3.声が聞こえた/晋粥
オルリコが悲鳴を上げながら走り去り、二人の賊が彼女を追って行くと、絶影はすぐに弓を引いた。至近距離で胸に矢を受けた一人の賊は呻き声も漏らさず剣を手放して落馬した。彼の目にもとまらぬ弓技に、残された賊は剣を構えたまま後ずさりした。絶影とオルリコに橋が落ちたから遠回りしろと勧めた商人風の男だ。
「お、おまえ、信じてなかったんだろ?大雨で橋が落ちたなんて。なんで騙されたふりなんかした?」
絶影は背中の矢筒から新しい弓を取り出し、慣れた手つきで弓を引いた。男を傷つけることに、爪の先ほどの躊躇いも感じなかった。矢を放つ。男は剣を振り回して矢を払おうとしたが、矢は男の太股に命中した。
「あんたこそ、俺が武器持ってるの見えてたろ?四人で襲えばどうにかなると思ってた?」
男が地面に倒れると、彼はすぐにオルリコを追った。ついでに、聞こえているか分からないが男を振り返り、気まぐれで教えてやる。
「騙されてやったのは、あの子にいいとこ見せたかったからだ!」
オルリコと二人の賊は砂埃を上げながら草原を疾走していた。絶影は馬の脇腹を蹴り、手綱を引いたり緩めたりを繰り返して速度を上げた。
『絶影』
それは三国志に出て来る馬の名前で、影も残さぬ速さで走り去ると称賛された魏の曹操の愛馬だ。赤兎が何故そんな名前を彼に与えたのか、彼には分からない。だが、彼の敏捷性はその名に恥じないし、馬に乗れば影も残さぬ速さで駆けることができる。
「いいとこ見せてやろうぜ、曹操!」
絶影は愛馬に語りかけ、高速での疾走を続けながら馬上で弓を引いた。膝でしっかりと馬の身体を挟んでいるから落ちることはない。揺れる鞍の上で狙いを定めるのは至難の業だが、長年連れ添った愛馬の刻むリズムは彼の身体に馴染んでいた。
「ぐああっ!!」
にやにやと笑いながらオルリコに剣先を向けていた男が肩に矢を受け、叫び声を上げて馬から転がり落ちた。砂埃が舞い、驚いた馬はあさっての方向へ逃げて行く。
「おい、相棒!てめえ!」
最後の一人は追いついた絶影に剣を突き出した。絶影は弓を背負って腰の剣を抜き、片手で手綱をさばきながら応戦する。彼は気分が高揚するのを感じた。
「どう?!俺が強いって信じた?!」
賊の振り回す剣を弾き飛ばし、彼はオルリコへ得意げに笑って見せたが、彼女は馬を走らせることに集中しているようで彼のことなど見ていない。彼は舌打ちして丸腰になった賊が逃げて行くのを見送った。
「もういいよ、めいっぱい手綱引いて止まって!」
オルリコは言われたとおり両手で力いっぱい手綱を引き、馬が止まるとがっくりとうなだれた。彼が覗きこむと、彼女の顔は青冷め、肩や唇が震えていた。
「も、もしかして、結構怖かった?」
おそるおそる訊ねるとオルリコは目を吊り上げて怒鳴った。
「当たり前じゃん!怖かったなんてもんじゃないよ!」
大人しそうなオルリコの思わぬ怒声に絶影は飛び上がるほど驚いた。
「死ぬかと思ったんだよ!」
砂埃で汚れたオルリコの頬にぽろぽろと透明の涙がこぼれ落ちた。彼女は顔を背けてデールの袖で涙をぬぐい、嗚咽を堪えるように小刻みに震える唇を引き結んだ。
「ご、ごめんな」
俺は物心ついた時には兄貴と馬に乗って走り回っていたから、初めて馬に乗る人の気持ちとか分からなくて。言い訳ばかり頭に浮かんだが、そんなことを言っても彼女の慰めにならないことは分かっている。とはいえ、この場で泣かれても彼にできることはなかった。
「ごめん、もう無理させないから。今日は馬、下りて歩こう」
晋粥には閉門時間までに着けばいい。ここまで晋粥の方角に走らせて来たから、無理な疾走でずいぶん距離を稼げたはずだ。天気もいいし、のんびり街道を歩いて行くのもいいだろう。
ところが、涙をぬぐったオルリコは首を横に振った。出会ったときから印象的な黒い目に、静かな決意の火を灯して。
