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奈落の女王  作者: なりちかてる
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 斜面を駆け上がり、林の間を抜けると、視界が開けた。

 そこは樹々に囲まれた、とても広い場所だった。

 学校の校庭ぐらいは、あるだろうか。びっしりと芝生のように、草が生えている。

 視界を遮るものはなく、向こうまで見通すことができるのだけど、反対側にある樹は闇に溶け込んでしまっていた。


     うざ・いえい! うざ・いえい!

     いあ! いあ! しゅぶ=にぐらす!

     千匹の山羊を(はら)みし森の黒山羊


 不気味な声が聞こえてきて、理香ははっとなった。思わず、足を止める。

 ほぼ円形になった広い場所の、その中央あたりだ。そこから声は、発せられていた。


    や な かでぃしゅとぅ にるぐうれ

    はすとぅる くふあやく ぶるぐとむ

    ぶるとらぐるん ぶるぐとむ

    ふんぐるい むぐるうなふ

    あい! あい! しゅぶ=にぐらす!


 石のベッド——いや、祭壇(さいだん)だろうか。そこに、可南子と亜弓がいた。

 可南子がその祭壇(さいだん)に横たえられており、そのすぐそばに亜弓が立っていた。

 亜弓はローブのようなものを、身につけていた。フードつきで、袖はゆったりとしている。

 腰のところを帯で結んでいて、ローブの左と右で黒と白に色が分けられていた。そして  首からは理香がレターボックスで見つけた、あの涙のしずくの形をした石を下げていた。

「可南子! か……可南子!」

 ふたりのもとに駆け寄ろうとして、理香は地面に足を取られた。転んでしまう。

 口のなかに土が入ってしまったが、そんなことに構っていられなかった。手の甲で口もとをぬぐい、顔をあげた。

 可南子が石の祭壇(さいだん)の上で、頭を動かした。目と目が合う。

 ——よかった。生きてる。

 地面から立ち上がると、理香はそっと息を吐き出した。

 でも、どういうことなのだろう。

 可南子は腕や足など縛られていないのに、石の祭壇(さいだん)から動くことができないみたいだった。口を動かすが、声のようなものも聞こえてこない。

「ここに来るまで、意外と手間取ったようだね。あともう少しで、儀式が完成してしまうところだったよ」

 亜弓が言った。

「待っていたのさ」

 泉が、亜弓を見た。「どうせ、ぶち壊すのなら、中途半端なのより、ぎりぎりのほうが、腹がたつだろうからね」

「別に気にしちゃ、いないよ」

 亜弓が大げさに、両手を広げてみせた。

「本当の楽しみは、これからなんだからね」

 ぱちんと、闇のなかで指を鳴らした。

 突然、林が動いた。

 樹が倒れてきたように理香は思ったが、そうではなかった。

 樹のように見えるが、それは樹ではなかった。自分で歩いてくる樹など、あるはずがない。

 泉が舌打ちをした。

「シュブ=ニグラスの黒い仔山羊か。ま——でも、夜のゴーントなんかよりは、ずっとましか」

 シュブ=ニグラスの黒い仔山羊と泉が呼んだ怪物を、理香は見つめた。

 全体は樹にとても、よく似ている。が、幹のように見える表皮にはたくさんの口があって、緑色のよだれを垂れ流していた。

 樹の上の部分に枝葉はなく、代わりに何本もの、つたのように見える触手が狂ったように、のたくっていた。

 びゅんびゅんと振り回すたびに、風が鳴った。樹の下はふたつに分かれていて、その脚の先には蹄があった。それで大地を踏み締めるようにして、こちらへと歩いてくる。

 泉が突然、セーラー服の左の袖をめくりはじめた。そこに巻かれていた、赤い染みのある包帯を解く。

召喚(しょうかん)の門より現れ出でよ、黒きもの。星より(きた)る従者は近づきつつ、星の瞳を抱く——」

 呪文のようなものを唱えはじめると、強い風が吹きつけてきた。林の枝葉がいっせいに枝葉を鳴らし、草原が波打ちはじめる。

「『無名祭祀書(ネームレスカルツ)』の名において我、村瀬泉は命ず。汝を求める声は低きところ、高きところまで満たせり。()妖蛆(ようしゅ)は星々の棲み家たる暗黒をして、光明を駆逐せり。なれば、星の精よ」

