悪質な異世界転移勧誘にご用心
「異世界」と言ったら何を思い浮かべる?
ドラゴン? 魔法? 剣?
中世のような世界で繰り広げられる可愛いお姫様とのラブストーリー?
日常は余りにも退屈だから、しばしばぼくらはそうした仮想に逃避する。頭の中で空想するのは誰にも迷惑はかからないし、非難もされない。だから辛い現実の清涼剤としてファンタジーな世界で冒険する夢を見たっていいと思う。
だが、もしも本当に「異世界」なんて遠い世界に飛ばされそうになったとしたら、君はどうするだろうか?
喜び勇んで出発する?
それとも断固として拒否する?
いずれにせよ、それらは自分で選択できた場合の話だ。意志などお構いなしに強制的に飛ばされたら、選択の余地などないのだ。そうした場合、責任の所在はどこにあるんだろう。まさか自己責任なんて野暮なことを言うんじゃないだろうな。
そんなのはまっぴらごめんだった。
異世界はおろか、日本からさえ出たことのないぼくにとって、国外どころか惑星外どころか、世界外移動はいささか荷が重すぎる。
ぼくの行動範囲はごく限られた地域で完結しているのだ。お菓子を買うコンビニと、本を買う本屋と、レンタルDVDを借りるレンタル屋さえあれば、ぼくはどうにか生きていける。
ごく平凡の、ごく当たり前の、慎ましやかな生活に満足している身としては、そんな寿命が縮むような大冒険などもってのほかだった。そんな恐ろしい体験は願い下げだった。
この東洋の島国に生まれ落ちたからには、いち日本人として日本の領域内でくたばりたいじゃないか。どことも知れぬ異国の地で果てるなんて、想像するだに恐ろしい。
そうは思わないか?
もしかしたら、とても前向きで、社交的で、コミュニケーションスキルが万能な人ならば、異世界でもやっていけるかもしれない。
剣で魔物を倒したり、魔法を覚えたり……。
うまくいけば英雄になったりして、美人のお嫁さんを手に入れることができるかもしれない。
けれども、齢16歳にして世間の荒波にのまれたぼくとしては、そんな夢想じみた期待に身を任せられる程楽観的ではいられなかった。
お母さんやお父さんや妹が、次々とぽんぽん死んでしまったぼくからすれば、「死」は遠いところにあるわけじゃなくて、頭のすぐ上にぷかぷか浮かんでいるようなものなのだ。
日本にいてさえ、いつ落ちてくるとも知れない死が、異世界にいけばどうなるのかなんて想像できない。
頭上でいつ落ちてやろうかと手ぐすね引いてスタンバイしている「死」は、隙あれば落ちてこようとする。なぜみんな気付かないんだろう。気付こうとしないんだろう。
ぼくはいつもびくびくしながら毎日を生きている。
学校に行く前とか、コンビニに行く前とか、レンタル屋に行く前とか、そうする前には、いつ死んでも大丈夫なように部屋を片付け、準備をして出かけることにしている。
だって恥ずかしいと思わないか?
ぼくが死んだ後に部屋が散らかっていたり、エッチな本が転がったりしていたら目も当てられない。そんなことになったら、きっとぼくは地縛霊になって、以後自室に出没することになると思う。
それで成仏させようと訪れた坊さんに除霊されるのだ。「部屋は片付けておいたし、エッチな本は棺桶に入れておいたから安心して成仏しなさい」とか。
死んでまで羞恥プレイとか、本を机の上に置かれるより酷いよ。
え? 当初の話題から逸れてる?
確かにその通りだ。にっちもさっちもいかない状況に追い詰められているせいか、思考が錯綜しているみたいだ、許して欲しい。
ほら、よく言うだろ?
