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奈落の女王  作者: なりちかてる
2/17

―01―

 校門へと続く歩道を歩いていた理香はまぶしさに、顔の前に手をかざした。日の光をさえぎる。

 街路樹がとぎれ、頭上に真夏の空が広がっていた。太陽をさけて、理香は反対側の空を見上げた。

 このところ、星空ばっかり眺めているからだろうか。澄んだ空の青さが目に痛かった。その深いブルーの色を背景に、ぽつりぽつりと綿菓子をちぎったような雲が浮かんでいた。風がないからだろうか、雲はほとんど動かなかった。

 ――今日も、暑くなりそう。

 首筋のところで短くまとめた髪をかきあげながら、理香はそっと、心のなかでつぶやいた。

 と、背中にだれかがぶつかってきた。倒れそうになり、前に一歩、足を踏み出した。

「じゃまよ、そんなところにぼーっと立ってると」

 理香と同じ陵北りょうほく高校の生徒が、すぐそばを通り過ぎていった。

 理香はそっと息を吐きだすと、両手でかばんを持ち直した。校門を見る。

 ――どうも、夏は好きになれないな。

 夏服の生徒たちにまじり、理香は歩きはじめた。

 夏は海水浴や夏祭り、かき氷など、楽しいこともいっぱいあるのだけど、でもやはり夏は汗がべとつくし、夜だって寝苦しく、クーラーづけで体調を崩すことを考えると、秋や冬のほうがずっといいと理香は思った。

 校舎に入り、げた箱で靴を取りかえると、理香は手を当ててあくびをした。

 ――あー、寝不足だ。

 二日の間、理香は徹夜で夏休みの宿題を片づけようとしたのだが、全部は終わらなかった。

 ――ほんと、どうしよう。

 今日が、その宿題の締め切り日だった。提出日は始業式の日だったのだけど、特別に二十一日までのばしてもらったのだ。それなのに……。

 廊下を歩いても知らず知らず、顔がうつむいてしまう。階段を上がり、教室を目指した。

 二年A組。その開け放たれた後ろの扉から理香は教室に入ると、クラスメートたちとあいさつをかわした。

「おはよー」

「ねえ、英語の辞書、持ってきた?」

「今日、数学の小テストじゃなかったっけ。勉強してきた?」

 理香は机と机の間を歩くと、自分の席についた。かばんを開き、教科書やノート、ペンケースなどを机の上に並べる。

「おはよう」

 と、理香の机の前のいすが引かれた。可南子かなこが腰を下ろした。

「おはよう、可南子」

 可南子は、理香がもっとも親しくしている友人だ。つきあいは中学からなのでまだ四年と短いが、口げんかすらしたことがなく、親友といってもいいくらいだ。

 可南子は理香とちがって活発で、じっくり考えてから行動するというタイプではなかった。髪形は中学生の頃からずっとポニーテールで通していて、それがまた彼女によく似合っていた。

「どしたの。ずいぶんと、眠そうじゃない」

 可南子が身を乗りだして、そう聞いてきた。

「う、うん。ちょっとね」

「もしかして宿題、終わらなかったとか」

 痛いところをつかれて、理香はごまかすような笑みを浮かべた。

「よく、わかったわね。可南子にはうそつけないな」

「そりゃわかるわよ。理香が浮かない顔をしていれば、それしか考えられないじゃない」

「うん。まぁ、そう言われてみれば、そうかな」

「でも、理香ぁ。ダメじゃない。こういうのは結局、コツコツとやったほうが、後で困らないんだからサ」

 ちょっと怒ったような口調で可南子は言うと腕をのばし、理香の肩を叩いてきた。

 いきあたりばったりの可南子にそう言われると、なんだか妙な感じがするけど、その通りだった。それに、可南子はこれまで一度として夏休みや冬休みの宿題をやり忘れたことはなく、今回もきちんと始業式に提出していた。

