終章
ゆっくりと、理香は目を覚ました。意識が徐々にだが、はっきりとしてくる。
ベルの音が鳴り響いていた。枕もとを見ると、テレビ父さんの目覚まし時計が目に入った。
理香は手をのばすと、目覚まし時計のアラームをオフにした。
上半身を起こすと、理香はのびをした。口もとに拳を当てて、あくびをする。
——夢を、見ていた。
何度かくり返し見ているので、夢の出来事なのに理香はその内容をくわしく、思い出すことができた。
——夢の出来事。
そのことばを頭に思い浮かべるたびに、理香の胸は苦しくなる。二度と取り戻すことのできない過去を、振り返る時のように。
理香は大きく、ため息をついた。ベッドから降りる。
目覚まし時計を、もう一度見た。時計の針は七時十分を指している。
——いけない。学校に遅れちゃう。
頬をぺちぺちと叩くと、朝の準備をするために、理香は自分の部屋を出て行った。
◆ ◇ ◆
校門へと続く歩道を歩いていた理香はまぶしさに、顔の前に手をかざした。日の光を遮る。
街路樹がとぎれ、頭上に真夏の空が広がっていた。
このところ、夜更かしをしているからか、澄んだ空の碧さが目に痛かった。
その深いブルーの色を背景に、ぽつりぽつりと綿菓子をちぎったような雲が浮かんでいる。
——今日も、暑くなりそう。
そよとも吹かない風を恨めしく思いながら、理香は歩き出そうとした。
と、背中から誰かがぶつかってきた。
声をあげようとするがその前にバランスを崩し、アスファルトの上に膝をついてしまった。
「すいません!」
今、理香にぶつかってきたらしき人物が、近づいてきた。
理香は相手が陵北高校の制服を着ていることに、気づいた。
半袖のワイシャツに濃紺のベスト、ネクタイはボルドー、スカートはチェック柄で、理香の目から見てもかなり短めに写った。
その制服は見覚えがあるというよりも、懐かしかった。何といっても、五年前には理香がその制服を着ていたのだから。
——その時のスカートは今ほど、ミニではなかったのだけど。
「大丈夫ですか? けが、ありません?」
眉のきりっとした、栗色の髪を肩口までのばした生徒が聞いてきた。
手を、差しのばしてくる。
理香は手をしっかりと握ると、立ち上がった。タイトスカートやジャケットについた汚れを、叩き落としてもらう。
「でも、駄目ですよ。道の真ん中でぼーっと立っていたりしたら。気をつけて下さいね、理香先生」
生徒の後ろ姿を見送りながら、理香は複雑な表情を浮かべた。
——理香先生、か。
他の教師と一緒にいる時は理香も生徒から鈴木先生と呼ばれているのだけど、そうでない時は下の名前で呼ばれていることが多かった。
親しみを持たれているのか、見下されているのか……たぶん、その両方なのだろう。
理香は陵北高校の教師のなかで一番若く、年齢的にも彼女たちと近い。
今の生徒が理香の服についた汚れを叩き落とした手つきだって、何だか母親が娘に
接するような対し方だった。
——いや、そこまではいかないか。
姉が妹に接する、ぐらいにはなるだろうか。
理香はため息をついた。
どちらにしても、それでは理香が生徒たちに教師として認められていることにはならない。
——なんてことを考えながら歩いていたら、生徒側の玄関に行きそうになってしまった。
顔を赤くして、誰にも見られていないことを確認すると、理香はあわてて、職員用玄関へと回った。
——こんなことをくり返しているから、教師として見られていないんだろうな。
パンプスからミュールに履き替えながら、理香は声に出さずにつぶやいた。
以前、理香は男子生徒から告白されたり、それっぽい内容のメールを送られたりしたことがあるのだけど、そのこと自体、脇が甘いというか、年上のお姉さん程度にしか思われていない証拠なのだろう。
理香も、二十五歳になった。
姉の園子がこの年齢だった頃はものすごく大人に見えたのだけど、自分がなってみると、そうでもないことを思い知らされる。
いや、理香は精神的に幼くて、同じ年齢でもまだまだ、成熟しきっていないかもしれないのだけど——それについては目を閉ざすようにしていた。
職員室に入り、同僚や先輩の教師たちにあいさつをすると、理香は自分の机に座った。
今度、天文部の部員たちに渡す予定の資料を調べているとあっという間に時間は過ぎ去り、十時五分前になった。
「あ! いけない、遅れちゃう!」
口に出し、理香は職員室」にいる教師たちの視線を浴びてしまった。
