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空白を縫う  作者: 那由多


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第7話 存在しない者たちの灰



「焼却予定史料 搬送記録」



 紙は、いつだって平然と人を殺す。


 殺すと言っても、刃物みたいに派手じゃない。紙の殺し方は静かだ。端正で、見取り図みたいで、行間に血が流れていても、汚れひとつない顔をしている。


 その紙切れを机に置いた瞬間、私の胸の穴を風が通り抜けた。


 ひゅう、と鳴る。


 やめろ。今は笛を鳴らす場面じゃない。今日は、葬式の招待状を読んでいるんだ。


「焼却予定」


 その二文字が、濁流みたいに頭の中へ流れ込んできた。


 濁流は泥を運ぶ。泥は過去を埋める。埋めるのは簡単だ。雨が降ればいい。火があればもっと早い。燃やして、灰にして、風に混ぜれば、誰も「そこに家があった」とは言えなくなる。


 なのに――灰は、妙に綺麗だ。


 蝋色の灯りの下でその紙を見つめていると、字の整い方が美しすぎて目が痛くなる。石畳の上の霜みたいに、完璧な形で世界に貼り付いている。触ったら切れる美しさ。指先じゃない。心が切れる。


「……燃やす予定、って、予定で言うな」


 声に出した瞬間、ひどく情けなかった。予定で言うな、って何だ。予定でも実行でも、燃えるものは燃える。言葉に文句を言っても、炉は黙って赤くなる。


 背後で紙の匂いが動いた。


 グレイヴだ。古い書物の匂いをまとったまま、私の肩越しに紙を覗き込む。覗き込み方が、魚が水面の虫を吸い込むときみたいに滑らかで嫌だ。文字を食べる目。


「焚書は、勝者の呼吸だ」


 淡々とした声だった。淡々としているのに、喉の奥に煤が溜まる。


「呼吸なら止められません?」


「止めると死ぬ。彼らは死なないために燃やす」


 納得したくないのに、納得してしまうのが最悪だった。世界の仕組みはいつもそうだ。理解した瞬間に、こちらの怒りが少しだけ薄まる。怒りが薄まると弱くなる。弱くなると消される。だから私は、理解を嫌う。嫌いなのに、理解してしまう。人間の脳は便利で最悪だ。


 ミラが机に肘をついた。羊皮紙の魔女は今日も眠そうで、眠そうなのに指先が不吉に器用だ。


「で、どこで燃やすの?」


「灰塔」


 グレイヴが言うと、ミラが鼻で笑った。


「“浄史炉”ね。可愛い名前つけてるの、笑える。殺す行為って、いつも名前が可愛いのよ。ごまかしが下手」


 灰塔、と聞いた瞬間、私は昨日見た川の銀の震えを思い出した。黒い水面に貼り付く一枚の光。あれは美しかった。美しかったのに、そこへ灰が降れば、銀は鈍る。鈍った銀もまた美しい。美しいものがどんな形でも美しいのが、世界の意地の悪さだ。


「搬送記録、時間と経路が書いてある」


 グレイヴが指でなぞる。指先が字の上を滑るたびに、紙が小さく鳴く気がした。紙は自分の死期を知っている。知っていても抵抗しない。抵抗しないから燃える。燃えるから、勝者は安心する。


「……行くんですか」


 自分で言っておいて、笑いそうになった。行くんですか、って何だ。自分の呪いの核心が燃やされに行くのに、確認を取っている場合か。


 ミラが軽く肩をすくめる。


「行くでしょ。燃やされる前に取ってくる。取れなかったら?」


「灰を取る」


 グレイヴが言う。


 灰を取る。発言が淡々としていて、なおさら狂っている。だが狂っていないと、この仕事はやれない。狂気は道具だ。道具を持ったら、人間はだいたい道具になる。私はすでに筆だ。胸に穴の空いた筆。