 理香は呪文を唱え続けている泉の前で、樹の怪物が触手を振り上げるのを見た。

「あ——村瀬さん! 危な……」

 理香が言い終える前に、怪物の触手が泉に襲いかかった。

 触手の一撃を受けて、泉の体が宙を舞う——その場面を理香は頭に思い浮かべたのだけど、そうはならなかった。

 不思議なことに、叩きつけられたはずの触手が空中で止まっていた。

 まるで見えない壁にはね返されたみたいに、触手はだらりと、垂れ下がった。

「赤き(うしお)(にえ)にいざ、(いにしえ)に交わされたる契約を履行(りこう)せよ」

 泉が左手を高く、差し上げた。

 すると、解いた包帯の下にあった傷口が開いたようだった。まるで噴水のように、真紅の液体が噴き上げられた。

 が——妙なことに、噴き上げられた血はいつまでたっても、落ちてこなかった。

 ……そうじゃない。

 恐るべきことに、理香は気づいた。いや、気づかせられた、と言うべきか。

 ——噴き上がっているんじゃない。……吸い上げられているんだ。

 それはおぞましい姿をした、何かだった。

 もとは透明だったのだろう。それが泉の血を吸い上げて、薄紅色にりんかくを染めていった。

 半透明だし、夜の闇のなかなのでよくはわからないのだけど、それはクラゲのような生物みたいだった。

 しかも一匹だけでなく、二匹いるようだ。吸い上げられた血が、二筋に分けられている。

 突然、泉がバランスを崩した。その場に、膝をついてしまう。

「村瀬さん!」

 理香が声をあげると、泉が手で動かないよう制した。ゆっくりと立ち上がる。

「この程度でいいだろう、この()まわしきものどもが。さあ、わたしの生命の水をくれてやったんだ。相応の働きはしてもらうよ!」

 半透明のその生物が、胴体をぶるぶると揺らした。それに合わせて、吸盤のついた無数の触手がうごめいていた。

 牙だろうか、爪だろうか。それが聞いたり閉じたりすると、背後を凍らせるような、そんな忍び笑いがもれた。

「行け!」

 泉がうっとうしげに腕を振ると、半透明の生物たちは宙に散っていった。

 樹の怪物の触手を巧みにかわしながら、襲いかかる。

 泉が最後に、理香を振り返った。

 深くうなずきかけると、前へ歩きだしていった。

 理香は唇を軽く、噛んだ。

 姿勢を正すと、泉とは別の方角へと足を進めた。

 可南子のいる石の祭壇(さいだん)へと。

 そして——亜弓のいる場所へと。

「可南子——」

 へそのあたりに力を込めて、理香は呼びかけた。そうしないと、声が震えてしまいそうだった。

 石の祭壇(さいだん)に寝かされている可南子は白い、ゆったりとした手術着のようなものを着せられていた。

 手足をのばしたままなのはさっきまでと変わらず、やはり身動きできないみたいだった。

 それでも首から上は別で、頭を激しく振っている。理香と目が合うと、逃げろと告げるみたいに、あごを動かした。

 それに対し、理香は答えなかった。ただ、決意を込めて首を横に振ると、亜弓を見た。

 亜弓は奇妙なものを、左手に持っていた。

 杖のように見えるが、そうではなかった。

 ——槍だ。

 しかも、枝か小さい木の幹をそのまま柄にしたようだった。

 節くれだち、三本ほど枝が飛び出していた。

 亜弓は槍を下向きにしていたのだけど、金属製の穂先はさびつき、赤茶けていた。

 そして——穂先の反対側の柄の先には、頭蓋骨(ずがいこつ)があった。

 頭蓋骨(ずがいこつ)といっても、学校にある骨格の標本とは、まるで違う。

 茶色の薄い皮膚に覆われていて、目の部分には眼球が収められていた。

 片方が紫色で、片方が琥珀色の瞳。それが左右、バラバラに動いていた。

 ——生きている……。

 つくりものめいていない、その頭蓋骨(ずがいこつ)の迫力に、理香は悲鳴をあげることもできなかった。

 亜弓は別に槍を揺らしていないのに、頭蓋骨(ずがいこつ)のあごの骨が動き、かたかたと鳴っていた。

 理香は深呼吸をした。

「か、可南子を——」

 亜弓をにらみつけると、胸もとに手をやった。

「可南子を、返してもらうわよ」

 にらみつけても、亜弓の表情は変わったりしなかった。見下したような、冷笑を浮かべている。

「可南子は今回のことに、まったく関係ないわ。それに、飯岡さん。あなた、言ったはずよね。石を返せば、可南子には危害を加えないって」

「ああ、そう言えばそんなことも、約束したのかもしれないね」

 首から下げた涙滴型の石——輝けるトラペゾヘドロンを指の先でいじりながら、亜弓が言った。

「それなら——!」

「約束はしたさ」

 理香のことばをさえぎると、亜弓は暗いまなざしで理香を見た。

「だけど、それはあんたが自主的にこの石を差し出した場合さ。この石は私がこの手で、取り戻したんだからね。約束を(たが)えたことには、ならないさ」

