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空白を縫う  作者: 那由多


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8/8

最終話 [ ]

最終話です。ここまでありがとうございました。


 敗者年代記は、重かった。



 紙の束に過ぎないのに、石を抱えているみたいに腕が沈む。名が詰まっているからだ。匂いが詰まっているからだ。笑い声の輪郭や、靴紐の結び目の癖や、冬の薪が爆ぜる短い音までが、あの綴じ目の中で息を潜めているからだ。


 そして何より、私の失ったものが、全部そこに入っているからだ。


 私はそれを抱えて大年代記院を出た。夜明けの王都は、いつも通り綺麗で、いつも通り意地が悪い。石畳は霜を薄くまとって、光のない光で輝いている。霜の粒は句読点みたいに、街の輪郭を整えている。整えられたものは美しい。美しいものは、だいたい人を黙らせる。


 黙るな、と私は自分に言った。

 黙ったら散る。契約はそう言った。

 黙りたい、とも思った。

 散りたい、とも思った。


 思っただけで、胸の穴を風が通る。ひゅう。

 泣けない代わりに、胸が勝手に笛を吹く。世界よ。最期くらい静かにさせてくれ。静かに、って頼むとだいたい余計にうるさくなるのが世界の性格だ。


 門の外へ出ると、空気が変わった。


 王都の空気は、文字の匂いがする。規約と印章と、誰かの筆圧の匂い。

 外の空気は、草の匂いがする。土と水と、目に見えない菌の生活の匂い。


 私は生きていたころ、外の空気を「寒い」で済ませていた。

 死んでから、それが長文になる。

 長文になるから、怪我をする。

 怪我をするから、忘れたくないと思ってしまう。


 忘れたくない、という欲望が、私の呪いの心臓だった。


 川沿いを歩く。川面は黒く、黒いのに銀の筋が走る。朝の光が水の皮膚を一枚だけ撫でて、そこだけが銀になる。銀は震える。震えは美しい。美しすぎて、目が痛い。目が痛いのに、目を逸らすと負ける気がした。


 負け、という言葉が、私の背骨にへばりついている。


 負けた。

 負けたから、書く。

 書くから、失う。

 失うから、残る。


 最悪の循環が、なぜだか綺麗に見えるときがある。綺麗に見えるときほど危ない。綺麗はいつだって、毒と同じ形をしている。


「……やめろよ、世界」


 ぼそりと言うと、風が返事をする。草の先の霜がきらりと鳴る。鳴っているように見えるだけかもしれない。でも、死んでからは見えるものが増えた。見えるものが増えるほど、胸の穴が痛む。


