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4.その手/隊商

 オルリコが泥酔した絶影を支えながら飯店を出たのは夜中だった。彼の意識は朦朧(もうろう)としていて、足元はふらついている。遠慮なく彼女に寄り掛かる絶影の身体を引きずるようにオルリコは宿の方角に歩き始める。彼が小柄で良かったと彼女は密かに思った。


「君、お酒弱過ぎだよ」

「……ぜんぜん酔ってなんかねえよ」


 絶影が言い張るので彼女は試しに彼から手を離してみた。本人は真っすぐ歩いているつもりのようだが、絶影はよろよろと斜めに進んで閉店した商店の扉に頭を強打する。だめだこりゃ。オルリコはため息をついて絶影の腕を自分の首にかけさせた。夜が更け、大通りの人気は少ない。しばらくびくびく歩いていると横合いから声をかけられた。


「待ちな」


 オルリコはぎょっとして足を止めた。脇道から現れたのは相撲勝負で絶影に負けた七人のチンピラたちだった。全員、頬や腕に小さな傷を負っている。彼女は立ち止まった途端に眠りこんでしまった絶影を見下ろし、彼に酒を飲ませたことを後悔しながら後ずさりした。


「酔いつぶれてるとは都合がいい」


 進み出たのは絶影と最初に戦って負けたリーダー格の男だった。


「さっきはよくもやってくれたな。とんだ恥かかされたぜ。たっぷりお礼をしてやるよ」

「そうとも、おまえらを縛りあげて素っ裸にして市門に飾ってやる!」


 相変わらず下品な笑い声を上げ、チンピラ達は同時に絶影とオルリコににじり寄る。チンピラたちを怒らせてしまった以上、どんなに謝ったところでただではすまされないだろう。


 絶影を置いて自分だけ逃げるか。

 オルリコは短い時間で逡巡した。絶影をこの場に置いて行けば、チンピラたちは嬉々として彼を痛めつけるだろう。その隙にオルリコだけ逃げ切ることができれば。


 だが、それでもし彼が殺されてしまったら。そもそも彼に酒を飲ませたのはオルリコなのに。


「お願い、やめて」


 声が震えた。オルリコは両足に力を入れて絶影の頭を自分の胸に抱え込んだ。


「私たちをここで痛めつけるより、私たちを無傷でさらって、身代金を要求した方が得じゃないかな?私はともかく、彼は暁都の衛世館の用心棒で、そこの経営者の大のお気に入りなの。だからきっとたっぷり身代金を取れると思うんだ」


 オルリコの必死の提案にリーダー格の男は憐れむように笑った。


「悪いな、おれたち金には困ってねんだよ、お嬢ちゃん」


 一人がオルリコの肩をつかみ、もう一人が絶影の髪をつかむ。二人が引きはがされたその時、絶影の頭が釣り上げられたようにびくっと上を向いた。


「なんだ、こいつ……うわあっ!」


 彼の髪をつかんでいた男が吹き飛んだ。いつの間にか絶影は剣を抜いていた。誰の目にも留らない速さだった。地面に転がった男は血が溢れる腹を抑えて呻き声を上げている。


「オルリコ、壁際に寄って、しゃがんで、目つぶってろ」


 彼は馬上では籠から放たれた鳥のように自由だった。相撲勝負の時は背中に羽根が生えているかのように身軽だった。だが、膝を深く曲げ、腰を低く落とし、前屈みになって剣を水平に構える今の姿はまるで――地を這う虎のようだった。


「酔ってる時は手加減できねえ。手元も狂う。俺に近づくな」


 彼のものとは思えない殺気のこもった低い声が暗闇に響く。オルリコは言われたとおりにしゃがみこみ、彼がチンピラたちを殺さないことを祈った。チンピラたちはすっかり動転して、斬られた男と絶影を見比べた。


