あの神様のお望みのまま
多少、猟奇的な表現を含みます。
あたしはこの世に生まれ落ちたその瞬間から、常に死の世界に舞い戻ることを切望していた。
赤ん坊の頃は理由も無く授乳を拒み。
歩行が出来るようになれば、危険な場所にばかり進みたがり。
年齢が二桁になった頃には、自ら理解した上で死に繋がるような行為を行うようになった。
『全く、困ったものねえ』
いつも面倒臭そうに溜め息をついていた母親は、二年前に男と消えた。
事実上、唯一の肉親であった母がいなくなったおかげで、あたしは晴れて天涯孤独の身だ。
死の国への回帰願望は、日増しに募るばかり。
その日、あたしはバイト先のキャバクラには顔を出さず、適当に選んだ証券ビルの屋上で風を受けていた。
時刻は深夜。高い手摺りをよじ登って下を覗くが、街の細かい明かり以外は何も見えない。
「う〜ん……」
あたしは顔を上げ、用心深く周囲を見渡す。
とりあえず、辺りには何の気配も無い。薄暗い屋上はしんと静まり返っている。
アイツは、いない。
あたしはそれだけ確認すると、何の躊躇いも無く、手摺りを蹴って地上十五階の大気に身を踊らせた。
ヒュ、と風の音。
次いで、凄まじい落下の感覚。
思わず悲鳴を上げそうになるが、声を発する前に迫る、コンクリートの地面。
―――グシャリ!
全身に凄まじい衝撃が走り、折れた骨が腹と胸を突き破る嫌な音が、体の内側から聞こえた。
普段の生活では、想像も出来ないような、激痛。
ピクリとも動けないあたしの周囲に広がる、生暖かい血溜まりの量は半端ではなく。
(ああ、……上手く、いった……?)
意識が急速に遠退くのを感じて、あたしは満足しかけた。
しかし、やはり今回も、あの邪魔者の靴音が、あたしの安堵をぶち壊す。
カツカツカツカツカツ。
あたしは動けないまま、甲高いその音に、心の底から絶望する。
「ああ良かった、間に合った。駄目ですよぅ。B‐120477」
そいつは真っ赤なミニ丈のスカートスーツを着て、同じく真っ赤なハイヒールを履いている。
人のことを番号で呼ぶな。そう吐き捨てたいのに、声帯が潰れていて声を出せない。
「あーあ、ぐっちゃぐちゃ。ヤバかったなあ。間に合って良かったあ」
言いながら、そいつはあたしの頭をぐいと掴み、湿った音を立ててアスファルトから引き剥がした。
「ええと、B‐120477、破損レベルD+。治癒開始します」
報告の言葉を口にすると、そいつはあたしの首に細い指を当てた。
うぐっ、と、あたしは呻く。
まるでビデオを巻き戻すかのように、溢れ出た血液が体の中に戻っていく。砕けた骨も寄り集まって元の形を復元し、ボロボロに破けた皮膚が合わさり、何事も無かったかのように修復されていく。
丁寧なことに、その時の激痛をも再現しながら。
「痛い?痛いでしょお〜?だったらもう止めましょうよお」
瞬く間に再生されていくあたしの顔に、女はタバコの煙を吹き掛けた。
いつも、こうだ。
決心して、覚悟を決めて、痛みを耐え忍んで行う行為を、いつもこの女が無駄にする。
「……っ、の、クソ、女」 声帯が復活したと同時に、右手の中指を立ててそう罵ってやる。
「んふ、元気になったようで何より」
女が黒いマニキュアを塗った爪で軽く弾くと、あたしの中指はパキンと砕けた。激痛から開放された直後のこれは、かなりキツい。
「その指は治してやんない。ま、少し反省しなさいなあ」
道路にうずくまって悶えるあたしに、女は満足そうに微笑んで踵を返した。
カツカツ、と、軽快な足音が遠退いていく。
(は、いい気になりやがって)
心臓にまで響く中指の痛みに耐えて。あたしは女の気配が闇に消えたのを確認してから、よろよろと立ち上がった。
(今日は、これで終わりじゃねーんだよ、馬鹿女)
あたしは深く息を吸い込み、深夜の街を走り出す。
女が初めて現れたのは、あたしが十一才の時。盗み出した農薬を飲み、初めて自殺らしい自殺を試みた夜のことだった。
断末魔の苦しみにのたうちながらも、あと少しで死ねると確信した、その瞬間にあいつはやって来た。
「初めまして、Bー120477」
鍵がかかっていたはずのドアから唐突に現れた女は、やはり真っ赤なスカートスーツに赤いハイヒールという姿で。
「あなたには、生存の放棄は認められておりません」
と、笑顔で言うなり、いきなりあたしの口にその白い腕を突っ込み、内臓を掴み上げた。
「特別処置しますんで、死ねない…いえ、死なないから安心して下さい。きちんと丁寧〜に洗ってさしあげますからねえ」