「ううん、平気。全然平気」
「や、無理すんなよ」
「大丈夫、まだやれる」
死ぬかと思ったと泣いていたのは誰だと彼は言い返しそうとしたが、彼女が小さく言ったのでやめた。
「助けてくれてありがとう」
街道に戻って橋を渡り、その日の午後、二人は無事に晋粥に到着した。町の門をくぐり、馬を下りると、オルリコが市壁に寄りかかってへたり込んだ。ろくに休憩をとらずに来たので当然と言えば当然だ。
「膝、膝が……」
彼女は情けない顔で、馬に乗った姿勢のまま固まった膝を曲げたり伸ばしたりさすったりしている。絶影は二頭の馬を引き連れ、そんな彼女を見下ろした。
「だから途中で休憩しようって、俺何度も言ったよ」
「だって、休憩中にまた賊に襲われたら怖いもん」
「襲われたって返り討ちだよ」
「それでも弱音吐くの嫌」
いたたたたと言いながら、オルリコは歯を食いしばって立ち上がった。おそらく膝だけではなく、お尻や太股も痛いはずなのだが、彼女は自分の馬の手綱を受け取った。
「お待たせ、まず宿を取るんだよね?」
ものすごく痛そうに顔をしかめ、ものすごく痛そうな声で言い、オルリコは絶影を促した。
「……頑固っていうか、意地っ張りっていうか、君って本当に忍耐強いんだね」
「普通だよ」
二人は馬を引き、込み合った大通りを歩いて「天陽酒家」という宿屋の扉をくぐった。宿屋の少年に馬を預け、無人の番台で宿帳に記張していると奥から老婆が顔を出した。老婆は絶影とオルリコをしげしげと見つめ、何かを疑うように目を眇めた。
「駆け落ちかい?」
そんなわけあるか。絶影は咳払いした。
「衛世館の用心棒だ、こっちはお客さん」
「おやまあ、あんたみたいなチビッ子が赤兎のとこの用心棒かい?世も末だねえ」
あんまりだ。
「で、部屋ある?ないなら他へ行くけど」
「もちろんあるさ、さあおいで、お嬢ちゃん」
老婆はオルリコの手を取って建物の奥へ進み、暗い廊下を経て一つの客室に二人を案内した。中を覗くと狭い部屋に寝台が二つ並んでいて、他には家具らしい家具はない。かろうじて寝台と寝台の間についたてが一枚あるきりだった。
「井戸と厠は裏庭、湯が必要なら自分で取りにおいで」
老婆はそれだけ言うとさっさとその場を立ち去った。絶影はオルリコを部屋に残し、慌てて老婆を追いかけた。
「おいおい婆さん、あの子は客だって言ったろ?部屋別にしてよ」
野宿ならともかく、女の子と同じ部屋で寝るなんてできっこない。第一、オルリコが嫌がるはずだ。何しろ彼らは昨日出会ったばかりなのだから。
「客ってことは、あんたあの子の用心棒なんだろ?同室の方が都合がいいんじゃないのかい?」
施錠した客室で何から彼女を護れと言うのだ。
「あのなあ……」
絶影が抗議の言葉を探していると、背後からオルリコが近づいてくる。
「ねえ、私は平気だよ。その方が安く上がるし」
我慢の鬼がとんでもないことを言い出した。
「ほらごらん。やっぱり女の方が潔いねえ。度胸が据わってるよ」
かっかっかと笑いながら、老婆は廊下の奥へ消えて行った。
「お腹すいちゃった。買い物がてら夕飯食べに行こうよ」
オルリコが暢気に言ったので絶影は諦めて部屋に荷物を置き、買い物のための袋に財布だけ放り込んで背負った。腰に剣を帯び、弓矢は置いて行く。オルリコは財布を懐に入れただけのようだった。
宿を出ると日が随分傾いていた。腹ごしらえの前に市場に行かなければ閉店してしまう。彼らは足早に大通りを歩き、露店の並ぶ横町に向かった。絶影は保存食や薬や矢を調達し、オルリコは乗馬用に頑丈な手袋と鞍に敷くための厚手の布を買った。