「あと」


 ミラが私の採録帳を指で叩いた。


「書いて縫って。縫って守って。守って逃げる。順番、間違えると死ぬわよ」


「私、死んでます」


「死んでるのに死ぬって、二度目はだいたい恥ずかしいから気をつけて」


 言い方が雑で優しかった。私は笑ってしまった。笑うと胸が鳴る。ひゅう。やめろ。


 グレイヴが紙束をまとめ、私に渡した。


「これは“燃やす予定の記録”だ。つまり、燃やすための証拠が先に存在している」


「証拠が先?」


「勝者は、未来の嘘のために現在の紙を用意する。だから、紙を奪うと未来が揺れる」


 未来が揺れる。美しい言い方をするな。未来が揺れると、人は落ちる。落ちると死ぬ。私は落ちるのに慣れている。慣れたくないのに。


「行くぞ」


 グレイヴが言った。


 その短さが、救いだった。長い説明があると、私は怖くなる。怖いと、空白が甘くなる。


 忘れたほうが楽だよ、という悪魔の声が、背中で舌を鳴らす。


 舌を鳴らされる前に、歩く。


 王都の外に出たとき、空はまだ黒だった。


 黒いのに、黒が透けている。夜明け前の黒は薄い。薄い黒は、刃物の縁みたいに危ない。触ると切れる。触れなくても切れる。


 風が冷たい。霜が降りている。


 草の先に付いた霜が、光のない光を返す。霜は小さな鏡だ。鏡が無数に並んで世界を写すと、世界は自分の醜さすら美しく見せる。美しさは、嘘と仲がいい。だから勝者は美しさを使う。だから私は美しさを疑う。疑うのに、美しさに怪我をする。


 その日、霜に混じって灰が降っていた。


 灰は雪みたいに落ちる。雪より軽く、雪より汚い。汚いのに、月光を拾って微かに光る。汚れた光は妙に胸に刺さる。ここまで来ると、世界が私をいじめているのか、私が世界に恋しているのか分からない。


「……灰、綺麗ですね」


 うっかり言うと、ミラが横目で見た。


「綺麗って言ったら負けよ」


「もう負けてます」


「そうね。だから綺麗って言ってもいい。敗者の特権。勝者は綺麗って言うと嘘になるから」


 それもまた、妙に真理だった。勝者の美しさは、だいたい塗料だ。敗者の美しさは、だいたい傷だ。


 北門を抜け、川沿いの道へ出る。川は黒かった。黒い水が黒い空を映し、黒い中にだけ銀の筋がある。銀の筋は、世界がまだ生きている証拠だ。生きている証拠は、たまに残酷だ。生きているからこそ死ぬ。死ぬからこそ残す。


 灰塔は遠くからでも分かった。


 赤い息を吐いていた。巨大な煙突が夜の腹を突き破り、そこから薄赤い光が漏れている。火の光はいつも綺麗だ。綺麗すぎて嫌いだ。火は、何を燃やしているのかに関係なく美しい顔をする。火の美しさは倫理を持たない。


 灰塔の周りには柵があり、柵の外に兵が立っている。兵の足元に灰が積もっている。灰の上の足跡はよく残る。足跡は証拠だ。証拠は消される。だから灰塔の周りの足跡は、掃き掃除で消されている。消される足跡がある時点で、ここには人がいる。無人ではない。いつも、無人ではない。


 私たちは門の前で立ち止まり、グレイヴが書類を出した。


 書類。


 この世界の最強の武器。


 兵が眉をひそめ、書類を読む。読む速度が遅い。遅い読解は、こちらの希望を削る。希望は紙で包め、とミラは言ったが、希望は今、兵の目の前でむき出しになっている。


 兵が顔を上げた。


「立会人? こんな時間に?」


 グレイヴが頷く。


「規約により、焼却には立会いと記録が必要だ」


「……面倒くせえな」


 兵の本音が漏れた瞬間、私は少し安心した。世界が面倒だと思われているうちは、世界はまだ人間のものだ。神のものになりきっていない。


 ミラがにこりと笑う。


「面倒よね。私も紙を燃やすより、あなたを殴った方が早いと思う」


 兵が一瞬固まった。冗談が冗談に見えない顔だ。ミラの笑顔は、いつも微妙に刃が出ている。


 グレイヴが咳払いのように言った。


「問題がなければ通す。問題があるなら、あなたが規約違反の責任者になる」


 兵が顔をしかめ、書類を返した。


「通れ。……規約って言葉は嫌いだ」


 私もだ。規約は、人を救う顔で人を縛る。縛るから救える、と言い張る。正しさのふりをした鎖。


 門が開き、熱が押し寄せた。


 冷たい夜気に、熱が混じると、肌がないはずなのに肌が痛む。熱は生きている感覚だ。生きている感覚は、死者には毒だ。


 灰塔の中は、別世界だった。


 火の匂い。紙の匂い。樹脂の匂い。焦げた糊の甘さ。甘さが鼻の奥を刺す。焦げた甘さは、戦場の匂いに似ている。私は思わず目を伏せた。目を伏せても匂いは逃げない。匂いは、胸の穴から入って胸の穴から出る。通り道があると、匂いは逃げ場を見つけてしまう。私の身体は匂いの通行許可証だ。