顔を伏せると、机の上を片づけるのもそこそこに、職員室を後にした。
□ ▲ ▽
校舎のなかはしんと、静まりかえっていた。
廊下にはクーラーの冷気は届かないのだけど、窓から吹き抜けていく風が心地いい。
夏休み中と、放課後の校内は似ているような気がする。
昼間はとても騒がしかったのが、下校時間を過ぎたとたん、ひっそりと静まり返る。それなのに、どこか昼間の余韻を残している——そんな雰囲気が、夏休みの校舎にはあった。
廊下を歩いていると、向こうから初老の男性がこちらに近づいてくるのが目に入った。瀬川だ。
高校生の時は担任だった瀬川も、今では教頭だった。
九年前の時と比べると、背中が丸まり、髪もすっかり黒髪が目立たなくなってしまった。
けれど、変わったのは外見だけで、中身はまったく変わりがなかった。
かつての恩師と同じ職場にいるというのは、妙にくすぐったい気分になるものだ。
やりやすい部分もあれば、そうでない部分もある。
時に説教めいたことを言われたりもするのだけど、理香の性格をきちんと把握してくれているので、助けられることも多かった。
……結局、瀬川に限らず教師というものは生徒がいくつになっても、教師であり続けるのだろう。
理香が瀬川にあいさつをして、通り過ぎようとすると、声をかけられた。
「鈴木先生——」
「はい?」
ここしばらくはとりたてて、大きな失敗はしていないはずなのだけど、などと思いながら、理香は足を止めた。
「再三言ったと思うが、学校関係者以外を校内に入れるのは、感心できませんな」
「学校関係者以外?」
何のことを言われているのか一瞬、わからなかったが、すぐに合点がいった。
「あぁ、すみません。可南子には私からも何度も言っているのですが、押しきられてしまって……」
理香は頭を下げると、ちらりと瀬川を見た。でも、とことばを継ぐ。
「でも……午後五時以降はこの学校も、近隣の地域住人には地域共生プログラムとか言って、校内を会談や会合、運動のためなどに解放しているんでしたよね」
「——何が、言いたい」
「何が言いたいとか、そう言うことではなくて、今はもう、可南子は学校関係者ではありませんけど、かつての在校生ではありますし、それに、こういうことは私にではなく、可南子に直接、注意すべきだと思いますけど」
瀬川が束の間だが、理香の顔を凝視した。
ふと、理香は学生の時、瀬川のことをトナカイと呼んでいたのを思い出した。瀬川はそのトナカイそっくりの顔に、苦笑を浮かべていた。
「鈴木。おまえがそんなことを、言うとはな」
瀬川が教頭ではなく、担任の頃に戻ったような顔をした。
「え? そんなことって?」
理香もつられて、高校生になったような気分で、聞き返した。
「正直、おまえは何を考えているのか、わからないところがあったからな。言われたことをきっちりこなすのはいいが積極性がないと言うか、何事においても追従的なのが気になっていてな。それが……」
「教師になるなんて?」
理香が瀬川のことば尻を受けて言うと、瀬川はぱちぱちと、まばたきをさせた。
理香と視線を合わせる。
「まぁ、そうだな」
「私にも、色々とありましたから」
理香は過去を思い、目を細めた。
これまであったことが、その一瞬の間に理香の頭の中を駆けめぐっていった。
瀬川は理香の横顔をしばらくの間、ながめていたようだが、咳払いをすると視線を外した。
「とにかく——鈴木先生」
瀬川が担任から教頭に戻った顔で、言った。
「斎藤には私からも注意しておくが、先生からもひと言、お願いします」
理香は瀬川のことばに、首をうなずかせた。
瀬川と別れると、理香は走らない程度の早足で、廊下を急いだ。
二年C組、二年B組と教室を通り過ぎる。
そして——理香は開け放たれたドアから、A組の教室へと飛び込んでいった。
……懐かしい。
いつも授業の時には目にしている教室の風景なのにどうしたことか、理香はそのような印象を抱いた。
瀬川とのことが、きっかけになっているのだろうか。
気分としては九年の歳月を飛び越えて、高校二年生の時に戻ったみたいだった。
理香は机のひとつひとつに触れながら、教室のなかを歩いていった。
理香の頭に、生徒たちの顔と名前が浮かんでは消えるが、それは彼女の受け持ちの生徒たちではなく、かつてのクラスメイトたちだった。
おはよー。
ねぇ。英語の辞書、持ってきた?
今日、数学の小テストじゃなかったっけ。勉強してきた?
