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奈落の女王  作者: なりちかてる
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-14-

 理香は息を止めた。大きく、目を見開く。

 自分の見ているものが、信じられなかった。

 これまで、理香は危険な目には幾度も、会わせられてきた。

 顔のない悪魔のような姿をした怪物に地面に落とされかかったり、血まみれの女性が一瞬にしてミイラのようになってしまったり、またはあの宝石——輝けるトラペゾヘドロンの中心に、真紅のまぶたのない瞳を目にしてしまったり。

 あれだって、今になって思い返してみれば本当にあったことなのだろうかと、信じられない気分になる。でも……。

 草原の下から、黒いものが完全に姿を現した。

 想像していた通り、それは死体だった。泥のついた白骨死体が、理香につかみかかってきた。

 土の下から起き上がってきたのは、理香の目の前にいる死体だけではなかった。

 膝から下と左腕、頭部の半分がなくなっていたり、内臓を引きずっていたり、完全には白骨化していないのだけど腐った肉をところどころに、ぶら下げているのもいた。

 白骨死体が理香に、腕をのばしてきた。

 ウインドブレーカーのポケットを、まさぐろうとする。

 ——あ!

 理香はすぐに、死体が何をしようとしているのか、理解した。

 ——クリス・ナーガだ。

 亡者(もうじゃ)は理香から、あの短剣を奪おうとしているのだ。

 クリスを失ってしまったら、身を守る手段がなくなってしまう。

 理香は必死になって、亡者(もうじゃ)に抵抗した。

 しかし——理香は一体、今ここで、何をしているのだろう。

 このような非日常的な状況に追い詰められる度に理香の心の一部は自分から離れ、第三者のように行動のひとつひとつを見下ろしているかのような気分になる。

 ——想像したことがあるだろうか。

 ホラー映画のヒロインのように、こうして亡者(もうじゃ)と戦うことになるだなんて。

 白骨の腕を払いのけ、そしてつかみかかられる度に、寒気が走った。

 気分が悪くなり、吐き気がこみ上げてくる。

 ——あ!

 理香は小さな悲鳴をあげた。クリスが理香の手から離れ、草原の上に落下した。

 理香は夢中で、地面に身を投げ出した。

 クリスに手をのばす。

 それからは——理香と亡者(もうじゃ)とで、クリスの奪い合いとなった。

 理香は何とか、クリスの柄をつかむことには成功したが、亡者(もうじゃ)に上から完全にのしかかられる形になってしまった。

 理香の指を、こじ開けようとする。

「嫌……嫌ぁ!」

 亡者(もうじゃ)が頭部を、近づけてきた。

 腐った、泥のような黒い肉片が目に入る。

 眼球は既になくなってしまっていたのだけど、その黒い眼窩(がんか)の奥から、小さな虫がのぞいた。こちらに向かって、落ちてきそうになる。

 理香はもう、何も考えられなくなってしまった。

 クリスをただ、振り回した。

 と——クリスの先端が、亡者(もうじゃ)の胸の骨あたりに触れた。

 本当に、それだけだった。

 しかし、そのとたん、亡者(もうじゃ)の体はばらばらになってしまった。

 地面に落ちた時にはその骨すらもなく、灰と化した。

「す……すごい」

 口にして、理香は立ち上がった。

「残念だったねぇ!」

 祭壇(さいだん)のところから、亜弓が声をあげた。

「そのあんたの大切なクリスも、汚されてしまったようだ。どうやら、亡者(もうじゃ)の一体ぐらいは土に還す魔力は残されていたようだけど、クリスもなしにこれから、どうするつもりだい」

 理香はまわりを見渡した。

 亡者(もうじゃ)どもの姿が、目に入る。

「それは、嘘ね」

 理香はひとつ、深呼吸をした。

「あの程度のことで、このクリスに込められた聖なる力はなくなったりしない。そうでしょ?」

 亜弓を振り返ると、理香はしっかりとクリスを握り直した。

幻夢郷(げんむきょう)は夢を見ることにより到達できる、別世界です。ここでは貴方がたの世界と異なり、精神の強さが重要な意味を持ちます。いえ、精神力がすべて、と言い換えることができるのかもしれません』

 貴子が理香に語ったことばが耳に、よみがえった。

幻夢郷(げんむきょう)も現実の地球も、本質的には変わりない——精神の力が充分に強ければ、世界を思いどおりにつくり変えることすらできるってことさ』

 これは、泉のことばだ。

『そのクリスには、古い魔術の力が宿っている。何千年もの年月と、その短剣を手にしてきた様々な人々の意志の力がね』

 ……そうだ。

 理香は声に出さずに、つぶやいた。

 クリスを見下ろす。

 ——このクリスだって、結局は道具でしかない。その力を引き出すのはこのあたしなのだし、つまりはどこまで自分を信じられるか、ということなのだろう。

「はッ! だったら、自分の言ったことには責任を持ってもらうよ。あんたの身をもってね」

 亡者(もうじゃ)の一体が襲いかかってきた。

 つかみかかってくる。

 理香は亡者(もうじゃ)の腕を、くぐり抜けた。背後にまわると、背骨にクリスを叩きつける。

 とたん——亡者(もうじゃ)は崩れおちた。

 こちらは灰にならず、いくつもの骨のかけらと化した。

 ——どう?