買い物を済ませた時には夕暮れ時だった。髪飾り屋や装飾品店の前で足を止めたがるオルリコを引っ張り、絶影は「楽笑飯店」という胡散臭い名前の食堂を目指して歩いていた。その食堂にいる黄という男に、シャナドゥーまで行く隊商を紹介してもらえと赤兎から言われているのだ。晋粥からシャナドゥーまでの六日間は道なき草原を進み、毎晩野宿をしなければならないので絶影とオルリコの二人だけでは危険すぎるのだ。隊商と一緒に行動すればある程度の危険は――今日のような賊くらいは避けられる。
「おうおう、チビッ子が、可愛い子連れてんじゃねえかよ」
隊商での旅に思いをはせていた絶影は酒臭い息を吐きかけられて我に返った。彼に顔を近づけているのは酔っ払った若い男だった。チンピラとも言う。
「おい見ろよ、こいつ、剣なんてぶら下げてやがる」
「可哀想に、腕っぷしじゃ女を護れないんだろ」
「お嬢ちゃんよ、こんなチビッ子放っておいて、俺たちと一緒に飲もうぜえ」
チンピラは七人いた。どいつもこいつも上等な着物を着て、きちんと髪を整えているのでどこかの金持ちのどら息子たちといった風情だ。オルリコは戸惑ったように眉根を寄せて、猫なで声を出しながら近づいてくる彼らと絶影を交互に見た。
「俺んち、この先の寿春酒家ってとこなんだ、なあ来いよ、なあ」
チンピラの一人にオルリコが腕をつかまれ、無理やり連れて行かれそうになる。
「手え離せ。あんたらも揉め事は避けたいだろ?」
絶影は怒りを押し殺して低く言った。
「あん?何か言ったか?顔の位置が低すぎて聞こえねえな」
げらげらと笑い転げるチンピラたちの後ろでオルリコが目を吊り上げたのが見えた。
「もう、離してよ!君、こんな奴らさっさとやっちゃいなよ!」
オルリコはチンピラの腕の中でもがきながら絶影を怒鳴りつける。そんなことを言われても、たかがチンピラ相手に街中で剣や拳を振り回すのは衛世館の用心棒としていかがなものか。
「よし!じゃあ、相撲で勝負つけようぜ」
名案が浮かんだとばかりに彼が提案するとチンピラたちは呆れ果てたような顔で応じた。
「はあ?」
「相撲だよ、相撲。俺があんたら全員を倒したらその子を返せ。そのかわり、俺が誰か一人にでも負けたらその子を連れて行っていい」
チンピラたちは勝負の条件を飲み込むと大笑いした。身長でも体格でも彼が不利なのは一目瞭然だった。見た目が弱そうなのはおまえの最大の武器だと赤兎に言われたことを思い出し、絶影は不本意ながらなるほどと納得した。
「乗った!勝負しようぜ!」
「お嬢ちゃんも気の毒になあ」
「チビの上、馬鹿だとは思わなかったぜ」
大通りにはいつの間にか彼らを囲むように人だかりができていて、野次馬の一人の壮年の男が行司役を買って出たので彼に任せることにした。集まった人々の囁き声に耳を傾けると、チンピラ同様に絶影をけなす声が圧倒的多数だった。絶影は腰の剣をベルトから外し、膝下丈のデールを脱いでどちらもオルリコに預けた。
「後で泣きごと言っても聞かねえからな」
初戦の相手はチンピラのリーダー格の男だった。彼も上着を脱ぎ、仲間に放る。一気に勝負を決める気なのだろう。絶影とリーダー格の男は静かに向き合い礼をした。
まずは互いに睨みあい、隙あらば相手の服をつかもうと両手を前に出して構える。どちらが先にしかけるか、絶影は様子を見ながら敵を観察した。男の身長は絶影より頭二つ分高く、胴回りも彼の倍はある。手が大きく腕力もありそうだ。たが下半身は鍛えられていない。乗馬で全身を鍛え、敏捷性を養ってきた絶影の敵ではない。
「チビッ子がんばれ!」
「寿春酒家のどら息子なんて潰しちまいな!」
睨み合う二人を見守るうちに絶影に同情してしまった野次馬がいたらしい。年配の女性からの声援にリーダー格の男は嘲るように笑った。
「こういう時、婆さんどもは負けそうな方を応援するんだよな」
絶影は顎を突き出して男を睨んだ。
「無駄口叩いてる暇があったらさっさと負かしてみろよ」
挑発に乗り、とうとう男が足を前に踏み出した。男は絶影の脇に手を入れようとしたが彼はそれをひょいと避けた。男は空をつかみ、歯噛みしてさらに絶影につかみかかるが再びかわされた。まるで背中に羽根があるかのように身軽に飛びのき、絶影は宙返りまで披露する。