理香は一度、目を閉ざした。
……そうした声が実際に、耳に聞こえてきそうだった。
ここが、あたしの席で——。
理香は声に出さずにつぶやくと、廊下側から数えて四列目の、一番後ろの席を見た。
——あそこが、可南子の席。そして……。
窓際の、前から数えて五番目の席。今は、ただの席のひとつだけど、当時は一年間ずっと、誰も座ることがないまま残された空席。
その席をじっと見つめていると、紺色のネクタイに茶色のベスト、濃淡の赤のチェックのミニスカートに、やや古めかしいフレームの大きな眼鏡をした女の子の姿が、浮かび上がってきた。
口が動き、彼女の名前を呼びそうになる。
咳払いがした。
そのとたん、理香が見ていた幻視は崩れ去った。がらんとした夏休み中の教室へと、意識が戻される。
開放されていた教室の窓から、涼しい空気が入ってきていた。
白いカーテンが風に合わせて、波打つように揺れている。そのカーテンのひとつに、隠れるようにして可南子がいた。
「……可南子」
つぶやくと、彼女は妙に遠慮がちに、窓のそばを離れた。
机と机の間を、歩いてくる。
「びっくりするじゃない。どうしてすぐ、声をかけてくれなかったの?」
理香が言うと、可南子はもう一度、咳払いをした。
「う……うん。声、かけたかったんだけど、浸りきっていたから。理香の世界を壊しちゃうの悪いかなぁ、と思って」
「またそんな、やめてよ。ただ、ちょっと——昔のことを、思い出していただけなんだから」
「昔のこと?」
「ええ、昔のことよ」
理香は可南子の目を見つめた。
それから、それだけでふたりとも、言いたいことが伝わったかのように、うなずきあった。
■ ▽ ※
「え——? トナカイが、そんなことを言ってたの?」
器用に左の眉だけを動かしながら、可南子が言った。
「ちょっと、トナカイはやめてよ。今はあたしの、上司なんだから」
「だぁって、そんなこと言われても私にとって、瀬川先生はいつまでたっても、トナカイなんだから」
言ってから、可南子はでも、と左の窓の外に目をやった。
「瀬川先生も、もう教頭なんだね」
可南子は口を閉ざしたが、その先のことばが理香の耳に、聞こえてきそうだった。
あれから、九年が経ったんだね、と。
……午後からは補習の担当も、片づけるべき書類もない理香は教務部長に断りを入れると、可南子と学校からそれほど離れていないところにあるファミリーレストランで、昼食をとることにした。
日差しのそれほどきつくない、窓から表がよく見える場所が、ふたりのいつもの席で、今は食事を終えて飲みものを待っているところだった。
「来た、来た」
通路を振り返り、子供のようにウェイターが注文した品が運ばれてくるのを確認すると、どこか浮かれたような声で言った。
ファミリーレストランは大抵、注文をとったり、食事を運んだりしてくるのはウェイトレスなのだけど、ここはウェイターなのだった。
そのため、一番混雑する昼時でも、女性客の数が圧倒的に多数を占めていた。
食後のドリンクとして運んだのが、理香がプリンス・オブ・ウェールズで、可南子が……。
「それ、おいしいの?」
理香は可南子の前に置かれているグラスに目を細めながら、これで何度目かになる問いを繰り返した。
ここのレストランのドリンク類は専門店並に充実しており、紅茶やコーヒーの各銘柄はもちろん、それ以外にもちょっと一風変わったものをメニューに加えていた。
「もちろん」
可南子が、スプーンを口に運びながら言った。
可南子が頼んだのは、フロートつきのメロンソーダだった。
メロンソーダは冷えていて、おいしいし、フロートだってバニラ味の、特に変わったものではない。
ただ——そのフロートが最初から半分ほど溶けかけた状態で出てくるのが、他のレストランのメニューと異なっている点だった。
「だって、アイスクリームは溶けてやわらかくなったところが一番、おいしいんじゃない」
……そうだろうか?