「で、どこ? どこが終わらなかったの」

「えーとね、英語と世界史」

 可南子の表情をうかがうようにして、理香は言った。

「なんだ、私の得意分野じゃない」

「う、うん」

「提出期限って、放課後までだっけ」

「そう」

「だったらサ、手伝ってあげるよ」

「ほんと?」

 そのことばを聞いて、理香の肩が急に軽くなった。

「うん」

 と、可南子がうなずいた。「昼休み、図書室で一緒にやろうよ」

「ありがと」

「で? どうして私の得意分野に限って、宿題が残ってたの。うん?」

 探るような目つきで、可南子が理香の顔をのぞきこんできた。とっさに理香は、可南子の視線をかわした。

「あー、実は可南子が手伝ってくれるかもって、後回しにしたの」

 理香は可南子と視線をあわせるとちろっと、舌をだした。 可南子はまるで、できの悪い妹を前にしているかのようにため息をつくと、「しょうがないわね」と笑った。

 それから、可南子は急にまじめな顔をすると「ネ、知ってる」と、聞いてきた。

 可南子がそう聞いてくる時は、なにか情報を仕入れてきていると決まっていた。目の色が、さっきまでとちがっている。

「なにが?」

 それに気づかないふりをして、理香はそう訊きかえした。「転校生よ、転校生」

「転校生?」

 理香は廊下側から四列目の、一番後ろの席を見た。そこはずっと空席になっており、クラスではだれも座っていなかった。

 A組は他のクラスより生徒の数がひとり少なく、転校生が来たとしても別に不思議ではないのだけど、それが本当だとすると、なんだか意外な気がした。

「そ。しかも相手は、女子らしいわヨ」

 人差し指を立て、ちょっと得意げに可南子はいった。

「ふーん。それって、確か?」

「ええ。新聞部の人が言ってたし、さっき職員室をのぞいてみたら、トナカイと転校生らしき女の子とがしゃべってたから、まず間違いないんじゃない」

 トナカイとは、A組担任の瀬川先生のあだ名だ。では、転校生がやって来るのは、本当のことなのだろう。

「へー、相変わらずの地獄耳ね」

「ちょっと、やめてヨ。地獄耳なんて。せめて、早耳と呼んでよぉ」

 可南子は切れ長の瞳をさらに細くして言った。

 そんなことを話しているうちに、朝のホームルームが始まる時間になった。瀬川先生が教室に入ってきて、みんなに座るように言った。

「今日はみんなにひとつ、話すことがある」

 理香より左手の、前の席に座っている可南子が理香をふりかえった。ほらね、と言わんばかりにウインクしてきた。「いいぞ、入ってきなさい」

 瀬川先生がそう言うと、理香たちと同じくらいの年頃の生徒が教壇のすぐ横まで歩いてきた。

 可南子が言ったとおり、転校生は女の子だった。

 上半身が半袖のワイシャツなのは陵北高校の制服と同じだけど、返した袖口にオレンジ色のラインが入っていた。ネクタイは紺色で、茶色のベストの胸ポケットには陵北高校のものとちがうワッペンがあった。スカートは赤のチェック模様で長さはひざまでもなく、かなりのミニだった。

 背は姿勢がいいので、見た目より高く見えるのかもしれないが、それでも瀬川先生とそんなに大きな差はなかった。さらに出るところは出ているので、立っているその姿はモデルみたいだった。はっきりした顔立ちの持ち主で、全体的に気位の高そうな雰囲気を漂わせていたが、古いタイプのフレームの大きなめがねをかけているので、それが彼女の近よりがたい空気をほんの少し、やわらげるのに役をはたしていた。

 転校生が、頭をさげた。

飯岡亜弓いいおかあゆみです。よろしく、お願いします」

 鼻にかかった低い声で、転校生はいった。

 男子生徒が、口笛を吹いた。

「亜弓ちゃーん。こっちこそ、よろしくぅ」

「質問、しつもーん。亜弓ちゃんのスリーサイズは?」

「ついでに質問、その二ぃ。恋人はいますか」

「亜弓ちゃん。校内、不案内でしょ。後でいろんな場所へ連れてってあげるよ。ふたりっきりで」

「ばか野郎。てめぇなんかとふたりっきりにしたら、亜弓ちゃんの身が危ないじゃねーか」

 男子は美人の転校生が来て、よろこんでいるみたいだった。女子生徒のほうはと言うとそれに対し、複雑な表情を浮かべていた。飯岡がこれからのつきあいで、どのような存在になるか  めざわりな相手となるのか、それとも仲間にすることができるのか、見極めようとしているみたいだった。

