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銀色の光が走った。
稲妻みたいに圧倒的なものではなく、線香花火のように闇のなかでわずかに瞬く光が、視界のすみからすみへと、一瞬で横切っていった。
亜弓が草原の上に、膝をついた。うずくまっている。
——え?
理香は驚いて、亜弓を見た。その亜弓の右手が、なくなっていた。
何度もまばたきをくり返してみたが、やはり見間違いではなかった。右手のひじから先が、なくなっていた。
亜弓が左へと、顔を向けた。にらみつける。
理香もそちらを見ると、泉が歩いてくるのが目に入った。
無事——では、なさそうだった。
あの樹の怪物との戦いは理香の想像以上に、激しいものだったのだろう。黒とネイビーブルーのセーラー服はところどころが破け、あざや傷痕などがのぞいていた。
だけど、負っているのは擦り傷や切り傷程度で、歩いてくる時も痛そうに表情を歪めたり、足を引きずったりすることはなかった。
泉が右手をあげた。その手のなかには、夜の駐車場で見た、拳銃の取っ手のようなものが収まっていた。
すると理香の耳にあの、しゅるしゅるという音が入ってきた。
銀色の糸が闇のなかでほんのわずかな光を放ち、そして拳銃の取っ手の形をしたものへと、吸い込まれていった。
「待たせてしまったようだね」
泉は理香にうなずきかけると、今度は亜弓のほうへ視線を向けた。
「相当、手こずった様子じゃないか。そうだろ、泉!」
亜弓が立ち上がった。
右手はやはり、失われたままだったが腹立ちをぶつけるように、左手の髑髏のついた槍で地面を突いた。
「でもないさ。クリス一本に苦労している、あんたに比べればね」
亜弓が笑った。しかし——その笑みから、理香は冷え冷えとしたものを感じた。
にこやかな笑みの下から泉に対する憎しみや怒り、嫌悪感などの激しい感情がのぞいた。
——まるで……まるで、仮面みたい。
星の光の下で、亜弓の笑顔が白く輝くのを見て、理香は思った。
亜弓が一度、目を閉ざした。
再び、目を開けた時には仮面のような顔に、表情が戻っていた。唇を噛みしめている。
「泉。あんたとのつきあいも、もう長いことになるけど、いよいよ決着をつけなければならないようだね」
「あんたとはことごとく対立してきたけれど、それについては同意見だね」
亜弓が歪んだ笑みを浮かべた。目を細める。
「だけど、決着をつけるのはわたしじゃない。彼女だよ」
——彼女……? 彼女って、誰のことを言ってるのだろう。
急に、光が差した。周囲が明るくなる。
もう、朝が来たのだろうか。しかし、そうではないことに、理香は気づいた。
明るいとは言っても、それは理香、泉、亜弓と可南子が寝かさせられている石の祭壇だけで、その外は夜の闇が広がったままだった。
まるで——スポットライトでも、当てられているみたいに。
理香は顔をあげた。
夜空の一部が強い光を放っているが、それは月でも星でもなかった。
光はだんだんと、理香たちのもとに近づいてきた。徐々に大きくなる。
理香もそうだが、泉も亜弓もその光を前にして、身動きひとつしなかった。
まるで魅入られたように、じっと光を見つめている。
まぶしかった光は輝きを弱め、そのものの姿かたちを見てとれるようになった。
理香の目に、最初にはっきりと映ったのは、とても大きな翼だった。
光に包まれた翼を大きく、そしてゆっくりと羽ばたかせながら降下してくる。
だから、理香はこちらへと近づいてくるものが鳥か何かだと思った。……でも、そうではなかった。
「て……天使」
思わず、つぶやいてみてから、理香は自分で納得がいった。
それは、天使だった。
薄い光の衣に包まれた、白い翼持つ天使——。
そして、理香は気づいた。その天使が、貴子であることに。
貴子はふわりと、地上に降り立った。
白い翼を折りたたむと、口を開いた。
「亜弓——」
「いつだって、おまえはそうだ。貴子!」
柔和なまなざしで、貴子が亜弓を見た。
それに対して、亜弓はこれ以上ないってくらいきつく、槍を握りしめていた。噛みしめた唇から血がひと筋、白い喉もとを滴り落ちていった。
「肝心な時に現れ、私の邪魔をする」
貴子は首を、横に振った。
「姉さん。貴方にとっては、そうなるのでしょう。ですが、私に貴方の行動を止める義務があります。肉親として……妹として」
——何だろう。この気持ちは。
貴子の亜弓に向けられている視線や表情を見て、理香は声に出さずにつぶやいた。
——そうだ。あれは……。
急に、理香は思い出した。
ずっと、ずーっと、昔の話。理香が小学校に入学する前の頃のことだ。
はじめて連れて行ってもらった夜店にはしゃいでしまい、理香は姉の園子と、はぐれてしまったのだ。
あわてて神社の境内を走り回り、やっと園子を見つけてほっとしたとたん、地面に転んでしまった。
涙ぐみはしたものの、泣き声をあげたりはしなかった。すりむいた膝を抱え、座り込んでいた。
痛くて、立ちあがれないのではない。待っていたのだ。
——手を、差しのべられるのを。
姉は理香のところまで、近づいては来た。でも、立たせてはくれなかった。