 運搬車が並んでいた。木箱が積まれている。木箱には封蝋。封蝋には王の印章。王の歴史がここに詰まっている。詰まっているのは紙だけではない。声だ。匂いだ。手つきだ。名前だ。


 私は木箱に近づいた。


 近づくだけで胸の穴が痛む。痛むというより、引っ張られる。紙が私を呼んでいる。紙が「お前の中身を寄こせ」と言っている。寄こしたくない。寄こさなければ守れない。守りたい。守りたいものほど、私の中から抜けていく。


 濁流が、内側でうねった。


 濁流は黒い。黒い濁流はインクに似ている。インクは美しい。美しいから飲みたくなる。飲んだら死ぬ。私はもう死んでいる。だから飲めるのか。いや、飲んだら私は空白になる。空白になったら楽だ。楽になったら負ける。


「新人」


 グレイヴの声が私を引き戻す。


「箱を開けるな。まず記録する」


「燃やす前に?」


「燃やすからこそ、先に記録する。矛盾に見える手順が、制度の心臓だ」


 制度の心臓。嫌な言い方だ。心臓があるなら止めたい。止めたら別の心臓が動く。世界は心臓が多すぎる。


 ミラが手袋をはめ、糸と針を取り出した。糸は霜の白。針は光のない光。


「火に勝つ紙を作るのは無理。でも火に負けない縫い目は作れる」


「縫い目が残れば、あとで復元できる?」


「復元って言葉は甘いわ。甘い言葉はだいたい死ぬ。せめて“痕跡を残す”くらいにしなさい」


 痕跡を固定する。私は頷き、採録帳を開いた。


 骨鉛筆を握る。握ると、指が少し痛い。痛いのに嬉しい。痛みがあると、私はまだ誰かを守ろうとしていると分かる。守ろうとする心が残っていると、空白に飲まれない。


 木箱に耳を当てる。


 中から、音がする気がした。


 紙が擦れる音。誰かがページをめくる音。遠い笑い声。泣き声。薪が爆ぜる音。家の戸が鳴る音。生活の音。


 音が、胸の穴に刺さる。


 私は採録帳に書く。


「箱一 王印 封蝋 重さ:沈黙の分」

「匂い:焦げた糊 古い樹皮 汗の残り香」

「中身:声がある」


 書いた瞬間、箱の角が微かに震えた。紙が反応する。反応が怖い。怖いが、嬉しい。反応するものは、まだ生きている。


 グレイヴが小声で言った。


「今夜の焼却は三便。これは二便目だ。三便目に重要な束がある」


「重要、って」


「戸籍。名簿。敗者の名がまとまっている」


 名簿。


 その言葉が刃になって、私の喉に刺さった。


 名は錠前だ。名がなければ、顔は漂流する。漂流するものは沈む。沈んだものは、勝者の海になる。


 私は名簿を救いたい。名簿を救うためなら、私は私を捨てる。捨てるのが怖い。怖いのに、捨てたい。捨てたら楽だ、と悪魔が囁く。囁きが甘い。甘いものは喉に貼り付く。私は喉が乾いている。乾いている喉に甘いものは危険だ。


 そのとき、灰塔の奥で鐘が鳴った。


 一度、短く。


 合図だ。三便目が来る。


 運搬車の列が動く。木の車輪が灰を踏み、灰が舞う。灰が舞うと、灯りに照らされて、銀の粉になる。銀の粉が空気を満たす。美しすぎる。火葬の舞台が美しすぎる。世界はここまで残酷に美しい必要があるのか。


