと長家龍樹に関する一考察

ストックが底をついてしまいましたので、次回投稿は遅れます。ある程度溜まったら、再び毎日更新に戻る予定です。

詳細は活動報告にて。

 ある春の日の事。その日はせっかくの休日にもかかわらず、朝から黒い雲の下に雨が絶え間なく降り続けていた。その為、後のプレイヤー名“パフ”こと長家龍樹(ながいえたつき)も、のんびりと窓の外に降り注ぐ五月雨を眺めるしかない。彼が鳴らしているクラシック、ガブリエル・フォーレ作のシシリエンヌもその緩慢さを後押ししていた。


 長家家は築30年は経とうかという狭いアパートで、彼の正面のテーブルは3人で使うのがやっとの大きさである。古ぼけた蛍光灯は点灯していない。部屋は朝にもかかわらず、中途半端に薄暗かった。


 彼はお気に入りの茶葉をブレンドした紅茶を淹れる所であった。正面には妹である長家竜子が同じように椅子に座って、静かに読書に勤しんでいる。


 ――タイトルは「初恋」。ロシアの文豪が残した、苦く美しい文章であった。


 それを読む妹の顔も、同様に苦い。ただ、そのすらっとした鼻が香りに誘われてすんすんと小さく動いた。


 「兄公。私にも」

 「……最初から2人分だよ」


 苦笑した彼の手によって2つの使い古されたマグカップに琥珀色の液体が満たされていき、静かに波打った。


 「初恋……ね。お前らしくないじゃないか? 少なくとも、ヒロインのジナイーダとは似ても似つかないぞ。男は寄ってくるがな」

 「私は自分を慕う男を虐めたりはしないわ。怖いお兄さんに目を付けられる前に、お断りするもの……」


 揶揄するような兄の声に、妹は顔色を変えず、ただジト目を向けるだけで抗議していた。


 「ただ、私も初恋を乗り越えて、少しだけ変わった気がするの……。何て言うか、世の中は物語のように甘くないってことが分かったっていうか……。兄さんはどうだった?」


 竜子は珍しい事に、感傷的な気分に浸っていたのだ。龍樹は内心で訝しみながらも、自身の初恋に思いを寄せていた。




 それは、小学校の時の話である。龍樹は11歳で、この時はまだ彼らの両親も健在であった。龍樹の初恋の相手は、転校してきた少女である。


 彼女は明らかに他の子とは格が違った。子供ながらに発育の良い体はクラスで一番の背丈を誇り、腰まで届く黒髪が事あるごとに中空を揺蕩うのだ。少年だった龍樹はついついその跳ねる黒髪を目で追ってしまい、気が付けば彼女の美しい顔立ちに夢中になっていた。


 色素の薄い透き通るような肌に、掘りの深いエキゾチックな顔立ち。そしてなにより目立つのは、灰色の瞳だった。


 彼女は、外国人とのハーフだったのだ。


 クラスの彼女への対応は割れた。異質なものを排除しようとする無邪気な害意と、美しきものに惹き寄せられる幼い憧れ。龍樹は後者だった。


 その鮮烈な初恋は、当然のように火がついていた。激化する二つの反応も、彼の心を駆り立てていく。彼女を守ろうとする男たちは、龍樹にとって仲間でありライバルでもあった。


 毎日のように彼女は誰かしらから恋の告白を受け、その度に龍樹は胸を締め付けられる思いに歯を食いしばって耐えることしかできなかった。


 彼には秘策があったのだ。




 「お前も知ってるだろ? 俺の事は」

 「えぇ。でも、その時の気持ちまでは分からないもの……」


 ――だからって、それを直接訊くか。


 龍樹は妹の反応に苦笑して、意味もなくマグカップの水面に漣を立てていた。だが、彼に断る術は無い。妹の突然の行動は、何時だって理由があるのだ。彼は既に幾つか検討を付けている。




