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8.君と/暁都

 ぎらりと輝く太陽が頭の真上まで昇る。


 馬に跨り草原を疾走しながら、オルリコは気持ちが焦るのを感じた。結婚式は明日だ。何が何でも今夜までに暁都へ帰らなければならない。暁都の閉門時間は日没だ。


 いつだったか、絶影が人馬一体の境地などオルリコとは無縁だと言っていた。だが、今の馬の状態を襲歩しゅうほと呼ぶのではないだろうか。明らかに駈歩かけあしより速く、何より、彼女は馬との一体感というものを味わっていた。


 それはまるで自分の下半身と馬の背が繋がったような気分だった。どこかの国の神話を読んでいて上半身が人間で下半身が馬という生き物が出てきたが、今の彼女の感覚はまさにそういったものだった。


『じゃあ、すぐにうまくなるよ。君の身体を流れる血が、馬や草原をきっと覚えてる』


 初めて馬に乗った日に両親が遊牧民だと明かした彼女へ絶影がそう言って笑ったことを彼女は思い出した。もうずいぶん昔のことのように思えたが、たった二週間前のことだ。


 私の身体を流れる血。二週間前にそうしたように、オルリコは手綱を持った自分の掌に一瞬だけ意識を向けた。父が、母が、何千人の祖先たちが、この大草原を馬と共に渡ってきた。与え、与えられ、自由を手にしながら生きて来た。今の私もきっとそうだ。


 緑の草原の地平線を睨む。馬の脇腹を蹴る。己の身体を流れる祖先の血に祈りを捧げる。自分と馬の鼓動が、体温が、呼吸が、すべてのリズムが重なって一体となる。足の裏から爽快な気持ちがこみ上げてくる。まだまだ、ずっと走り続けたい。もっと速く、どこまでも遠くへ。


 地平線の向こうに何があるかなんて分からない。でも、先のことが分からないと嘆くのはやめて、何があるか分からないからこそ、どんな未来も思い描けるんだと思えばいい。


 どんな未来も。


「きゃああ!!」


 突然、視界がひっくり返った。動物の巣穴に足をとられ、馬が転倒したのだ。馬は鼻を地面に打ち付け、オルリコは左肩から草の上に転落した。彼女が起き上がった時には馬は立ち上がって暁都に向かって走り出していた。


「待って!お願い!」


 さっきまでの一体感は何だったのか。与え、与えられて自由になる仲じゃなかったのか。無情にも逃げて行く馬のお尻を見つめながらオルリコは涙を飲んだ。こうなったら暁都まで歩くしかない。日は傾き始めているが、閉門には間に合うかもしれない。


 悔し涙を堪えて歯を食いしばり、オルリコは草原を歩き始めた。膝丈の草をかき分けるように大股で進みながら、彼女は絶影の母親の話を思い出した。彼は今でも草原で、自分を追い駆けて来る母親の姿を探してしまうと言っていた。


 オルリコの母も優しかった。もちろん父も。両親が不治の病にかかってから、彼女は必死に生きる立てを考えた。その答えが結婚だった。経済的にも精神的にも夫に支えられ、自分の母がそうであったように子供に愛情を注いで生きていけたらいいと思った。その未来がもう少しで手に入るのだ。こんなところで挫けるわけにはいかない。


 オルリコは黙々と草原を歩いたが、無心ではいられなかった。考えるのは隊商宿に残して来た絶影のことばかりだった。


『仕事の価値とか、意味とか、考えるのやめたの。俺は俺の仕事を全うする。君は君の仕事を全うする。とりあえずは、それでいい気がする』


 雨上がりの草原で彼がそう言ってくれた時、オルリコは本当に嬉しかった。自分のやっていることを彼が控えめに肯定してくれたような気がしたのだ。彼は約束を違えず、どんな時も彼女を護ってくれた。ならば、彼女も自分の仕事を全うしなければ。


『幸せってこと?』


 祈りの木の上で、絶影はオルリコの額に自分の額をくっつけてきた。思い出しながら、オルリコの頬は熱くなる。間近で見る彼の瞳は馬の目のように綺麗で優しかった。二人は黙って見つめ合い、お互いの高鳴る心臓の音や呼吸の音を聞いていた。これまでの人生で、あんなに甘美な時間はなかった。


『君、本当にあいつと結婚するの?』


 彼は静かに訊ね、答えようとしたオルリコの唇を自分の唇で覆った。

 もしもあの時、彼の問いに即答していれば、こんなに苦しい気持ちを味合わずに済んだのかもしれない。でも、私は何と答えることができただろう?