理香としては、冷蔵庫から取りだしたばかりの、カチンコチンに凍らせたアイスクリームのほうが好みなのだけど、それは何度も話し合っていることなので、彼女は口にしなかった。
理香はのびをするように、背中をまっすぐにして腕を体の前に、のばした。
「でも、可南子ってヘンな飲みものが好きだよね」
「ヘ、ヘン? ヘンって、今言った?」
可南子が顔をしかめるが、理香は聞こえなかった振りをして、ことばを続けた。
「ほら、高校の時だってコショウ風味のコーラ、よく飲んでいたじゃない」
「あれは! ……つまんないこと、覚えているのね」
可南子が軽く、理香をにらみつけると咳払いをした。
「別に、好きだったとかそういうことじゃなくて、いつもコーヒーやジュース、炭酸入り清涼飲料水ばっかだと、あきてくるじゃない」
「ふぅ〜ん。まぁ、そういうことにしといてあげるよ」
紅茶で舌の先を湿らせながら、理香は言った。
「なぁに、その言い方。感じ悪ぅ。理香って教師になってから、性格悪くなったんじゃない」
「かもね。誰かさんとのつき合いも長いから、朱に交われば赤くなるで、影響受けちゃったかも」
「朱に交われば、赤くなるねぇ」
可南子が口もとを、ほころばした。
「何よ」
「その表現の仕方が、教師っぽいと思ってね。でも……」
そこで可南子は一度、ことばを切った。意味ありげに、理香を見る。
「本当に理香って、教師になっちゃったんだ」
「……どういう意味?」
「どうして? どうして理香は、天文学者になる夢をあきらめちゃったの」
理香は首を横に振った。
「あたしは——学者に向いてなかったから」
「そんなこと、ないよ」
まただ。可南子と顔を合わせると、五回に一回はこの話になってしまうのだが、理香はねばり強く、可南子に話しかけた。
「そんなこと、あるの。学者ってのは知識だけ秀でていても、ダメなの。政治力とか派閥間の駆け引き、交渉の術にも長じていないとね。それに……」
理香は可南子から、視線を外した。
次のことばを発する前に、深く息を吸いこんだ。
「あたしの夢は、宮本くんが叶えてくれるから」
言ってしまってから、理香は顔が赤くなるのを覚えた。
首筋の後ろあたりがかっと熱くなり、目を閉ざした。
……宮本とは、高校の時に同じ天文部に所属してから以来の、縁だった。
気がついたら隣にいて、それでいつの間にか婚約まで至ってしまった、というのが正直なところだった。
可南子が、手を叩いた。はやしたてるような声をあげる。
「ちょ……ちょっと、やめてよ」
理香が腰を上げかけると、可南子がこちらをにらみつけてきた。
少し、怒ったような表情を浮かべている。
「な、何よ」
「そうやって、理香も私を置き去りにしちゃうんだね」
「置き去りって……」
可南子の表情に、理香は苦笑した。
「だって、そうじゃない。私になぁんにも告げずに、こっそりつき合うだけじゃあきたらず、婚約まで決めちゃうんだから。実家に帰るたびに肩身が狭くなるこの苦しさ、理香にわかる?」
可南子が半分ほど、こちらに身を乗り出してきた。大仰な仕草で、胸に手を当てた。
……可南子の気持ちは、わからないでもない。
園子は今、離婚して家にいるのだけど、直接関係のない理香にも、無言のプレッシャーのようなものを肌で感じることはあった。
母親は姉には面と向かって何も言わないのだけど、叔母や祖父に何度かこぼしているのを、理香は耳にしたことがあった。
理香ですら、見ていてピリピリとしてしまうのだから、当の本人である園子はもっと大変なのだろう……と、思っていたら意外に無神経なのか図太いのか、平然としているようだった。
まぁ、表面上はそうであっても、内心はまた別なのかもしれないのだけど。
「——だけど、思ってもみなかったよ。理香とあの、宮本君が結婚するなんてね」
「うん、そうだね。あたしも、思ってなかった」
言うと、可南子が惚けたような顔をした。
二度、三度とまばたきをさせてから理香と目を合わせると突然、吹き出した。
笑い声をあげる。
「な、何よ。どうしてそこで、笑うの?」
「いや、理香はぜーんぜん、変わってないからさ」
「悪かったわよ。高校の頃から体つきも精神も、頭の中身も成長がなくて」
「……そこまで、言ってないんだけど」
理香と可南子は視線を合わせ、それから、どちらからともなく、笑った。
「でも……」
笑いやみ、理香が紅茶を口に含んでいると、可南子が言った。
「ん?」
「あれから、九年が経ったんだね」
理香は黙って、うなずいた。
あれから、九年……か。
声に出さずにつぶやくと、理香は窓の外を見た。
九年——とひと口に言っても、その間に様々なことがあった。
ひとつひとつについて、語り出せばいくらでも、時間を費やすことができるのだけど、どうしても最後には理香と可南子のふたりとも、同じ思いに行き着いてしまう。