 瀬川先生が、手を叩いた。

「はい、はい。余計なおしゃべりは、そこまでだ」

「せんせーい。自己紹介、しなくてもいいんですか」

 クラス委員をしている森下が瀬川先生に、そう訊いた。

「今は時間がない。おまえたちくらいの年頃なら自己紹介などしなくとも、打ち解けるのは早いだろう」

「その言い方は心外ですね。おれたちはもう、高校生ですよ。小学生のガキや中坊と違って、そんなに簡単にいかないですよ」

「まったく、森下。おまえは口が減らないな。では、転校生のことは、おまえに一任する。飯岡、何かわからないことがあれば、彼に聞くといい。それから、えーと、席は……」

「はぁーい。先生。ぼくのとなり、空いてますよ」

「バカタレ。西島。おまえの隣は、山本だろうが。ん? 山本はどうした」

「山本ならさっき、鼻血出して保健室に行きました」

「またか。……えーと、そうだ。席はそこの、一番後ろだ」 瀬川先生が空席を指さした。

「ちょっと後ろだが、しんぼうしてくれ。近々、席替えをする予定だから」

 飯岡ははいと返事をすると、空席のほうへ歩いていった。「では、注もーく。連絡事項一。教科の選択だが、プリントは――」

 瀬川先生はもういつもの口調になると、事務的に朝のホームルームをはじめた。理香は生徒手帳を取り出すとシャープペンシルの後ろをノックして、連絡事項を書きとめはじめた。


 ホームルームが終わると、可南子が理香のよこまでやって来た。

「彼女、どう思う」

 彼女とはもちろん、転校生の飯岡亜弓のことを言っているのだろう。飯岡は今、後ろの席で男子生徒たちに取り囲まれながら、おかしそうに笑い声をあげていた。

「どうって、別に」

「別に、か。理香らしい答えね。でも、クラスの連中はあまり、彼女のこと歓迎していないみたいだけど」

「歓迎していないって、あんなに男子に人気があるのに?」

「私がいってるのは男子じゃないわ。女子よ」

「女子?」

 理香はまわりを見渡した。そしてクラスの女子が飯岡に対して、冷たいまなざしを向けていることに気づいた。

「……なるほど」

「ま、美人やブスは性格が悪いってのは、お約束だからねェ。男子は顔さえよけりゃ、それでいいのかもしれないケド、美人ってのは取り巻きつくったり、つきあう気もないのに平気で人の恋人を奪い取ったり、虫も殺せないような顔をして裏でイジメの指図をしていたり、ホント、ろくでもないのがいるから」

 理香はまじまじと、可南子の顔を見た。

「ね、可南子。もしかして、美人となにかあったの?」「え、私?」

 可南子は理香と目をあわせて、まばたきをした。それから、急に笑いだした。

「理香ってさァ、わかりやすい性格してるねー」

 小ばかにされたようにそう言われて、理香はすこし気を悪くした。

「なによ、それ」

「だって、今の私のコトバ、そんな風に聞こえたんだって思って」

「でも、実感入ってたよ」

「ふぅん。私が昔、美人な子と、なにかやりあったって思った?」

「う、うん」

 それから、理香は「ちがうの?」と、聞き返した。

「ナイナイ、そんなこと。ただ、今のは事実を言ったまでよ」

「ほんと?」

「疑り深いなァ、理香は。私はそんなつまんないことで、無駄なエネルギーを消費したりしないわ。だいたい顔のつくりなんて、親の遺伝子と偶然の産物じゃない? そもそも、そんなのを誇りにすることが間違ってるし、あと二十年もすれば容色なんて自然と衰えて、誰も見向きもしなくなっちゃうわよ」

「そう? あたしは、きれいなほうがいいと思うけど」

 理香は彼女のよこに立つ、可南子を見上げた。突き放すような可南子の話し方は、いつものことだった。でも、理香から見て充分、美人な可南子からそんなことを聞かされると、ぜいたくな物言いのように感じられた。

「……そうね。確かに美人がトクってのは、あると思う。でも私だったら、美人ってほめられても少しもうれしくないナ。顔のことをほめられるより、もっと私の内面や実力、可能性などを見てって思うから」

「あたしは美人って言われたことないけれど、でも顔をほめられたらやっぱり、うれしいけど」

 可南子が、理香の顔をのぞきこんできた。

「だいじょうぶ。理香は美人よ」

「……なんだか、ほめられてるように聞こえないんだけど。さっき、美人は性格が悪いって言ってたし」

 可南子が吹き出した。

「そう言えば、そうだったわね。ゴメン。でも、安心して。わたしは理香が好きよ。顔じゃなく、その性格がね」

 顔じゃなく、という部分が気にはなったが、でも可南子がそんなふうな言い方をするのはいつものことだったので、理香は聞き流した。

「あと、二、三年もしてみなさい、理香。きっと、道行く誰もが振り返る美人になるから。私が保証するわ。だから、理香はもっと内面をみがくべきね。控え目なのは理香のいいところのひとつだけど、自分にもうちょっと自信を持たないと。それと――」