 その旅の途中、私は何度も採録帳を開いた。


 確認のためだ。私は確認しないと、自分が誰か分からなくなる。名が抜けていくからだ。温度が抜けていくからだ。弟の名が消えたみたいに、私自身の輪郭もいつか抜け落ちる。


 採録帳の索引に、私は書いた。


 今日の空:薄い鉛。

 今日の霜:草の先で光る句読点。

 今日の川:黒い紙に銀のインク。

 今日の私は:胸の穴がよく鳴る。機嫌が悪い。


 機嫌が悪い、というのは私の冗談だ。

 本当は、怖い。


 怖いのは、編集官が追ってくることではない。

 追ってこないことだ。

 追ってこない間に、空白が増えることだ。

 そして、空白が増えたときに、それを楽だと思ってしまう自分だ。


「楽だよ」

 あの優しい声が、今も時々降ってくる。

 降ってくるたび、私は脚注を書く。

 空白は甘い、という注釈を。

 甘いものは窒息になる、という注釈を。

 窒息しても死ねない、という注釈を。


 注釈だらけになっていく人生が、どこまで人生なのか分からない。

 だが、分からないことを分からないまま残すのが、敗者の戦い方だった。


 日が傾き、風の匂いが変わり始めるころ。

 私は境界線を越えた。


 それは門ではなかった。石の標石でもなかった。

 ただ、風の匂いが変わった。


 土が、少し湿り気を帯びる。

 草が、少しだけ甘くなる。

 遠くの森の匂いの中に、苔の青が濃くなる。


 私は足を止めた。


 生きていたころなら、ここで「ああ、帰ってきた」と言っていた。

 今は言えない。

 言うと胸の穴が鳴る。

 鳴ると、泣けないことがばれる。

 ばれたところで誰もいないのに、私は妙に恥ずかしい。


 ……故郷は、もう無い。


 無いのに、匂いだけがある。

 匂いがあるということは、世界がまだ覚えているということだ。

 覚えているなら、書ける。

 書けるなら、残せる。


 残せるなら、帰ってきた意味がある。


 私は草を踏む。足音はしない。草が揺れる音だけがする。草の揺れはいつも端正で、風に従う動きは、ただそれだけで礼儀みたいだった。


 礼儀正しい草の間に、白い花が咲いていた。


 また白い花だ。


 戦場の縁にも。

 無人と書かれた村にも。

 そして故郷の跡地にも。


 花は、死の隣で咲くのが好きなのか。

 それとも死の隣でしか、私が見られないだけなのか。


 触れない。

 触れたら壊す。

 壊したら負ける。


 私は花の前で膝をついた。

 膝は鳴らない。古い家の軋みだけが内側で鳴る。自分の体が、静かな廃墟みたいだと思う。廃墟は美しい。美しすぎて怪我をする。


 私は敗者年代記を開いた。


 最初の頁をめくる音は、森の葉を撫でる音に似ている。

 きゅ、と小さく。雪を踏む音に似ている。

 紙は、音まで美しい。

 美しさはいつも、こちらの抵抗を鈍らせる。

 だから私は、美しさに言葉で釘を刺す。


「綺麗だな。最悪だな」


 口に出すと、胸の穴がひゅう、と鳴った。

 同意の笛か。やめろ。


 頁の上に沈んだ文字たちが、そこにいる。

 いる、という感覚がある。

 紙はただの物ではない。もうそういう段階を超えている。

 紙は墓であり、産室であり、窓だ。


 私は読み上げた。


 井戸があった。

 畑があった。

 冬の匂いがあった。

 春の泥があった。


 読み上げるたび、空気が少しだけ揺れる。

 揺れは音ではない。温度の揺れだ。

 温度のない私が、温度の揺れを感じる。

 それが、痛い。


 痛いけれど、痛いからこそ確かだ。


 草の間に、薄い影が立つ。

 小さな影。短い髪。裸足。

 あの子どもだ。


 私は口を開いた。声が出ない。喉が乾いている。乾いている喉は、言葉を拒む。拒むのは喉じゃない。私の中の空白だ。


 影の子どもは、花の隣でしゃがみ込んで、こちらを見た。


 その目が、妙に静かだった。


 静かすぎて、胸の穴が痛む。

 静かすぎて、泣きたくなる。

 泣けない。


 影の子どもが口を動かす。


 今度は、聞こえた。


 名前だ。


 弟の名だった。たぶん。確信じゃない。でも、音が刺さった。刺さった瞬間、私は理解した。理解が早すぎて、嫌になる。


 これは、私に与えられる最後の贈り物だ。

 贈り物はいつも、代償を隠している。


 私は震える手で骨鉛筆を握った。

 震えは怖さだ。

 震えは喜びだ。

 震えは、私がまだ人間だという証拠だ。


 私は書いた。


 弟の名は[ ]である。


 角括弧の中に、今聞いた音を押し込む。

 押し込んだ瞬間、その音が私の中から抜けていくのが分かった。


 名前が、消える。


 消えるのに、痛みはない。

 痛みがないのが、いちばん痛い。


 私は脚注を書く。


 [ ]はここにあった。

 呼ばれた。呼ばれた事実がある。

 私が忘れても、頁が覚える。


 書いた瞬間、影の子どもが、ほんの少しだけ笑った。


 笑い方が刃物みたいに美しい。

 美しすぎて、私は怪我をした。

 怪我をしたのに、救われた。


 影は、ゆっくり薄くなっていった。

 霧みたいに。

 朝の光みたいに。

 世界が「もう十分だ」と言うときの消え方だ。


 私はその場で、しばらく動けなかった。


 動けないのに、風は通る。

 胸の穴が鳴る。

 ひゅう。


 その音が、泣き声に聞こえた。

 聞こえたけれど、涙は出ない。

 涙が出ないかわりに、頁の上に灰が一粒落ちた。


 灰塔の灰だろう。

 遠い火の名残が、ここまで追いかけてくる。

 灰は軽い。軽いくせにしつこい。

 しつこさは、記憶に似ている。


 私は灰を指先でなぞり、余白に小さく書いた。


「灰は帰ってくる。だから、私たちも帰ってこれる」


 帰ってこれる、という言葉が眩しくて、私は笑ってしまった。

 帰ってこれるのは、私ではない。

 頁だ。

 頁だけが帰ってくる。


 それでいいのか。

 それしかないのか。


 私は周囲を見回した。


 家の跡は、草に覆われている。

 けれど、完全に消えてはいない。