「でも、寂しいね」
「ん?」
「だって、あのことを覚えているのはあたしと可南子以外に、この世界にはいないんだから」
「……そうだね」
口を閉ざすと、ふたりの間に静寂が訪れた。
レストラン内はBGMやおしゃべりの声、食器を片づける音などで満たされているのに、理香たちのいるテーブルは別だった。
でも、その無言の雰囲気が理香には甘やかなものに感じられる。
……あの時。
翼を持つ貴子に抱かれた亜弓が、炎に包まれたあの瞬間のことは今でも、理香の心の深いところで刻みつけられていた。
「あぁ……私の身体が燃える……貴子、貴子……」
青い残り火が消え、音という音が消えた。ふっと、浮き上がるような感覚に襲われる。
一拍置いて、虫の鳴き声が大きくなった。
静けさを追いやり、理香の耳のなかをいっぱいに満たした。
炎が消えると、あとには何も残らなかった。
——いや、そうじゃない。
貴子はまだ、胸もとで大事そうに腕を抱えているのだけど、そこから強い光が放たれていた。
あれはもしかして、亜弓の魂なのだろうか。
「終わったな」
泉が短く、つぶやいた。
貴子がこちらに、視線を向けた。微笑みかけてくる。
「理香さん、可南子さん、それに……泉さん。貴方がたのご協力に、感謝します」
貴子にお礼のことばをかけられて、泉はくすぐったそうな表情を浮かべた。あごのあたりを、指でかく仕草をした。
「感謝なんて、いいさ。わたしにとって、異形の神々や旧支配者どもから、この地球を守るのが第一の存在理由なんだからな」
何だか貴子と泉はずっと古くからの、知りあいのようだった。
口の利き方や表情、会話の雰囲気などから、それが感じられる。
「……り……か。理香」
か細い、とても弱々しい声で可南子が理香の名を呼んだ。
驚いて横を見ると、肩を貸していた可南子と目が合った。恥ずかしげに、微笑む。
「可南子! あぁ、可南子ぉ!」
うれしさのあまり、可南子に抱きつくとふたりともバランスを崩し、草原の上に倒れ込んでしまった。
お尻を打ち、カーゴパンツが泥にまみれた。
でも、そんなこと、どうでもよかった。
ただ、可南子が生きてさえいればいい。そのことが何よりも、うれしかった。
「——……理香、理香!」
突然、名前を呼ばれて、理香は顔をあげた。
テーブルの向こうにいる可南子に、視線を送ろうとする。
が——どうしたことか、可南子の姿がかすんで見えた。
いや、可南子だけじゃない。周囲のものがすべて、はっきりとしていない。
「また、泣いてるのぉ? もう、やめてよね。あの時のことを思い出すたびに、涙を流すの。いっつも、変な目で見られるんだから」
可南子に言われてはじめて、理香は自分が涙を流していることに気づいた。
差し出された水色のハンカチを受け取り、涙を拭うついでに、鼻をかんだ。
「——それ、もう返さなくていいからね」
ハンカチを開いて、なかをのぞきこもうとする理香に向かって、可南子が言った。
手から奪うようにしてハンカチを取ると、テーブルの隅に叩きつけるようにして置いた。
「えー、どうして? 洗ったらまだ、使えるよ」
可南子が大仰に、ため息をついてみせた。
「使えると思う? 顔や手を拭くたびに、理香がそのハンカチで鼻をかんだのを思い出すんだよ」
「それは……そうだけど」
理香は一瞬、ふくれっ面をつくった。
しかしあの時、理香が可南子のいない世界で満足してしまったら。
そして、亜弓がシュブ=ニグラスとかいう存在を呼び出すのに成功させてしまっていたら……このように話をすることすらできなかったのだから。
たとえ、何でもない会話であっても、よろこぶべきなのかもしれない。
「ねぇ、可南子。亜弓さんって、今頃どこにいて、何をしているのかな」
理香が言うと、可南子はまばたきをさせた。
フロートの入ったグラスを、引き寄せる。
「——理香は、どう思ってるのよ」
「あたし? あたしは……」
理香はそこで、ことばを切った。考え込む。
「——感謝なんて、いいさ。わたしにとって、異形の神々や旧支配者どもから、この地球を守るのが第一の存在理由なんだからね」
理香の耳に、泉の声がよみがえった。と同時に、夜のあの草原の風景が、目の前に広がった。
夜のひんやりとする風の中で、理香は涙を流しながら可南子を抱きしめていた。
肌を通して、可南子の体温を感じる——そのことがこの瞬間、一番信じられるもののように思われた。
可南子の体を抱きしめながら、理香は泉を見上げた。
「泉さん、ありがとうございます。なんて、お礼を申しあげたらいいか」
「気にする必要はないさ」
「終わりよければ、すべてよし——昔の劇作家が言った通りだよ。この勝利は誰のものでもない。あんたの勇気に帰するものだ」
理香は、首を横に振った。
