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奈落の女王  作者: なりちかてる
10/17

—09—

 理香と泉は西友にあるベンチに、場所を移していた。

 後ろには、さっきまで彼女たちがいた駐車場があり、正面には西友の店内に入るサンルーフがあった。ガラスごしに、明かりの消えたマクドナルドのカウンターやテーブルがのぞいている。左手にはくじ売り場のボックスがぽつんと置かれていて、右手に少し行くと駅に続くようになっていた。ロータリーと、改札口まで続くエスカレーターがあった。

 ——何だか今日は、よくベンチに座る日だな。

 いや、幻夢郷(げんむきょう)は夢の世界なのだから、あれは実際には座ったことにならないのかもしれない。

 ——でも……。

 理香はちらりと、後ろを見た。

 ひびの入ったアスファルトと屋根のつぶれた車が、目に入る。

 ——これは本当に、現実の出来事なのかしら。

 手の甲をつねってみると確かに痛みが走るのだけど、でも貴子が口にしていたように、今も理香のからだはベッドの上で眠っているのかもしれない。

 理香は頭を横に振った。大きく、ため息をつく。

 ——こんなこと考えていても、しょうがないよね。

 理香は顔をあげた。泉を見る。

 ベンチから少し離れたところに、泉が立っていた。腕を組んで、理香を見下ろしている。

「——あ、あの」

 声がうまく、出てこなかった。

 理香は胸もとを軽く叩くと、唾を飲みこんだ。鼻で深く、息を吸う。

「あなたは一体、何者なんですか?」

「わたしが何者かって? ずいぶんと根源的な問いかけをするんだね。実存哲学でわたしの存在を証明してほしいのかい? それとも、プラグマティズム? 永劫回帰の思想? 唯名論……ってことは、ないよね」

 理香はまばたきをした。

「え? ……あ、あの」

 泉が吹きだした。大きな声で笑う。

「あんたもまじめだねぇ。わかってるよ、あんたが何を聞きたいかってことはね」

 ウインクをしてきた。

 笑われたことにはちょっと、むっときたのだけど、でも泉の笑い声には人をばかにしたような響きはなかった。

「都市伝説って、あるだろう」

 泉が言った。

「都市伝説?」

「そう。誰かが何気なく話したことなのに、噂がひとりだちをし、時とともに様々な要因が付加されてまったく、別なものになってしまうことがね」

「……ええ」

「今は携帯やインターネットがあるから情報が伝わるのも速いけど、メディアがなかった時代には旅人や商人、巡礼者などが口伝えで噂をつくりあげていった」

 理香は泉の顔を、じっと見た。泉が何を話そうとしているのか、さっぱりわからなかった。

「民話や伝説はそうやって、形作られてきた。言ってみれば何世代もかけて行われた、伝言ゲームだね。ある地点で物語の原形が考え出されて伝わり、ちょうど池にいくつもの小石を投げこむように、同心円状に広がっていく。とある場所では物語の一側面が強調され、とある場所ではその一面が打ち消されるなどしてね。

例えば常陸国(ひたちのくに)風土記(ふどき)行方(なめかた)群の段には、土地の古老(ふるおきな)が物語る形で夜刀(やと)の神という(みずち)が書き記されているのだけど、誰も夜刀の神など見たことがないのにとてもリアルに描写されている。でも——こう考えてみたことはないかい? 昔話に登場する龍や河童、鬼などは本当に、存在していたってね」

「え? どういう意味?」

 理香が聞くと、泉は面白がっているような笑みを浮かべた。

「産業革命の到来と自然科学の発達により、それまで多くの人々が信じてきた宗教的世界や宇宙観はすべて、科学を基準にしたものに書き換えられていった。もちろん、その根っこにはキリスト教によるオカルト排斥があるんだけど——」

 そこで泉は、理香の表情に気づいたようだった。肩をすくめる。

「今では科学全般の世界になってしまって、民話や説話の世界に息づいていた自然に対する畏怖や敬いの精神、それに大地の精霊たる妖怪の類いは信じられなくなってしまった。だって、そうだろ? 二百年、三百年以上も前の昔なら日が落ちてしまえば、外は真っ暗になってしまうのだけど、今では街灯があるから夜中に起きだして、コンビニに買い物に行くことができる。だけどそれは、人々が科学を、世界を動かす理力と信用した瞬間に、枝分かれしてしまったと言うこともできる」

「枝分かれ……?」

 泉は、うなずいた。

「そう。それまでの、前時代的な世界観を有した世界と、今あんたたちが暮らしている世界とにさ」

「あ……あの」

「ああ、前置きが長すぎたようだね」

 泉が手を振った。

「わたしが何者か、だったね。まず、わたしだけど、人間じゃない」

「え——に、人間じゃ、ない?」

 泉は理香と目を合わせると、にっこりと笑った。

「あれだけ常識から外れた経験をしたあんたが、わたしが人間じゃないってだけで、そんなに驚くのかい」

「だ……だって」

「科学の力により、人間たちは世界をつくり変えてきたけど、それで恐怖心まで消えてしまったのではない。光が強ければ強いほど闇は深く、濃くなるようにね。さっき、わたしは龍や河童、鬼などは本当に存在していたと言ったけど、それは逆から見ると人間の恐怖心や——この場合、想像力と言いかえることもできるけど、それが龍や河童、鬼などを実際に生み出してきたとも考えられる。そして今も、人間たちは妖精や精霊、怪物にかわるものに、生命を与え続けている。都市伝説としてね」