――今でさえ、同じ質問をされたら何と答えていいかわからないのに。


 オルリコは自分の気持ちに気が付いて愕然とした。


 目を閉じると柔和な絶影の顔と昼間のような明るさで虹色に輝く祈りの木が瞼に浮かぶ。絶影と手を繋いで眺めたあの光景を、彼女は生涯忘れない。


――そんな自分が、関に嫁いでいいのだろうか?


――生きて行く手立ては、本当に、関と結婚することだけだろうか?


――せっかく彼が肯定してくれた仕事を私はここで辞めてしまうのか?





 暁都の青龍門をくぐったのは夕暮れ時だった。疲れ切った身体に鞭打ち、オルリコは何とか張家まで辿り着いた。玄関に足を踏み入れると真っ先に金華と銀河が出迎えてくれた。


「オルリコだ!おかえりなさい!シャナドゥー、楽しかった?」

「オルリコだ!おかえりなさい!私たちの布、見つかった?」


 双子は彼女に力いっぱい抱きつき、質問攻めにした。今まで我儘で困った子供たちだと思っていた二人に、今は好意しか感じなかった。


「はい、これが金華さんの。これが銀河さんのですよ」


 祈りの木から取って来た布を二人に渡していると、他の使用人たちがほっとしたような顔で現れた。結婚式の前日まで戻らない彼女を、みんな心配していたようだった。


「お二人とも、私のために願い事を書いて下さって、どうもありがとうございます。シャナドゥーは素敵な町で本当にとても楽しい旅でした」


 本当に素敵で、本当に楽しい旅だった。

 甘い思い出が今でも胸を熱くするほど。


「おかえり、オルリコ。無事でよかったよ」


 騒ぎを聞きつけて姿を見せたのは長い間屋敷を留守にしていた張だった。彼女の結婚式に合わせて久しぶりに帰って来たのだ。オルリコは居住まいを正して彼を見上げた。張は赤兎と同年代の壮年の男だ。優男を絵に描いたような彼が、用心棒を絵に描いたような筋肉隆々の赤兎と親しいらしいと聞いた時は疑わしく思ったものである。


「張さん、お話があります」


 オルリコが切り出すと張は何かを悟ったように穏やかに頷いた。


「いいよ」


 おいでと言って張は応接室の扉を開いた。金華と銀河を廊下に残し、オルリコは彼と二人で部屋に入った。椅子を勧められ、彼女は遠慮なく腰を下した。着ていたデールが泥だらけだということに気が付いたのは座ってからだったので知らないふりをすることにした。


「オルリコ、顔を見せてごらん。うん、いい顔をしてる。やっぱり旅は人を変えるね」


 張は柔らかく微笑み、彼女の顔をじっと見つめた。オルリコは一瞬だけ躊躇い、思い切って言った。


「私をもう少し、ここで働かせて下さい」


 張は困ったような渋面をつくった。


「結婚するのが嫌になったのかい?そういった結婚前の不安感というのは女性にはよくあることらしいよ」


 結婚式の前夜に婚約の破棄を申し出ればさすがの関も怒るに違いない。張と関の関係が悪くなれば、それは張の仕事に少なからず影響を及ぼすだろう。それは分かっていたが、どうしてもこのまま嫁に行く気持ちにはなれなかった。


「そういうことではないんです。私は今までやり過ごすように、ごまかすように仕事をしてきました。与えられた仕事を最小限の労力でこなし、仕事を終わらせるためだけに仕事をしていました。生きて行くためには仕方のないことだと諦めるように」


 双子の我儘を聞くのが仕事。生きて行くために仕方なくするものが仕事。今まで、彼女はそう思っていた。隣町へ飴玉を買いに行くのも、的頭村へ石ころを拾いに行くのも、仕方なく嫌々やっていたから、彼女は双子の真意に気が付かなかったのだ。双子の心には、オルリコに対する好意しかなかったのに。