 扉が開き、大きな箱車が入ってきた。


 兵が多い。封が厳しい。封蝋が二重。王印が深い。


 あれだ。


 私の胸の穴が、勝手に鳴った。ひゅう。怖がりの音。やめろ。今、狙われる。


 グレイヴが一歩出て、書類を見せる。


「立会いだ。規約どおりだ」


 兵が渋い顔をする。渋い顔は人間の証拠だ。私は渋い顔が好きになりそうだった。好きになるのは危険だ。好きなものから失う。


 兵が頷き、封を解く準備をする。封蝋が割れる音は、骨が折れる音に似ている。似ているから、心が震える。震えると胸が鳴る。ひゅう。頼むから黙れ。


 箱の蓋が開く。


 中に、紙の束。


 束は整然としている。整然としているのに、そこから匂いが濁流のように溢れ出す。人の生活の匂い。汗、油、土、麦、冬の薪。濁っていて、濁っているからこそ本物だ。勝者の文章の匂いは透明だ。透明なものは嘘が混じってもバレない。濁ったものは嘘が混じるとすぐ臭う。


 私は採録帳を開き、息のない肺で呼吸するふりをして、書く。


「三便目 戸籍台帳 名簿」

「紙の端が擦り減っている。触れられた回数が多い」

「ここには“生きた手”がいる」


 その瞬間。


 背中が冷えた。


 冷え方が霜ではない。霜は綺麗だ。これは汚い冷えだ。泥水が首筋に流れ込む冷え。濁流の冷え。悪意の冷え。


 視線。


 白紙の視線。


 編集官がいた。


 灰塔の梁の影に、黒い外套が立っている。顔のあるべき場所が白い。白いのに暗い。暗い白。目が痛い白。


 手には、刃。


 鉛筆削りみたいに簡単な形の刃。簡単だからこそ強い。簡単なものは壊れにくい。簡単な嘘は信じられる。簡単な刃はよく切れる。


 刃が、名簿へ向かう。


 ここで削られたら終わる。


 私は反射で、採録帳の余白に骨鉛筆を叩きつけた。


「[ ]は削られた。削られたことは事実である」


 空白の箱を作る。空白に輪郭を与える。輪郭は網になる。網は霜の膜になる。ミラの縫い目がそこへ繋がる。


 縫い目が、光った。


 霜の光。


 美しすぎて、目が痛い。

 目が痛いから、私は目を逸らさない。


 編集官の刃が霜の網に触れた。


 きい、と音がした。


 氷を削る音。冬が怒る音。


 刃が止まる。止まるだけで、私は吐きそうになった。吐けない。吐けないから、私は笑ってしまった。


「規約に勝つ刃、初めて見ました」


 グレイヴが小さく言った。


「勝ってない。止めてるだけだ。止めてる間にやる」


「何を」


「奪う」


 奪う、という言葉が口に出ると、急に世界がカオスになる。秩序の言葉で覆われていた場所に、暴力の匂いが混じる。秩序と暴力は仲がいい。だから恐ろしい。


 ミラが針を走らせ、名簿の束を布で包む。布は羊皮紙の皮。火を嫌う皮。嫌っても火は来る。火はいつも来る。だから彼女は縫う。


「ほら新人、持ちなさい。落としたらあなたの指を私が折る」


「それは火より怖い」


「火は綺麗に燃やすけど、私は汚く折る」


 美学の差で脅された。私は素直に束を抱えた。


 その瞬間、名簿の重さが胸の穴へ落ちてきた。


 重い。紙なのに重い。名の束は、石より重い。石は無言だが、名は叫ぶ。叫びが重い。


 編集官が一歩踏み出す。


 霜の網が軋む。軋む音が、紙が破れる前の音に似ている。嫌な予感が、濁流になって足元から来る。来るな。来るなと言っても来るのが予感だ。


 そのとき、灰塔の奥で、火が吠えた。


 炉が開いたのだ。赤い口が開いた。赤い舌が出た。舌が空気を舐め、紙の匂いを見つける。火は匂いで獲物を追う。火は動物だ。動物だから美しい。美しいから残酷だ。


 兵が叫ぶ。


「予定どおり焼却だ! 急げ!」


 予定どおり。予定どおりの殺人。世界の言葉はいつもそうだ。予定どおりに人が消える。予定どおりに村が無人になる。予定どおりに名が消える。


 私は走った。


 走ると足音がしない。足音がしないのに、灰が舞う。灰が舞うと銀の粉になる。銀の粉の中を走ると、私は星屑を踏んでいるみたいだった。星屑の中で焚書。詩的すぎて吐き気がする。