この勝利はあたしのものだと言われても、実感はない。
——それは、あの時から九年が経過した今でも、同じことだった。
ゆっくりと、貴子が背中の翼を広げた。薄光の衣を身にまとった貴子の体が闇の中でぼうっと、浮かび上がっている。
理香は貴子を見た。彼女と、目と目が合う。
何か最後に、貴子に語りかけなければ——理香はそう思うのだけど、彼女の微笑みを前にして、口を閉ざした。
ことばはいらない。
表情だけ、そのまなざしだけで、ふたりの言いたいことのすべてが伝わるみたいだった。
最後に貴子は理香にうなずきかけると、翼を広げた。
大きく、羽ばたかせる。
風が吹くが、目を開けていられなくなったり、土埃が舞いたつことはなかった。
胸に光り輝くものを抱えながらゆっくりと、天へと昇っていった。
「終わったな」
貴子の姿が視野から消えると泉が短く、つぶやいた。
——終わった。
そう。亜弓がいなくなり、これですべてが終わった。
これで家に帰ってからひと眠りをして、そして目が覚めればまた、いつもの日々がはじまるのだけど、そのことが信じられなかった。
怪物に襲われたり、幻夢郷で貴子と会話をしたり、泉といっしょに山道を歩いたりしたのもいい思い出と言うか、そちらのほうが現実で、それ以前の日常のほうが夢のように感じられてしまう。
または、今回の事件に巻き込まれたのも夜に理香が偶然、あの空き地を通りかかたからではなく、泉や貴子、亜弓たちに出会うために十六年の年月を生きてきたような、そんな気がした。
「あ——あの、泉さん」
思いを断ち切るように一度、目をぎゅっと閉ざすと、理香は泉に話しかけた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだい」
泉が鋭さのなかにどこか、優しさが宿るまなざしで、理香を見た。
「飯岡……亜弓さんは一体、どうなってしまったのです」
「彼女のことなら、もう安心さ。これから、この次元でのあんたの前に現れることは、二度とないだろう」
「いえ、そうではなくて。あたしが聞きたいのは——」
「わかってる」
泉が微笑んだ。「わかってるさ。あんたが言いたいことはね。ただ、あんたの反応が手に取るように予想できるだけについ、からかいたくなってね」
理香のすぐ隣で、可南子が弱々しい声ながらぷっと、吹き出した。
笑っているのか、体をわずかに震わせた。
「もう! 可南子まで」
にらみつけながら、理香は別のことを考えていた。
はじめて、可南子が理香を名前で呼んでくれた時、うれしかった。
しかし今、可南子の笑い声を耳にしたとたん、それとは比較にならないくらいのよろこびに包まれていた。
これから、可南子との暮らしがまた、続くのだ。
もちろん、これまでと同様、楽しいこともあるけれど、共に悩んだり喧嘩をしたり、時には距離を置くようなこともあるのかもしれない。
それでも——可南子の存在しない世界を一度、経験している理香としては彼女がここにいるという、その事実だけで充分だった。
「亜弓は……」
ゆっくりと、泉が口を開いた。
「世界の理から取り除かれてしまった。彼女がどうなるのか、どこに行ってしまうのかは、わたしにもわからない。時をさかのぼって、もう一度やり直すのか、それとも違う世界で、まったく新しい人間として転生するのか。それは、“世界”が決めることだ。わたしやあんたが、気にかけることじゃないさ」
「世界が決める……ということは、この地球に意思があるってことですか?」
理香は暗闇の向こうで、かろうじて判別できる林の樹々や風に揺れる草原、それに膝を接している地面などを強く意識した。
「そうじゃない。どうやら、わたしの表現の仕方が悪かったようだね。世界には、人間に与えられているような知性は宿っていない。だけど、バランスを補正する力は、潜在的に有している。今回の——亜弓の件に関しては、それが働くんじゃないかってことさ」
そこで泉は一度、ことばを切った。
理香と可南子の顔を、順にのぞき込むようにして見た。
「亜弓は魔女で、数百年以上に渡って生き長らえてきた。そんな人間は通常、存在しえない。つまり、亜弓は世界にとって、歪みだった。——ここまでは、いいね」
理香は、うなずいた。
「そのような自然でない存在を、世界は許さない。歪みを放っておけば力のバランスが崩れ、次元そのものが消滅してしまう危険があるからね。だから世界は、ふたつに分けられた。亜弓が存在する世界と、そうでない世界とにね。そして今、亜弓は世界から除外された。亜弓のいる世界は、いなかった世界と徐々に融合し、ひとつになる。分かれていたふたつの川が、ひとつの流れになるようにね」
「では、貴子さんは?」
「彼女かい? 彼女は世界に遣わされた……何て言うんだろうね。天使、かな」
「でも、世界は自然でない存在を許さないんじゃなかったんですか?」