「でも、シャナドゥーへ旅して思ったんです」


 絶影と出会って思った。オルリコは彼の言葉を思い出す。


『俺を信じてくれるって言ってくれた君を、命を賭けて護ろうと思った』


 命を賭けて。彼の気持ちに心が高ぶった。


「真剣に、心をこめてお仕えしたいです。これからは張さんや金華さんや銀河さんに、今まで御世話になった恩返しがしたいです」


 私の幸せを願ってくれた双子のために、私を引き取って面倒を見てくれた張のために、命を賭けて仕事をしたい。オルリコは祈るような思いで張の返事を待った。


 張はゆったりと椅子の背にもたれて息をついた。


「それを関のところでやるわけにはいかない?僕たちへの恩返しという気持ちで、彼を支えてやることはできない?関は君をとても気に入ってるんだよ」

「それはできません。申し訳ありません」 


 オルリコは深々と頭を垂れた。


「好きな男でもできたのかい?」


 彼女は頭を下げたまま頬を染めた。顔を上げて張の顔を見るのが恥ずかしかったので、そのままの態勢でこっくりと頷く。


「仕方ないね。分かった。とりあえずは君が病気で結婚式を延期すると伝えておくから、正式な婚約破棄は後日、一緒にきちんと話をつけに行こう。私だけで行くと大喧嘩になるから君にも来てほしい。関は本当に君にぞっこんだから」


 オルリコは思わず腰を浮かせた。まさか張がこんなにあっさりと承諾してくれるとは思ってもみなかった。もしも彼が頷いてくれなければ、彼女は朝まで説得を続ける覚悟でいたのだ。


「あ、ありがとうございます!結納金の分も、精一杯お仕えします!」


 喜びも露わに誓いを立て、オルリコはちらりと窓の外を見た。まだ日が沈んでいない。今から走れば市門の閉門時間に間に合う。衛世館に寄って馬と用心棒を借り、夜通し走れば朝には晋粥に着くだろう。


「あの、私、急ぎの用事があるので失礼します!」


 慌ただしく張の屋敷を飛び出したところでオルリコは赤兎にぶつかった。


「おおっと!――あん?なんでえ、帰って来てたのか?」


 腹筋でオルリコの顔を受け止めた赤兎は首をかしげつつ、彼女の顔を覗きこむ。オルリコは手早く状況を説明した。


「あの阿呆、最後の最後にしくじりやがったな。よし分かった、あいつは俺が迎えに行く。おまえさん、明日結婚式なんだろ?張に聞いたぜ」

「いえ、私、結婚はやめたんです。だから私も彼を迎えに行かせて下さい」


 真っすぐに赤兎を見上げて請うと彼は困ったように眉を下げた。


「しょうがねえな。じゃ、馬を用意しなけりゃな」


 一度衛世館に立ち寄り、二人は馬に乗って青龍門へ急いだ。閉門時間が迫る門に辿り着くと、そこには不自然な人だかりができていた。乗り手のいない馬がいなないてまるで何かを主張しているようだった。


「曹操!曹操じゃねえか!」


 よく見るとそれは絶影の愛馬だった。赤兎は曹操に駆け寄り、騎乗したまま手綱をつかんだ。


「よしよし、そうかそうか、あいつをどっかで落っことして来ちまったんだな?」


 ところが、曹操はなおもいななき、頭を市門へ向けた。オルリコは市門の外へ目を向けて目を凝らした。ずっとずっと先の石畳の上に誰かが倒れている。


「赤兎さん、見つけた!」


 オルリコは馬を駆って市門を飛び出し、倒れている人影に向かって襲歩しゅうほで疾走する。あんなに熱があったのに、彼はオルリコを追ってここまで走って来たのだ。そう思うと、胸が熱くなった。


「絶影!!」 


 感極まって大声で叫ぶ。オルリコは速度を落として彼のそばで馬を止めた。高熱のあまり意識を失って落馬したのだろう、絶影はぼろぼろの姿で倒れていた。彼女は素早く馬から下りて絶影を抱き起こした。絶影は薄っすらと目を開けてオルリコを見た。