「て、てめえ、よくも!」


 リーダー格の男が懐から短剣を取り出した。


「俺は言ったぞ、手加減できねえってな」


 絶影は低く構えた態勢から一歩踏み出し、突き出された短剣をはじいて剣を一閃させた。彼の剣は男が短剣を握っていた右腕を容赦なく切り裂き、返り血が音を立てて地面に散る。大量に流れ落ちる血からオルリコは思わず目を背けた。血の匂いが辺りにたちこめる。


「うあああ!!」


 リーダー格の男は腕を抑えて尻もちをつき、他のチンピラたちは今度こそ諸手を上げて逃げ出した。負傷した二人は置いて行かれたことに気が付き、傷口を手で押さえながら慌てて仲間を追いかけた。


「……今の、赤兎には黙ってて」


 襲撃者の姿が完全に見えなくなると、剣の血を払いながら絶影がぼそりと言った。


「用心棒は眠っている時でも、酔っている時でも、危険を察知して無意識的に臨戦態勢に入れるよう訓練されてる。でも俺、まだ修行が足りないんだ。実戦経験が少ないって言ったらいいわけだけどさ」


 絶影は大通りに戻ろうと踵を返したが、オルリコは足がすくんでしまって立ち上がることができなかった。衛世館の用心棒の本当の力を目の当たりにして、彼のことが急に怖くなった。


「ごめん、怖かったよな」


 彼女の気持ちを察したのか、絶影が戻って来てうずくまるオルリコに手を差し伸べた。彼女は彼の手を見つめ、その手が剣を握り、弓を放ち、拳を繰り出して彼女を護ってくれたことを思い出す。


「……ううん、平気。全然平気」


 オルリコは絶影の手を取って立ち上がった。彼の手は温かく、心配そうにオルリコを覗きこんでくる彼の目は馬のように優しげだった。


「また、そうやって。無理すんなよ、我慢の鬼」


 我慢の鬼ってなんだろう。オルリコは絶影の手を握ったまま宿に向けて歩き出す。


「助けてくれてありがとう」


 オルリコの言葉に絶影は照れたように頭をかいた。

 夜空を見上げると満天の星がとてもとても綺麗だった。





 二日後、夜明け前に宿を出て、二人は東門の前で隊商に加わった。


「そうそう、忘れてた。私は劉と言うんだ」


 出発準備の合間、馬のいななきに負けない大声で隊商長が二人に自己紹介した。


「お嬢さんのお名前をまだ聞いていなかったな」

「オルリコです。商家の使用人をしています」


 絶影の手を借りて馬に乗ったオルリコは隊商長の劉に無理やり微笑んでみせた。本当は体中がひどい筋肉痛で微笑むどころではないのだが、歯を食いしばって愛敬を振りまく。


「こういう旅をするのは初めてなので、どうぞよろしくお願いします」

「ああ、よろしく。なあに、心配はいらないよ、オルリコ君。――ところで、絶影君、出資金の話だがね」


 劉はにっこりと朗らかに笑い、絶影と金のやりとりをした。隊商は共同出資で成り立っている。全員で幾ばくかの金を出し合い、食料や馬の飼料を買ったり、安全のために用心棒を雇ったりするのが普通だ。集まった人々は四十人近く、よく見ると用心棒が数名いるようだ。しかも見るからに屈強そうな。


 劉と絶影の話が付き、いよいよ隊商は出発した。東門を出て道なき草原をゆっくりと進む。しばらくすると馬にまたがった絶影がオルリコに近づいてきた。不満そうな顔だ。


「出資金、二人分しっかり取られたよ。君はともかく、俺は用心棒だから少しは安くしてくれるんじゃないかと期待したんだけど取りつく島もなかった」


「いざという時は役に立って見せるから負けてくれって言わなかったの?」

「言ったけど、それじゃあ二重契約になるからまずいだろうってさ」

「二重契約?」


 暖かい風が吹き、馬のたてがみを揺らす。東の地平線から昇って来た太陽の光が草原を刺すように照らしていた


「俺は今、君に雇われてるだろ。だから俺は何が何でも君を護る。君を護ることが最優先事項なんだよな。でも、もし劉さんに出資金を負けてもらったら、俺はこの隊商全体にも少なからず責任を負うことになる。つまり、いざという時、俺は君を護ることを最優先にできなくなるかもしれないってことだよ」