軽い口調とふざけたウインクを合図に、女の素手による“処置”が始まった。
その苦悶と比べたら、先程までの農薬による苦しみなど、蜂に刺された程度のものでしかなかっただろう。
あたしは口から引きずり出された胃や腸を爪の先で切り開かれ、あまりの痛みにくぐもった絶叫を上げた。
悲鳴が途切れないうちに、開いた内臓の内側に何かの液体を注がれ、乱暴に洗われる。
あまりの苦しみに失神することも出来ず、泣きながら止めてくれと哀願しても無視される。
その想像を絶する苦痛、悪夢のような信じがたい光景は、一時間近くも続いただろうか。
地獄のような処置が終わり、痛みのショックで動けないあたしに、女はにこやかに語りかけた。
「紹介が遅れましたねえ。私はあなたのような《死にたがりの魂》の自殺を阻止し、正しい方向に導く役目を与えられた神の使いです」
派遣ですけどねぇ、と女は小さく付け加えた。
「まあ、今回ので分かったでしょうけどお。自殺なんか絶対成功させないし、やったらまた痛い目に合わせますから。ま、生きて下さいな、頑張って」
あの時見た残酷な笑顔と靴音は、今でもあたしのトラウマとなっている。
それからというもの、女はあたしが命を絶とうとする度に、どこからともなく現れるようになった。
今日のように、胸の悪くなるような【お仕置き】を土産に持って。
(そんなのを、もうどれだけ繰り返しただろう?)
人気の無い街を走りながら、あたしは思う。
(毎回同じパターン。いつもだったら、今夜みたいに失敗したあたしは、弱って諦めて家に帰るだけ)
だけど、今夜は違う。復活させられたあたしは、次なる死の手段に向かって走っている。
(せいぜい油断してなよ、馬鹿女が!)
今夜は、いつもとは状況が違うのだから。
あたしは走って走って街を抜け、海岸沿いにある崖にまで辿り着いた。
『危険・立入禁止』と書かれた立て看板を無視して進み、荒い息に肩を上下させながら、湿った海風を肌に感じる。
夜の海は荒れていて、高々と飛沫を上げる波の力強さに、あたしは勇気を奮い立たせる。
(お願い、どうか今度こそ、あのアバズレを出し抜いてやれますように!)
そう祈った次の瞬間、あの音が聞こえ出した。甲高く、神経を引っ掻くような、カツカツカツカツ!女の靴音。
(遅えよ、バァカ!)
あたしは一気に疾走して、真っ暗な崖の向こうにダイブした。
今夜二度目の落下の感覚。暗い水面に思いの外強く体を打たれ、そのまま重い音を立てる水の中に、ゴボゴボと沈み込む。
複雑にうねる流れの渦に体を絡め取られたが、あたしは一切抵抗しない。
《戻りなさい!戻りなさい!!許さないわよ!!》
闇に包まれたの海中で、耳に女の声が鋭く響いた。しかし、いつものように追って来る気配は無い。
(満月に照らされた海の水には、悪しき者は触れることが出来ない…。はは、悪魔払いの本に書いてあった通りじゃない!)
強い流れに揉みくちゃにされながら、あたしは暗い海の底に引きずり込まれていく。走り通しだった肉体が酸素を絶たれ、その苦しみに喘いで、軋む。
《ちょっと、悪しき者って何よ失礼ね!私は神の使いよ!》
女が喚いた。
《戻りなさいったらあ!いいこと?あんたみたいな死にやすい魂は、たいてい未来に大事な役目を担ってるモンなのよ!!》
説得するつもりなのか、女の声が僅かに熱を帯びた。
《死にたがりの奴らは、時期を迎えると一気に、ある種の才能を開花させるモンなの!有名になった奴も多いんだから、ええと》
一瞬の、沈黙。
《えー…、特別有名な所だと、ナチスのアドルフ・ヒトラー。ジェフリー・ダーマーに、切り裂きジャックもそうだし…》
(殺人狂ばっかじゃないよ!そんな連中を生かしたがってる神様なんて、いるわけない!)
《あら嫌ね。神様にだって色々あるのよぅ!あんたの言う、品行方正で純潔なやつだけが、唯一の神様ってわけじゃないんですからね!》
血と苦痛を好むそれも、力を持てばやはり神。そういうことなのだろうか。
(冗談じゃない、殺人鬼になんてなってたまるか!)
酸素を求めるあまりか、こめかみに鈍い痛みが走り、それはみるみるうちに頭全体を覆っていく。
《一回目覚めちゃえば大丈夫なのよお!あなたにはその素質があるんだから!》
(違う違う違う!そんな素質なんて、あたしは)
《すでに一度手を汚してるくせにぃ!!自分でも自覚しかけてるくせに、何を躊躇ってるのよおおお!》
(うるさああああい!)
