表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
豆と杖:異世界で淹れる、最後の一滴  作者: あめとおと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第5話:深淵の雫と、忘れられた発酵


その夜、店の片付けを終えたサトウは、カウンターの奥で一人、古びた小さな小瓶を愛おしそうに見つめるゼノスの姿を見つけた。


 瓶の中には、数粒の真っ黒な豆が入っている。だが、それはサトウが知るコーヒー豆とは違い、表面が真珠のような鈍い光沢を放っていた。


「ゼノスさん、それは?」


 声をかけると、老魔導師は珍しく肩を震わせ、静かに瓶を置いた。


「……これか。かつて『深淵のアビス・ドロップ』と呼ばれた、伝説の豆だ。俺がまだ若く、魔導の極致を追い求めていた頃……こいつの一杯を飲むためだけに、北の果ての凍土まで足を運んだものさ」


 ゼノスの瞳が、遠い過去を映し出す。


「だが、その産地は百年前の噴火で消えた。この瓶にあるのが、世界で最後の一握りだ。……もう、二度とあの味を出すことは叶わん。植えても芽吹かず、魔法で再現しようにも、あの『特有の複雑な香り』だけはどうしても再現できんのだ」


 サトウは瓶を手に取り、そっと蓋を開けてみた。


 鼻をくすぐったのは、コーヒーの香ばしさの奥にある、ワインのような芳醇な酸味。そして、どこか発酵食品に似た、深みのある香りだった。


(……発酵? 待てよ……)


 サトウの脳裏に、前世で読んだコーヒーの知識がフラッシュバックする。


 現代日本には、特定の動物の体内を通過させたり、特殊な微生物で処理したりして、劇的に香りを変える「発酵コーヒー」というものが存在した。


「ゼノスさん。魔法で形を似せるんじゃなくて、豆を『眠らせる』やり方を変えてみませんか?」


「眠らせるだと? 収穫して干す以外に、何があると言うんだ」


「『発酵』ですよ。……この世界にある、一番良質な糖分を含んだ果実の蜜に、豆を漬け込むんです。そこに、特定の魔力特性を持つ『菌』……いや、小さな精霊を住まわせる」


 サトウは、貯蔵庫から甘みの強い果実「月見苺ムーン・ベリー」を取り出してきた。


 ゼノスは呆れたように見ていたが、サトウが語る「微生物による分解と熟成」という未知の概念に、次第に元魔導師としての探究心が火を灯していく。


「面白い……。物質を腐らせるのではなく、昇華させるというのか。サトウ、お前の言う通りの『環境』を、俺の杖で作ってやろう」


 そこから、二人の秘密の実験が始まった。


 ゼノスが杖を振るい、時間の流れをわずかに歪めた「特製の発酵槽」を作り出す。


 サトウはそこに、厳選した魔力結晶豆と、月見苺の果汁を流し込んだ。


 仕上げに、ゼノスが極小の「風の精霊」を放ち、常に新鮮な魔力が循環するように調整する。


 一晩、魔法の檻の中で熟成された豆を取り出した時、その表面は『深淵の雫』と同じ、妖艶な光沢を放っていた。


「……まさか、これほど短時間で。……サトウ、挽け」


 ゼノスの声が震えている。


 サトウは丁寧に豆を挽いた。立ち上る香りは、もはやコーヒーの域を超えていた。チョコレートのような甘美さと、森の朝霧のような清涼感が同居している。


 ゼノスが震える手で、その粉に$92.5^\circ\text{C}$の湯を注ぐ。


 黄金色の泡が立ち上がり、カップに落ちる雫は、かつての伝説そのままの黒い輝きを放っていた。


 ゼノスは、祈るようにその一杯を口にした。


「…………ああ」


 長い沈黙の後、老魔導師の目から、一筋の涙が溢れた。


「……これだ。この、喉を焼くような力強さと、鼻に抜ける果実の余韻。……サトウ、お前は……魔法使いでもないのに、失われた奇跡を呼び戻したのか」


「いえ。僕はただ、美味しいものを諦めたくなかっただけですよ」


 サトウが笑って答えると、ゼノスは力強くサトウの肩を叩いた。


「よし。この一杯は、メニューには載せん。俺とお前……そして、本当に価値のわかる奴にしか出さない、裏メニューだ」


 ゼノスはそう言うと、自分へのご褒美だと言わんばかりに、サトウが作った「星屑のミックス・オレ」をグイッと飲み干した。


「ふぅ……。やはり、最後はこれで口直しをするのが、今の俺には合っているようだな」


「あはは、結局ミックスジュースが好きなんじゃないですか!」


 静かな夜の森に、二人の笑い声が響く。


 伝説の味を取り戻した『豆と杖』は、明日からまた少しだけ、新しい香りに包まれることだろう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