人間、どうにもならない問題を目の前にすると、関係のないことを考えて逃避するってさ。まさにその状態なんだ。
じゃあ、まずぼくの置かれている状況を説明しようか。
周囲を見渡す限りに真っ白な空間。先が霞んで見えないくらい、何もない。建築物も自然物も皆無だ。あまりに何もなさ過ぎて息苦しささえ感じる程だ。
そのだだっ広い真白な荒野に、ぼくたちは放り出されている。全校生徒合わせて350人くらいの高校だから、積み重ならないよう配置されると結構な広範囲に及ぶことになる。
みんな混乱していて酷い有様だった。それが今では、押しなべて沈痛な表情で押し黙っている。普段やかましいくらいにお喋りな女子たちも、お調子者の男子たちも、ついでに普段から滅多に口を開かないぼくも、みんなこけしみたいに御行儀よく佇立している。
まあ、かいつまんで言うと、ぼくらは神様に異世界転移の勧誘を受けている最中なのだ。
そう、あくまで「勧誘」。
どうやら人間と神様では言葉の持つ意味も異なるようで、ぼくとしては、どう控え目に考えても「恫喝」にしか思えない「勧誘」を受けている。
一体全体、どういう因果でこんな目に合っているのか甚だ疑問だった。問うたところで答えてはくれないだろうし、生殺与奪権の一切を握られているこちらとしては、文句を言うことはできないのである。
ぼくは屠殺される前の肥えた豚になった気がした。
少なくとも、数十分前までは、ちゃんとつまらないなりに人間をしていたはずなんだけれどなあ……。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「ちょっと、邪魔なんだけど。掃除できないでしょ」
放課後、教室に残って本を読んでいたらそう注意された。ぼくは謝罪して机を移動させる。よく見るとHRが終わって、みなは帰り支度を始めているところだった。
ぼくに注意した女子は冷たい視線を向けて「早く帰らないかな、こいつ」という目をしている。ぼくは空気の読める男なので、こうした冷たい視線には敏感なのだ。
彼女は長い髪をひとまとめにしていて、つり目の女子である。確か名前は……。
名前……、ええと。
……?
まあ、ツンデレっぽいキャラなので「ツンデレ」と便宜上呼ばせて貰おう。さすがに「あいつ」とか「これ」とか言うのは彼女に失礼である。
男女平等、男も女も等しく名前を覚えるのが苦手なぼくだが、異性への優しさや気配りは忘れないナイスガイなのだ。
ツンデレがてきぱきと掃除を始めると、自発的に彼女の友人たちが手伝いを始めた。何とも麗しき友情だった。ぼくが掃除当番の時は、みなさっさと帰ってしまうのはご愛嬌。
彼女と親密な雰囲気である男子は、男のぼくから見ても格好良い好青年なので「主人公」と呼ぼう。
それから彼女の親友ポジションにいる美人ながらも腹黒っぽいぱっつん前髪の女子は「腹黒」で、主人公の親友っぽいガタイのいい男子は柔道やってそうなので「ジュドー」でいいだろう。なんか欧米風だし、とてもセンスがいいと思う。
彼らの人徳はなかなかのもので、みなでやれば早く終わるとばかりに人海戦術で掃除するつもりのようだった。これならば、ぼくがひとりで掃除するときに比べて30倍くらい早く終わりそうだった。
まあ、頑張ってくれ。ぼくはレンタル屋にDVDを借りにいかなきゃならないんだ。
なのでさっさと帰ろうとすると、腹黒が雑巾を手にこちらにやって来た。他の男子には人気があるらしいが、ぼくは彼女の本性を見抜いているのでちっとも心惹かれない。彼女に比べたらツンデレの方がよっぽどマシだった。
「ちょっと、あんたひとりだけ帰ろうっての!?」と腹黒にくっ付いてきたツンデレががなり立てる。
……前言撤回。
腹黒は嫌らしい笑みを浮かべて、「よかったら手伝ってくれないかな」と雑巾を差し出してくる。彼女はスタイルがいいので、近くに寄られるとドギマギしてしまいそうになる。それに何か良い匂いがした。
やれやれ、劣情は理性では制御できないままならぬものなのである。
気が付くとぼくは雑巾を片手に床拭きに励んでいた。
どうやら腹黒の術中にはまってしまったようだ。無念だ。
人海戦術で始めたせいか、進行速度は非常に早く、これならば10分もかからず掃除は終わりそうだった。全く、人類は力を合わせればこんなにも素晴らしい仕事ができるっていうのに、どうして互いにいがみ合ってばかりいるのだろう。人類みな兄弟。ラブアンドピースじゃないか。
ぼくの掃除当番のときも誰か手伝ってくれればいいのに。
ぶつぶつと内心文句を言いつつも、資本主義社会で飼い慣らされた社畜のごとく雑巾をかけていたそのとき。
教室を爆音が襲った。
ジャンボジェット機が頭のすぐ上を通過したみたいな爆音だった。とてつもない超高音と、その後すぐにやってきた空気を破裂させる大きな音にやられて、ぼくたちは床に転がった。
頭の中をシェイクされた気分だった。もしくは脳みそを前後左右入れ替えられた気分だった。
とにかく形容しがたい不快感を伴った衝撃を浴びた次の瞬間、ぼくたちは真っ白な空間に放り出されていた。
さっきまでいた教室は跡形もなく、どこまでも続く真白い地平線が彼方にあった。ぼんやりとしていて距離感は掴みづらく、空を見上げてみても、やはり白色の空があるだけである。
