2.それが仕事/青海草原
「隣町まで飴玉一個買いに行かされたり、的頭村に石ころ拾いに行かされてるってマジ?」
小柄な用心棒の遠慮のない言葉を思い出し、オルリコはため息をついて自室の扉を開けた。薄暗い室内を手さぐりで歩き、卓上に油の入った小皿を置いて、小さな明かりをつける。そこは狭くて底冷えのする屋根裏部屋だったが、この世でたった一つの彼女の安息の空間だった。
屋根裏部屋には小さな寝台を囲むように壁際に本棚が三基も並んでいる。張からもらった給金はほとんど本に費やされていた。仕事の時間以外のほとんどを彼女はここで本を読んで過ごしている。特別な用事がなければ外出はしない方だ。
「世間の噂と本当のことは違うよ」
あの時、オルリコはとっさに言い返したが、絶影の言ったことは本当のことだった。彼女は主人である貿易商人の張から、彼の娘たちの身の回りの世話を任されている。金華と銀河という双子の姉妹は本当に丸一日かけて石ころを拾いに行かせたり、花を摘みに行かせたりするのだ。
「でも、それが私の仕事だもの。それが私の、生きて行くための手立て」
一年前、オルリコは商人だった両親を流行病で亡くした。両親が元遊牧民だったため付き合いのある親戚は暁都におらず、ひとりぼっちになった彼女を引き取ってくれたのは父の商人仲間の張だった。この屋敷を追い出されたら彼女には行くところなどない。双子の我儘に付き合うことはオルリコが生きて行くために必要なことだった。
「オルリコ!」
「オルリコ!」
突然扉の向こうから甲高い声がして、オルリコは飛び上がって驚いた。金華と銀河だ。彼女たちはどんどんとやかましく扉を叩いた。
「オルリコ、西瓜!ねえ西瓜切って!」
慌てて扉を開けると、双子の姉妹は張り付けたような満面の笑みを浮かべて小ぶりの西瓜を差しだした。大きさの割にずしりと重い西瓜を受け取り、オルリコは双子と共に階段を下りて厨房へ向かった。
「明日は金華さんと銀河さんが起きる前に出かけますね」
双子が「やっぱり行かなくていいよ」と言ってくれないものかと淡い期待を抱きつつ、オルリコは西瓜を調理台に置いた。だが、十歳の姉妹は西瓜西瓜西瓜と叫びながら包丁を握るオルリコの周りを走り回るばかりで、シャナドゥー行きの撤回などしてくれそうにない。
「二週間、いい子にしていて下さいね」
金華と銀河はオルリコが切り分けた西瓜に群がり、にこにこと機嫌良く西瓜を頬張った。
「うん、いってらっしゃい!ちゃんと取って来てよね!」
「金華のと、銀河の、どっちも取って来るんだよ!待ってるからね!」
双子は昨年、父親と一緒にシャナドゥーへ旅をしている。その時、彼らに同行した用心棒が赤兎と彼の五人の部下たちだった。オルリコは留守番をしていたので話に聞いたまでだが、赤兎たちのおかげでそれはそれは楽しく安全で快適な旅だったという。そのせいか、この子供たちは旅が危険なものであるとは夢にも思っていないようなのだ。つまらない用事のために、評判の悪い格安の用心棒と二人きりでシャナドゥーへ行かなければならないオルリコの気持ちなど彼らには絶対に分かるまい。
「えい!」
考え事をしていたオルリコの顔に冷たいものが押し付けられる。銀河が背伸びして、オルリコの顔を目がけて西瓜の皮を振り回したのだった。
「きゃあ!ぎ、銀河さん!」
抗議の声は子供たちを喜ばせるばかりだった。今度は金華が西瓜の皮を投げる。オルリコは避ける暇もなく、皮は頭の天辺で結った彼女のお団子髪に直撃した。間もなく双子の西瓜の皮投げ合戦が始まり、彼女は戦火をくぐりぬけて部屋の隅まで避難した。
「オルリコ、逃げちゃだめだよ、あたしの味方になって戦って!」
「だめだよ、オルリコはあたしの味方だもん!」
厨房に西瓜の皮が飛び交う。鍋が床に転がり、中に入っていた夕食の残りが散乱する。小さな花瓶が倒れ、オルリコの摘んできた花が金華に踏みつけられる。
「もうやめて!やめて下さい!」
オルリコの必死の願いは叶わない。
「何事ですか、これは!」
騒ぎを聞きつけた老使用人がしかめ面を覗かせた途端、双子は西瓜の皮投げをぴたりとやめた。厨房の床に夕食の残りや西瓜の皮が散らばり、壁やオルリコが西瓜の汁だらけになっているのを目にとめて、老使用人はさらに眉をひそめた。