 既に攻勢に出る準備は整っていた。方々に手を回し、時には恥を忍んで懇願し、小学生だった龍樹は彼女のことを探っていたのだ。


 彼女の生まれ、彼女の好きな食べ物、彼女の好きな色、彼女の好きな場所。拙いながらも集めた情報を元に、次の段階に移行したのである。


 すなわち、告白だった。


 既に戦況は総力戦である。彼の仲間たちは玉砕を経て、少しずつその数を減らしていた。その分彼女を守る壁は薄くなり――つまり、ますます活躍の場が増えたのである。


 彼は内心をひた隠しにしてアピールを続けつつ、着々と武器を用意していた。


 それは、英語である。彼の恋する彼女は、スコットランド人とのハーフであった。そこに目を付けた龍樹は、他の男との違いを出すべく英語を徹底的に学んだのである。全ては胸に燻り続ける気持ちを、彼女の母国の言葉で語るために。


 小学生の柔らかい頭脳は、驚くほどのペースで英語を吸収していった。最低限の文法と単語しか分からなかったが、発音と聞き取りに関しては完ぺきだった。それこそ、両親に頼んで通わせてもらった英会話スクールの外国人講師が、舌を巻くほどである。


 龍樹の努力はそれにとどまらない。当時8歳だった妹の竜子と、5歳だった弟の辰也にも、告白の文面の添削をお願いしたのだ。流石に幼稚園児は大して役に立たなかったものの、8歳とはいえ既にしっかりと女の子していた妹の意見は貴重だった。


 それを味方につけた英会話の講師陣に添削をお願いし、そしてまた自身の荒ぶる思いを率直に書き直していた。


 そんな年に似合わない彼の全身全霊を賭した告白は、ついに実施された。


 その日は曇りであったが、それを除けば最高のコンディションであった。暑すぎず寒すぎず、なにより彼女の誕生日だったのである。


 放課後に彼女を空き教室に呼び出した龍樹は、準備のために仮病を使って休んでもらった妹から花束を受け取ると、静かに目を閉じて待っていた。妹が隠れて見守る中、彼の心臓は爆発しそうなほど跳ね回り、緊張で思わず叫び出したい衝動に駆られていた。


 やがて、リノリウムの廊下を歩く彼女の足音が聞こえ始める。それが龍樹には処刑人の行進のように聞こえてしまい、瞬く間に後悔が溢れ出す。


 ――もっとしっかり準備をするべきだったかッ!? いや、これ以上は待てない……。でも、もっとお近づきになってからでもッ!? いやいやいや、既に残る仲間は俺から見ても優秀なやつばかりだ。これ以上は危険だ……。あぁ!? でもせめてLの発音はもう少し綺麗にするべきだったんじゃないかッ!? LOVE、LIFE、LASTING、こんなにもたくさんの単語があるッ!


 期待と、それを遥かに上回る後悔に苛まれた龍樹は、それでもしっかりと逃げずに立ち向かう。


 そして、彼を見守る妹の前で、一世一代の告白が始まったのである。




 「恋ね……。ま、初恋は酸っぱいって言うし、そんな感じ?」

 「兄公、どうせなら、もっと参考になる嘘を言ってよ……」


 適当に誤魔化そうとした兄の目論見を、妹はあっさりと見破っていた。既に文庫本はテーブルの上に置かれ、代わりにマグカップを持っている。彼女の美しいサーモン色の唇が僅かに開き、紅茶を味わった。暖かな液体は舌先で確かめる様に撹拌され、味覚を良く楽しませてから喉奥に流れ込んでいく。


 「結末は知ってるわ。だから、恥ずかしがること無いじゃない」

 「……分かった分かった。そんなに聞きたいなら教えてやるさ」


 龍樹が思うに、今回の竜子は重傷だった。大方振った男に心無い言葉で中傷されたのであろう。無視すれば良いのに、律儀な彼女は一々真に受けるのだ。


 竜子に愛想は無い。しかし、その本心までもがそうとは限らないのだ。


 妹への慰めに、龍樹は話の続きを進めていた。




 迫真の演技だった。それは間違いない。少なくとも、隠れて応援していた竜子はそれを確信している。


 練りに練られた言葉群は、美しくも散文詩的になりつつあった。しかしながら要所では驚くほど真っ正直に、彼の心の内奥の恋の言葉を綴っていたのだ。


 動作も完ぺきだった。大袈裟になりすぎず、かといって確かに告白を盛り立てる名演である。


 全体評としては、竜子をして、こんな風に告白されたいと思ってしまうほど見事な物だった。龍樹は、僅か30秒の名演のフィナーレを、差し出した花束に込めていた。


 万感を込めたバラの花束。6本の深紅のバラを中心に仕立て上げられた花束を見た彼女は、


 ――心の底から嫌そうな顔をしていた。


 その反応に龍樹は動揺を隠し切れず、頭の中が真っ白になってしまう。そして、その後の事はよく覚えていない。彼女は龍樹に一言も声をかけず、花束も受け取らず、ただ時間を無駄にしたと言わんばかりに立ち去って行ったのだ。




