7.ごめんね/青海草原
懐かしの暁都を目指してシャナドゥーを出発したのは明け方だった。前日に雨が降ったせいか空がとても澄んでいて、夏らしい青い空に白い太陽がぎらぎらと輝いている。
絶影は馬をゆっくり歩かせながら、たまたまその隊商に雇われていた衛世館の用心棒と世間話をしながら旅をやり過ごすことにした。旅は順調に進み、それからの五日間は悪天候に見舞われることも盗賊に襲われることもなく、無事に過ぎて行った。
オルリコとはなるべく二人きりにならないようにした。彼女が彼を避けているような気がしたからだ。婚約者がいる身のオルリコの手を握ってしまったり、彼女に口づけしてしまったことが不信につながったのかもしれない。だが、絶影が贈った髪飾りを彼女がいつも髪に刺していることが彼には嬉しくてたまらなかった。
彼女と別れる日が近づいていると思うと彼の胸は痛んだ。オルリコは両親を亡くしてから生きて行くために張家に仕えてきた。生き延びるために双子の我儘を聞き、世間から笑い物にされてもそれに耐えてきた。その彼女が関という名のある商人に嫁ぐ。彼女がようやく手にした幸せの切符を奪うことなど絶影にはできない。まして、彼には彼女を幸せにしてやる自信など微塵もない。彼は自分のことで精一杯だったし、彼自身も仕事中にいつ命を落とすとも分からない。先行きの知れない自分の人生に、安定した暮らしが約束された彼女を巻きこむことなど絶対にできないと思った。
野宿続きの四日間の後、晋粥の隊商宿に辿り着いた一行は街へ出て各々で夕食を取ることになった。オルリコを一人で歩かせるわけにもいかないので、彼は彼女を誘って情報通の黄老と出会った楽笑飯店へ行くことにした。
ちょうど夕食時なので楽笑飯店の席は八割以上埋まっていた。黄老は初めて会った時と同じ奥の席でひとり酒を飲んでいた。そう言えば、一番奥が指定席だと誰かが言っていた気がする。
「寿春酒家のどら息子が刃傷沙汰起こしたって知ってるか?二週間ほど前だ」
絶影とオルリコの顔を見るなり、禿げ頭の老人はそう言ってにやりと笑った。相変わらず仙人のような風貌だ。
「さあ。知らねえな」
にっと笑い返しつつ絶影は黄老の向かいに腰を下した。
「無事にシャナドゥーまで行って帰って来られたようだな」
「ああ、黄じいさんのおかげだ。ありがとう」
「なに、赤兎には借りがあるからな」
絶影とオルリコは適当に食事を注文し、黄老へ草原で盗賊に襲われたことや遊牧民サルキーンの助けを借りてシャナドゥーへ辿り着いたこと、シャナドゥーの祈りの木が言い伝え通り七色に光り輝いたことを話して聞かせた。
「ほほう、その遊牧民の歌っていうのはどんな歌なんだ?」
黄老は、万里の長城を眺めながらサルキーンが歌った歌に興味を持ったようだった。絶影はオルリコの顔を見た。彼はその歌をあまり覚えていなかったが、彼女は覚えていたようで小さな声でそれを歌った。
「おれたちが馬に乗るのは
地平線の向こうを夢見ているから
無限の可能性を手に
草原や砂漠を抜け
大河や海原を越え
青天や星空を駆けまわりたいから」
そこまで歌ったところで彼女ははっとして歌うのをやめた。店内の客という客が、いや、給仕の娘までもが彼女の歌に聞き入っていたからだ。絶影も彼女の隠れた才能に仰天してしまった。
「ひょっとして君、むっちゃくちゃ歌がうまいんじゃ……?今まで誰かに言われなかった?」
「な、ないよ。人前で歌うの恥ずかしいから苦手だし」
オルリコは顔を真っ赤にしてうろたえた。
周りからは「よっ姉ちゃん、続き歌えよ!」などと野次が飛ぶ。黄老からも先を歌ってくれと促され、彼女は渋々、けれどさっきより大きな声で歌った。
「おれたちが旅をするのは
万物が移りゆくことを知っているから
頭の上を流れる白い雲
沈んでゆく大きな夕日
瓦礫と化した男たちの夢の跡
今を生きることだけをその胸に誓っているから」
オルリコの声が大きくなった。何だか楽しそうに見える。微笑みを浮かべて歌う彼女の歌を、客たちは箸を止めてうっとりと聞いている。
「ごらん、非力でちっぽけな人間が
馬に乗った途端にどんな山も越えてゆけると笑う」
とうとうオルリコは立ち上がって店中に声を響かせ始めた。
