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それから——三日がすぎた。
今は放課後で、教室のそうじも終わったところだった。机といすも、もとの場所に戻されている。
教室にはまばらにしか、生徒がいなかった。
それぞれ雑誌を広げたり、おしゃべりをしたり、または携帯電話を手にメールを打ったりしている。
放課後ということで、天文部のクラブ活動はもう、はじまっているのだけど、今日は行く気になれなかった。
今、理香はトイレから帰ってきたところで、机と机の間を歩いていた。
顔をあげると、廊下側から数えて四列目の、一番後ろの席に顔を向けた。
最近、気づくと理香はその席を見つめていることがあった。
でも、誰も座っていない席をどうして見つめているのか……。
理香にもさっぱり、わからなかった。
理香はその席まで近づくと、なでるようにして机に触れた。いすを引いて、座る。
いすそのものは、何と言うことはない。
おしりの下に当たる木の感触はかたくて、その席から見える教室の風景も変わりがない。
右手には扉とボードつきの壁、正面には黒板とスピーカー、OHPに時間割と教壇、左手には開けっ放しになった窓と波打つカーテンがあった。
ちょうど、窓からはいい風が入って来ていて、理香の前髪を揺らしていった。
理香は深呼吸をするのだけど、どうしてなのだろう。胸に締めつけられるような、切ない痛みが走った。
涙が出てきてしまう。
教室内に残っているクラスメートが理香の様子に、ひそひそとささやきあっていることは、気づいていた。
でも、涙が止まることはなかった。
学校では仲のいい友人がいっぱいいるし、勉強の上での悩みもない。
天文部での人間関係だって、うまくいってるし、学校が終わってからは七時ごろに、勤めに出ている母と姉が家に帰ってきて、理香の作った料理をおいしいと言って食べてくれる。
毎日が楽しくて、しょうがない。
それなのに満たされない思いで、いっぱいだった。
まるで、とても大切なものをなくしてしまったのに、そのかんじんな大切なものが何だったのか、わからない——そんな感じだった。
「今回ばかりは……」
そのことばに、理香は顔をあげた。
理香のすぐそばにある扉から、ひとりの女子生徒が教室に入ってくるところだった。
陵北高校の生徒ではない。黒にネイビー・ブルーのセーラー服を着ているのだけど、理香の目にはそれが、夜の闇が人の形をとって、現れたみたいに見えた。
口紅でも、差しているのだろうか。唇がつややかに紅く光っているのだけど、理香には流れ落ちたばかりの鮮血で染めたみたいに、感じられた。
「わたしの、見極め不足だったようだね」
「村瀬……泉さん」
理香が立ち上がろうとすると、泉がそのままでいるよう制止した。近づいてくると優しく、理香の涙をぬぐってくれた。
「ここでの暮らしはあんたにとって、とてもいいものになると思ったんだけどね」
泉のことばに、理香は首を横に振った。
「数日間をこの世界ですごしてみて、わかりました。たとえ——可南子を一時的に忘れることはできても、頭のなかから完全に追いだしてしまうことはできない、と」
「だけど、いいのかい? ここで決断するってことは、ここにはもう、二度と戻って来ることはできないんだよ」
理香は泉の目をじっと見ると、力強くうなずいた。
「構いません。どんなに過ごしやすくても、ここはあたしの世界ではありませんから」
「わかった」
泉が理香に、手を差しだしてきた。
理香はゆっくりと息を吸うと、その手を握った。
◇ ◆ ◆
「あ!」
足もとをとられ、理香はバランスを崩してしまった。地面に倒れ込む。
頭を振ると、理香は地面に手をついた。口のなかに入った泥を、吐き出す。
昨日、ひと晩中降った雨のせいで、地面の表面はぬかるみのようになっていた。
気をつけて歩いていないと今のように、転んでしまう。
「あ〜あ、大丈夫かい」
泉が、理香が四つん這いになっているところまで、戻ってきてくれた。立たせてくれる。
泉が体についた泥を叩き落としてくれたけど、何度も転んで泥だらけになっていたので、あまりきれいにはならなかった。
「ちょっと、ここらで休んでいくかい?」
泉が訊いてきたけれど、理香は首を横に振った。ゆっくりと、息をする。
空を見あげると、雲間からきらきらと輝く銀色の星星が目に入った。
正面に見えるのは天の川だった。
そのまわりでこと座のベガとはくちょう座のデネブ、それにわし座のアルタイルが強い輝きを放っていた。
……天文部員のため、どうしても星を目にしてしまうと線でつないで、星座をつくりあげてしまう。