 可南子がいきなり、理香の両のほっぺたをつかんできた。「もうちょっと、やせないとネ。じゃないと、いくら美人になったって、誰も振り向いてくれないわよ」

 理香が可南子の手を払おうとすると、彼女はあっけなく理香のほっぺたから指を離した。理香は手の甲で、ほっぺたをなでた。

「ひっどーい。人が気にしているのに」

 理香がそういうと、可南子は微笑んだ。

「気にしてるんなら克服するよう、努力しなくちゃネ」

 可南子の言うとおりだった。でも、今まで理香はまったく、努力してこなかったのではない。何度かダイエットには挑戦しているし、体重を減らすのに成功したこともある。でも、だめなのだ。すぐにお菓子やジュースなどに手がのびてしまい、またもとの体重に戻ってしまうと、そこでやる気も失せてしまって、そのままになってしまうのだ。

 空腹に耐えられないのではない。そうではなくて、なにか心配事がある時、口を動かしているとその時だけだが、不安から逃れることができるのだ。そして、その度ごとに、ダイエットにも失敗していた。

「ええ、そうね」

 理香は可南子にそう、答えた。


 可南子が昼休みに手伝ってくれたおかげで、理香は放課後には夏休みの宿題を提出することができた。

 無事、先生に怒られることなく職員室を出ると、理香は教室でスリーウェイ・バッグを手に取った。まだ残っていたクラスメートにさよならを言うと、廊下に出た。

 今日は天文部は休みだった。ここ数日の間、宿題にかかりきりだったので、たまには天文部の仲間たちと話でもしたかったのだけど、しょうがない。明日にはふつうにクラブ活動があるので、その時にでもいろいろと話しあえばいい。

 理香はそのまま、玄関に向かうと外靴にはき替えた。校門へと続く道を歩いていった。

 理香は歩きながら、携帯電話の時間表示で現在時刻を確認した。まだ、四時前だ。

 しかし、急に暇ができて、なんとなく妙な感じだ。昨日までなら、まっすぐに家に帰ってほとんど余計なことを考えずに宿題に取りかかっていたのだけど、それが解決した今となっては特にこれといって、やることもない。

 勉強……はちょっと、気が進まなかった。今日の昼休みだって宿題を解くのにかかりきりだったし、しばらくの間、教科書は開きたくない気分だ。そうなると本屋で立ち読みでもするか、ドラッグストアで適当な友だちを見つけておしゃべりでもするか、それとも家に帰ってテレビでも見るしかないのだけど、何だか今日はどれもめんどくさく思える。

 ――ま、いいや。こんなのんびりできる日もあまりないのだから、バスにでも乗って、ゆっくり考えよう。

 理香は校門を抜けて右に折れると、歩道を歩いていった。

 日差しはお昼の頃とくらべてかなり弱まっていたが、それでもまだ、暑かった。たぶん、湿気があるからだろう。並木を吹き抜ける風は暑気を払うというよりも、肌にねっとりとからみついて、まるでぬるま湯につかっているみたいだった。額の汗をぬぐうが、その動きのひとつひとつが何だか、体温を上昇させているように思える。

 できることならこんな日は、エアコンの利いた喫茶店でアイスティーを飲みたいところなのだけど、あまりひとりで、そういう場所に出入りしたことのない理香にとっては、気がひける。可南子でもいれば助かるのだけど、彼女は新聞部に顔を出しており、誘うことはできなかった。

「理香さん」

 急に名前を呼ばれて、理香は足を止めた。ちょっとぼーっとしていた理香はびっくりして、顔を上げた。

 転校生だ。今日、担任のトナカイから紹介された転校生が、理香のほうへと近よってきた。

「あ、えーと。あなたは――」

「飯岡亜弓です。同じクラスの鈴木理香さん、ですよね」

 亜弓は薄い唇に、ほんのちょっと笑みをたたえて、そう言った。

「あ、うん。そう……だけど」

 目があったとたん、理香は彼女のまっすぐなまなざしに、視線をそらすことができなくなった。ぎこちなく、返事をする。

 理香にとって亜弓のようなタイプの女性は、苦手な部類に入る。もともと、人見知りが激しいのもそうなのだけど、亜弓のような人を圧する雰囲気を持った人物がそばにいると、何となく縮こまってしまうのだ。

「あ、あたしに、何か用?」

 理香がそう言うと、亜弓はちょっとの間、考えこむような顔をした。その表情は何だか、いたずらをしかける前の子供が笑いをこらえているみたいで、これから起こることを楽しみにしているみたいだった。