ここはどこだろう、とぼくは思った。
直前の爆音からして、海を隔てた半島からミサイルが飛んできたのかと思ったけれど、そうだとしたら今頃火の海で目覚めているはずである。あるいは、そのミサイルで死んでしまって、この白い空間は三途の川と呼ばれる場所なのかもしれなかった。
全校生徒が一同に集められた光景は壮観だった。
放課後だったので、帰宅した生徒や部活に行った生徒もいるはずなのだが、彼らもどういうわけか集められていた。サッカーや野球のユニフォーム姿の生徒がちらほらと見える。
直後の混乱から回復すると、一斉にパニックになって騒乱の状態に移行した。無理もない。ぼくだって混乱して意味もなくうろうろしているのだ。喚けば状況が解決すると言わんばかりにヒステリーを起こすのは、正常な反応だろう。
―――――それから30分後。
当初の混乱が収まったと思いきや、「ここはどこよ!」というツンデレのよく通る声を皮切りに、めいめいの「どうなってんの」「何かのイベントか?」「異世界転移かも」という希望的楽観、もしくは憶測が飛び交う。
ぼくの三途の川説もそれなりだと思うので「三途の川かも!」と叫んでみるものの、誰ひとりとして反応してくれない。まあ、いつものことだ。
混乱し過ぎて暴動に発展しかねない勢いである。デモや闘争に不慣れな世代としては、安易な暴力沙汰は収拾がつかなくなるので勘弁願いたかった。
350人が喚き散らすと偉い騒音である。うるさいのが苦手なぼくは、辟易して両手で耳を塞いだ。
少し声の音量を下げて欲しい。近所迷惑だろ。
『―――――静まれ』
雷鳴のごとく声は鳴り響いた。頭の中に直接語りかけられたみたいだった。ある種の強制力を伴った声は、場の騒音を一息でおさめてしまった。
身体を硬直させる。視界の端では、ツンデレと主人公たちが見える。それぞれカップルになって身体を寄せ合っている。
ぼくもどさくさに紛れて同じようなことをしようと思ったのだが、運の悪いことに周囲は男子バスケ部と男子バトミントン部に囲まれていて女子がいない。
生憎、ぼくには汗臭い胸板に欲情できるスキルの持ち合わせはなかった。
『わたしは神。あなたたちを生み出した父なる神である』と声の主は自己紹介をした。転校初日にこんな自己紹介をすれば、たちまち人気者になれるに違いない。
姿は見えない。遥か上空に雷雲のようなものがごろごろという効果音と共に浮遊しており、それは綺麗な虹色の光を放っている。とても神秘的だった。
戸惑うぼくたちに構わず、自称神は以下のようなことを一方的に告げた。何とも身勝手な振る舞いと一方的コミュニケーションは神っぽいと言えなくもない。
・君たちは選ばれし者である
・戦乱の異世界を救って欲しい
・各自が望む能力を与えよう
何とも大盤振る舞いの条件である。特に最後らへんが胡散臭い。これに付け加えて、
・どなたでもできる簡単なお仕事です
とか載っていたら応募してしまうかもしれない。求人情報誌に載せたら、結構な応募者があるんじゃないだろうか。
こんな怪しい勧誘に乗るわけないだろ、と思っていたものの、意外なことに、生徒の殆どが乗り気のようだった。現実逃避していると言えなくもない。彼らは腰が引けつつも、好きな能力を与えられる好条件のせいで決断してしまったようだった。
近くの主人公パーティーもやる気である。まあ、こんな非現実的な状況に追い込まれれば、何かに逃避せずにはいられないだろう。気持ちはわからなくもない。ぼくがファンタジー好きになったのも、家族がみんな死んじゃったせいだしね。ああ、おばあちゃんはまだ生きてるけれど。
『感謝する、勇者たちよ。世界を救ってくれ―――――』
と、契約に同意したであろう生徒の3分の2程が光に包まれていなくなった。神様の言う「異世界」とやらに飛ばされたのだろう。彼らはどんな力を願ったのか興味深くもある。きっと漫画とかアニメの能力を参考にしたんだろうな、きっと。ぼくだってそうする。
残ったのは優柔不断で即決できなかった者と、神様の言葉に疑念があって即決するのを避けた者と、パニックで判断力を失っている者たちだ。
ちなみにぼくは、意図的に即決しなかったわけであるけれど、もしかしたら判断を誤ったかもしれない。
先程まで静謐な雰囲気であった神様は一転、怒れる神と化し、雷鳴は酷くなり、純白だった空は薄暗くなった。気温も一気に下がったように感じられる。偉い変わり身の神様である。まるで新入社員を確保した中小企業みたいだ。
神様はいつだって自分に従う者には優しい代わりに、歯向かう者には一切容赦しないのだった。これはマズい状況だ。
『あなたたちの神が告げる。契約を受け入れ、異世界に旅立つのだ』と神様は言って、『そうでなければ、わたしはあなたたちの命を奪う』
絶句。
先程がお願いだとしたら、今度は恐喝である。それもかなり直接的な。
神様の手にかかれば、ぼくたちの命など赤子の手をひねるように奪うことができるのだろう。それにしても、あんまりな話だった。
ぼくはまだ16歳だし、ファーストキスはまだだし、女子と付き合ったこともないし手を握ったこともないのだ。やり残していることはたくさんあった。
不慮の事故で死ぬならともかく、こんなびっくりイベントで死ぬなんて冗談じゃない。
なら神様の契約を受け入れて異世界に行けばいい?