「こいつ、ちょこまかと……!」
男は逆上して顔を真っ赤に染めている。組み合えば勝てるとでも思っているのだろう、がむしゃらに絶影を追いかけまわし、その度にひらりひらりと逃げられた。それを何度か繰り返し、男の足元がふらついた時、絶影は素早く彼に近づきさっと足払いをかけた。
どさりと男が地面に尻もちを着いた。
わああっと歓声が上がった。
「すごいぞ、チビッ子!」
「よくやった、チビッ子!!」
無様に転がった敵を見下ろし、絶影はにやりと笑った。かなり気持ちいい、だけにチビッ子はよせ。
逃げてばかりいるなという観客の注文で次の相手とは最初から組み合い技をかけて倒した。三人目と四人目の相手は太り過ぎていたので組み合いは避け、足払いをかけたり背後に回って引きずり倒したりした。五人目以降は体格差があまりなかったので全員と組み合って投げ飛ばした。
七人のチンピラを倒した絶影は人々から称賛を浴びた。英雄にでもなった気分とはこのことかと彼は胸を張ってチンピラたちを嘲った。
「俺は暁都の衛世館の用心棒、絶影だ!おまえら顔洗って出直しな!」
彼が正体を明かすと野次馬がざわめいた。
「暁都の衛世館?」
「赤兎のとこの用心棒だよ」
「どおりで」
しめしめ、これで仕事が増えたら儲けもんだ。邪なことを考えている絶影の下に笑顔のオルリコが駆けてきて彼の手を両手で握った。
「やっぱり君はすごいよ!」
「え」
絶影の頭にみるみる血が昇っていく。
「いや、その、あの、い、行こうぜ!」
絶影は彼女から剣とデールと荷物をひったくり、人垣を抜け、楽笑飯店へ向かって大通りを歩き出す。オルリコが小走りについてくるのを足音で確かめながら、彼は地面を睨んで黙々と歩いた。彼女からの称賛は嬉しくも照れくさかった。
楽笑飯店は大通りから少しはずれた細い道にあった。大きいが古めかしい店構えをしばし見上げ、二人はその大衆料理店の扉を開けた。
「いらっしゃい!」
「黄って男がここにいるって聞いたんだけど」
応対に出た明朗な娘に訊ねると彼女は白い歯を見せて笑い、満席に近い店の奥を指差した。
「黄じいならそこよ。一番奥が指定席なの」
給仕の娘が指したのは頭が禿げ上がった仙人のような老人だった。絶影はオルリコと顔を見合わせ、黄老に近づいた。
「黄じいさん?ここいいか?」
声をかけると黄老は酒の入った湯のみを手にしたまま静かに目を上げた。
「……誰だ?」
「衛世館の用心棒だ」
絶影は承諾を待たずに黄老の向かい側に腰を下した。オルリコもその隣にちょこんと座る。黄老は二人を見比べ、それからにっと唇の端を釣り上げた。
「ああ、寿春酒家のどら息子を相撲で負かしたんだろ。絶影とか言ったか?」
「……耳が早いんだな」
赤兎は、黄老は情報通だと言っていた。
「俺たちシャナドゥーへ行きたいんだ。草原を渡る隊商を探してる」
「隊商は当分出ねえよ」
「それは赤兎も言ってた。ちょうどこの前、シャナドゥーへ行く隊商が暁都を出発したばかりで、次の隊商が出るのは来月だってな。でもあんたならきっといい情報を持っているから知恵を貸してもらえって言われて来たんだ」
黄老の助けがなければ旅は頓挫する。絶影は祈るような思いで老人の顔をじっと見つめた。隣のオルリコも不安そうな表情だった。黄老はふっとため息をついて朗らかに笑った。
「赤兎の頼みじゃ仕方ねえか。いつもは情報料を取るんだが、あのどら息子を負かしてくれた礼をしなけりゃな」
とん、と湯のみを食卓に置き、黄老は身を乗り出して絶影に顔を近づけた。
「この前暁都を出たばかりの隊商が盗賊に襲われて青海草原から晋粥に逃げて来ている。幸い全員無事で商品も無傷というから、態勢を立て直したらすぐに再出発すらしい」