理香が言うと、泉はにやりと笑った。
「これは一本、取られたね。ま、それを言ってしまうと、わたしも自然でない存在になってしまうんだけどね。あんたたちにも納得のいくように説明するのは難しいんだが、先刻も言ったように、世界にはバランスを補正する力はあるってことかな」
理香は泉が言ったことばを思いだし、うなずいた。
「あくまでも、わかりやすく言うと、だが——世界をふたつに分けるのだって、力の損失には違いないからね。そして、出来ればふたつの世界をひとつにまとめたほうがいいに決まっている。だろ?」
可南子は身振りでは示さなかったものの、理解しているような顔つきをした。
それから、まだわからないの、とでも言いたげに横にいる理香を見た。
理香は鼻で息をすると、下唇を突き出した。
もう一度、泉を見上げる。
「分かれた世界をひとつにするために、時に泉さんや貴子さんのような存在も必要だった。そういうことですか」
「毒をもって、毒を制す。一度、傾いた天秤をもとに戻すには、反対側の受け皿に同じだけの重りを加えるしかない」
理香の問いに泉ははっきりと答えず、そのように表現した。
「泉さん」
「ん?」
「泉さんはこれから、どうされるんですか?」
「どうするも何も……」
泉は肩をすくめた。
「わたしの存在意義は、異形の神々とその眷属から、人類を守ることにある。これからも、あんたたちや亜弓のような人間は出てくるのだろう。それに対し、わたしは手を差し伸べ続けねばならない」
「これから——ずっと、ですか」
「それがわたしの、存在意義だからね」
ゆっくりと、理香が目を開けると、ファミリーレストランの喧噪が戻ってきた。
店内に流れていたBGMが切り換わり、テンポのいいメロディーが流れはじめた。
「時をさかのぼるのか——」
「ん?」
可南子が理香の声に、顔をあげた。
テーブルにひじを突いて、組んだ指の上にあごを乗せた。
「それても違う世界で、まったく新しい人間として、もう一度やり直すのか、泉さんもはっきりとはわからないみたいだけど、でもすれ違う人がもしかすると、亜弓さんなのかもしれないと考えると、面白いじゃない」
理香が言い終わるのと同時に、何かが足にぶつかってきた。
「あらら。坊や、大丈夫?」
可南子が椅子から、身を起こした。床に転がっている五歳ほどの男の子に、手を差し出す。
「うん、大丈夫。ぼく、転んでも泣かなかったよ」
立ち上がると、男の子は元気よく、答えた。
「偉いね〜」
可南子が男の子の頭をなでてやるのを見て、理香は微笑んだ。
「ありがと、おばちゃん!」
言うと、男の子は来た時と同じようにして、走って戻って行った。
「おばちゃんって……恩を仇で返された気分だわ」
苦笑いを浮かべながら、可南子は椅子に座った。
「男の子から見れば大人の女性はみんな、おばちゃんなのよ」
「それは、わかってるけど——傷つくわぁ」
「前に可南子、言ってたじゃない。女性が年齢を気にするのは、女房と畳は新しいほうがいい的な、男性側の発想に縛られているからだって」
理香のことばに、可南子は複雑な表情をした。
恨みがましそうな視線を、理香に送る。
「でも、傷つくの!」
理香はファミリーレストランの店内を見渡した。
さきほどの男の子が、母親らしき女の人に怒られているのが目に入った。母親が理香に気づくと、すまなそうに頭を下げた。
——もしかしたらあの男の子が亜弓で、母親が貴子なのかもしれない。
理香のその考えは、おそらくは的外れなものなのだろう。
この場に泉がいて、そのことを話したら、大笑いをされるのかもしれない。
袖振り合うも他生の縁——。
理香はふと、この間、授業で生徒たちに話したことわざを、思い出した。
「理香は飯岡さんのこと、どう思ってるの?」
デザートをふたり分、注文すると可南子が聞いてきた。
「え? どう思ってるって?」
「だからぁ、恨んでるのか、そうでないのか」
理香はまばたきをした。
亜弓や泉、貴子について、可南子とは何度も話をしたことがあるが、恨んでるかどうか、ということばが出てきたのは、これがはじめてだった。
「可南子は、どうなの?」
「私は……恨んでいないと言えば嘘になるけど、正直わからないかな」
理香は黙って、可南子の声に耳を傾けていた。
「肉体から切り離されて、魂だけになってしまった時の恐怖はどんなにことばを重ねたとしても、表現しつくせるものではないし、石の祭壇で召喚とやらの儀式とやらが行われている間は、もう助からないとあきらめてもいた」
話している間、可南子はずっと顔を伏せていたが、理香には何だか、彼女が急に年をとってしまったように感じられた。
「だから、簡単には許せないし、許しちゃいけないと思う」
でも——と、可南子は先を続けた。