冗談。ぼくはそんなにおめでたい頭をしていない。「異世界」なんて一口で済まされているけれど、同じ地球上だって危険でいっぱいなのだ。ましてや異世界においては言わずもがなだろう。
契約を受けなければ死ぬ。
異世界に行っても死にそうな気がする。
そもそも能力をくれるという話が怪しい。もしも本当に言う通りの能力をくれたとしても、ぼくにその能力を扱えるとは到底思えない。特に戦闘に役立つ能力なら尚更だ。
異世界で生き残り、活躍できそうなのは主人公やツンデレたちだろう。腹黒とかジュドーも何だかんだ生き残りそうな気がする。ぼくには無理だ。きっとスタート地点からそう遠くない場所であっさり死ぬに違いない。ぼくは顔も性格も死に方もあっさり系男子なのだ。
「こ、こんなの脅しじゃないか!」
勇気ある男子が抗議の声を上げた。やや、もしかしたら、彼は生徒会長殿じゃあないか。あの真面目そうな顔に四角いメガネ。生徒会長に間違いない。
彼は鬱憤を晴らすかのように「理不尽だ」とか「あまりに滅茶苦茶過ぎる」とか、神様に向かって文句を言った。
閃光。その彼に落雷が落ちる。物凄い光と轟音が鳴り響き、衝撃でぼくたちは吹き飛ばされた。ごろごろと転がる身体。ほんの数メートル隣に落雷が落ちると、こんな衝撃が来るのか。実にハードな1日だ。
ふらつく頭を抱え立ち上がる。
生徒会長は身体の半分を炭化させながらも生きていた。いわゆるレア焼きである。もしかしたらミディアムかもしれない。ウェルダンでないのは確かだった。
呻き声がする。意識もあるようだ。それが幸運なのか不運なのか。生きているのが不思議なくらいの重度の火傷だ。
残された生徒たちは顔を青ざめさせた。それはそうだろう。言葉だけでなく実力行使されては、平和な現代日本に生きる高校生に抵抗できるはずがない。ろくに喧嘩もした経験のない連中なのだ、ぼくを含めて。
人肉の焦げる嫌な臭いがする。時折、身体を痙攣させる生徒会長は、今にも死にそうなかすれ声で、「け、契約、します」と息絶え絶え宣言した。
すると時計の針を巻き戻すように彼の怪我が治っていく。唖然とその様子を見守る生徒たち。当人も驚愕した様子で、復元されていく己の身体を見ている。まさに神の所業だ。
能力の提供もあながち虚偽でないのかもしれない。
その様子を見て、「契約しますっ」「わ、わたしも」「お、おれも!」とみな我先に契約を受け入れていく。契約を完了したそばから異世界へ旅立っていく。ひとり、ふたりと消えて行く。
次々と契約を受け入れる雰囲気が醸成されて、誰もが場の空気に流される形で異世界へと旅立つ生徒たち。
彼らは自分の頭で考えたのだろうか。日本人の悪いくせである、他人に倣えの精神がいかんなく発揮されているようにしか思えない。
人生における最大の岐路に立たされているのだ。もう少し慎重に吟味した方がいいと思うのはぼくだけだろうか。
確かに、目の前であんな暴力的光景を見せられれば仕方のない話なのかもしれない。でも考えてみると、あれはパフォーマンスにしか思えないじゃないか。わざわざ落雷という派手な演出をしたのがその証拠だ。
ぼくは旅立っていく生徒たちの様子を見守りつつ、ある種の疑念が膨らむのを自覚していた。
やがてぼくの周囲には誰もいなくなる。残されたのは、ついにぼくただひとりになってしまった。
広大な空間にひとり残されると、不安を感じると共に開放された気分になった。異常な状況に陥っているのに、ぼくは偉く開放された気分だった。まるでがんじがらめにされていた鎖から解き放たれたようだった。
『わたしは神。あなたたちを生み出した神である』
もちろん、その開放感は錯覚なのだろうけれど。
神様は最後に残された人間の対処をどうするのだろう。ちっぽけな子羊に過ぎないぼくは、神様の気分次第で生徒会長のときみたいに雷にうたれたりするはずだ。
『再びあなたたちに告げる。契約を受け入れねば、命を奪うことになる』
ぼくは頭の片隅で考えた。日本から遠く離れた異世界の地で死ぬか、またはこの日本からそんなに離れていないと思いたい真白い空間で死ぬか。ぼくが自分で考え、吟味し、判断し、決断する天秤にかけてみて、どちらが望ましいかを選択する。ぼくはどきどきした。今ぼくは、命の選択をしようとしているのだ。誰によるのでもなく、誰のためにでもなく。自分自身の命を天秤皿の上に置き、その価値を見極めようとしている。