 炉の前に着く。


 赤い口が待っている。

 口の中は地獄だ。地獄は綺麗だ。綺麗な地獄が一番嫌いだ。


 編集官が背後にいる。

 刃が近い。


 グレイヴが叫んだ。


「今だ、書け!」


 何を、と言う暇はなかった。私は採録帳を開き、名簿の束を片手で支えたまま、骨鉛筆を走らせた。


 火が紙を奪う前に、紙が私から記憶を奪う前に、書け。


 名を書く。


 名を書くと、私の中から音が消える。

 名を書くと、私の中から匂いが消える。

 名を書くと、私の中から温度が消える。


 消えるのが分かっているのに、書く。


 濁流が喉へ押し寄せる。

 濁流を吐けない。

 吐けない濁流は、筆圧になる。


 私は名簿を開き、最初の名前を写す。


 一つ、二つ、三つ。


 書く速度が上がる。

 筆圧が上がる。

 紙が沈む。

 文字が沈む。


 沈むたびに、私は何かを手放す。


 パンの匂いの残り。

 誰かの笑い声の輪郭。

 冬の薪の音。

 靴紐の結び目の癖。


 剥がれていく。薄皮みたいに。剥がれた跡が冷たい。冷たいのに、私は止めない。止めたら火が勝つ。火に勝たせたくない。勝者に勝たせたくない。


 名簿の中ほどに、空白があった。


 削られている。刃が先に入っている。


 そこに本来あるはずの名前が、ない。


 私の心が、ひどく静かになった。


 弟の名が出てこない、あの空白と同じ匂い。

 空白の匂い。無臭。無温度。無記名。


 私は、空白の行を見つめた。


 見つめた瞬間、悪魔が囁く。


 楽だよ。

 書かなくていい。

 空白は空白のままにすればいい。

 痛まない。


 痛まない、という言葉が甘い。

 甘い言葉は喉に貼り付く。

 貼り付いた甘さは窒息になる。


 私は歯ぎしりした。

 歯ぎしりの代わりに、胸の穴が鳴った。ひゅう。怒りの笛。今は許す。鳴け。鳴いていい。


 私はその空白を写した。


 名は[ ]である。


 そして脚注を付ける。


 [ ]は削られた。削られたことは事実である。削った者がいる。


 書いた瞬間、炉の赤い光が一瞬揺れた気がした。揺れはわずかだ。だが揺れは、世界の骨に触れた証拠だ。


 編集官の刃が、私の背中へ迫る。


 私は振り返らない。振り返ると怖い。怖いと空白が甘くなる。甘いものを口に入れたら負ける。


 ミラが私の手首を掴み、引いた。


「新人、火を見るな。火は恋人になるから」


「恋人にするには温度が高すぎます」


「恋はだいたい火傷」


 言い返した自分に少し安心した。ユーモアが出るうちは、私はまだ沈んでいない。沈みきったら、笑えない。笑えない私は、空白に近い。


 グレイヴが規約書の束を編集官へ投げつけた。


 紙の束が宙でばらけ、文字が舞う。文字の雪。文字の灰。


 編集官の刃がそれを削ろうとして、一瞬だけ動きが鈍る。


 削る対象が多すぎると、刃は迷う。

 刃は迷うと弱くなる。

 弱くなる刃を見るのは気持ちいい。気持ちいいのに、気持ち悪い。私の心はまだ刃を欲しがっている。復讐の心が、背骨に張り付いている。


「走れ!」


 グレイヴの声が落ちる。落ちる声は石だ。石は動かない。動かない命令に従うしかない。


 私たちは名簿の束を抱えて炉から離れた。


 その瞬間、背後で火が吠えた。


 別の木箱が炉へ投げ込まれたのだ。

 紙が燃える音は、虫の羽が焼ける音に似ている。ぱちぱちと短く、軽く、痛い。紙が燃えるとき、紙は叫ばない。叫ばないから、こちらが叫ぶ。叫べないから、内側で濁流になる。