「理香は想像してみたことがある? もし、飯岡さんのような力を与えられたら、自分はどうなってしまうんだろうって。絶対に彼女のような間違いは犯さないって、言いきれる?」
理香はゆっくりと、首を横に振った。
「そんなの——わからないし、亜弓さんみたいな力を持ちたいなんて、思いもしないわ」
これまでの……それほど長くはないが、理香自身の人生を振り返ってみても、頭に思い浮かぶのは失敗の連続だった。
『こんなのは嫌だ。もっと……もっと、強くなりたい』
失敗する度に、理香は願った。強ければ、このようなつらい思いもすることもないのだ、と。
「そう……なんだよね。力を持ってしまったから、飯岡さんは狂ってしまったのか、それとも最初から、彼女はああだったのか、私には判断のしようもないのだけど」
そこで一度、可南子はことばを切った。
目を閉ざす。
「そんな彼女だからこそ、見てしまったのかも——知ってしまったのかもしれない。この世界の、本当の姿を。そして、それこそが飯岡さんを絶望させてしまったのかもしれない」
『……それでは、貴子。私とあんた、どっちが鏡像で、どっちが本物なのだ? どっちが人間で、どっちが魂を持たぬ人形なのだ。どっちだ!!』
悲痛な亜弓の声が不意に、聞こえてきた。
顔をあげると、耳もとで泉がささやいた。
「鏡を壊したとしても、鏡像の自分を殺すことはできない。鏡像は鏡にあるのではなく、その人の心の中にこそ、あるからだ。しかし——亜弓はそのことに気づかなかった。いや、気づこうとしなかったと、そう言ったほうが正確かな」
その泉の向こうに、ファミリーレストランのウェイターの姿が見えた。
こちらへと、近づいてくる。
理香は泉や亜弓をながめ、それから首を横に振った。
すると、星光に照らされた草原とともに、泉たちの姿も霧のように消えていった。
ウェイターが、テーブルにトレイを置いた。
チョコレート・ケーキを理香の前に、青汁プリンを可南子の前に並べた。
さっそく、プリンを口に運ぶ可南子を横目に見ながら、理香はひとり、つぶやいた。
——亜弓さんが、特別なんじゃない。
理香には、亜弓のような力はない。
また、彼女の絶望も、完全に理解しているとは言い難い。
でも……泉が言ったように、理香は自分の鏡像を殺そうとして、鏡を壊そうとしていたのかもしれなかった。
『宇宙とは、われわれ自身の投影である。鏡に映った自分の顔と同じように、何ら実体を有さない虚像であるが、鏡に映った表情を変えるには、自分の顔を歪めねばならないのと同様に、われわれは宇宙を変えるためにはまず、自分自身を変えねばならない』
これは、イギリスのとある社会運動家が述べたことばだ。
そして、それはおそらく、正しいのだろう。
今でも——理香は時々、ここは本当に、もとからいた世界なのだろうかと、思うことがあった。
夜の駐車場で、目も鼻も口もない、悪魔のような姿をした怪物から助け出された後、理香は泉によって可南子も亜弓もいない世界へと、連れて行かれた。
あの瞬間……理香はいくつもある世界と同様、自分も分裂してしまったように感じていた。
可南子と亜弓のいない世界で、平穏無事に過ごしていた理香も、急に何もないところから作り出されたのではない。
ただ、認知することができなかっただけで、どちらの理香も川が並行して流れるように、同時に存在していたのだろう。
ふたりの理香は一時、意識を共有し、それからまた、もとの理香へと戻っていった……つまり、ここにいる理香は可南子と亜弓を知っている理香であり、また可南子と亜弓を知らない理香でもある。
夜の駐車場のあと——可南子も亜弓もいない世界で目覚めた理香は何事もなく、学校へと通っているが同時に、泉と共に召喚の儀式が行われる山を、登った記憶も持っていた。
——あたしはここにいるけど、もうひとりの理香も、どこかの世界で今も、元気でいるのだろう。
ふたりとも同じ自分だが、そのことに理香は元気づけられていた。
結びつきは意識を共有した、あの短い時間だけ。
そして、これからはもう、永遠にふたりの時間が交わることはないのだろう。
泉や亜弓、貴子とも。
でも、あの日々の瞬間を消すことはできない。
たとえ、あたしが忘れても……死んでしまったとしても、消えることはないのだ。
——生きろ!
誰かが理香の耳もとでささやいた。
そして、その声は亜弓や泉と関わり、いつ死んでも不思議じゃない、あの間ずっと、聞こえていたような気がした。
「どうしたの、理香。ひとりで笑って、気持ち悪ぅい」
可南子がまだ空になっていない、理香のケーキ皿へと手をのばしてきた。
理香がその手を叩くと、可南子が顔をしかめた。けち、とつぶやく。
雲間から差す日の光に目を細めながら、理香は可南子に微笑みを返した。
(***『奈落の女王』
——完)