ふたりがいるのは、理香の暮らす垂穂区から車で一時間ほどのところにある、手稲山の林のなかだった。
あれから——西友の駐車場で泉と出会った理香は、日が昇ってから、この手稲山までやって来たのだった。
手稲山にはふもとから頂上まで、きちんとした道路が通っているのだけど、理香たちは途中からその道をはずれた場所にいた。
背後を振り向くと、ふたりがここまで歩いてきた、ぐねぐねと曲がりくねった山道が見えた。
そのずっと向こうに広がっているのは、地上の明かりだった。赤や緑、青などの灯火が無数にまたたいている。
山道といっても、ここはハイキング・コースなどではなかった。
人が歩くようにはできておらず、薮はそこら中にあるし、油断していると木の枝が顔を打つし、地面の上に張り出している根に足をぶつけて、転倒しそうになってしまう。
風が吹いた。
ざわざわと吹き抜けていく風が枝についた葉や下生え、それに首すじでまとめた理香の髪を、揺らしていく。
風が弱まると、止んでいた虫の声がまた、聞こえてきた。濡れた土と緑のにおいを感じた。
山登りをするということで、理香はカーゴパンツ、ハイネックセーターにウインドブレーカーを着てきたのだけど、充分ではなかったようだ。まだちょっと、肌寒い。
理香は泉を見た。
泉ははじめて出会った時と同じく、黒とネイビー・ブルーのセーラー服を着ている。
セーラー服だと、かなり歩きづらいはずなのに、木の枝などで引っかけた傷どころか、泥すらもついてないかった。
「泉さん」
理香は泉の目を見て、言った。
「これからは、あたしが転んでも、けがをしても、戻って来ないで下さい」
もう三時間近くずーっと歩きづめで、立っているのもつらい。正直に言えば足をのばして、三十分ほど休みたい。
だけど——そんなことはできなかった。
この先に、可南子がいる。
泉によれば、輝けるトラペゾヘドロンを手にした亜弓は月のないこの夜、シュブ=ニグラスの召喚の儀式を行う、とのことだった。
——可南子を、生け贄にして。
可南子と遊んだり、けんかをしたり、いっしょに泣いたりしたことはいくらでも、思い返すことができた。
……目を閉ざせばいつだって、浮かんでくる。
去年の夏休みに泳ぎ方を教えてもらったことや、修学旅行で門限に間に合いそうになく、ふたりでいっしょうけんめいに走ったこと、マラソン大会で最下位になった理香に、最後までつきあってもらったこと、など。
その思い出を、理香は過去のものにするつもりはなかった。
いつか、この日のことをふたりで笑いながら、話しあいたい――そのように、理香は思っていた。
泉が戻って来るたびに、理香は優しいことばをかけられるのを、期待してしまう。これで休めると、そう思ってしまう。
心を強く持とうと理香はしているのだけど、無意識にからだが休みを求めてしまう。
そのことがとても、腹立たしかった。
「あたしの歩きが遅いのでしたら、足でまといとそう思うのでしたら、構いません。置いていって下さい。でも――あたしは可南子をどうしても、助けたい。助けたいんです。だから、時間がかかってもきっと……いえ、必ず泉さんに、追いつきます」
体力がないのは、しょうがない。
今までずっと、運動は苦手だからと言って、からだを動かしてこなかったのだから。
でも後悔など、あとからでもできる。
いや――正確に言うと、今の理香は後悔する時間すら、惜しいのだから。
後悔するのも、くやしくて腹をたてるのも、落ち込むことも、意味はない。
だったら、自分にできることすべてを、ぶつけてみるしかない。
——これ以上の後悔を、重ねたくないから。
その思いだけが、理香をここまで歩ませてきた。
泉はその理香のまなざしをしっかりと受け止めると、腕を組んだ。
目を閉ざす。
「今回ばかりは本当に、わたしの見極め不足だったようだね」
泉が言った。
「意外だったと言うよりも、わたし自身の思いあがりを、突きつけられたような気になったよ」
「え……?」
「これでもわたしは、こういう場面に何度となく遭遇しているからね。ただでさえ、あんたにはこの状況をひとりで打破する特別な力が与えられていない。だから——見くびっていたのさ。あんたが可南子を見捨てて、安逸な暮らしを選ぶに違いないってね。でも、そ
のわたしの浅薄な考えを、あんたは見事に裏切ってくれた。……もちろん、いい意味でね」
そう言うと、泉は自分のスカートをめくった。
白い太ももがのぞき、理香はどきりとさせられたのだけど、泉は右足に巻かれていたベルトをはずした。理香に差しだす。
「え? あの……これは?」
「クリス・ナーガ」
「クリス・ナーガ?」
理香は泉に渡されたものに、まじまじと見入った。