 灰が舞う。


 灰が風に乗って、私の胸の穴へ吸い込まれる。


 私は一瞬、立ち止まりそうになった。


 灰が胸の穴へ入ると、そこが“喉”みたいになる。灰が私の内側を通り抜ける。灰が通ると、灰が文字に見える。文字の形をした灰。存在の痕跡が燃やされて粉になり、それでも形を残そうとする最後の抵抗。


 私は咄嗟に、採録帳を胸の穴の前に掲げた。


 灰が、紙の上に降る。


 降った灰が、勝手に線を作る。


 線が、文字の輪郭になる。


 私は骨鉛筆でその輪郭をなぞった。


 火が燃やしたはずのページが、灰として戻ってくる。

 灰が私を通り、紙に落ち、文字になる。

 燃やされたものが、燃やされたという事実ごと残る。


 美しすぎて、眩暈がした。


 世界は、ここまで残酷で、ここまで巧妙だ。

 燃やす行為すら記録にしてしまう。

 勝者の武器を、こちらのインクに変える。


 ミラが舌打ちした。


「新人、胸で受け止めるな。煤で肺炎になるわよ」


「肺、ないです」


「じゃあ魂が咳き込む。魂の咳は長引く」


 魂の咳って何だ。だが、今の私はたしかに咳き込みたい気分だった。濁流が胸の穴の縁で渦を巻いている。


 編集官が追ってくる。


 白紙の顔が近い。

 刃が近い。


 刃は紙を削る。なら、紙を増やす。


 私は走りながら採録帳の余白に書く。


「ここに灰が降る」

「灰が降るなら、燃えたものがあった」

「燃えたものがあったなら、そこに人がいた」


 言葉の鎖を繋ぐ。

 論理の鎖を繋ぐ。

 鎖は刃より硬いことがある。硬い鎖ほど、人を縛る。縛るのは敵だけにしたい。だが鎖は敵味方を選ばない。そこが恐ろしい。


 灰塔の門が見えた。門の外は夜だ。夜は冷たい。冷たさは救いだ。火の赤から逃げるには、夜の黒しかない。


 門を抜けた瞬間、冷気が頬を殴った。頬はないはずなのに殴られる。殴られる感覚だけが残っている。感覚の残骸で私は動いている。


 背後で、編集官の気配が止まった。


 院外だ。


 規約の手が届かない場所。


 そして――追ってこない。


 追ってこない、という選択の方が怖かった。追ってこないのは、余裕だ。余裕は、次の刃の準備だ。


 グレイヴが振り向かずに言った。


「今日は逃げた。勝ったわけじゃない」


「勝つ予定はありません」


「予定って言葉を使うな」


 ミラが笑った。笑いが乾いていて良い。乾いた笑いは、泣けない私の代わりに空気を裂く。


 川沿いの道に出ると、灰がまだ降っていた。灰は月光を拾って、汚い銀になる。汚い銀が水面に落ち、銀の筋が鈍る。鈍った銀も美しい。美しさは許可を取らない。


 私たちは大年代記院へ戻った。


 戻る道の途中で、私は名簿の束を抱え直した。紙の重さが腕に食い込む。食い込む痛みが嬉しい。痛みがあると、私はまだ守っている。守っていると、空白に飲まれない。


 院に入ると、ミラがすぐ机を用意し、糸を出した。


「今夜中に綴じる。夜が明けたら追いつかれる」


「追いつかれる、って」


 グレイヴが淡々と言った。


「勝者は、失った紙を探す。失った紙は彼らにとって骨折だ。骨折は隠したい。隠せない骨折は、政権の歩き方を変える」


 歩き方を変える。骨折した歴史。いい。痛い。だからいい。


 私は机に名簿を広げ、採録帳を開く。


 名を書く。空白を書く。脚注を書く。灰を書く。


 書くたびに、私の中が剥がれる。

 剥がれるたびに、紙が厚くなる。

 厚くなる紙は、私の代わりに記憶を持つ。


 私は私を紙へ渡す。

 紙が私を持つ。


 濁流は止まらない。

 濁流はやがて川になる。

 川は海へ行く。

 海は勝者のものに見える。

 だが海には潮目がある。潮目には、沈まないものが漂う。


 ミラが縫い始めた。


 縫い目は霜の光。縫い目は刃。刃のように細く、美しく、冷たい。縫い目がページを繋ぐたびに、私は胸の穴の冷たさが少しだけ変わるのを感じた。穴が、ただの欠損ではなく、通路になる。通路は風を通す。風は情報を運ぶ。情報は世界を動かす。