 「後から分かったことなんだがな。彼女、ハーフだけど生まれも育ちも日本なんだよ。お陰で英語なんてさっぱり喋れない。にもかかわらず、周りから外国人扱いされて、嫌気が差してたんだ……」

 「………………」

 「嫌いだったんだ。英語。彼女は本当は日本人に生まれたかったんだ。同じ肌に同じ瞳で、同じ太陽の下を同じように生きたかったんだ。だから、英語を選んだのは最悪の選択肢だった……」


 龍樹は何でもないように語りつつも、気が付けば細められたその目は竜子から逃げる様に雨粒に注がれていた。そこに込められた感情を、竜子は汲み取ることはできない。


 兄はいつだって、深い気持ちの表出を笑みの元に隠してしまうのだ。


 この兄妹は、とても良く似ていた。愛想の良い兄と、愛想の悪い妹。しかしどちらもその根っこの所では、感情が溢れている。


 気が付けば兄妹は紅茶を飲み終えていた。龍樹が静かに2杯目を注ぎ、今度はミルクと砂糖を用意する。その間、竜子は静かに考えを纏めていた。


 そして、再び口を開く。


 「兄さんにとって、愛って何?」


 その隠すことのない真っ正直な言葉に、龍樹は瞳を閉じて紅茶の香りを楽しんだ。鼻孔をくすぐるのは、ミルクの香りの混ざった優しい匂い。


 答えは直ぐにでた。龍樹にとって、そんなことは明白なのだから。


 「知らん。……いや、分からん。俺が知ってるのは儚い恋と、異性への関心のブレンドだけだ。……そう、ちょうど、このミルクティーのような。男女間の愛を聞きたいのなら、相手を間違えてる」

 「…………」

 「……俺にとっての愛とは、家族に向けるものだ。愛する妹と弟の為ならば、他のあらゆるものを躊躇なく投げ捨てられる。この気持ちこそが……愛、だろうな」


 龍樹の偽りない本音だった。彼らの両親が死んだ時、一番年上だった龍樹でさえ高校生だったのである。


 ――長家家に残された保険金を啜りたい、さりとて兄妹弟の面倒など見たくも無い。さて、どうするか……


 初恋の苦い経験を機に、龍樹は相手の気持ちに驚くほど鋭くなっていた。そしてそんな聡明な彼だからこそ、親戚の仮面の下の本心を正確に理解していたのだ。


 彼の妹と弟を守るための戦いは、その日からずっと続いている。そして、これからも続くのであろう。


 ある時は美しき妹を下種な男から守るために。ある時は純真な弟を誘惑から守るために。


 「……悪いな。あまり参考にならなかっただろう? 辰也を起こして訊いてみたらどうだ?」

 「結構よ」


 長家家の末っ子は、休みなのを良い事に布団の中から出る気配すら見せない。兄姉の努力もあって、彼だけは厳しい現実を知らずに普通の人生を満喫しているのだ。


 「そうか? 案外アイツも大概な恋愛を……」

 「この間、部屋を掃除してたらエロ本見つけたの。ひとまずジャンル別に整理しといたけど……」

 「そういう意味か!?」


 不器用な姉の思いやりは、微妙に届いていなかった。真顔の竜子に、龍樹は思わず紅茶が噎せ返りそうな勢いで突っ込みを入れる。


 深い同情のあまり、思わず額に手を当てていた。


 「行為のジャンルよりは、胸の大きさで整理するべきだったかしら……?」

 「そこじゃねえよ!? ……そっとしておいてあげなさい」

 「……!? そうね、その通りだわ! きっと、無秩序に見えて使いやすい順だったのね!」

 「どうしてそうなる!?」


 兄の悩みは深い。


 不器用な妹は自分の気持ちを把握しきれない傾向があるのだ。それを正確に理解している兄は溜息を一つつくと、話の本題に戻っていた。


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