最終話 [ ]
最終話です。ここまでありがとうございました。
敗者年代記は、重かった。
紙の束に過ぎないのに、石を抱えているみたいに腕が沈む。名が詰まっているからだ。匂いが詰まっているからだ。笑い声の輪郭や、靴紐の結び目の癖や、冬の薪が爆ぜる短い音までが、あの綴じ目の中で息を潜めているからだ。
そして何より、私の失ったものが、全部そこに入っているからだ。
私はそれを抱えて大年代記院を出た。夜明けの王都は、いつも通り綺麗で、いつも通り意地が悪い。石畳は霜を薄くまとって、光のない光で輝いている。霜の粒は句読点みたいに、街の輪郭を整えている。整えられたものは美しい。美しいものは、だいたい人を黙らせる。
黙るな、と私は自分に言った。
黙ったら散る。契約はそう言った。
黙りたい、とも思った。
散りたい、とも思った。
思っただけで、胸の穴を風が通る。ひゅう。
泣けない代わりに、胸が勝手に笛を吹く。世界よ。最期くらい静かにさせてくれ。静かに、って頼むとだいたい余計にうるさくなるのが世界の性格だ。
門の外へ出ると、空気が変わった。
王都の空気は、文字の匂いがする。規約と印章と、誰かの筆圧の匂い。
外の空気は、草の匂いがする。土と水と、目に見えない菌の生活の匂い。
私は生きていたころ、外の空気を「寒い」で済ませていた。
死んでから、それが長文になる。
長文になるから、怪我をする。
怪我をするから、忘れたくないと思ってしまう。
忘れたくない、という欲望が、私の呪いの心臓だった。
川沿いを歩く。川面は黒く、黒いのに銀の筋が走る。朝の光が水の皮膚を一枚だけ撫でて、そこだけが銀になる。銀は震える。震えは美しい。美しすぎて、目が痛い。目が痛いのに、目を逸らすと負ける気がした。
負け、という言葉が、私の背骨にへばりついている。
負けた。
負けたから、書く。
書くから、失う。
失うから、残る。
最悪の循環が、なぜだか綺麗に見えるときがある。綺麗に見えるときほど危ない。綺麗はいつだって、毒と同じ形をしている。
「……やめろよ、世界」
ぼそりと言うと、風が返事をする。草の先の霜がきらりと鳴る。鳴っているように見えるだけかもしれない。でも、死んでからは見えるものが増えた。見えるものが増えるほど、胸の穴が痛む。
その旅の途中、私は何度も採録帳を開いた。
確認のためだ。私は確認しないと、自分が誰か分からなくなる。名が抜けていくからだ。温度が抜けていくからだ。弟の名が消えたみたいに、私自身の輪郭もいつか抜け落ちる。
採録帳の索引に、私は書いた。
今日の空:薄い鉛。
今日の霜:草の先で光る句読点。
今日の川:黒い紙に銀のインク。
今日の私は:胸の穴がよく鳴る。機嫌が悪い。
機嫌が悪い、というのは私の冗談だ。
本当は、怖い。
怖いのは、編集官が追ってくることではない。
追ってこないことだ。
追ってこない間に、空白が増えることだ。
そして、空白が増えたときに、それを楽だと思ってしまう自分だ。
「楽だよ」
あの優しい声が、今も時々降ってくる。
降ってくるたび、私は脚注を書く。
空白は甘い、という注釈を。
甘いものは窒息になる、という注釈を。
窒息しても死ねない、という注釈を。
注釈だらけになっていく人生が、どこまで人生なのか分からない。
だが、分からないことを分からないまま残すのが、敗者の戦い方だった。
日が傾き、風の匂いが変わり始めるころ。
私は境界線を越えた。
それは門ではなかった。石の標石でもなかった。
ただ、風の匂いが変わった。
土が、少し湿り気を帯びる。
草が、少しだけ甘くなる。
遠くの森の匂いの中に、苔の青が濃くなる。
私は足を止めた。
生きていたころなら、ここで「ああ、帰ってきた」と言っていた。
今は言えない。
言うと胸の穴が鳴る。
鳴ると、泣けないことがばれる。
ばれたところで誰もいないのに、私は妙に恥ずかしい。
……故郷は、もう無い。
無いのに、匂いだけがある。
匂いがあるということは、世界がまだ覚えているということだ。
覚えているなら、書ける。
書けるなら、残せる。
残せるなら、帰ってきた意味がある。
私は草を踏む。足音はしない。草が揺れる音だけがする。草の揺れはいつも端正で、風に従う動きは、ただそれだけで礼儀みたいだった。
礼儀正しい草の間に、白い花が咲いていた。
また白い花だ。
戦場の縁にも。
無人と書かれた村にも。
そして故郷の跡地にも。
