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奈落の女王  作者: なりちかてる
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序章

 夜風のぬるい、夏のさなかのことだった。

 深夜の二時をすぎても温度計の針は二十五度より下にさがることはなく、長い夜はもう三日前から続いていた。

 理香(りか)は道の途中で立ちどまると、ひと息ついた。額の汗をぬぐう。それから、夜空を見あげた。

 天の川。北斗七星。カシオペア座。さそり座。

 夏の星座たちが目にはいった。西の空にある、ひときわ大きな輝きを放つ三つの星が描くのは、夏の大三角形だろう。

 中空には満月がかかり、夜空を明るく照らしていたが、今夜はどうしたことか、星空がきれいに見えた。ふだんならば、望遠鏡を用意しないと街の明かりに邪魔されて見ることのできない暗い星までが、夏の空に澄みきった輝きをまたたかせている。

 ——これで。

 と、理香は声に出さず、つぶやいた。

 流れ星でも流れてあたしの願いをかなえてくれたら、いいのだけど。

 理香は右手にさげたポリ袋を、持ち直した。ポリ袋には、近くのコンビニエンス・ストアで買ってきたポテトチップやスナック菓子、ジュースなどが入っていた。

 明日は理香の高校の始業式だ。そして、宿題の提出はあと数時間というところまで迫っている。それなのに……。

 理香は家で待ち構えている、まだ半分も終えていない宿題のことを思って、ため息をついた。頭が自然、うつむく。   

 ——ま、いいや。早く帰って、できるところまでやってみよう。

 軽くのびをすると、ふと理香はあるものに気づいた。

「あれ?」

 街灯の下だ。電柱のところに、ボンネットをぐしゃりとつぶれさせた車が止まっていた。フロントグラスに波紋状に細かいひびが走り、バンパーやガラスの破片、金属製の部品などが車のすぐ前の道のうえに散乱していた。エンジンはもう止まっており、オイルのにおいなどはしてこなかった。

 事故でも起こしたのだろうか。しかし車は電柱のすぐそばで止まっていたが、その電柱にも塀にも、ぶつかったようすはなかった。

 理香はその車に歩みより、なかをのぞきこんだ。これだけ車が破損しているのだから、運転者も無傷ではすまないはずだ。しかし、車のシートには誰もいなかった。とすると、運転者は自力で助けを呼びに行ったのだろうか。

 だが、それにしては奇妙だった。理香は車全体をながめてみて、そう思った。

 事故を起こして運転者が助けを呼びに行くとしたら、まず車のドアをあけるはずだ。それなのに、理香の目の前にある車のドアは前も後ろも、あけられていなかった。もちろん、車の外に出てからドアを閉めていった、ということもあるだろうが、けがをしている人がそんなことをするだろうか。

 それともうひとつ。ドアはあいていないのに、運転席の横の窓ガラスが割られてなくなっているのだ。

 これはドアがあかず、運転者がガラスを割って車から脱出したということだろうか。しかし、理香が見たところ激しく破損しているのは車の前の部分だけで、ドアのところには細かい傷はあるもののひしゃげておらず、あけるのに不都合があるとも、思えなかった。

 理香は車に歩み寄ると、くわしく内部を見てみた。それでわかったのだが、ガラスは地面にほとんど落ちていないのに、助手席や運転席の床の部分に散らばっていた。とすると、ガラスは外側から割られたことになる。では、車が事故を起こすのを目撃した人が外からガラスを割って、運転手を助け出したのだろうか。そうだとしても、やはりドアをあけたほうが簡単だし自然だ。

 理香は頭を、よこに振った。

 なぜ車のドアがあいていないのか。窓ガラスが地面ではなく、車の内部に落ちているのはどうしてなのか。気になるといえば気になるが、これ以上考えてもしょうがないのもたしかだ。

 理香は車の前を通りすぎると、歩いていった。

 しばらく行くと、理香はブロック塀が一部切れているところにたどり着いた。塀が切れている部分は人間がひとり、通り抜けられるくらいあり、その先は四方を柵に囲まれた空き地になっていることを、理香は知っていた。

 理香はスカートのポケットから、小さなライトを取り出した。スイッチをいれると、塀の切れている部分から空き地へと入っていった。

 ここを通り抜けると、理香の家まで近道になるのだ。それで、コンビニに行く時などはよく利用しているのだが、さすがに夜ともなると不気味だ。しかし——。

 理香は街灯に照らされた道をふりかえった。今さら遠回りするのも、めんどうだ。それに、空き地を通り抜けてしまえば一分とかからずに、家に帰り着くことができるのだ。

 理香は空き地へと一歩、足をふみいれた。ライトで足もとを照らし、歩きだす。月はどうやら雲間に隠れてしまったらしく、空き地は来たときよりもずっと、暗く感じられた。

 塀を越えたとたん、虫の声が耳にいたいほどいっきに広がった。空き地の右手は林になっており、虫の声はそちらから聞こえてきていた。理香が林のほうへライトを向けると、一瞬だけ虫の声はやむのだが、それだけだった。また虫の声は大きくなり、理香の耳にはそれ以外なにも聞こえなくなってしまった。