「ごらん、つまらなそうに走っていた馬が
乗り手を得た途端に生き生きと野を駆けまわっている」
歌う彼女の横顔を眺め、絶影は胸が苦しくなるのを感じた。明日の夕方には暁都へ辿り着くことになっている。これが彼女と過ごす最後の夜だ。二人とも暁都で暮らしているとはいえ、住む世界の違う者同士だ。今後、彼が彼女と顔を合わせることはないだろう。彼女の声を聞くこともなければ、歌を聞くこともない。
彼は彼女の姿を目に焼き付けておこうと思った。彼女の瞳や唇や耳の形や背格好をしっかり覚えておこう、彼女の声を耳に残しておこうと、この二週間の旅のことを胸に刻み込んで忘れないようにしようと思った。
「人は馬に自由を与え
馬は人に自由を与える
おれたちが旅をするのは
与え、与えられ、ともに自由になれるから」
彼女が歌い終えると拍手が沸き起こった。厨房から店主が現れ、食事代を奢るからもう何曲か歌ってくれと彼女を説得し始める。気が付くと店は満員御礼になっていた。すっかり気を良くしたオルリコが店の中央に立って暁都で流行っている歌を歌い始めると、黄老は絶影に耳打ちした。
「駆け落ちは上手くいきそうか?」
絶影は餃子を喉に詰まらせそうになった。
「恋仲になったんだろう?」
彼は今度こそむせた。慌てて牛乳茶を喉に流し込む。
「……あの子、三日後に結婚するんだ。関飛って商人知ってる?」
「知っとるさ。おまえみたいなチビッ子よりよっぽど男前でしかも将来有望だ」
自覚のあることでも他人から言われると傷つくものだ。ぐさりと胸に突き刺さった言葉を噛みしめる絶影を黄老は面白そうに眺めた。
「だが、おれはおまえの方がよっぽど好きだがね」
絶影は面食らった。
「おまえ、あの子に聞いたのか?俺と関飛のどっちが好きなんだって」
「……聞けるわけないだろ。そんなの、関飛に決まってる。俺は売れない用心棒、関飛は将来有望な商人。関飛の方があの子を幸せにできるに決まってる」
「なぜそんなことが言える?おまえがどう決めつけようと、あの子がおまえの方がいいと言えばおまえの勝ちだ。それに、あの子を幸せにできるかどうかも大事だが、何よりおまえさん自身が彼女と一緒にいて幸せかどうかを考えろ。気持ちを伝えなかったことを後悔せんようにな」
黄老は酒の入った湯のみを煽った。オルリコはまだ歌っている。いつからか手拍子が彼女を包んでいた。一生懸命に歌う彼女の姿を見つめ、絶影はまた胸が締め付けられるような気持ちになった。そんな彼の気持ちを知ってか知らず、黄老は強い口調で言った。
「与え、与えられ、人は互いに自由にも幸せにもなるものだ。彼女はおまえさんに幸せを与えてくれるんだろう?それなら、彼女にも聞いてみろ。俺と一緒にいて幸せかってな」
その答えはもう知っていた。
七色に光り輝く祈りの木の上で彼女と口づけしたことを思い出す。
だが、オルリコの性格からして、きっと彼女は彼を選ばないだろう。彼女は今まで苦労した分、確実で安定した人生を望むはずだ。いつ帰らぬ人となるか分からない用心棒の夫など、欲しくはないだろう。
「おまえに良いまじないをかけてやろう」
黄老はそう言ってため息をつき、絶影の首の後ろや肩甲骨の間を両手の数本の指で同時に押した。
「痛ってえ!」
激痛に悶絶する彼を置いて黄老は立ち上がって店を出て行く。
「はっはっは、健闘を祈るぞ、チビッ子」
黄老が去ってからしばらくしてオルリコが絶影の隣に帰って来た。
「こんなに大勢の前で歌ったのも、こんなに人から何かを褒められたのも初めて!」
機嫌良く牛乳茶をあおり、彼女はにこにこと笑いながら夕食の続きを食べ始めた。店主は次々とサービスの品を運んで来てはオルリコを褒め。、絶影は黙々とそれを平らげた。楽笑飯店を後にしたのは夜更けだった。
店を出た途端、悪寒がした。絶影はどきりとした。自慢ではないが生まれてこの方、風邪など数えるほどしか引いたことがない。特に子供の頃は、ひ弱そうな見かけによらず病気知らずで有名だった。
「まさかな」
笑い飛ばした途端、くしゃみが出た。
「大丈夫?」
オルリコが心配そうに彼の顔を覗きこむ。
「平気平気」
手を振って見せた瞬間、眩暈がした。
「全然、平気じゃないじゃん」