できればきちんとした日本の地で死にたかったけれど、贅沢は言っていられない。ぼくは異世界に行かないことに決めた。
どうしてそこで諦めるんだ、なんて無粋なことは言わないで欲しい。
誰でだって、死んでも嫌なことはあるだろ? ぼくにとって、それは見知らぬ異世界の地で死ぬことなのだ。そこには家族の墓もないし、弔ってくれる人もいそうにない。
だからせめて、ぼくは家族と少しでも近くに感じられる場所で死にたかった。
そりゃあ、やり残したことはたくさんあるさ。でも仕方ないだろ? 人間、時には諦めなきゃならないことがあるんだ。いつまでも躊躇して、捨て時を誤ってはいけないんだ。
「ぼくは契約を受け入れない」とやけに穏やかな心境で言い切る。次の瞬間には死んでいるかもしれない。それでも構わない。享年16。いい人生だった。いや、家族を殆ど失って、自称神様に拉致されて、多分神罰で死ぬんだから、波乱万丈の人生だったと言うべきだろう。
目をつむってその時を待っていたのに、一向に苦痛はやって来なかった。恐る恐る目を開けると、全て夢でした、なんてことはもちろんなくて、真白い空間にぽつんとひとりぼくは残されていた。
『……今回のノルマはこなしたのだ、まあ、ひとりくらいどうでもよいな』
とても世俗的な神様のご意見だった。神様の世界もいろいろと大変らしい。
まあ、ぼくみたいに「受け入れなければ殺す」と脅して、3回も拒否した人間を異世界に送ったとしても、大して役に立たないと判断したんだろうさ。むしろ害悪にある可能性の方が高い。見る目のある神様じゃないか。
頭上に浮かんでいた七色の雲が、少しずつ消えていく。それに伴って、真白い空間が激動して消失していく。
地平線の彼方から、世界はブロック状にひび割れて崩壊し始める。周囲360度、ぼくを中心にして崩壊する空間。
逃げ場はない。神様はとうにご帰宅なさっていて、ぼくの最後など微塵も興味のない様子だった。さもありなん。
やれやれ、予想通りと言えば予想通りの最後か。
ぼくは迫り来る崩壊を無感動に眺め、死んだ家族のことを思い出した。こんな半異世界的な空間で死んでも、家族の下に逝けるんだろうか。うちは確か浄土真宗だった気がするんだけれど、こんな世界まで仏は出はってくれるんだろうか。ちょっと心配だった。この空間が創られているのが、できれば日本の領土内であればいいなあ、と思いつつ。
足元が砕け、ぼくは奈落の底に落下する。
「わっ」なんて情けない声を残して落ちていく。
しばらく落下を続けると、遙か彼方から光が迫る。それはどこか懐かしい色をしていた。さっきまでの気持ち悪いくらいに澄んだ純白ではない。様々な色が混ざった太陽の作り出す白色だ。
暗闇を一気に抜けて、ぼくは見慣れた世界に帰還を果たした。
落ちている。
見覚えのある街並みが目に飛び込んできたと思うもつかの間、高所から落下していることに気づく。下方は馬鹿でかい穴が掘られており、隕石が落ちたんじゃないかと思うくらいの直径があった。
そこに向かってぼくは落下していた。もちろん、ぼくに飛翔能力はないし、着地時に衝撃を分散させる絶技を習得しているわけもでもない。
高さにして4階ぶんくらい。落ちたら捻挫するどころかアキレス腱を切ってしまうかもしれない高さだ。……まあ冗談だけれど。
神様も味なことをしてくれる。元の世界に戻れたと喜ばせていて転落死させるなんて、まさに「持ち上げておいて落とす」じゃないか。
地面に激突する少しの間、ぼくは神様に散々悪態をつき、その時奇跡が起こったなんてこともなく、位置エネルギー満載だったぼくは、物理法則に従って、いかんなく運動エネルギー満載の状態で地面に激突した。
足元から叩きつけられたせいで、両足はあり得ない方向に折りたためられ、次いで勢いそのまま背中を強かに打ち付けた。骨の砕ける音がやけに鮮明に聞こえたのは勘弁して貰いたい。幸いなのは、あまりに一瞬だったから痛みを感じる暇もなかったことだろう。そして最後にヘッドバッド(後頭部)を地球相手にかましたぼくは、奮闘虚しく意識がとんだのだった。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