「私を護りながら隊商の人たちや荷物を護るのは大変そうだね」

「だろ?だから、君にとっても俺にとっても負けてもらわない方がいいだろうってさ。うまくのせられた感じだけどな」


 二人は何とはなしに隊商の先頭を歩く劉に目をやった。劉は彼らの事情を分かった上で絶影から正規の出資金を徴収したのだろうか、それとも単にがめついだけなのか。


「この隊商って何日か前に盗賊に襲われたんだよね」


 オルリコは劉から視線をはずして隣の絶影を見た。馬に乗った彼はやはり地上にいる時よりも精悍な顔つきをしている。


「私、怖いな」


 暁都を出てからというもの、賊に囲まれたり、町でチンピラに絡まれたり怖い目には遭ってきたが、隊商を襲うような大規模な盗賊に襲われたらと思うと恐怖で身が凍りそうになる。まして、この隊商は数日前に一度盗賊に襲われて晋粥に逃げ帰っているのだ。獲物を逃した盗賊が虎視眈々と次の獲物を狙っているかもしれない。


「大丈夫だって、その時は俺が君を必ず逃がしてあげる。でも、自分で馬は操つれた方がいいよな。ちゃんと教えてなかったから説明するよ。まずは手綱だけど」


 絶影は真面目な顔つきで自分の手綱を持ち上げて見せる。


「基本的に馬のたてがみの辺りで短めに持つ。右に曲がりたい時は右にずらす。思いきり曲がりたい場合は右側の手綱だけを空いてる手で引っぱって馬の顔を行きたい方向に向ける」


 絶影の愛馬・曹操の顔が右側を向き、進路がだんだん右の方へ逸れて行く。


「次は速度調整。今の速度は常歩(なみあし)っていうんだ」


 隊商の馬たちはのんびりと歩いている。


「一段階速くなると速歩(はやあし)


 絶影は列から離れ、馬をとことこと小走りで走らせた。馬上の彼は小刻みに上下に揺れている。


「次が駈歩(かけあし)だよ。これは君も一昨日やったよね」


 馬の脇腹を蹴り、絶影は手綱を緩めた。馬は大股で疾走し、絶影は腰を浮かせてあぶみの上に立ち上がり、上下へ弾むような動きをしている。


「こんなもんかな。駆歩(かけあし)の上には襲歩(しゅうほ)って言う速度があるんだけど、君には無縁だから省略するよ」

「襲歩?」


「そう。超全速力で走ること。人馬一体の境地だよ」


 午前中はそんな風に絶影の乗馬講座が続いた。オルリコは少しずつ馬に慣れ、馬を操る方法を頭では理解した。あとは出した命令が馬に伝わるよう根気強く馬と向き合うだけである。


 昼の休憩を半刻ほど取り、隊商は再び東を目指して道なき草原を歩き出した。しばらくすると、また絶影がオルリコの様子を見にやってきた。


「もう少し脚を締めて、膝を柔らかくした方がいいよ」


 彼は親切に教えてくれているのだろうが、正直、彼女はそれどころではなかった。ゆっくりと歩く馬に揺られているだけで身体中が辛い。まず膝がものすごく痛かった。次に、太股が痛い。お尻が痛いし、背中が痛い、腕が痛い、手の平が痛い、足首が痛い。昨日、絶影を部屋から追い出して湯浴みした時に確認したところ、太股の内側や裏側が青黒い痣だらけになっていた。お尻の皮も剥けそうだった。