 理香は肩をすくめると、草のあいだを蛇行しながら暗闇のかなたへと消える、地面がむきだしになった道を歩いていった。

 風がふいた。ちっとも涼しく感じない生あたたかい風が、理香の頬に触れていった。理香の頭上で樹々の枝葉がふれあい、不気味な音をたてた。理香はその音に思わず、足を止めそうになった。しかし、一度足を止めてしまうと周囲の闇にのみこまれ、また歩きはじめるのに勇気をふるいおこさないといけなくなるので、理香は足を止めなかった。ライトを握りなおし、胸に深く息をいれた。

 と、理香は顔をあげた。歩調をゆるめる。

 ——人の声……?

 前のほうから、だろうか。人間の声のようなものが聞こえてきたような気がした。

 理香はライトを、声が聞こえてきたとおぼしき方向に向けた。

「誰? 誰かいるの」

 理香はそう、声をかけた。しかし返事はなく、ライトの頼りなげな光にも、なにも浮かびあがってこなかった。

 気のせいか。理香はほっとし、そう自分を納得させると、道のうえを歩きはじめた。

 と。

 なんだろう。理香はなまぐさい臭いをかいだ。その臭気は次第に強くなり、気分が悪くなってきた。吐き気がこみあげてくる。

「う……あ、ああ〜」

 闇の向こうから、人のうめく声が聞こえてきた。今度は聞き間違いなどではない。はっきりと、理香はその人の声を聞きとった。

「だ、誰?!」

 理香はびっくりして、大きな声でいった。

 左手のほう。空き地のはずれの、柵のすぐそばだ。理香はそちらへ、ライトを向けた。

 原っぱの上に、もう若くはないが四十を過ぎているとも見えない女の人が、横たわっていた。ライトでその女性の全身を照らして、理香は息を止めた。

 女の人の腰のあたりに、どす黒い水たまりのようなものができていたからだ。そして、女性の衣服の腰からうえが深紅にそまっていた。

 ——血。

 理香はすぐに、さきほどの生ぐさい臭いが血であることに思い当たった。

 だが、その大量の血と臭いにとまどっている暇はなかった。理香はすぐにその女性のもとまで、駆けよっていった。

 ——あー、携帯、持ってきていれば、よかったのだけど。

 理香は自分が携帯電話を自宅に置いてきたことを、後悔した。理香の学校は携帯電話を禁止していたのと、理香自身あまり携帯電話を好きできなかったため、持ち歩く癖がついてなかったのだ。

 ——でも、こんなことになるんだったら、持ち歩くべきだったわ。携帯がここにあれば救急車だって、すぐに呼ぶことができたのに。

「あ、あの、おばさん。大丈夫ですか」

 理香は間の抜けた質問をした。これだけ血を流しているのに、大丈夫もないのだが女性は理香を見あげると、彼女の腕をとった。

 女性が口を動かした。何かしゃべろうとしているらしい。 理香はその女性に、耳を近づけていった。

「に……逃げて」

 ——え。

 理香は思わず、その女性を見た。

 ——逃げて? どういう意味だろう。

 助けて、とか人を呼んできて、とかならわかるが逃げてとは、どういうことだろう。

 しかし、理香はすぐに女性は大けがをして、混乱をしているのだろうと思った。

「待ってください。今、救急車を呼んできますから」といった。

「無駄……よ」

 女性が、今度は理香が耳をよせなくても聞こえる声でいった。

「あの人、からは、逃げ、られない。それよりも——」

 女性が右手を差し出した。手のひらをひらくと、その上にはしずくのかたちをした不思議な色あいをした石がのせられていた。

「これ……持って、いって」

「え?」

「はや……く。こ、れ」

 女性が苦しそうだったので深く考えもせず、理香はその手のひらのうえにあった石をとった。

「あの——でも、これは?」

 ……その時だった。

「見付けたよ」

 声がいきなり、かけられた。

 理香はその声のしたほうに、顔を向けた。

 空き地の出入り口の塀の途切れた部分に、別の女性が立っているのが見えた。

 ふいに、空き地のなかが明るくなった。おそらく雲間から、月が姿をあらわしたのだろう。それまでりんかくを残して闇に一体と化していた、塀の切れ目に立っている女性の顔が月の光に浮かびあがった。