ただ、声をかけるのでもなく、理香が自分で立ちあがるまでじっと、そのままでいた。
貴子のまなざしはあの時の、園子のものと似ている……理香は、そんな気がした。
「私の行動を止める義務がある? 肉親として——妹として? ハッ! よく言うな」
しかし、亜弓は貴子のそのまなざしなど、ものともしなかった。
憎しみそのものをぶつけるようにして、亜弓をにらみつけた。
「私は一度だって、あんたを妹と思ったことはない」
「……そんなに私のことが、憎いのですか」
「ああ! 憎い——憎いね。同じ声、同じ体、同じ顔立ちを持ちながら、私たちは異なる存在だった。性格も才能も……そして、人生も」
「それは、違います」
泉が理香に、目配せをした。可南子を助け出すよう、指示をする。
それに理香はうなずくと、可南子が寝かさせられている石のベッドまで、歩みよっていった。
「違う? 違うだって!!」
「そうです。……確かに、私たちの歩んできた道は別々なものだったのかもしれません。ですが、同じ母親から生まれ、同じ水を口にし、同じ目線から、同じものを見てきた私たちに、差があるのだとしたら——」
「うるさい!」
亜弓が、鋭い声をあげた。
貴子のことばを途中で、断ち切る。
「うるさい、うるさい!!」
髪が乱れるのにも気に留めず、激しく首を横に、振った。
「おまえは何も、変わっちゃいない。どうして、気づかぬ。気づいてくれぬ。おまえのその、見下したような態度が私を傷つける、苦しめるということに」
理香は泉とともに、足音を忍ばせて歩きながら、貴子と亜弓との会話をしっかりと耳に入れていた。
「哀れみなど、いらぬ。憎しみをぶつけたのなら、憎しみを返してくればいい。それなのに、おまえはそうはしなかった」
「——姉さん」
「私が本当に望んでいたのは……」
可南子の上体を起こそうとした理香の手が一瞬、止まった。
亜弓の顔を見る。
——今にも、泣き出してしまいそうだ。
どうして、そんなことを思ったのか、理香にもわからない。
亜弓は唇を噛みしめ、瞳の奥に昏い炎を揺らめかせながら、貴子をにらみつけていた。
そこから感じられるのは、憎しみの感情だけだ。
それなのに……。
理香は亜弓から、視線をそらした。彼女の顔をそれ以上、見れなかったからだ。
『——どうして、気づかぬ。気づいてくれぬ。おまえのその、見下したような態度が私を傷つける、苦しめるということに』
亜弓が口にしたことばに、理香はどきりとさせられていた。
それと似たような思いに、理香も捕らわれたことがあったからだ。
『どうして!! どうして、みんなあたしを見てくれないの? 園子、園子って、姉さんのことばかり。ずるい……ずるいよ!』
姉を前にすると、そんなことを考えてしまう自分がいた。
それでいて——姉が家を出て行った後も、さびしさから抜け出せないでいるのだ。
まったく、理香には何をするべきなのか、どうしたらこの苦しみから解放されるのか、わからなかった。
理香は一度ぎゅっと、目を閉ざした。
頭を可南子のわきの下に入れると、肩に担いだ。泉の手を借りて、石のベッドから移動させる。
「——それでは、貴子。私とあんた、どっちが鏡像で、どっちが本物なのだ? どっちが人間で、どっちが魂を持たぬ人形なのだ。どっちだ!!」
悲痛な——差し迫った声で、亜弓が言った。
その声にはもう、貴子に対する憎しみや恨みといった感情はなく、かわりに感じられるのは、すべての望みを断たれた心の痛みや、自暴自棄の果ての虚しさだった。
「鏡を壊したとしても……」
理香の耳もとで、泉がひとりごとのように、つぶやいた。
「鏡像の自分を殺すことはできない。鏡像は鏡にあるのではなく、その人の心の中にこそ、あるからだ。しかし——亜弓はそのことに気づかなかった。いや、気づこうとしなかったと、そう言ったほうが正確かな」
今のことばは亜弓に対して向けられたものなのに、理香の胸の奥深いところで、響いた。
「さぁ、帰りましょう。貴方は道に迷われてしまったけど、まだ大丈夫。貴方が望むのなら、母親や子供、恋人同士、または初恋の相手、生涯の伴侶、それにもう一度、姉妹としてだって、やり直すことは可能です」
貴子は亜弓に向かって、手を差し出した。
亜弓は一歩退き、それから恐れた様子でその手を、貴子の顔を見た。
「さぁ——」
貴子が微笑んだ。
その微笑みにつられたように亜弓が手を取ると、貴子が引き寄せた。抱きしめられる。
と、音もなく、亜弓の身体が燃え上がった。
蒼白い炎に包まれる。
「あぁ……私の身体が燃える……貴子、貴子……」
亜弓が声をあげた。歓喜にうち震えるように、視線を上に向ける。
貴子の腕のなかで、亜弓の肉体が崩れ落ちた。
人形であるかのように肌や目、鼻などが溶けていった。
貴子は亜弓の手足がなくなってしまっても、彼女の身体を離したりしなかった。しっかりと、抱きしめている。
青い炎はやがて消え、あたりは静寂に包まれた。
せみやすずむし、きりぎりすなどの虫の鳴き声が、耳に痛いほどだ。
炎が消えると、あとには何も残らなかった。
「終わったな」
泉が短く、つぶやいた。