花は、死の隣で咲くのが好きなのか。
それとも死の隣でしか、私が見られないだけなのか。
触れない。
触れたら壊す。
壊したら負ける。
私は花の前で膝をついた。
膝は鳴らない。古い家の軋みだけが内側で鳴る。自分の体が、静かな廃墟みたいだと思う。廃墟は美しい。美しすぎて怪我をする。
私は敗者年代記を開いた。
最初の頁をめくる音は、森の葉を撫でる音に似ている。
きゅ、と小さく。雪を踏む音に似ている。
紙は、音まで美しい。
美しさはいつも、こちらの抵抗を鈍らせる。
だから私は、美しさに言葉で釘を刺す。
「綺麗だな。最悪だな」
口に出すと、胸の穴がひゅう、と鳴った。
同意の笛か。やめろ。
頁の上に沈んだ文字たちが、そこにいる。
いる、という感覚がある。
紙はただの物ではない。もうそういう段階を超えている。
紙は墓であり、産室であり、窓だ。
私は読み上げた。
井戸があった。
畑があった。
冬の匂いがあった。
春の泥があった。
読み上げるたび、空気が少しだけ揺れる。
揺れは音ではない。温度の揺れだ。
温度のない私が、温度の揺れを感じる。
それが、痛い。
痛いけれど、痛いからこそ確かだ。
草の間に、薄い影が立つ。
小さな影。短い髪。裸足。
あの子どもだ。
私は口を開いた。声が出ない。喉が乾いている。乾いている喉は、言葉を拒む。拒むのは喉じゃない。私の中の空白だ。
影の子どもは、花の隣でしゃがみ込んで、こちらを見た。
その目が、妙に静かだった。
静かすぎて、胸の穴が痛む。
静かすぎて、泣きたくなる。
泣けない。
影の子どもが口を動かす。
今度は、聞こえた。
名前だ。
弟の名だった。たぶん。確信じゃない。でも、音が刺さった。刺さった瞬間、私は理解した。理解が早すぎて、嫌になる。
これは、私に与えられる最後の贈り物だ。
贈り物はいつも、代償を隠している。
私は震える手で骨鉛筆を握った。
震えは怖さだ。
震えは喜びだ。
震えは、私がまだ人間だという証拠だ。
私は書いた。
弟の名は[ ]である。
角括弧の中に、今聞いた音を押し込む。
押し込んだ瞬間、その音が私の中から抜けていくのが分かった。
名前が、消える。
消えるのに、痛みはない。
痛みがないのが、いちばん痛い。
私は脚注を書く。
[ ]はここにあった。
呼ばれた。呼ばれた事実がある。
私が忘れても、頁が覚える。
書いた瞬間、影の子どもが、ほんの少しだけ笑った。
笑い方が刃物みたいに美しい。
美しすぎて、私は怪我をした。
怪我をしたのに、救われた。
影は、ゆっくり薄くなっていった。
霧みたいに。
朝の光みたいに。
世界が「もう十分だ」と言うときの消え方だ。
私はその場で、しばらく動けなかった。
動けないのに、風は通る。
胸の穴が鳴る。
ひゅう。
その音が、泣き声に聞こえた。
聞こえたけれど、涙は出ない。
涙が出ないかわりに、頁の上に灰が一粒落ちた。
灰塔の灰だろう。
遠い火の名残が、ここまで追いかけてくる。
灰は軽い。軽いくせにしつこい。
しつこさは、記憶に似ている。
私は灰を指先でなぞり、余白に小さく書いた。
「灰は帰ってくる。だから、私たちも帰ってこれる」
帰ってこれる、という言葉が眩しくて、私は笑ってしまった。
帰ってこれるのは、私ではない。
頁だ。
頁だけが帰ってくる。
それでいいのか。
それしかないのか。
私は周囲を見回した。
家の跡は、草に覆われている。
けれど、完全に消えてはいない。
土が僅かに窪んでいる場所がある。
そこが井戸だった。
井戸の縁の石は抜かれているのに、土の窪みが残る。
窪みは、空白の形だ。
空白に輪郭があると、空白はただの無ではなくなる。
空白は証拠になる。
証拠は武器になる。
私は井戸の窪みの前に敗者年代記を置いた。
置いた瞬間、胸の穴が冷えた。
冷えは怖さではない。
覚悟の冷えだ。
私は理解した。
この本は、持ち歩くためにあるんじゃない。
帰るためにある。
勝者の歴史は宮殿に積まれる。
敗者の歴史は土に返る。
土は燃えない。土は飲み込む。飲み込んでも、どこかで芽を出す。
芽を出すなら、記録はただの死体ではない。
私は、井戸の窪みの底に本をそっと降ろした。
降ろすとき、紙の匂いが立った。
古い樹皮の匂い。
焦げた糊の甘さ。
汗の残り香。
生活の匂い。
匂いが胸の穴を通り抜けて、私は一瞬だけ、母の手の温度を思い出しかけた。
思い出しかけて、消えた。