「……このまま夜になって、狼に食われたらどうしようかと思ってた」

「そしたら自業自得だよ、馬鹿!こんな無茶して!」


 弱弱しく笑った絶影を抱きしめると、彼の身体は火の玉のように熱かった。


「君のこと追いかけながら、母さんのことを考えてた。もしも母さんがずっとずっと、暁都まで俺を追って走って来てくれていたら、赤兎は俺を家に帰してくれたかもしれない。俺は家に残ることができたかもしれないってさ。馬鹿だろ、俺」


 絶影はゆっくりと首を動かし、夕焼けに染まる小麦色の草原をぐるりぐるりとおもむろに見渡した。草原には冷たい風が吹き、膝丈の草をそよがせるばかりで人影のひとつも見えない。


「君のこと追いかけながら、俺は赤兎に連れられて行く幼い自分自身を追いかけてた。母さんになったつもりでさ」


 絶影はオルリコの背中に両腕を回した。熱い掌が背中に触れ、彼女は彼を抱きしめる腕に力をこめた。


「もう手遅れだって分かってたけど、諦めたくなかった。最後まで護りたかった。君を」


 オルリコは首を横に振って彼の頬に自分の頬をくっつける。


「護ってくれたよ。私も君も無事に暁都へ帰って来られたもの。それに、私、結婚するのやめたんだ」

「え?」


 絶影は彼女から身体を離し、きょとんとした顔でオルリコを見つめた。


「それ、本当?」


 彼女は思わず笑ってしまった。


「うん。もう少し今の仕事を続けたいと思ったから。君のおかげだよ」


 張は、旅は人を変えると言っていた。でも、本当は違う。

 旅が人を変えるのではない。

 旅で出会った人々が、人を変えるのだ。


 絶影、黄老、劉、イラーナ、サルキーン。彼女はこの旅で出会った人々の顔を思い出す。彼らは世の中での自分の役割を心得て、主体的に生きていた。いつでも受け身で生きてきた彼女にとって、彼らの生き方はとても眩しかった。彼女も、自分の道を自分で選びたいと思った。乗馬に慣れない頃の彼女のように自分の馬が誰かの馬のお尻について行くのを待つのではなく、自分で馬を操って自分で選んだ道を走りたかった。


「それに君のことが好きだから。誰かと寄り添って生きるなら、私は君がいい」


 オルリコが思い切って告げると、絶影はぽかんと口を開けた。彼女は恥ずかしくなって立ち上がり、馬の手綱を取ってあぶみに足をかけた。


「いけない、門が閉まっちゃうよ。後ろに乗って」


 絶影に手を貸し、彼女は彼を自分の後ろに座らせた。彼は力なく彼女のお腹に手を回して寄り掛かり、彼女の肩に自分の顎を置いた。オルリコはどきどきしながら馬の脇腹を軽く蹴り、ゆっくりと青龍門に向けて歩き始めた。


「俺はさ」


 暁都の都城の向こうへ燃えるように真っ赤な夕日が沈んでいく。二人でそれを眺めながら、絶影は静かに口火を切った。


「俺は、この通り危険な仕事をしてるし、しかもはっきり言って半人前だ。今回のことで自分が外見だけじゃなくて正真正銘の半人前だって痛いほど分かった。でも」


 けたたましい鐘の音が鳴った。門が閉まる合図だ。


「俺も、誰かと寄り添って生きるなら、君がいい」


 絶影はそう言って馬の上で身を乗り出し、オルリコの唇に自分の唇を重ねた。彼女は目を閉じ、遠くで鐘の音を聞きながら、不治の病に倒れた両親の傍では思いつかなかったことを悟った。生きて行くためには、生きて行く手立てが必要だが、誰と生きて行くかということも同じくらい重要だ。


「一緒に生きたい。君と」


 二人は相手の頬に自分の頬をくっつけてくすくすと笑い合い、絶影は疲れ果てた身体でオルリコを力いっぱい抱きしめた。ここまでともに旅をしてきた身体と身体が馬の上でぴったりと重なる。


 与え、与えられ、この自由とこの幸せがいつまでも続くようにと祈りながら。




  おわり




最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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