「お嬢様方、もうお休みの時間ですよ。オルリコ、早くここを片付けなさい」
「はーい」
「はーい」
老使用人に連れられて双子が厨房を出て行くと、残されたオルリコは包丁を双子の手の届かない棚の上に置き、西瓜の皮投げ合戦の後片付けを始めた。床や壁を拭き、花瓶を起こし、鍋を洗う。気が付くと視界がにじんで、涙が溢れそうになっていた。
オルリコは雑巾を放り出し、階段を駆け上って屋根裏部屋に飛び込んだ。勢いよく扉を閉めた瞬間、両目から涙がこぼれ落ちた。旅に出るのが怖い。何もかも不安で仕方ない。彼女は片道半日の的頭村に行く以外で暁都を出たことがないのだ。だが何より、双子の我がままで旅に出ざるを得ない自分自身が惨めに思えて仕方がなかった。
オルリコはふと思い出して懐から絶影の仕事の履歴書を取り出した。
「的頭村へ村人の護衛――所要半日。官吏の娘の嫁入りを護衛――三本先の通りまで。的頭村の畑の番――二カ月」
彼女はくすくすと笑った。これを見た時、この人なら、生きて行くためにつまらない仕事をしなければならないオルリコの気持ちを分かってくれると思った。この人も、生きて行くためにオルリコのつまらない仕事に付き合ってくれると思った。
「もう少し、あと二十日の辛抱だもの」
オルリコは着物の袖で涙をぬぐい、顔を上げた。
そう、あと二十日でこんな暮らしも終わる。彼女は二十日後に結婚式を挙げて、立派な嫁入り道具と本棚と共に張の商人仲間に嫁ぐのだ。この旅は双子の我儘に応える最後の大仕事だった。
オルリコは厨房に戻り、手早く後片付けを済ませた。屋敷の中がしんと静まり返っているところを見ると、双子や使用人は眠ったようだ。主人である張は商用で当分帰らない。彼女は誰にもおやすみを言わずに屋根裏へ帰り、頑丈な帆布の袋に荷物を詰め込み始めた。
翌朝、開門時間ちょうどに青龍門にたどりつくと、馬を二頭引いた絶影がオルリコを待っていた。小柄で柔和な顔立ちの彼はやはりどう見ても用心棒には見えず、護衛というよりお供という雰囲気だった。
「おはよう」
オルリコが声をかけると彼は日焼けした顔をほころばせた。
「おう、おはよう!忘れ物ないか?」
絶影は背中に弓と矢筒を背負い、腰には剣を帯びていた。二人ともデールと呼ばれる皮製の膝下丈の上着を着ていて、彼は青色、オルリコのものは紫の地に黄緑色の模様が入っている。防寒に優れているデールの下に着ているのは長袖の貫頭衣とズボンだけで、足元は乗馬に適した長靴だ。
「たぶんね。それより、この馬、私ひとりで乗るの?君と一緒に乗るんだと思ってた」
オルリコは二頭の馬に近づいて愛らしい長い顔をじっと見つめた。馬たちは手綱を持つ絶影の傍らに大人しく立ち、瞬きを繰り返している。
「そりゃ、君や俺くらいの体重なら一緒に乗れるけど、別々に乗った方が馬の負担が少ないし、何かあった時に俺が自由に動けた方がいいと思って」
平然と言いながら絶影はオルリコに手綱を渡した。
「大丈夫、簡単だよ。手貸すからさっさと乗っちゃおう、よいしょ」
「え?え?」
躊躇うオルリコに構わず、絶影は彼女の左足を持ち上げて鐙にかけさせた。目いっぱい足を上げさせられたオルリコはよろけそうになり思わず馬の背の鞍をつかんだ。
「そうそう、鞍をつかんだら勢いつけて一気に跨いで、お尻は絶対蹴るなよ。鐙に右足入れた?じゃあそっと座って」
気が付くとオルリコは馬に跨っていた。
「た、高いよ……私きっと落ちる……」
「すぐ慣れるって。うん、地面に立ってる時よりかっこいいよ」
絶影は馬に乗った彼女を見上げて満足げに笑った。オルリコは少しだけ誇らしい気持ちになって背筋を伸ばす。
「お、いい姿勢。手綱は右手で、もう少し短く持って。左手は鬣つかんで、そしたら怖くないから」
言いながら絶影はオルリコの脚の長さに鐙を調整して、素早く自分の馬に跨った。彼の馬は薄い小麦色で、オルリコの馬はつややかな漆黒だ。絶影は手綱を緩め、軽く馬の脇腹を蹴って、開き始めた青龍門に向かってゆっくりゆっくり歩き始めた。オルリコの馬は彼女がおろおろしている間に絶影の馬のお尻を勝手に追いかけ始める。