衝撃を和らげるために鞍に厚手の布を敷いたが焼け石に水のようだ。起床時や昼の休憩時に身体の筋を伸ばしたりもしたのだが、それも右に同じである。


「マメに休憩を取ってくれるように頼んでくるよ」


 苦痛が顔に出てしまったのか、絶影はオルリコにそう言って馬を駆り、先頭を歩く劉の元へ行ってしまった。オルリコは取り残され、絶影の行動を有難いような迷惑なような複雑な気持ちで見送った。マメに休憩をとったせいで行程が遅れれば、十七日後の結婚式に間に合わなくなるかもしれない。すでに晋粥で一日無駄にしてしまったから、これ以上ぐずぐずするのは嫌だった。


「慣れないうちは大変よね」


 焦る気持ちを抑え、馬の後頭部を睨んでいたオルリコに横合いから声をかけてきたのは二十代半ばくらいの女だった。


「シャナドゥーへ着くころには嫌でも慣れてるはずよ。今は無理しない方がいいわ」


 この隊商に女性がいるとは思わなかった。ぽかんとしているオルリコに彼女は思い出したように笑った。


「ああ、私はイラーナ。女は私とあなただけみたいだから、仲良くしましょうね」

「オルリコです。あなたは一人で旅を?」


 見たところ、イラーナという女性は屈強そうには見えない。用心棒も雇わずに一人で旅をするなんて度胸のある人だとオルリコは感心した。だが、イラーナはあっけらかんと笑った。


「ええ。里帰りよ。父が病気でそろそろ危ないって手紙が来たの」


 ということはイラーナも先を急いでいるのではないか。だが、彼女の言動には焦りや苛立ちは見えない。悠々と構えた彼女の態度にオルリコは再び感心した。そんな彼女の心を読んだのか、イラーナは優しげに微笑んだ。


「焦ったところでどうにもならないことはあるわ。今は無事にシャナドゥーへ辿りつくことだけを考えてるの」


 確かに、何事もなくシャナドゥーへ到着できなければ、オルリコは自分の使命を果たすことさえできない。彼女はイラーナの言葉を己の心に言い聞かせた。


「ところでオルリコ、ひょっとしてあなたたち……駆け落ち?」

「……違います」





 慣れない乗馬から来る全身の傷みと疲労との戦いとともに隊商の旅は続いた。昼は馬に揺られて草原を進み、夜はテントを張って眠る。食べる物は干し肉や乾燥させた野菜や果実で、水は残量を気にしながら惜しみつつ飲んだ。


 晋粥を出発して四日目の夜、翌日の日暮れにはシャナドゥーへ到着すると劉が言った。隊商の商人や旅人たちは安堵の声を上げ、オルリコは指を折って数えた。結婚式まで十四日ある。ほっと息をついた彼女の横でイラーナも穏やかな笑顔を見せた。


「最初に盗賊に襲われた時はどうなることかと思ったけど、ここまで無事に来られて良かったわ」


 イラーナはオルリコたちが隊商に加わる前に劉たちと一緒に盗賊の襲撃に遭っていたのだ。その時は用心棒の誘導で命からがら逃げ出したと言う。


「本当だね。後は……間に合うといいね、イラーナ」


 イラーナと同じテントに入りながら、オルリコは控えめに言った。寝食を共にするうちに二人はすっかり打ち解けていた。イラーナは寝床に潜り込みオルリコに微笑んだ。


「……そうだね。あなたもこの分だと結婚式に間に合うかしら」

「うん。余裕だと思う」


 明日で暁都を出てから七日だ。復路に同じくらいの日数がかかっても十分間に合うはずだった。


「ねえ、オルリコ、親の死に目、ってどんな風だった?」


 オルリコがイラーナの横に寝転ぶと彼女は静かに訊ねた。重い空気があっという間に二人きりの暗いテントに満ち、オルリコは風に震える天井の染みを目上げて目を閉じた。


「私は十四歳だったけど、結構、冷静だった」


 一年前、暁都で流行った病に倒れ、両親はほぼ同時に亡くなった。倒れてから息を引き取るまでは幾日もかからず、オルリコはたった一人で両親の看病をした。何とか善くならないものかと医者を呼ぼうとしても、病の感染を恐れて医者は両親を診てもくれなかった。その病にかかった者は十中八九助からないのだ。