消えたのに、どこかが微かに温かい気がした。
温かい気がする、という感覚だけが残った。
感覚だけが残るのが、今の私の生き方だ。
生き方、という言葉がまだ残っているのが、ちょっと笑える。
私は最後の頁を開いた。
そこはまだ白かった。
白は底なしだ。
白は勝者の色だ。
だが、白は私の色でもある。
骨の色。霜の色。空白の色。
私は骨鉛筆を落とした。
「ここに、確かに在った」
それだけを書いた。
たった一行。
たった一行なのに、胸の穴の風が止まった気がした。
止まると、怖い。
止まると、空白が甘くなる。
甘くなる前に、私は脚注を書いた。
「勝者が無人と言うなら、私は足跡を書く」
「足跡が消えるなら、消えた痕を書く」
「名が消えるなら、空白を箱にする」
「空白が箱になるなら、削った手が映る」
脚注を書き終えると、指先が軽くなった。
軽くなるのが怖い。
軽くなるのが嬉しい。
嬉しいのが怖い。
私は採録帳の索引を開き、自分の名の欄を見た。
空白だった。
私はそこに、あえて何も書かなかった。
名を書けば、私は固定される。
固定されると、削られる。
削られると、空白になる。
空白になるのが怖い。
でも、空白を使って戦ってきた。
なら、最後は空白に譲ってもいい。
譲るのではない。
縫うのだ。
私は名の欄に角括弧だけを書いた。
[ ]
そして脚注。
「削られた。削られたことは事実である」
「だが、書いたという事実は削れない」
書いた瞬間、胸の穴を風が通った。
ひゅう。
今度の音は、笛ではなかった。
ため息にも似ていたし、笑いにも似ていたし、祈りにも似ていた。
私は井戸の窪みに向かって、頭を下げた。
誰に、ではない。
そこにあったものに。
そこにあったという事実に。
立ち上がると、草が揺れた。
揺れが美しい。
美しすぎて、もう怪我をしない。
怪我をしないのは、慣れたからではない。
受け入れたからだ。
受け入れるというのは、諦めの顔をした戦いだ。
私は一歩、後ろへ下がった。
二歩、下がった。
井戸の窪みの上に、草が影を落とす。
影が本を隠す。
隠すことが、守ることになる。
守ることが、残ることになる。
そして私は、書くのをやめた。
正確には、書けなくなったのではない。
やめた。
自分で。
契約条項が胸の奥で鳴った。
汝が黙するなら、汝は散る。
散る。
散る、という言葉が、最初は怖かった。
今は、少しだけ綺麗に聞こえる。
霜が溶けて水になるみたいに。
灰が風になるみたいに。
紙が土になるみたいに。
私は息がないのに、胸の穴が静かに動くのを感じた。
風が通るたび、私の輪郭が少しずつ薄くなる。
薄くなるのに、痛くない。
痛くないのが、優しい。
優しいのが、怖い。
怖いのに、嬉しい。
世界が私をほどいていく。
ほどかれる感覚は、縫い目が解ける感覚に似ていた。
ミラの針の逆だ。
グレイヴの脚注の逆だ。
私は最後に一つだけ、冗談を思い出した。
「死んだら静かになると思ってたんだけどな」
胸の穴が、ひゅう、と鳴った。
世界が笑っているみたいだった。
笑っているなら、まあいいかと思った。
風が私を通り抜けていく。
草が揺れる。
白い花が揺れる。
川が遠くで銀に震える。
私の輪郭が薄くなっていくのと同時に、井戸の窪みの上の土が、ほんの少しだけ落ち着く気がした。
本が土に馴染んでいく。
紙が土になる。
土が覚える。
覚えるものは強い。
私の視界が、最後にひとつだけ、世界の美しさを拾った。
霜が、草の先で溶ける。
溶けた滴が、光を抱く。
光は小さくて、刃のように鋭くて、それでも温かいふりをする。
ふりをしているのに、本当だ。
本当だから、残したいと思ってしまう。
残したいと思った瞬間、私はもう残していた。
頁だけが帰ったのではない。
頁の中の匂いが帰った。
頁の中の足跡が帰った。
頁の中の名が帰った。
そして、空白の箱が、削った手の形を抱えて帰った。
私は散った。
散る私の欠片は灰みたいに軽く、霜みたいに冷たく、風みたいにどこへでも行ける。
どこへでも行けるなら、いつか誰かの指先に降りる。
誰かの指先に降りたら、誰かが頁を開く。
頁が開かれたら、そこにまた足跡が生まれる。
勝者が歴史を紡ぐなら。
敗者は、土と風と余白で、しつこく縫う。
そして、縫い目は燃えない。
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