「わ、わ、わあああ」
右に、左に、揺れる。脚で馬の身体をはさみ、必死にバランスを取る。鬣の束をつかみ、踵に力を入れて踏ん張らなければ落ちてしまいそうだ。
「な、簡単だろ?」
全身全霊をかけて揺れる鞍に座っているオルリコを、絶影はにこやかに振り向いた。
「全っ然っ、簡単じゃないよ!」
「あっはっはっは」
青龍門をくぐり、彼らは暁都の外に出た。薄暗い草原の中を貫く街道に沿って馬を進めるうちに、前方の地平線の向こうから眩い火の玉がせり上がって来た。朝が来たのだ。
「すっごい」
ようやく馬の歩くリズムに慣れてきたオルリコは遥か草原の彼方から昇る朝日に心を打たれた。温かく白い光に照らされ、夏らしい爽やかな草原の風に吹かれ、まるで新しく生まれ変わったような気分になる。
「私、的頭村に行く以外で暁都の外に出るの、これが初めてなんだ」
オルリコの前を歩く絶影が馬上で彼女を振り向く。
「へえ、そんな生活想像できないな。俺は元々遊牧民だから時々こうして草原で馬に乗らなきゃ死んじゃうよ」
そう言うと絶影は馬の脇腹を蹴って加速し、道からはずれてオルリコの周りを大きくぐるりと駆けまわった。さっきまでつまらなそうに歩いていた馬が鬣や尻尾をなびかせて生き生きと走る様は何とも美しく心が惹かれた。
『地面に立ってる時よりかっこいいよ』
絶影はそう言ってオルリコを褒めてくれたが、その称賛は彼にこそふさわしい気がした。馬上の彼はまるで別人のようで、柔和で優しい表情は引き締まり、どこか余裕のあった穏やかな目は鋭くなり、小柄だと思っていた身体さえ一回り大きく、たくましく見える。何より、馬の上の彼は籠から解き放たれた鳥のように自由だった。
「私の両親も遊牧民だったんだよ。暁都で一旗揚げようと思って集落を離れてしまったけど」
オルリコは彼女の隣に馬を並べる絶影に言った。彼は上機嫌に笑った。
「じゃあ、すぐにうまくなるよ。君の身体を流れる血が、馬や草原をきっと覚えてる」
私の身体を流れる血。オルリコは手綱を持った自分の掌に視線を落とした。亡き父や母もこうして馬で草原を歩んだことがあったのだろう。目の前に広がる大草原を、何十人、何百人、何千人の祖先たちが馬と共に渡ってきた。今、自分が彼らと同じ道を同じ手段でたどっていると思うと感慨深いものがあった。
「おおい、おまえら、どこ行くんだ?」
横合いから声がして二人は丘を越えてやってくる馬に目をやった。乗っているのは商人風の中年男だ。大きな荷物を背負い、旅装はずいぶんくたびれていたが、髪や口髭を丁寧に整えているので真人間に見える。
「晋粥だよ」
商人風の男が彼らの目の前で急停止すると絶影は答えた。晋粥は今夜の宿だ。暁都の周辺で最も栄えている宿場町で、都並みの流通がありながら物価は都以下なので、オルリコは足りないものを晋粥で買い足そうと思っていた。だが、商人風の男は顔をしかめて首を横に振った。
「それならあっちへ行った方がいい。この先の橋が大雨で流されちまってるんだ。水かさが増してるから馬ではとても渡れないらしいよ」
絶影は男の話にうなずき、ちらりとオルリコを見て自分の手袋を脱いだ。
「君、手袋したほうがいいよ。手綱がこすれて痛いだろ」
「え、うん、ありがとう」
オルリコは絶影の体温の残る皮の手袋を遠慮なく受け取り手を入れた。ちょうど手綱をつかんだ掌の摩擦が気になり始めていたのだ。
「橋が壊れてるんじゃ仕方ないよな、遠回りしよう。――ご親切に、どうもありがとう」
「なあに」
商人風の男と別れ、二人は街道を逸れて起伏の激しい草原を進み始めた。ところどころに動物の巣穴や岩や自然にできた段差や亀裂があり、絶影の導きでそれをよけながらしばらく黙って歩いた。
「なあ、俺が本当は強いってこと、君は信じてくれてるんだよな。それって、何で?」
不自然に沈黙を破ったのは絶影だった。オルリコは少しだけ考えてから隣を歩く彼に答える。
「だって、衛世館の用心棒はみんな一流だって張さんが言ってたし、赤兎さんが張さんの家の使用人である私に変な用心棒を勧めるとは思えないし」
「それだけ?」
それだけということもないのだが、自分が感じているぼんやりとした気持ちを言葉にするのが彼女には難しく思えた。絶影ががっかりしたようにうなだれたので、彼女は仕方なく思考を巡らせながら口を開く。