 理香は唇をかんだ。

 右手で、左の手首をつかむ。

 もともと、亜弓がそう簡単に可南子を解放するはずがないことはわかっていたのだけど  それでも、がっかりとしてしまう。

「しかし——理香さん。あんたってのは本当に、腹立たしいことをしてくれるね」

 急に、亜弓の表情が変わった。

 怒りと言うか、憎しみに満ちたまなざしを向けてきた。

 ……いや、まなざしだけじゃない。

 形相のすべて、彼女のまとっている空気そのものが、変質してしまったようだった。

 そのような苛烈な憎しみを向けられたことがないので、理香の息は苦しくなった。

 胸に、締めつけられるような痛みが生じる。

 一歩後ろに下がりかけるが、理香は拳をぎゅっと握った。

 背筋をのばし、腹の底に力を入れると、亜弓を見た。

「少し考えれば——いや、考えるまでもなく、わかることさ。理香さん、あんたぐらいの年齢になれば。だって、そうじゃないか。あんたが後悔するのはどうあっても、目に見えているからね」と、亜弓が言った。

「そんなこと……ないわ」

「今のあんたは酔っているからね。そんなことは、思わないだろうさ」

「酔ってる? あ……あたしが?」

「そうではないと、あんたには言いきることができるのかい? 友人の危機に駆けつけ、見事救出に成功したのは自分だと印象づけるために来たのではないと」

「それは……」

「あんたは、物語のなかの主人公になろうとして、なりきることのできなかった道化(どうけ)さ。私にはわかる——絆というものは結局、裏切られる運命にあるものだってね」

 理香は亜弓の瞳を、じっと見た。話しかける前に、唇をきゅっと一文字に結んだ。

「それは飯岡さんの経験から、言っているのですか」

「なに?」

 亜弓が槍を、振りなおした。

 柄の石突きの先にある髑髏(どくろ)の目がぎょろりと動き、あごがかたかたと鳴った。

「シュブ=ニグラスを召喚(しょうかん)して、飯岡さんは何をするつもりなのですか」

「そんなの——決まっているじゃないか」

 亜弓が傲然(ごうぜん)と、胸をそらした。

「すべてを、破壊してやるためさ」

 理香は息を飲み込んだ。

 亜弓のその答えは予想していたことなのだけど、背筋に冷たいものが走ってしまう。

 軽いめまいを感じた。

「そんな——どうして」

「退屈で下らないことで満ちたこの世界には、存在する価値なんてない。理香さん、あんたにも覚えがあるはずだ。じゃないのかい」

 亜弓が槍を持ち上げた。穂先で、理香を突くようにする。

 理香はどきりと、させられた。

 亜弓の仕草に、ではない。ことばによってだ。

 しかし——理香は首を、横に振った。

「たしかに、自分なんて生まれなければよかったとか、嫌いな相手がいなくなってくれればなどと、考えたことはあります。でも……」

 理香は口を開きかけるが、ことばが出てこなかった。舌が思うように、動いてくれない。

 急に理香は、空しさを覚えた。

 自分に対してではなく、亜弓に対してだ。

 さっき、亜弓は理香に向かって、こう言った。

 絆というものは結局、裏切られる運命にあるものだ、と。

 理香には、亜弓がどのような人生を生きて、どのようにして世界を破壊しようと思い至ったのか、わからない。わからないけど——あのことばが亜弓のすべてを表現しているのではないか。

 理香のはそのように、思えてならなかった。

「向こうの世界……幻夢郷(げんむきょう)で、あたしは貴子さんと会いました」

 理香は大きく、息を吸った。「飯岡さん——」

 そこで理香は、ことばを切った。

 顔をあげ、正面から亜弓の顔を見つめる。

「いいえ、亜弓さん。どうしてあなたは、貴子さんを信じてあげることができないのです。あなたには、貴子さんという素晴らしい方がいらっしゃるのに」

 瞬間、理香の頭の脳裏にひとつの、ある映像がひらめいた。

 幾重にも閉ざされた冷たい闇のなかで、こちらに背を向けて、たったひとりで立つ亜弓の、その姿が。

 理香は胸に、締めつけられるような痛みを感じた。目の奥が熱くなり、その感覚が広がっていく——。

「うるさい!」

 亜弓が大きな声をあげた。

 そのひと言で理香から、胸に生じた切ない痛みや目の奥で湯が満ちるような感覚は、去っていった。

「だったら、試してやるよ。どんな状況に置かれても……死を予感するような恐怖に叩き落とされても、あんたのその気持ちが本物であるか、どうかをね!」

 亜弓が左手を高く上げた。

 頭蓋骨(ずがいこつ)が、かたかたと鳴る。

「あ!」

 理香はバランスを崩し、その場に尻もちをついてしまった。

 と——理香は見た。

 足もとの地面が盛りあがり、そこから現れた手が、理香の足首をつかんでいるのを。


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