 間もなく両親が死ぬ。絶対に助からない。そのことを悟ってからは、オルリコは必死で考えた。彼らが死んでも自分は生きて行かなければならない、生きて行くためにはどうしたらいいのか。弱っていく彼らの傍らで一生懸命考えた。


「一番、確実な方法が結婚だなって思ったの」


 目を開き、オルリコは天井を睨んだ。養ってくれる夫がいれば衣食住には困らない。経済的にも精神的にも支えになってくれるはずである。


「だから、結婚式には絶対に間に合わせなくちゃいけないんだ」


 口に出した瞬間、どうしてか絶影の顔が頭に浮かんだ。隠しているわけではないが、彼にはまだ結婚式のことを言っていない。


 オルリコは慌てて婚約者の顔を思い出そうとする。顔を見たのはたった二度だが、とても忘れようのない、美しい男性だ。彼と最初に会ったのは的頭村で、石を拾っていた彼女に彼から声をかけて来た。その数日後、オルリコを嫁に欲しいと張を通して彼から申し出があった。彼女は二つ返事で承知した。


「生きて行くために?」


 イラーナは眉を上げてオルリコを見た。オルリコは頷いた。


「うん、生きて行くために」


 話が途切れると、二人は隙間風に身を縮め、宴会に興じる男たちの声を聞いていた。再び口を開いたのはイラーナだった。


「一緒に眠るのもこれで最後ね。なんだか名残惜しい」


 とろりと眠たげな声で呟き、イラーナは目を閉じた。


「うん、名残惜しい。短い間だったけど、あなたと話せて良かった」

「私も、あなたがいてくれて良かったよ。楽しかった」


 おやすみと言い合って、二人は深い眠りに落ちていった。

 オルリコは夢を見た。


「あなたが張さんの使用人のオルリコですか?」


 青年はオルリコが名乗るより先にそう訊ねた。初対面のはずなのにどうして私の顔と名前を知っているのだろう。彼女は訝しんだが、彼があんまり素敵な男性だったのでそれを訊ねることができなかった。彼女は特に異性に対して引っ込み思案だ。


「僕は張さんの友人の関飛かんひです。よろしければ少しお話しませんか」


 青年が柔らかく微笑む。場面が一転する。


「あの人が関飛さんだね」

「あの人がオルリコのお婿さんだね」


 金華と銀河がオルリコの両脇で囁く。彼女は物陰から一人の青年を見つめていた。すらりと背が高く肩幅も広い、眉目秀麗で、商才のありそうな理知的な瞳に優しげな雰囲気の、非の打ちどころのない男性だった。的頭村で出会った彼は数日後、張を通してオルリコへ婚約を申し込んできた。どんな男性か見てみたいと言う双子を連れ、彼女は関の家の前まで彼を覗きにやって来たのだ。


