第7話:迷い子の帰還と、選んだ道
その日は、朝から妙に静かな日だった。
店の外では霧が深く立ち込め、森の木々が白い帳に消えている。
「……サトウ、客だ。それも、ただの客じゃないぞ」
ゼノスが低く、警戒を含んだ声を出した。彼の手には、いつになく力強く『杖』が握られている。
扉が開くと、入ってきたのは一人の老婆だった。ボロボロのローブを纏っているが、その瞳は夜空の星のように鋭く光り、歩くたびに周囲の空間が微かに歪んでいる。
「……久しぶりだね、ゼノス。まだこんなところで、泥水を啜っているのかい?」
「ふん、相変わらず口の悪い女だ。予言の魔女、モルガナ。……何の用だ」
モルガナと呼ばれた老婆は、カウンターに座ると、サトウをじっと見つめた。その視線は、サトウの身体を通り抜けて、その向こう側にある「故郷」を見透かしているようだった。
「用があるのは、この『迷い子』の方さ。……あんた、帰りたがっているんだろう? 鉄の馬が走り、空に四角い光が溢れる、あの騒がしい世界へ」
サトウの心臓が、大きく跳ねた。
毎日が楽しくて、すっかり忘れていたはずの記憶。満員電車の揺れ、深夜のコンビニの灯り、デスクに積み上がった書類の山。
「……帰れるんですか?」
「ああ。百年の一度の星の直列が今夜来る。私の魔力と、ゼノスの杖の力を合わせれば、あんたを元の場所へ戻す『門』を開ける。……どうだい、千載一遇のチャンスだ」
店内を静寂が支配した。
ゼノスは何も言わず、ただ黙々と豆を挽き始めた。ガリガリと響くその音は、いつもより少しだけ、焦っているようにも聞こえた。
「……サトウ、お前の人生だ。お前が決めるがいい」
ゼノスが差し出したのは、いつもの『賢者の休息』。
琥珀色の湯気に、サトウは鼻を近づけた。
(帰れば、またあの退屈な、でも安定した日々が待っている……)
サトウは目を閉じ、この一ヶ月を思い返した。
ボロボロで倒れていた自分を救ってくれた、一杯のコーヒー。
エルザがパフェを食べて見せた、少女のような笑顔。
ゼノスと二人、試行錯誤して作ったミックスジュースの黄金比。
この店には、元の世界にはなかった「温度」があった。
「……モルガナさん。一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「向こうの世界には、このコーヒーも、僕が作ったミックスジュースも……そして、ゼノスさんが淹れる『最後の一滴』も、ないんですよね?」
モルガナは、ふん、と鼻で笑った。
「当たり前だろう。あれは、この世界の魔法と、あんたの知恵が混ざり合って生まれた、この店だけの味だ」
サトウは、ゆっくりとカップを持ち上げた。
熱い液体が喉を通り、胃の腑に落ちる。身体の芯から温かさが広がり、決意が固まっていくのがわかった。
「……すみません。僕、まだこの店でやり残したことがあるんです」
「ほう?」
「新作の『異世界フロート』、まだ完成してないんですよ。それに、エルザさんがまた『おかわり』しに来るはずですから。……あんなに美味しそうに飲む人を、待たせるわけにはいきません」
サトウが笑って言うと、ゼノスが持っていた杖が、ガタリと音を立てた。
老魔導師は顔を背けたが、その耳の付け根が少しだけ赤くなっているのをサトウは見逃さなかった。
「……愚かだね。一生、この不便な森の片隅で、豆を挽いて過ごすというのかい?」
「ええ。不便ですけど、ここには世界で一番美味しい『一杯』がありますから」
モルガナは呆れたように肩をすくめ、席を立った。
「……勝手におし。ゼノス、あんた、いい弟子を持ったね。……ツケにしときな。いつか、そのフロートとかいうのを飲みに来るよ」
魔女が霧の中に消えていくと、店内に再び穏やかな時間が戻ってきた。
「……サトウ」
「はい、ゼノスさん」
「……今日の豆は、少しだけ贅沢に、あの『深淵の雫』を混ぜてやる。……祝いだ」
「あはは、ありがとうございます。じゃあ僕は、口直しに最高に甘いミックスジュースを作りますね」
サトウはエプロンを締め直した。
「迷い子」は、もういない。
ここには、『豆と杖』の若き店員がいるだけだ。
外の霧が晴れ、窓から差し込む光が、カウンターの上の二つのグラスをキラキラと照らしていた。