そうだ。
だからこそ、こんなにも死に急いでいるのではないか。
冷たいナイフと、飛び散る血の生暖かさ。刃先が骨に当たる硬い感触。必死で抗って絡みついてきた手を刻み、そこに飾られていた付け爪を散らした時の、あの、言いようの無い気持ち。
よく覚えている、細部に至るまではっきりと、記憶に焼き付いていて離れない。
《思い出してよ、あの快感を、満たされる気持ちを。ほんの三日前のことじゃないのお》
あの出来事からまだ三日しか経っていないということが、何だか不思議でならない。
《嫌な女だったわよねえ。いつも店であなたを目の敵にして。あなたの指名客ばっかりを狙って、わざと色目を使ったりして》
あたしが殺めた、華奢で男受けの良い、バイト先の同僚。かなり前から犬猿の仲だった、お互いに大嫌いだった、エリカ嬢。
日々いがみ合い、消化されないまま積もっていった鬱憤は、ある日ほんの些細な口論を引き金に、パチンと弾けた。
《あんな奴、殺されて当然なのよう。罪悪感なんか捨ててしまいなさいなあ》
女の猫撫で声が、あたしの意識にざらりとした舌を這わせる。
《気分が良かったでしょう?あの生意気な顔を恐怖に歪めてやった時。怯えさせて、絶望させて、痛みを与えた時のあの興奮》
(…違う、違う違う違う)
《認めなさいよう。素直になって。忘れるわけないもの、あんな最高の…》
思わず叫ぼうとして開いた口に、ゴボッと音を立てて海水が流れ込んだ。
肺が塩辛い水に満たされ、本能的に空気を求めてしまう肉体の反応が、より多くの海水を体内に取り入れてしまう。
(苦しい)
頭が痛む。視界が霞む。確実な死の気配を、あたしは感じ取る。今度こそ、確信する。
《駄目よお!!》
意思とは関係無しにもがいていた手足から、ゆっくりと力が抜ける。
《駄目よ、許さない!こんないい逸材を逃したりしたら、上から何て言われるかああ!》
女の上ずった怒りの声すら、急速に遠くなり。
《分からせてやるからねえ!!私からは逃げられないのよおおおお!!》
負け惜しみの叫びに、心の中で中指を立てる。
(あたしの勝ちだよ。ざまあみろ!)
真っ暗だった視界が、唐突に赤い色に染まった。 力を失った体がぐるぐると回り、どんどん深くへと落下していく。
落ち切った先にあるのは、恋い焦がれた死の世界。
ようやく還れる。赤い闇の先に小さな光が煌めき、それが急速に近付いてくるのを見て胸が震えた。
あれこそが扉。愛しい死の国へと迎えてくれる、暖かな命の終わり。長く長く待ち望んだもの。
あたしは歓喜した。
眩しい光の中に飛び込んだ瞬間、弾ける喜びに耐え切れずに叫んだ。
―――オギャア!
「おめでとうございまあああす!!!」
鼓膜が破れそうな声に驚く間もなく、ワッと押し寄せてきた薬のにおい。
聖なる死の国には有り得ない、品の悪いざわめき、生身の人間の気配。聞き慣れた、人の生活の…。
(え?)
「頑張りましたねえ、可愛い女の子ですよお!!」
耳障りな声が間近で聞こえ、同時にぐらりと体が揺れる。
(え?何?いや待って、この声って?)
混乱するあたしの耳に、煙草臭い息がふぅっと吹き掛けられた。湿り気を含んだ不快な感触、寒気がするほど大嫌いな、これは。
《んふふう、最終手段、奥の手を使わせて頂きましたあ》
(う………)
思わず見上げた先で待ち構えていた、ギラギラした、獣のような二つの目。
《無理な大技を使ったおかげで、ずいぶん寿命が削られましたわよお》
二度と見たくなかった女の顔が、これ以上無いほど残忍な笑顔を浮かべて、怒りを隠そうともせずにあたしを見下ろしている。
《言ったでしょう、絶対逃がさないってえ!!》
(何で!?)
女の目線がチラリと動き、あたしは促されるまま、壁の鏡を振り返った。
そして、この状況を理解した途端、あまりの悔しさに気を失いそうになる。
(くそ女ああ!こんなのって反則じゃないのかよ!)
鏡の中には、生まれ立ての赤ん坊であるあたしと、あたしを抱く看護婦姿の女が映っていた。
窓から差し込む陽の光に照らされ、和やかな祝福ムードに包まれた分娩室。
終わりの扉をくぐった筈だったのに、辿り着いたのは始まりの場所、全ての苦痛のスタート地点だなんて、あんまりではないか。
煮えたぎる怒りに有りったけの悪意を込めて、あたしは女の顔を睨み付けた。
(畜生、また最初からやり直しかよ!これで諦めるなんて思うなよ、馬鹿が!)
目を細めて愉快そうに微笑み、女は冷たい指であたしの頬を撫で上げる。
《その台詞、そっくりそのまま、お返ししますわ》