 グレイヴが表紙用の羊皮紙を置いた。


 白い。骨の白。霜の白。


 私はそこに、骨鉛筆を落とした。


「敗者年代記」


 字は沈んだ。沈むと同時に、私の胸の穴を風が通った。


 ひゅう。


 今度の音は、笑いにも似ていたし、泣きにも似ていた。どちらでもない音。どちらでもない私の音。


 ミラが針を止めずに言った。


「これ、世に出したら燃やされるわよ」


「燃やされても、灰が残ります」


 自分で言って、ぞっとした。私の発想がすでに火と仲良くなっている。危ない。火は恋人になる、とミラが言った。恋人は裏切る。火の裏切りは世界を焼く。


 グレイヴが言った。


「世に出すのはまだ先だ。まず“起稿”だ。芯を作る。芯があれば燃えても形が残る」


 芯。


 芯という言葉が、私の胸の穴の縁を痒くした。痒さは回復のサインだ。回復したくない。だが回復する。回復しながら、欠けたまま前へ進む。人間はいつもそうだ。死者も同じだ。


 夜が深くなる。蝋が減る。灰が窓の外で降る。降る灰が街灯を拾って汚い銀になる。汚い銀が美しい。美しいから苦しい。


 私は書き続ける。


 名を書く。空白を書く。脚注を書く。足跡を書く。

 そして、書けないものを、書けないまま書く。


「名が出てこない。出てこないことがここに残る」

「消えた匂いがあった。匂いがあったことだけは残る」


 その文章が刃みたいに美しくなるとき、私の中の何かが剥がれているのが分かる。美しい文章は、だいたい誰かの命を削って作られる。今夜削られているのは私だ。削られた私が、紙の中で生きる。生きるという言葉が嫌いだ。だが他に言いようがない。


 最後に、私は起稿の一頁目に、短い序を書いた。


「勝者が歴史を紡ぐなら、私は敗者の糸を拾う。

 糸は濁っている。濁っているから本物だ。

 燃えたなら灰が残る。灰が残るなら、ここに確かに在った」


 書き終えた瞬間、胸の穴の風が少しだけ静かになった。


 静かになったのに、怖かった。


 静かになると、空白が近い。

 空白が近いと、楽になる。

 楽になると、負ける。


 私は採録帳の索引を開き、そこに今日の日付の欄を作った。


「灰塔 名簿 起稿」


 そして小さく書き足す。


「私はまだ空白ではない。空白を使っているだけだ」


 書いても、不安は消えない。不安は濁流だ。濁流は止められない。だが、濁流の上に橋を架けることはできる。橋が言葉だ。橋が脚注だ。橋が縫い目だ。


 夜明けが近い。


 窓の外の黒が薄くなる。薄い黒は刃物の縁。刃物の縁が朝に溶けていく。溶けていく光が、灰の粒を拾ってきらめかせる。灰がきらめく世界は、あまりにも美しい。美しすぎて怪我をする。私はそれでも目を逸らさない。


 起稿の束が、机の上にある。


 重い。

 紙なのに重い。

 重いから、安心する。


 グレイヴが低く言った。


「これで、彼らは“無人”と言いにくくなる。言えば言うほど、脚注が刺さる」


 ミラが針をしまいながら言った。


「刺さるといいわね。勝者は痛みを嫌うから」


 私は笑った。笑いは乾いた。乾いた笑いは、濁流の上に浮かぶ泡みたいだった。泡はすぐ消える。でも泡が立つうちは、川は生きている。


 胸の穴が、ひゅう、と鳴った。


 今日は笛じゃない。

 今日は、始まりの音だった。


 次は、この起稿を“完成”に近づけるために、もっと大きいものを奪いに行く。奪うと言っても紙だけじゃない。勝者の確信を、少しだけ崩すために。崩れた確信の隙間に、敗者の足跡をねじ込むために。


 そして、その作業の果てに――


 私は帰ることになる。


 頁だけを連れて。



次回最終話です。

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