 女性は年齢はよくわからなかったが、おばあさんほどの年寄りであることは明らかだった。その老女がこちらに近づいてきた。

「逃げて!」

 女性が叫び、とても重傷を負っていると思えない力強さで理香をつきとばした。理香は転倒し、ライトを手放してしまった。

 理香が上体を起こした時にはもう、老女は女性のすぐそばまで迫っていた。

 女性はその老女から逃げようとしたが、老女は意外に力があるらしく、かがみこむと腕をつかんで動きを封じてしまった。背を支え、抱え起こした。

 老女が女性のあごをわしづかみにした。顔を固定する。

「あ……」

 なにが起こっているのか、理香にはさっぱりわからなかったが、それでも女性が苦しんでいるのははっきりしていた。理香は老女のところに走り寄り、やめさせようとした。 

 ——と。

 老女が女性に、キスをした。予想外のことに理香は足を止めた。びっくりして、老女と女性の顔を見つめる。

 キスといっても老女は唇を押し付けているだけだったのだけど、理香はなんだかようすがおかしいことに気づいた。 

 ——それまで首をねじって老女から逃れようとしていた女性の動きが、いきなり静かになった。力んでいた腕が脱力し、握りしめていた拳がゆっくりとひらいていった。

 理香は目をおおきく見開いた。その場に尻もちをつく。

 理香が見ている目の前で女性の肌からみずみずしさが失われ、しわがよっていった。黒髪が地肌のほうから白髪へと変色していく。まばたきもせず見ているうちに、女性はミイラのようになってしまった。そしてそれとは逆に、もともとは老婆であったほうは若返っていった。みすぼらしい老女が、中年くらいのおばさんになった。

「あ……あ、ああ」

 ことばが出てこなかった。後ずさろうとするが足が動かない。

 女性は——大けがをして、柵のすぐそばで倒れていたほうだが——今や人の姿をとどめていなかった。肌はかさかさに乾いてまるで木の皮のようになり、顔は鼻や頬が落ちくぼみ全身が縮んで黒ずんでいった。

 もはやそれはうす汚いぼろ布と化してしまい、もとは人であったとはとても思えなくなった。そのぼろ布も風に舞いあがり、どこかへと吹き飛ばされてしまった。

 あとに残された中年の女性が立ち上がった。理香を見やる。

「見たね」

 と、女性は理香に向けて腕をのばした。

「いや……」

 理香は首をよこに振った。

「いやぁあ!」

 悲鳴が口からほとばしり出ると、呪縛がとけたみたいだった。理香は夢中で腰をあげ、走りだした。

 ライトもコンビニで買ってきたポリ袋も放りだしたままだったが、そんなことにかまってはいられなかった。理香は後ろも見ず、ただ走ることだけに集中した。


「いやぁあ!」

 理香は悲鳴をあげ、飛びおきた。

 ベルの音が鳴りひびいていた。理香は枕元を見た。マイメロの目覚まし時計が目にはいる。

 理香は時計のアラーム音を消した。それから周囲をゆっくりと、見まわす。

 ——ここは……。

 そうだった。ここは理香の部屋で、彼女は夢を見ていたのだ。

 今まで見ていたのが夢だと知って、理香はちょっとだけほっとした。しかし、不安は完全には去らなかった。

 もう三日だ。三日続けて、同じ夢を見ている。だが理香が不安に思う理由は、それだけではなかった。

 あまりにもリアルなのだ。夢の内容が。

 夢といえば見ている本人にとっては現実と変わりなく感じるものなのだが、それが一転して起きたあとでは、現実感にとぼしく思われるのがふつうだ。

 しかし、理香は生ぬるい夜風や生ぐさい血の臭い、若返った女性が理香に向ける冷ややかな視線など実際に今、経験したばかりのように思い返すことができた。

 理香はおおきく、息をはきだした。ベッドから降りる。 目覚まし時計を、もう一度見た。

 七時十分。そろそろシャワーをあびないと、学校に遅れてしまう。

 理香は窓に歩みよると、カーテンを一気に引いた。日の光が部屋に入ってきた。そのまぶしさに理香は一瞬、目を閉ざした。

 どうも、はじめての方ははじめまして。小説書きのなりちかてるです。この作品は某サークルで発表していたホラー小説で、ジャンルとしてはクトゥルー神話もの、となると思います。ストーリーはオリジナルなのですが、設定や用語などは一部、クトゥルー神話のものを借りております。それでは、最後まで読んでいただけると、幸いです。

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