「はい。用ってほどでもないのですけど――貴方に、渡しておきたい物がありまして」

「あたしに、渡しておきたいもの……?」

 突然のことに理香はとまどい、亜弓が言ったことばをそのままに、聞き返した。

「はい。これなんですけど」

 と、亜弓はかばんといっしょに持っていた紙ぶくろを、理香に突き出してきた。

「え――これって?」

「中身を見ていただけませんか」

 言い方はていねいだけど有無を言わせない口調に、理香は黙って紙ぶくろを受けとった。中をのぞきこむ。

 瞬間。理香の手から、紙ぶくろが落ちた。中に入っていた物が足元に転がる。

「あーあ。貴方の持ち物ですのに、粗末に扱っては駄目ですわね」

 理香は目を閉ざした。呼吸が意識せずに、早くなっていくのがわかる。心臓を見えない手でぎゅっとつかまれたように、苦しい。まだ夏のただなかだというのに背中が冷たく、氷柱を当てられたみたいな寒気が走った。

 亜弓が地面にかがみこみ、地面に散乱したものを集めた。「この財布とライト、それにポテトチップやスナック菓子、ジュースは確かに、貴方のものですわよね」

「どうして……」

 唇が震えて、理香はそう言うのがやっとだった。

 亜弓が立ち上がり、メガネを外した。理香を見る。

「どうして? そんなの、決まってるじゃないか。あんたがあの空き地でこいつを落としたから、親切にも届けに来てやったんじゃないか。それ以外、何があるって言うんだい」

 亜弓がどこかで聞き覚えのある、しわがれた声で言った。

 ――そんな!

 夢だと思っていた。あの日、空き地であったことは実際に起こったことではないと。でも違った。あれは、本当にあったことなんだ。

 そう確信すると理香の脳裏に、あの時の場面がひらめいていった。

 月の光に照らされた空き地。血まみれの女性。しずくの形をした、不思議な色あいをした石。キスをされて、みるみるミイラ化としていく女性と、それとは逆に若返っていく老女。

 その老女の顔と、めがねを外した亜弓の顔が重なった。

 そうなのだ。この亜弓こそが、あの時の若返っていった老女なのだ。それ以外に、考えられない。

 亜弓が理香の背後に回った。肩に手を置かれる。そうすると、理香は魔法をかけられたみたいに、身動きできなくなった。ただ、自分の呼吸する音が他人ごとのように聞こえてきた。

「理香さん」

 亜弓が理香の耳もとに口をよせてきた。

「あんたには私がなにを求めているか、わかっているよね。だろう? 理香さん、あんたはそんなにバカじゃない。ただ私は、あの石を返してもらいたいだけなのさ。それ以外、何も望んじゃいないよ。素直に石を返してくれれば、あんたにもあんたの友達にも、何もしない。約束するよ」

 そこで亜弓は一度、ことばを切った。

「……あんただって、あの女みたいになりたくはないだろう?」

 ――!

 理香は短く、息を吸った。そうすると喉の奥で、笛のような音がちいさく鳴った。

 亜弓が理香の肩を叩いた。すると、体が自由に動くようになった。理香は跳びすさるようにして、亜弓から離れた。「あ……あの、飯岡さん」

「亜弓でいいですよ、理香さん。私も貴方のこと、名前で呼ばせてもらいますから」

 しわがれていないほうの声で、亜弓が言った。にこやかな、悪意のまったく感じられない笑顔を理香に見せる。

 とたん、しびれに似た感覚が理香の体の中心を貫いていった。空き地で亜弓をはじめて見た時よりもずっと、今の笑顔のほうが恐いと理香は思った。

 信じられなかった。人ひとりをミイラに変えてしまえるような人間が、そんな笑顔を浮かべられるとは、とても思えなかった。

 そう、自分のしていることがどんなむごたらしいことか、知らない人間でないと、あんな笑顔を浮かべられるはずがなかった。

 亜弓がまた、理香に近づいてきた。腕をのばしてくる。

 それだけのことに、理香は強い恐怖を感じた。これまで、理香は人並みに色々と恐い目にあわされてきたけれど、そのどれとも比較にならないくらいの恐怖が、この世に存在することをこの瞬間、理香は思い知らされた。頭の芯が真っ白になり、気づいた時にはもう、駆け出していた。

「近いうちに必要なんだけどね、理香さん!」

 後ろのほうから、亜弓の声が聞こえてきた。

 ――いや……うそ、うそよ!

 理香は激しく頭を振ると、歩道の上を走り続けた。


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