はっと目を見張った絶影を見て、老人は楽しそうに目を細めた。
「行き先はシャナドゥーだ。盗賊に襲われたばかりの彼らは腕利きの用心棒が隊商に加わると聞いたらさぞ喜ぶだろうなあ」
絶影とオルリコは嬉々として顔を見合わせた。
「やったね!」
「ありがとう、黄じいさん!」
二人が立ち上がると黄老は酒の入った湯のみに口をつけて手を振った。
「隊商宿は東門の近くだ、行けば分かる」
彼らは楽笑飯店を出て東門を目指した。町にはすっかり夜の帳が下り、店先の提灯の明かりを頼りに歩いて行くと、黄老の言った通り隊商宿は東門のすぐ近くにあった。一目でそれと分かるほど巨大な石造りの建物はまるで要塞のようだ。絶影は入り口の脇で煙草をふかしていた商人風の男をつかまえた。
「俺は衛世館の用心棒だ。シャナドゥー行きの隊商長に会いたい」
「用心棒?へえ、あんたみたいな子供が?」
男は疑わしそうに首をかしげつつ二人を隊商宿の中に招き入れ、隊商長のもとへ案内してくれた。二人は隊商長と顔を合わせるなり驚いてのけぞった。それは先刻の相撲勝負で行司役を買って出た野次馬だった。彼は赤兎と同じ四十代くらいで、さっぱりとした短い髪に商人らしい人好きのする顔立ちをしている。
「あんた、さっきの!」
絶影が声を上げると、隊商長もおかしそうに笑った。
「おお、君は!いやあ、あの勝負は実におもしろかったよ、絶影君、はっはっはっは!」
隊商長に肩を叩かれ、絶影は照れながら話を進める。
「俺たちシャナドゥーへ行きたいんだ。隊商に加えてもらえないか?」
隊商長は即答した。
「もちろんさ!何しろ私たちの隊は一昨日盗賊団に襲われたばかりでね。君のような強い用心棒がいれば心強いよ」
すげえ。初めて言われた。
「出発はいつですか?」
あまりの感動に呆然とする絶影に代わってオルリコが訊ねる。彼女の口調に焦りのようなものを感じて彼は我に返って訝しんだ。急ぐ旅とは聞いていない。
「明後日の朝だ。開門時間にこの東門で会おう。ところでつかぬことを聞くが君たち……まさか駆け落ちじゃないだろうね?」
なんでだ。
隊商長と別れて隊商宿を後にすると、空腹の二人は大通りの目についた飯店に入り、遅い夕飯を取った。朝食を食べてから水以外口にしていなかった彼らは炒飯や肉野菜炒めを無言で腹に詰め込んだ。
「そう言えば返すの忘れてた。これがなかったら落馬してたよ、ありがとう」
食卓の皿が空になり一段落するとオルリコが口を開き、絶影が貸した皮の手袋を差し出した。彼は牛乳茶を飲みつつ無言でそれを受け取る。
「君、私たちに声をかけてきた商人風の人が悪者だって知ってたでしょう?」
図星を差され、絶影は咳きこんだ。
「やっぱり。でなきゃあんなにタイミングよく手袋貸してくれないもんね」
理由を聞かれたらどう答えようかと彼が知恵を総動員させていると、オルリコは釣り上げていた目を伏せて頬杖をついた。
「君って本当に強いんだね」
オルリコの表情はなぜか悲しげで、絶影はどう答えたらいいか分からなかった。
「もちろん、強いんだろうなとは思ってたけどね」
「俺が強いと、まずい?」
恐る恐る訊ねると彼女は首を横に振った。
「ううん、そうじゃない、違うよ。あのね、今まで君と私は似ているような気がしてたの。私は裕福な商家の娘さんにつまらない仕事をもらって生きてる使用人。君は見た目で侮られてつまらない仕事しか貰えない用心棒」
言われてみれば似ているかもしれない。
「だけど、私たちは似ているようで正反対だってことに気がついちゃったの。私は力も才能もないからつまらない仕事をしているけど、君はそうじゃない。君は有能なのにつまらない仕事しか与えられない。君は才能を秘めた逸材なのにね」
皮肉っぽく微笑み、オルリコは牛乳茶の入った湯のみを傾けた。
「君だって才能あると思うよ。忍耐強さとか、度胸とかさ」