 と、理香は亜弓を振り返ろうとしたが、そんな時間はなさそうだった。二体、三体と亡者(もうじゃ)が迫ってくる。

 いくらクリスを持っていても、取り囲まれてしまったら、おしまいだ。

 理香は亡者(もうじゃ)たちの位置を頭に入れながら、草地の上を移動していった。

「ヨグ=ソトース、全にして唯のもの。時間を超越したものよ。なべては時の果てより生じたり。時と言葉と真理を……」

 亜弓が呪文を唱えはじめた。

 髑髏(どくろ)のついた槍を振りまわしている。

 亜弓と目が合うと、亜弓は冷たく微笑んだ。余裕のあるまなざしを向けてくる。

 理香は唇を噛んだ。

 亜弓が呪文を唱え終えるまで、どうにかしたいのだけど、亡者(もうじゃ)たちが邪魔で理香には、どうすることもできなかった。

 ——泉さん……!

 理香は泉のいるあたりを、見た。

 夜の闇のなかでは、暗さに慣れた目でも、少し離れてしまうと、はっきりとものを見ることができなくなってしまう。

 だけど、泉のものと思われる鋭い声や触手が風を切り裂く音、地面を通して伝わる細かな震動で彼女があの、シュブ=ニグラスの黒い仔山羊とかいう木の怪物と激しい戦いをくり広げているのがわかった。

 自分の身くらいは、誰にも頼らずに自分で守らなくちゃ……。

 理香は声に出さずにつぶやくと、クリスの柄をぎゅっと握った。

「……なればタウィル・アト=ウムルよ、門にして鍵なるものよ、()は過去に未来に、()が真の姿を見出さん。今こそ我は汝が名を叫びつつ、あらゆるものを授けたり」

 亜弓が腕を振りあげると、拳が白熱した。

 それを理香に向けて、打ち下ろす。

 ——!

 衝撃を感じた。

 空気の魂が、ぶつかってきたみたいだった。息が止まる。

 気づいた時にはもう、理香は地面に叩きつけられていた。地面の上を転がる。

 理香は頭を振りながら、立ち上がった。

 五メートルかそれ以上、宙を飛び、吹き飛ばされたはずなのに、怪我ひとつ負っていなかった。痛いところもない。

 これは——このクリスが、あたしの身を守ってくれたのだろうか。

 理香は転がっても手放さなかったクリスを、改めて見つめた。

 胸に構えると、前に歩きだしていった。

「無駄よ」

 理香は亜弓に、話しかけた。

「こんなことをしたって、あたしは逃げたりしないわ」

 そう言うと、理香は可南子を見つめた。彼女に向けて、うなずきかける。

「ああ! ここまではね」

 語調こそ激しいものの、感情をセーブしたような表情で亜弓が言った。

「だったら、次は死んでからでも同じことが言えるのかどうか、殺してから聞いてやるよ」

 亜弓が槍を(かか)げた。呪文を唱えはじめる。


 『や な かでぃしゅとぅ にるぐうれ

  すてるふすな くなぁ にょぐた

  くやるなく ふれげとる』


 その声は斜面を駆け上がり、林の間を抜けて石の祭壇(さいだん)のあるこの場所に踏み込んだ時に聞こえた声と、同じものだった。

 亜弓が右手を持ち上げた。

 槍の髑髏(どくろ)がかたかたと、(あご)の骨を鳴らした。

 すると——何だろう。どくんと、理香の心臓がひとつ、脈打った。

 頭のなかがぐるぐると回転し、立っていられなくなった。膝をつく。

 幻覚だろうか——亜弓が上に高く差し上げた(たなごころ)のなかに、心臓が現れた。亜弓がそれをわしづかみにすると、胸に激痛が走った。

「あ……あ、ああ!」

 これまで感じた腹痛や歯痛などとは比較にならない——見えない手が自分の身体のなかに入り込み、内臓をねじ切られるような、そんな痛みで、理香はもう、叫ぶことしかできなくなってしまった。

 理香の胸で鼓動が刻まれる(たび)に、亜弓の掌のなかの心臓は血を流していった。亜弓の右手がみるみる、真紅に染まっていく。

 クリスが地面に落ちた。

 理香はクリスに手をのばそうとするが、届くことはなかった。

 ほんのちょっと——小指の関節の先ほどしか離れていないのに、その距離が遠い。

 亜弓が右手に、力を込めていった。脈打つ心臓をぎりぎりと、握りつぶそうとする。

 周囲の風景がかすんだ。

 見えるものすべてが黒ずみ、視野が狭まっていく。

 ——ここで……こんな場所で、あたしは死んでしまうのだろうか。

 そのような考えが頭に思い浮かんだとたん、理香はすべてが恐ろしくなった。

 これまで、理香は何度も危険な目に合わされてきた。

 そのなかには死を予感させるようなものもあったのだけど今、理香が感じている恐怖とはまったく、比較にならなかった。

 盲目的で、論理性などすべて吹き飛ばしてしまう……そんな、恐怖だった。

 もしここで、あたしが殺されたら……。

 理香は行方不明者として、処理されてしまうのだろう。

 誰も理香の死体がここにあるとは気づかれずに雨ざらしにされ、野良犬やカラスなどに……。

『あんたは、それでいいのかい』

 突然、泉の声が聞こえてきた。

『ここであんたがあきらめてしまったら、可南子はどうなる』

 泉のことばに、理香は息を止めた。

『可南子だけじゃない。母親や父親、お姉さんやクラスメートなど、みんなを悲しませることになる。あんたはそれでも、いいのかい』

 理香はぎゅっと、目を閉ざした。唇を噛みしめる。

 自分ばかり考えていたことに対して、理香は恥ずかしくなった。

 ——そうだ。あたしにできることなんて限られているのだろうけど、それなら最後の最後の瞬間まで、放り出さないようにしよう。

 理香が決意を固めると、急に身体が軽くなった。

 色がよみがえってくる。

 顔をあげた理香は、いつだったか聞いたことのある、しゅるしゅるという音を耳にした。


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