柄から先端までは、六十センチメートルくらい。
でも大きさの割りに、どっしりとした重さはなかった。テニスラケットぐらいで、どちらかというと軽すぎるように感じられた。
柄から上の部分は炎か波をそのまま、時間を止めて固めてしまったような不思議な形をしている。もしかして、木を削って作られたものかもしれないと思って顔を近づけてみたのだけど、金属製だった。ひんやりと、冷たい。
柄は象牙らしく、夜の闇のなかで淡い光を放っていた。よく見ると精巧な細工がなされていて、ちょうど竜の頭になっているみたいだ。
「マレー民族に伝わる聖なる武器で、クリスは“短剣”を意味している。クリスはどれも洗練された武器なのだけど、クリス・ナーガはそのなかでも美しさのなかで際立って居ることで有名だね」
理香は泉を見た。彼女がこれを理香に渡したということは——自分の身は自分で守れと、そういうことなのだろう。
覚悟はしていたつもりなのだけど、冷たい飲み物を一気に喉に流し込んでしまったような気になる。お腹の底にずん、と重いものが生じた。
「そして、クリスには悪しきものを退ける護符としての力が備わっている」
「護符?」
「そのクリスは、隕鉄で作られているからね」
「いん……てつ?」
耳なれないことばに、理香は聞き返した。
「おや、天文部に所属しているあんたが隕鉄を知らないとは、意外だね。……字にしてみればわかると思うけど、隕鉄というのは隕石に含まれている鉄のことさ。青銅器の時代には天からの黒い銅と呼ばれ、いくつかの神話で、この隕鉄でできた剣を武器にしている英雄が登場していることからもわかる通り、神秘的な力が宿るとされたようだ。……ところで、理香。夜の駐車場でわたしの言ったこと、覚えているかい?」
急に話題が変わって、理香はまばたきをした。
「え? あ、な——何がです?」
「幻夢郷も現実の地球も、本質的には変わりない——精神の力が充分に強ければ、世界を思いどおりにつくり変えることすらできるってことさ。こちらでは自然科学やさまざまなテクノロジーが世界を縛りつけている法則になっているけど、それを超える力……いわゆる魔術が実際に存在することを、あんたはその目で見てきている。だろ?」
「は、はい」
「同じように、そのクリスにも古い魔術の力が宿っている。何千年もの年月と、その短剣を手にしてきた様々な人々の意志の力がね」
「何千年もの年月と、様々な人々の意志……」
理香が口にしたとたん、その様々な人々の顔が目に見えたような気がした。
クリスを通して温かなものが流れ込み、理香は決意を新たなものにした。
「じゃあ」
と、泉が言った。「そろそろ、行くよ。いいね」
「はい」
うなずくと、理香は泉に続いて山道を登っていった。
それから——どのくらい、時間が経過したのだろうか。
携帯電話は置いてきてしまっているので、今が何時ごろなのか、さっぱりわからなかった。
今、理香たちが歩いているのは土のなかに大小の岩が半分、埋まっているようなところだった。
左手は胸もとまでの高さの短い斜面で、ささの葉やふき、よもぎなどがびっしりと覆っていた。斜面の向こうは林で、白樺の木が枝葉をくっつけるようにして並んでいるのが見えた。
右手は岩場で、どこかで川でも流れているのか、水の音がする。
と——先頭を歩いていた泉が足を止めた。
風が吹き、周囲でカサカサと、枝と木の葉がこすり合わされる、どこか乾いた響きのある音が耳を満たした。
……どうしたんです。
泉の背中に声をかけようとするが、理香は口をあけたまま、ことばを飲み込んだ。
弱くなったり、強くなったりしながら吹き続けていた風が突然、止んだ。すると、人の声のようなものが聞こえてきた。
『来れ、地獄を抜け出しし者、十字路を支配する者よ。おお、汝、夜を旅する者! 犬の遠吠えと流された血の滴りに歓喜する君。影のなか、墓石をさまよう者、血に飢え、幾多の人間に恐怖を抱かしめる者よ。ゴルゴよ、モルモよ! 一千の顔を持つ月よ。いざ、我の捧げる生け贄により、盟約を結び給え!』
——生け贄!
その呪文のような文句に含まれていることばに、理香のからだが反応した。肩が震える。
「まずいねぇ」
泉がつぶやくのを、理香は聞き逃さなかった。右手で左の手首を、ぎゅっと握る。
理香が顔をあげるのと、泉がこちらを振り返るのとは、ほとんど同時だった。目が合う。
「あの、泉さん——」
言いかけると、泉がうなずいた
「ここから先は、もう、うかうかとしていられないようだね」
泉が腕をのばしてきた。肩を叩かれる。
「——覚悟はいいね」
「はい」
ふたりは石の多い夜の山道を、走りだしていった。




