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豆と杖:異世界で淹れる、最後の一滴  作者: あめとおと


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第1話:迷い子と、琥珀色の洗礼

異世界というものは、物語で語られるほど輝かしい場所ではなかった。


 少なくとも、三日前に東京の地下鉄ホームから足を踏み外し、気づけば見知らぬ原生林に放り出されていた佐藤サトウにとっては。


「……はは、笑えないな」


 擦り切れたビジネスシューズは悲鳴を上げ、安物のスーツは棘だらけの植物に裂かれ、見る影もない。


 喉は焼け付くように乾き、胃袋は自らの壁を削るような痛みを訴えている。


 何より恐ろしいのは、時折森の奥から聞こえてくる、獣とも怪物ともつかぬ禍々しい咆哮だった。


 死ぬ。


 確信が冷たい汗となって背中を伝ったその時、森の境界に、一軒の奇妙な建物が現れた。


 周囲の巨木をそのまま柱にしたような、無骨だが温かみのある木造建築。


 入り口には古びた木の看板が掲げられている。そこには、交差する一本の杖と、一粒の丸い豆が彫り込まれていた。


 吸い寄せられるように、サトウは重い扉を押し開けた。


「……いらっしゃい」


 低い、岩を削ったような声が響く。


 店内に漂っていたのは、血の匂いでも腐敗の臭いでもなかった。


 香ばしく、鼻腔をくすぐり、脳の奥深くに眠る安らぎを呼び起こす——紛れもない、焙煎されたコーヒーの香り。


 カウンターの奥には、一人の老人が立っていた。


 雪のような白髭を蓄え、深い皺の刻まれた顔。その眼光は鋭いが、手元では驚くほど繊細に、銀色の細いポットを操っている。


「……あ、あの……」


「注文か? それとも施しか?」


 老人はサトウのボロボロな姿を一瞥し、鼻で笑った。


「金は、ありません。でも……何か、飲ませてくれませんか。死にそうなんです」


 情けない声が出た。老人は黙って、カウンターの隅に置かれた一本の杖を手に取った。


 それは無数のルーン文字が刻まれた、禍々しいまでの威圧感を放つ黒檀の杖。サトウは思わず身を強張らせたが、老人はその杖を軽やかに振り、空間をわずかに撫でた。


「92.5^\circナインティツー・ポイント・ファイブ……。よし、最高の湯加減だ」


 杖の先から微かな光が漏れ、ドリップポットの中の温度を完璧に固定したようだった。


 老人は、サトウの前に古びた、しかし手入れの行き届いたボーンチャイナのカップを置いた。


「『賢者の休息ウィザード・ブレンド』だ。ツケにしておく。死なれては取り立てようがないからな」


 差し出された液体は、深い、深い琥珀色をしていた。


 サトウは震える手でカップを取り、一口、その熱を口に含んだ。


「っ……!」


 衝撃が走った。


 最初に訪れたのは、目が覚めるような鮮烈な苦味。だがそれはすぐに、ナッツのような香ばしさと、奥深い果実のような甘みへと変化していく。


 喉を通るたびに、体中の強張った筋肉が弛緩していくのがわかった。泥のように溜まっていた疲労が、その液体に溶け出していく。


「……うまい。こんなの、飲んだことない」


 気づけば、涙が一滴、カップの中に落ちた。

 三日間の絶望が、たった一杯のコーヒーに打ち消されていく。


「ほう。味のわかる男か」


 老人は満足げに目を細めると、杖をカウンターに立て掛けた。


「ここは『豆と杖』。かつて戦いに飽きた老いぼれが、安らぎだけを売る場所だ。……あんた、その格好からして『向こう側』の人間だろう?」


「わかりますか?」


「ああ。たまに迷い込む。だが、あんたほど死にそうな顔をして、これほどコーヒーを愛おしそうに飲む奴は珍しい」


 サトウは最後の一滴を惜しむように飲み干し、ふう、と長い息を吐いた。


 数分前までの「死」の恐怖が、今は遠い昔のことのように感じられた。


「店主さん。……行く当てがないから、ここで働かせてもらえませんか。この味の、お礼がしたい」


 老人は意外そうに眉を上げた。


「掃除に薪割り、豆挽き。魔法の使えない男には重労働だぞ?」


「構いません。その代わり……時々でいいので、またこのコーヒーを飲ませてください」


 老人はしばらくサトウを見つめていたが、やがて不敵な笑みを浮かべた。


「いいだろう。俺はゼノス。この店の主だ」


「僕はサトウです。よろしくお願いします、ゼノスさん」


「よし、サトウ。まずはその小汚い服を脱げ。……おい、そんな顔をするな。裏に温かい湯を用意してやる。これも魔法のこれの仕事だ」


 ゼノスが杖を振ると、店の奥からパチパチと薪が燃える心地よい音が聞こえてきた。


 異世界での新しい生活は、剣でも魔法でもなく、一杯のコーヒーの香りから始まった。


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