「でも、ここは幻夢郷(げんむきょう)じゃない。現実の地球——そうでしょ?」

「同じだよ。本質的にはここも幻夢郷(げんむきょう)も、変わりない。ただ違うのは、ここでは科学で世界のすべてを説明できると、そう信じられているだけ。それだけだよ」

「それなら——」

「そう。常識を打ち破るくらい意志の力が強ければ、世界を思い通りにすることができる。そして、それを実際にやっているのが亜弓なんだけどね」

 ——亜弓……。

 泉のことばに、理香は引っかかるものを感じた。

「じゃあ、村瀬さんがさっき、倒した……」

「泉。わたしのことは村瀬でなくて、泉でいいよ」

 理香はこくんと首をうなずかせ、話を続けた。

「泉さんが倒した、あの目も鼻も口もない怪物や幻夢郷(げんむきょう)に現れた猟犬——ううん、それだけじゃなく、亜弓さんが呼びだそうとしているシュブ=ニグラスという存在だって、人間の恐怖心が生みだしたもの、と言えるのではないかしら」

「さぁね。そんな風に考えることもできるけど、もしかしたらわたしたちのほうが、異形(いぎょう)の神々の夢の一部なのかもしれないよ」

「あたしたちのほうが、夢の一部?」

「本当のところは、わからないさ。ただ、人間たちは異形(いぎょう)の神々の存在を肌で感じとり、その恐怖に対抗できるものの登場を願った」

「それが、泉さん——あなたってこと?」

「そう。まぁ、さっきの夜のゴーントやユゴスよりのもの、バイアクヘーぐらいならわたしでも充分、相手にできるけど、シュブ=ニグラスのようなものになると完全に、お手上げなんだけどね」

「……貴子さんはあたしに、近いうちに支援者が現れると言ってました。あなたがその、支援者なんでしょう。だったら、あたしは何を——どうすればいいんです?」

「選択肢としては、ふたつある」

 胸の前で、泉が腕を組んだ。考えこむような顔をする。

「ひとつは可南子の魂を取り戻すため、亜弓と正面から戦う。もうひとつは……」

「もうひとつは?」

「亜弓も可南子も存在しない世界で平穏に過ごす、だね」

「亜弓さんも可南子も存在しない世界で……?」

「そう。世界ってのは、ひとつだけじゃないからね。幻夢郷(げんむきょう)もそうだけど、例えばドイツが西と東に分割されていなかったり、第二次世界大戦で原子爆弾が開発されなかったり、または理香、あんたが存在してない世界、なんてのもあるよ」

 ——あたしが存在しない世界。

 その世界を想像してみようとしたけど、理香の頭のなかには浮かんでこなかった。

「ま、でもあんたとしては、可南子の魂を取り戻したいという気持ちが、強いんだろうね」

「え……ええ」

 もちろん、だった。

 可南子はまったく関係がなかったのに、理香が彼女を巻きこみ、そしてその結果、魂を肉体から切り離されることになってしまったのだから理香がどうにかして、彼女を助け出さなければならない。

「でもねぇ、理香。何もあんたがこれ以上、危険を犯すことはないんだよ。もうひとつの世界で平穏に過ごせたら、それでいいと思わないかい?」

「え? あ、あの……でも、あたしは」

「わかってるさ。理香、あんたの言いたいことはね。別に、あんたの決意を疑ってるんじゃないんだ。あんたが友達思いってことも全部、わかってる」

「それは……あたしが足でまといってことですか?」

 理香はぎゅっと、右手で左の手首を握った。

「だったら、あきらめますけど」

 泉は頭をかくと、横目で理香を見た。

「そんな顔、しないでおくれよ。わたしだって意地悪でこんなこと、言ってるんじゃないからね」

「だって……」

「だけどね、理香。あんたが、はじめてじゃないんだよ。こういうことになったのはね」

「はじめてじゃ——ない?」

「さっき、言ったよね。世界はひとつじゃないって」

「ええ」

「ここで起こっていることが別の世界でも、発生しているのさ。その世界では理香、あんたがまた亜弓と出会っているのかもしれないし、まったくの別人が少し違う状況に、置かれているのかもしれない」

 それから泉は一度、ことばを切った。

「……あんたの可南子を助け出したいって決意が本物なら、どんなことがあったって、あんたには手を貸す。それだけは、約束するよ。だから……それを、見極めさせてもらわないとね」

「見極める?」

 泉が、うなずいた。

「朝、あんたの目が覚めた時、世界は亜弓も可南子も存在しないものになっているはずさ。あんたには、わからないかもしれないけどね。そして、それでも可南子を助けたいというあんたの気持ちが変わらなければ——いつでも、こちらの世界に戻してあげるよ。それで、いいだろ?」

「え……ええ」

 泉が理香の座っているベンチまで、歩いてきた。手を差しだす。

 理香は泉の顔をじっと、見つめた。泉は理香のまなざしを正面から受け止め、見つめ返してきた。

「……わかりました」

 理香はゆっくりと、息を吸った。

「お願いします」

 ふたりはしっかりと、手を握った。

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