そこには、奇跡的に軽症で済んだぼくの姿があったのです! と、世界がまる見えちゃう番組ならばそういうことになるかもしれない。しかしながら、家族がいっぱい死んじゃったり、胡散臭い神様に拉致されちゃうような幸運度しか持たないぼくに、そんな都合のいい奇跡が起こるはずもなく。
目を覚ましたのは、自称神様に拉致されてから2ヶ月後のことだった。
病院のベッドで目を覚ましたぼくを待っていたのは、膝から下の両足切断と下半身不随という現実だった。
現実とは非情であるとは誰の言だったか。ぼくは異世界に行かず、しかも生きて日本に戻って来れた代わりに、身体の半分を失ったのだった。通行料としては妥当かもしれない。
ぼくの現状を聞いて「あんまりだ!」という人はちょっと考えてみて欲しい。世の中には、ぼくと同じくらいに悲惨な目に合っている人が実際に存在しているのだ。その人たちは生まれた直後から、あるいは後天的な要因によってハンデを抱えることがある。
では、その不幸に見舞われた人たちは、「なぜ」そんな不幸に見舞われたのだろう。
答え―――――偶然。
多くの人が不幸に理由を求めたがるけれど、実際のところ、不幸に襲われることに理由は存在しないのだ。誰の頭の上にも「不幸」はぷかぷか漂っていて、その人に偶然落ちてきただけなのだ。
不幸になるのに理由なんてないさ。
幸福でいられるのに理由なんてないのと同じようにね。
「あなたは『なぜ』幸福でいられるんですか?」そうたずねられて答えられる人は少ないだろう。そもそも、現状を「幸福」だと気づいていない人も多いんじゃないだろうか。
友達が少ないとか、恋人がいないとか。あるいは容姿が悪いとか。
あまりに的外れの頂上を求め過ぎていて、肝心な足元が疎かになってはいないだろうか。
何が言いたいのかと言えば、だ。
ぼくは身体の半分を失ったのだけれど、そこまで不幸になったとは思っていないわけである。むしろ助かっただけ儲けものじゃないか。
さて、こんな取るに足りないぼくの現状を聞いていても面白くもないだろうから、ぱっぱとその後どうなったのかを説明してしまおう。
学校ごと自称神様に拉致された時、現実世界で何が起こっていたかと言えば、学校の建物丸ごと抉り取られる事態になっていたそうだ。ぼくが落下したクレーターは、その部分だったわけだ。
ぼくの教室は2階で、さらに抉り取られたことによる地下部分の高さも合わせて、合計4階ぶんの高さから落下したのである。
当然、いきなり校舎が消失したわけだから近隣住民はパニックに陥って、警察はもちろん自衛隊まで出動する騒ぎになった。
あの空間内と外では時間の流れが違うらしく、武装した自衛隊やら原因究明のための調査団が周辺を封鎖して2日目にぼくは帰還を果たしたのだった。
突如現れ、地球ダイブをかましたぼくに日本政府はびっくり仰天。その結果、貴重なサンプルが虫の息になったのには、さぞ慌てたことだろう。
迅速な原因究明の名目で各国が介入しまくり、ハンバーガー親分とかに頭の上がらない日本は、うじうじと首相が優柔不断している隙にあれよあれよと海外調査団を受け入れさせられる羽目になったのだった。
あくまで原因究明のため、なんてうたわれていたけれど、各国が狙っていたのは確固とした証拠のある超常現象の情報だった。街中で、しかも白昼堂々学校が消失したんだから、そこに未知の現象が絡んでいるとみて不思議ではない。その現象に、何らかの利益を見出したのだろう。
建物以下、内部にいた学校関係者が全て消えた中で、ぼくひとりが戻ってきたのだから、研究者たちは大喜び。治療と称して、ぼくの身体の至るところから生検サンプルをむしり取っていったのだった。
人権? 何それおいしいの? とばかりにぷちぷち生検され、それに並行して治療は行われた。ぼくの存在自体は公になっていたから、丸ごと身体を持ち去るようなことにはならなかったらしい。まあ、ラーメンさんとかウォッカさんとかハンバーガー親分なら、片手間に実行できたんだろうけれど、幸運にも、生検の段階で、ぼくはまるっきり完全に完膚なきまでに普通人であることが判明したので、価値はなくなったのである。