庇うように言った絶影にオルリコは疑わしげな苦笑を返した。聞く耳持たない様子だ。頑固者め。彼は話題を変えることにした。
「君の両親って遊牧民だったんだよね。まだ元気なの?」
彼女が遊牧民の血を引いていると聞いてから絶影は彼女に親近感を抱いていた。
「一年前、流行病で亡くなったよ。それで私は父さんの知り合いの張さんのところに行くことになったの。君の両親は?君も元遊牧民なんだよね?」
「うん。俺は子供の頃に衛世館へ売り払われて暁都に来たんだ。それ以来、家族には会ってないけど多分みんな元気にしてると思う」
絶影が衛世館に買われたのは十二歳の時だった。その年はイナゴが大量発生し農作物を食い荒らした酷い年だった。物価が跳ね上がり、税金が増え、挙句に若者が徴兵されて戦争に駆り出され、人々は日々の暮らしに喘いでいた。
そんな時、遊牧民の集落で生まれ育った絶影は後継者を探し歩いていた赤兎と出会った。赤兎が絶影を売ってほしいと持ちかけると、彼の父親は二つ返事で了承した。そうしなければ口減らしのために兄弟のうちの誰かを夜の草原に捨てに行かなければならないほど家計は切迫していたのだ。そして、捨てられるとすれば、今より小柄で痩せっぽっちだった絶影が選ばれたはずだ。
そう考えると、赤兎は命の恩人だ。そして、手放したとしてもどこかで生きていてくれればと彼を売り払った両親にも今なら感謝できるような気がする。
「あの日のことは今でもはっきり覚えてるよ。赤兎が俺を抱き上げて自分の馬に乗せて、ゆっくり俺の家から遠ざかっていくんだ。親父が禁止したのか、家族の誰もゲルから出てこなかった。俺は誰にも見送られず、さよならも言えずに家を去った」
あれから三年経ったが、その時のことを思うと絶影の胸はまだ痛んだ。もう少し背が高ければ、もう少し骨太であれば、もうすこし筋肉質であれば、彼は今もまだ家族と共に遊牧生活を送っていたかもしれない。つくづく自分の容姿に嫌気がさすのは碌な仕事が来ない時よりも、あの日のことを思い出す時だった。
「俺は赤兎の腕の中で泣いた。赤兎は黙って手綱を握り暁都に向けて馬を歩かせていた。しばらく泣いていると、声が聞こえたんだ」
目を閉じると、涙で滲んだ光景が鮮やかに蘇る。
「母さんだった。母さんが泣きながら、馬に乗せられた俺を追って来てくれたんだ。風が吹きわたる夕暮れ時の小麦色の草原を、母さんがたった一人で、俺を追って走って来るんだ。何度も転びながら、俺の名前を叫びながら」
目を開けると、オルリコが印象的な黒い目で彼を見つめていた。
「母さんの姿はだんだん遠くなって、やがて見えなくなった。今でも草原にいると、母さんの姿が見えるんじゃないかと思うことがあるんだ。おかしいだろ?」
彼が無理やり笑ってみせると彼女は首を振って否定した。
「ううん」
オルリコが通りかかった給仕の娘を呼びとめて何か注文した。しばらくの後に運ばれて来たのは紹興酒だった。
「飲もう」
彼女は有無を言わせず絶影の手に杯を持たせ、そこに手際よく酒を注いだ。
「おいおいおいおい、俺、一応仕事中なんだけど」
なみなみと注がれた紹興酒を見下ろし、絶影はオルリコに訴えた。彼女は自分の分の酒を注ぎながらきっぱりと言い放った。
「いい。私が許す。それに、どうせ明日はこの町に待機だし、飲んじゃおう」
彼女が何か言い出したら聞かないことはもう学習している。絶影は杯に顔を近づけて香りを嗅いだ。何とも言えない芳香に胸がときめく。
「それもそうだよな!」
遊牧民の親を持つ彼らは同時に酒に薬指をひたした。目が合って微笑む。
「天のため、地のため、人のため」
二人は声をそろえて言いながら天井へ向けて酒の雫を飛ばし、床に雫を垂らし、最後に自分の額に濡れた指先を当てる。天の神と地の神、そして己の祖先に捧げる酒だった。絶影は杯を煽り、一気に空にする。喉と胃がかっと熱くなり、少しだけ、涙が出た。