「君、人に馬鹿にされてもあんまり怒らないでしょ。仕事がなくても本気で焦ってない。本当に弱い人ならそんなに余裕でいられないんじゃないかなって」
それはどこか立場が似ているオルリコと絶影の決定的な違いだ。世間の評判通り無力なオルリコは、本当は強い彼のように堂々と構えていられない。自虐的な気分になり、オルリコは話題を変えた。
「そういえば参考までに聞くけど、君、仕事するの何日ぶり?」
絶影は首をひねり、指を折りながら思い出すように瞳をぐるりと動かした。
「えっと……三ヶ月ぶり?」
「三ヶ月?!三ヶ月も仕事しないで何やってたの?!」
「何って昼寝したり、飲みに行ったり、麻雀したり、あと時々馬に乗って訓練して……そんな顔すんなよ、しょうがないだろ、仕事なかったんだから」
大物と言うべきか、怠け者と言うべきか。休日などなく毎日毎日金華と銀河の世話に追われている彼女には考えられない生活だ。羨ましい。
「……君のことさっきまでは信じてたけど、今は疑わしい」
当てつけに言ってみせると、絶影は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちした。
「ちっ、んじゃ張りきらないとな!――下がって!」
「え?」
小高い丘を越えたところで、彼は手綱を引き、自分の馬とオルリコの馬を止めた。四つの砂埃が視界に入り、疾走する馬の蹄の音が聞こえたのはその時だった。四方から馬に乗った小汚い男たちが駆けて来る。全員が片手に大振りの剣を握っている。賊だ。
「手綱、もっと短く、鬣のところで持って。脚に力入れて、膝を柔らかく、踵下げて、足の裏で鐙をつかまえるような感じで」
オルリコに指示を与えながら絶影は鋭い目つきで不敵に笑い、ぐるりぐるりと馬を方向転換させて牽制するように賊の顔を見回した。その中の一人に、先刻、大雨で橋が落ちたと言って彼らに遠回りを勧めた商人風の男の姿があった。
「な、言ったろ?可愛い娘を連れてるってよ」
「ああ、こりゃ高く売れるな」
「売り飛ばす前に俺たちもたっぷり楽しませてもらおうぜ」
品のない笑い声を響かせ四人は彼らを取り囲んだ。絶影は動じることもなくオルリコに馬を寄せ、低い声で囁いた。
「絶対に手綱を離すな。絶対に落馬するな。馬のリズムに合わせてどこまでも走れ。そしたら俺が絶対に護ってやる」
言うなり、絶影はオルリコの馬の脇腹を思い切り蹴飛ばした。驚いた馬は前足を上げ、恐怖に凍りついたオルリコを乗せて走りだす。視界の隅で弓を構える絶影が見えた。
「きゃあ!」
疾走する馬の背の上で身体が毬のように大きく上下に跳ね、お尻が鞍から持ち上がっては打ちつけられる。跳ね上がる勢いで上半身が前方につんのめり、頭から地面に落ちそうになる。とろとろ歩いていた時とは何もかも違っていた。経験したことのない速度で大地を駆け、あっという間に景色が通り過ぎる。風がぼうぼうと耳を打ち、砂埃が舞い上がる。
オルリコは歯を食いしばり、前のめりになる身体を必死で起こした。振動に耐えようとするのをやめ、腰を浮かせて鐙にかけた足で体重を支える。馬のリズムに合わせて自ら身体を動かすと、馬の走り方が軽やかになったような気がした。
絶対に手綱を離さない。絶対に落馬しない。絶影が助けにくるまで走ってみせる。
それが私の仕事だ。
「おいおい大丈夫かよ、お嬢ちゃん」
オルリコの後方で賊の一人が獲物をいたぶるように言った。視線を向ける余裕はないが、蹄の音で二人の追手がすぐそこまで迫っていることが分かった。
「げへへへ、本当に可愛いなあ!怪我しないうちに止まった方がいいんじゃねえかあ?」
男が下品な笑い声とともにオルリコの馬に馬を寄せ、からかうように軽く剣先をオルリコに向けた。反対側にもう一人が接近してくる。彼女の左右を挟んだ彼らは武器を振りかざすでもなく、どう見ても乗馬に慣れない彼女が音を上げるか落馬するのを面白そうに待っている。
「もっと速く!行け!行け!」
オルリコは地平線を睨み、見よう見まねで馬の脇腹を蹴った。己の身体を流れる祖先の血に祈りながら。