また、一週間を迎えた頃、他のサンプルが文字通り降って湧いたことも関係しているのだろう。
学校消失の一週間目から、突如少なくない数の死体がジャパンクレーター(後に命名。なんてひねりのないネーミングだろう)に出現し始め、研究者たちを驚かせた。
調べてみると、腕が吹き飛んでいたり、身体が焼け焦げていたり、凍り付いていたりと様々で、何の面白みのないぼくから、そちらの方へ関心はシフトされたのだった。その上、遅れて帰還する死体の中には、異世界の装飾物と思われる品を身につけている死体もあって、研究者たちは喜び勇んで死体からそれらをはぎ取り研究に没頭した。
中には爆散していて、判別不能の死体もあったりしたらしく、どういった理由でこんな多種多様な死に方をしているのか議論になった。
その契約の場に居合わせたぼくには想像がついた。
恐らく神様から貰った能力の暴発で死んだ連中なんだろう。考えても見て欲しい。いくら強力な能力を貰ったとしても、昨日まで一般的なホモ・サピエンスであり、一般的なホモ・サピエンス的生活しかしてこなかった人間に、人知を超えた力を扱えるわけがないのだ。
そもそも、元来持っている自分の身体さえまともに扱えない人間が、どうして降って沸いたびっくり能力を行使できよう。そこら辺に落っこちていた銃を子供が拾って、その銃口を覗き込むようなものだ。
これは推測でしかないが、能力を貰った生徒たちは、異世界転移した後の初回能力発動時に暴発させてしまったのだろう。なぜこんなにも多くの生徒が死んだのかは謎だが、転移場所がばらばらだったり、能力を発動しなければならない止むに止まれぬ状況だったのかもしれない。
こんな自己の過失で死ぬようなことになるのなら、最初から能力なんて貰わない方が長生きできたかもしれなかった。
ああ、でも契約には能力の付与が条件だったから、何かしらの力を貰わなければならないのか。そうなると、安全を第一に考えた能力が良かったのかな。
下手に「不老不死の能力」なんてものを要求していたら、あの適当な神様のことだ、バラバラになっても痛覚を感じて生き続ける、なんて生地獄を味わされる羽目になりかねなない。文字通り、「不老」で「不死」であったとしても、そこに「復元」まで折り込まれているとは限らないのだから。
ベストなのは、「好きな時にブラックホール化して死ねる」とか、自爆&自決系の能力なんじゃないだろうか。あの切羽詰まった状況下で、ネガティブ系の能力を思いつける人間がどれ程いたのか甚だ疑問だけれど。
さらに突っ込んで考えてみると、世界間の移動を可能にするような神様に都合の悪い能力も、曲解して都合のいい能力にされたんじゃないだろうか。あの神様なら、全く悪びれもなくそのくらいやってのけるに違いない。
そんなこんなで、消えた生徒の3分の2に当たる生徒たちは、死体となって散発的に異世界から帰還を果たしたのだった。不幸にも、いいや、幸運にも死んだ後は日本に戻って来られるらしい。自称神様にも優しいところがあるみたいだ。死んでからの方が優しいっていうのが、日本人に好かれない理由なんだろうな、あっちの神様は。
帰還した死体の中に主人公パーティーは含まれていなかったらしい。お馴染みの主人公補正のおかげで能力を使いこなし、異世界を絶賛冒険中だったのかもしれない。
これで後に無事帰還できたら、「ガリバー旅行記」みたいに一財産築けたんだろうけれど、現実はそうもいかなかったようだ。
それから一ヶ月後、細々と帰還していた今までのペースを一気に上回る規模の帰還死体がジャパンクレーターに降ってきた。その帰還死体に主人公とツンデレ、腹黒とジュドーが含まれていた。
他殺体と思われる死体もあり、何らかの争いに巻き込まれたという予想だった。大きな戦いがあり、それに参加した連中のようだ。頑張って生き延びてきた彼らも、大規模な戦場では幸運も続かなかったのかもしれない。
残念ながら、主人公は「真の主人公」になれなかったようだった。
それでも、行方不明者リストの中には、1年経った現在でも未だに帰ってきていない人物が存在する。きっと彼らこそが「主人公パーティー」なのだろう。