よろけた絶影をオルリコはしっかりと支え、二週間前に泥酔した彼にしたように彼の腕を自分の首にかけさせた。二人で過ごす最後の夜なのになんという情けない展開だろう。
「君、すごく熱いよ。熱がある」
「まさか」
言いながら、身体の調子がすこぶる悪いことに彼は気が付いていた。一体どうしてしまったんだろう。目の前がぐらぐらと揺れ、足腰が立たない。オルリコが店の中に戻って誰かに手を貸してくれと頼んだようだ。絶影の意識はそこで途切れた。
目覚めると隊商宿の寝室だった。暗闇の中で瞬きを何度か繰り返す。
隊商宿では床に雑魚寝が基本だ。男女別に分かれた大部屋で数十人の仲間や他の隊商の旅人と眠る。しんと静まり返った宿に響き渡る数十人分の鼾や寝息や身じろぎや歯ぎしりや寝言は圧倒的だった。密集し閉ざされた部屋の中に、人間の生命がぎゅうぎゅうに詰まり、息づいている。
再び意識が朦朧として、絶影は眠りに落ちた。
次に目覚めた時には朝になっていた。仲間の鼾も聞こえず、傍らにはオルリコがいた。
「……俺、寝坊したのか?」
それだけを訊ねるのも億劫なほど身体がだるい。起き上がることができず、絶影は横になったままオルリコの顔をぼんやりと見上げた。
「隊商には先に暁都に帰ってもらったよ。私たちは、君の熱が下がってから帰ろう」
オルリコは優しげな声色で言い、絶影の額に冷たい布を乗せた。瞳を動かして辺りを見ると、そこは雑魚寝用の大部屋ではなく狭い個室だった。彼が寝かされているのも床ではなく寝台だ。
「だめだよ。君、結婚式に遅れるよ」
絶影は何とか起き上がろうとして寝台に手をついた。全く力が入らないが、衛世館の用心棒がそんな甘えたことを言ってはいられない。
「大丈夫、結婚式は明後日だから明日帰れば間に合うよ。だから少し休んで、ね?」
言い聞かせるように彼をなだめ、彼女は彼の顎まで毛布を引き上げた。オルリコの指が絶影の髪に触れ、ゆっくり、そっと撫でる。子供扱いされているようで癪だが、何とも心地よかった。彼はまた眠りに落ちて行った。
「私、行くね。最後の仕事を全うしたいから」
夢だろうか。
「ごめんね」
現実だろうか。
はっとして絶影は飛び起きた。傍らにオルリコの姿はなく、窓から差し込む日はすでに高い。身体は相変わらず重いが立ち上がることができた。ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。
彼はよろめきながら個室を転がり出て、廊下を歩いていた管理人を捕まえた。
「今日、何月何日だ?!」
絶影の剣幕におののきつつ、管理人は日付を答えた。オルリコの結婚式の前日だ。
「あのお譲ちゃんなら昼前に一人で馬に乗って出て行ったよ。それまでずっとおまえさんの看病してたんだぜ。なあ、悪いこと言わないから、もう一泊していけよ。宿代は負けて……あ、おい!」
今から走っても、オルリコには追いつけない。暁都の閉門時間にも間に合わない。オルリコの結婚を止めることもできなければ、彼女と一緒になることもできやしない。
何もかも分かっているのに、荷物を背負って厩舎に飛び込み、馬に鞍をつけて飛び乗り走り出す自分を止められなった。夕暮れの草原の中、赤兎に連れられて家を出て行く幼い俺を、走って追って来た母さんもこんな気持ちだったのかもしれない。絶影は今ならその気持ちが分かると思った。俺が衛世館に売られていくことを止められなくても、それでも母さんはどうしても俺を追いかけたかったんだ。どうしても。どうしても。
『――信じてるよ』
初めて会った日、彼女は絶影にそう言った。衛世館に帰る道すがら、彼は何度もその言葉を思い出しては喜びを噛みしめ、細長い雲が幾筋も浮かぶ真っ赤な西の空を眺めながら、人生で初めて、自分が手にした仕事を誇らしく思ったのだ。
そして己に誓った。きっと彼女を護ってみせる、と。
『最後の仕事を全うしたいから』
オルリコはそう言って出て行った。
『一度やると決めた仕事を途中で投げ出したくない。どんなにくだらない仕事でも命を賭ければそれだけの価値が生まれると思う』
雨上がりの草原で、彼女はそう言っていた。
『俺には分かんない』
その時彼はそう答えたが、今なら分かる気がする。
絶影は手綱を握りしめて愛馬の脇腹を蹴った。