 土が僅かに窪んでいる場所がある。

 そこが井戸だった。

 井戸の縁の石は抜かれているのに、土の窪みが残る。

 窪みは、空白の形だ。


 空白に輪郭があると、空白はただの無ではなくなる。

 空白は証拠になる。

 証拠は武器になる。


 私は井戸の窪みの前に敗者年代記を置いた。


 置いた瞬間、胸の穴が冷えた。

 冷えは怖さではない。

 覚悟の冷えだ。


 私は理解した。


 この本は、持ち歩くためにあるんじゃない。

 帰るためにある。


 勝者の歴史は宮殿に積まれる。

 敗者の歴史は土に返る。

 土は燃えない。土は飲み込む。飲み込んでも、どこかで芽を出す。

 芽を出すなら、記録はただの死体ではない。


 私は、井戸の窪みの底に本をそっと降ろした。


 降ろすとき、紙の匂いが立った。

 古い樹皮の匂い。

 焦げた糊の甘さ。

 汗の残り香。

 生活の匂い。


 匂いが胸の穴を通り抜けて、私は一瞬だけ、母の手の温度を思い出しかけた。

 思い出しかけて、消えた。

 消えたのに、どこかが微かに温かい気がした。


 温かい気がする、という感覚だけが残った。

 感覚だけが残るのが、今の私の生き方だ。

 生き方、という言葉がまだ残っているのが、ちょっと笑える。


 私は最後の頁を開いた。


 そこはまだ白かった。

 白は底なしだ。

 白は勝者の色だ。

 だが、白は私の色でもある。

 骨の色。霜の色。空白の色。


 私は骨鉛筆を落とした。


「ここに、確かに在った」


 それだけを書いた。

 たった一行。

 たった一行なのに、胸の穴の風が止まった気がした。


 止まると、怖い。

 止まると、空白が甘くなる。

 甘くなる前に、私は脚注を書いた。


「勝者が無人と言うなら、私は足跡を書く」

「足跡が消えるなら、消えた痕を書く」

「名が消えるなら、空白を箱にする」

「空白が箱になるなら、削った手が映る」


 脚注を書き終えると、指先が軽くなった。

 軽くなるのが怖い。

 軽くなるのが嬉しい。

 嬉しいのが怖い。


 私は採録帳の索引を開き、自分の名の欄を見た。


 空白だった。


 私はそこに、あえて何も書かなかった。


 名を書けば、私は固定される。

 固定されると、削られる。

 削られると、空白になる。

 空白になるのが怖い。

 でも、空白を使って戦ってきた。

 なら、最後は空白に譲ってもいい。


 譲るのではない。

 縫うのだ。


 私は名の欄に角括弧だけを書いた。


 [ ]


 そして脚注。


「削られた。削られたことは事実である」

「だが、書いたという事実は削れない」


 書いた瞬間、胸の穴を風が通った。

 ひゅう。

 今度の音は、笛ではなかった。

 ため息にも似ていたし、笑いにも似ていたし、祈りにも似ていた。


 私は井戸の窪みに向かって、頭を下げた。

 誰に、ではない。

 そこにあったものに。

 そこにあったという事実に。


 立ち上がると、草が揺れた。


 揺れが美しい。

 美しすぎて、もう怪我をしない。

 怪我をしないのは、慣れたからではない。

 受け入れたからだ。


 受け入れるというのは、諦めの顔をした戦いだ。


 私は一歩、後ろへ下がった。

 二歩、下がった。

 井戸の窪みの上に、草が影を落とす。

 影が本を隠す。

 隠すことが、守ることになる。

 守ることが、残ることになる。


 そして私は、書くのをやめた。


 正確には、書けなくなったのではない。

 やめた。

 自分で。


 契約条項が胸の奥で鳴った。


 汝が黙するなら、汝は散る。


 散る。

 散る、という言葉が、最初は怖かった。

 今は、少しだけ綺麗に聞こえる。

 霜が溶けて水になるみたいに。

 灰が風になるみたいに。

 紙が土になるみたいに。


 私は息がないのに、胸の穴が静かに動くのを感じた。

 風が通るたび、私の輪郭が少しずつ薄くなる。

 薄くなるのに、痛くない。

 痛くないのが、優しい。

 優しいのが、怖い。

 怖いのに、嬉しい。


 世界が私をほどいていく。


 ほどかれる感覚は、縫い目が解ける感覚に似ていた。

 ミラの針の逆だ。

 グレイヴの脚注の逆だ。


 私は最後に一つだけ、冗談を思い出した。


「死んだら静かになると思ってたんだけどな」


 胸の穴が、ひゅう、と鳴った。

 世界が笑っているみたいだった。

 笑っているなら、まあいいかと思った。


 風が私を通り抜けていく。

 草が揺れる。

 白い花が揺れる。

 川が遠くで銀に震える。


 私の輪郭が薄くなっていくのと同時に、井戸の窪みの上の土が、ほんの少しだけ落ち着く気がした。

 本が土に馴染んでいく。

 紙が土になる。

 土が覚える。

 覚えるものは強い。


 私の視界が、最後にひとつだけ、世界の美しさを拾った。


 霜が、草の先で溶ける。

 溶けた滴が、光を抱く。

 光は小さくて、刃のように鋭くて、それでも温かいふりをする。

 ふりをしているのに、本当だ。


 本当だから、残したいと思ってしまう。

 残したいと思った瞬間、私はもう残していた。


 頁だけが帰ったのではない。


 頁の中の匂いが帰った。

 頁の中の足跡が帰った。

 頁の中の名が帰った。

 そして、空白の箱が、削った手の形を抱えて帰った。


 私は散った。


 散る私の欠片は灰みたいに軽く、霜みたいに冷たく、風みたいにどこへでも行ける。

 どこへでも行けるなら、いつか誰かの指先に降りる。

 誰かの指先に降りたら、誰かが頁を開く。

 頁が開かれたら、そこにまた足跡が生まれる。


 勝者が歴史を紡ぐなら。


 敗者は、土と風と余白で、しつこく縫う。


 そして、縫い目は燃えない。


 






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最後まで読んでいただきありがとうございました。

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