戦い続けているのか、あるいは死ねない身体になったせいで戻って来られないのか。ぼくとしては、前者であって欲しいと切に願う。あんな悪条件をくぐり抜けた猛者には、敬意を表さずにはいられないじゃないか。
そんなこんなで、ぼくが昏睡している間に世界は激動し、目覚めた頃には騒動も収束しつつあったのである。こうしてリハビリをしつつ、日本帰還一周年を迎えてみると、何だか感慨深いものがある。
身体の半分を失ったぼくは、現在日本政府の調査団に所属させて貰っている。役職は「特別相談役」。
一応、ジャパンクレーターの生き残りであるぼくを放り出す程日本政府は薄情ではなかったらしい。保護されている身であるものの、広告塔を兼ねているので、テレビカメラの前で「政府に心から感謝しています」とめいいっぱい媚びへつらっている。
唯一の肉親だったおばあちゃんも、ぼくが学校ごと消滅したという知らせを受けた時に心臓麻痺で死んでしまった。もうびっくりである。ぼくは知らぬ間に天涯孤独の身の上になっていたのである。
顔も知らない親戚の世話になるのも気が引けるし、障害をもった未成年がひとりで生き抜ける程世間は甘くない。日本政府の思惑がどうであれ、支援をして貰えるのはありがたい話だった。
何の役にも立てないので心苦しい限りだが、ぼくが経験した白い世界での出来事は話さないことにしている。勘とも呼べる危険を感じていたからだ。
ちょっとでも「神様」に関する情報をもらせば、その瞬間にぽっくり死する悪い想像が頭をこびり付いて離れないのだ。あれでも神様だ、ぼくの存在が少しでも不利益に繋がれば、遠慮無く命を刈り取るだろう。
また、最近になって問題が発生した。ジャパンクレーターの件で味をしめたのか、はたまた別の神様によるものなのか、他の国でも同様の事件が発生したのである。
この神様による拉致は、予測がつかないし対処のしようがない。まさに「天災」である。
そういうわけで、集団消失事件は未だにホットな話題性があるので、その最初の事件の生き残りであるぼくは、僅かながらの価値が認められたのだった。
世界の人々は、いつ自分が巻き込まれるか戦々恐々しているらしい。まあ、こればっかりは運なのでどうしようもないだろう。
もしも巻き込まれたとしても、戻って来られ、かつ生き残れる可能性は結構低い。何せ神様による「勧誘」を最低でも3回は断らなければならないのだから。
やる気のある人間は進んで契約してしまうだろうし、自殺願望のある人間は自暴自棄気味に受け入れてしまうだろう。合理的に考える人間は、1回目に断った人間が神罰を受けるのを見て契約するに違いないし、他人に倣えをモットーにしている人間は言わずもがな。
さらに3回を断りきっても、戻される場所によってはアウトだ。クレーター状に転移場所はえぐり取られるから、転移時に高い建物にいた人間は、戻って来られても転落死してしまう。
そうすると、ぼくはそれなりに幸運な方だったと考えてもいいかもしれない。死んだおばあちゃんも、「悪いように考えんようにしんさい」と言っていたしね。
命があるだけめっけもんなんです。
こうしてきちんと人間らしい生活をさせて貰っている。これ以上何を望めと言うのだ。
ジャパンクレーターの周囲に設置された研究機関の建物の中でぼくは暮らしている。そこそこ悪くない住み心地だった。
とまあ、つらつらと経験したことを語ったぼくが何を言いたいのかと言えば、悪質な勧誘には注意しろってこと。これは社会を生きる上でも必要な心得だよね。
脅されたり、あからさまに怪しかったりするものばかりじゃないから気をつけなきゃいけないよ?
よおく目を凝らして、よおく耳を澄ませて物事を捉えるといいんじゃないかな。ぼくはそう思うよ。
施設を車椅子で移動していると、顔なじみの研究者に声をかけられた。彼は映画好きで話の合う間柄だ。これからレンタル屋に行くんだけれど、ぼくのぶんのDVDも借りてきてくれるそうだ。
それはありがたいと、借りてきて欲しいジャンルを考える。
……。
そうだな、いろいろと酷い目にあったけれど、ぼくは未だにこのジャンルが大好きなんだ。
ぼくは彼に、「借りてきて欲しいのはね」と前置きして言った。
「―――――異世界ファンタジーものをお願いします!」
THE END
こんな異世界トリップもあるかもしれません。