 どうしてあんな素敵な人が私なんかを嫁に欲しいと言い出したのだろう。オルリコがしげしげと関を眺めていると、突然誰かに手をつかまれた。


「待てよ」


 振り返ると絶影だった。怒っている。


「君、本当にあいつと結婚するの?」


 すでに金華と銀河の姿はなく、二人は星々の輝く夜の草原の真ん中に立っていた。彼は訊ねながらオルリコの手を両手でぎゅっと握った。ここまで彼女を護ってくれた手だ。


「それは……」


 オルリコは自分の胸がどきどきと高鳴るのを感じた。彼のマメだらけの手は熱く、その手に触れられることは何とも心地良かった。


 でも彼の身長はオルリコと同じくらいで、体格も小柄な方だ。日焼けした顔は健康的で男らしいけれど眉目秀麗とまでは言えないだろう。


 馬に乗ってる姿は格好いいのになあ。

 オルリコが思った時、怒鳴り声と共に叩き起こされた。


「起きろ!持てるものだけ持て!」


 目を開けるとテントの入り口に絶影が立っていた。オルリコは思考の覚醒を待たずに寝床から飛び起き、反射的にまとめてあった荷物を背負った。デールは着たまま眠っていたのですぐにテントから出る。まだ寝ぼけ眼の彼女の手に絶影が押し付けたのは手綱だった。手綱は冷たく濡れていた。雨が降っているのだ。


「速く乗れ!」


 絶影の手を借り、言われるがままに馬に乗ってから、オルリコはようやく辺りを見回してぞっとした。風に乗って血の匂いがする。剣と剣がぶつかり合う音や人々の叫び声が聞こえた。隊商が襲われている。一気に目が覚めた。


「ぼけっとするな、逃げるぞ!」


 愛馬の曹操に颯爽と跨り、絶影がオルリコの馬の脇腹を蹴った。オルリコの馬は曹操と共に走り出す。容赦のない全力疾走、駈歩(かけあし)だ。


「待って!イラーナが!」


 振り返るとイラーナは驚愕の表情でテントから出てきたところだった。彼女の馬はまだ他の馬たちと共に繋がれているのだろう。彼女が馬の元へ無事に辿り着けるのか、馬に乗ることができたとして自力で逃げ切れるのか、オルリコには分からない。


「イラーナを助けなきゃ!」

「だめだ!もう戻れない!」


 絶影は馬上から弓を放ち、二人を追いかけて来た盗賊を何人もしとめた。馬の背から転がり落ちた盗賊たちは派手な水しぶきを上げて泥の中に突っ込んだ。


「大丈夫だ、隊商には用心棒が四人もいる。盗賊の目的は物品であって殺戮じゃない。きっとみんな逃げられる」


 じゃあどうして私たちだけ逃げるの。オルリコは叫びそうになって唇を噛んだ。絶影はすべて分かった上で言っているのだ。隊商が無事では済まないこと、自分たちが逃げ切ることで精一杯であること。分かった上で、できることならそうであって欲しいと絶望的な希望を口にしているのだ。


「ごめん」


 オルリコは絶影に謝った。雨と一緒に流した涙が口に入った。涙は悲しくなるほど温かくて、しょっぱかった。同時に彼女は金華と銀河の顔を思い浮かべて恨めしくなった。あの双子はオルリコがこんな目に遭っているなんて夢にも思っていないだろう。双子の面白半分の思いつきでシャナドゥーへ行かされることになった我が身を彼女は今さら情けなく思った。


 一度惨めな気持ちに陥ってしまうと涙は次から次へと溢れた。雨足もどんどん速くなり、二騎は大雨の草原を、泥を跳ね上げながら疾走した。雨風の冷たさで手や頬の感覚が失われていったがオルリコは弱音を吐かず、手綱を握りしめて走り続けた。そうしながら、彼女は絶影も泣いていることに気が付いた。


 彼は今まで大きな仕事をしたことがないと言っていた。実戦経験が少ないともぼやいていた。盗賊に寝込みを襲われることなど、きっと彼も初めてなのだ。彼も怖いだろうか、不安だろうか、悔しいだろうか。だったら、私と同じだ。私と何ら変わりはない。この果てしなく広い大地の上で、こんなにも同じ気持ちを抱いている人間は彼以外にいない。そう思うと、励まされるような気がした。


「頑張ろう。きっと、みんな大丈夫だよ」


 オルリコは絶影に笑って見せた。涙に濡れ、かじかんだ頬でうまく笑えたかどうかは分からなかったが、絶影も唇の端を上げて頷いた。



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