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空白を縫う  作者: 那由多


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第6話 欠落に意味を


 夜明け前の大年代記院は、いちばん意地が悪い顔をしていた。


 灯りはまだ蝋色で、窓の外の空は青にも黒にもなりきれず、紙の匂いだけがやけに正確にそこにある。眠らない建物の、眠ったふり。静けさは厚く、息のない私でも息苦しい。


 私は机に突っ伏したまま、採録帳の白を見ていた。


 白は、勝者の色だ。

 白は、空白の色だ。

 そして白は、私の骨の色だ。


 同じ色が並ぶと、心が削れる。世界が「ほら、お前もこっち側だ」と言ってくる。紙に似ていく。似ていくほど、書きやすくなる。書きやすくなるほど、自分が薄くなる。


 私は薄くなりたくない。

 でも、薄くなりたい。


 矛盾は、腹の奥にいつまでも残る。消化できないものは、だいたい大事なものだ。


 昨夜、編集官の刃が採録帳に触れた。

 触れた瞬間、紙が皮膚みたいに見えた。

 削られるのは文字じゃない、と私の内側が理解した。理解は、痛みより先に来る。理解の早さは、たぶん人間の一番いやらしい才能だ。


 ページの端に残った小さな白い傷を見ていると、そこだけ風が冷たくなる気がした。冷え方が、霜の冷え方に似ていた。霜は美しい。美しすぎて指が切れる。昨夜の傷も、美しすぎて指が切れそうだった。


 切れたら困る。

 指はもう数えるほどしかない。数えるほど、という言い方が怖い。人間は自分の指を「資源」として考え始めたら終わりだ。終わっている。私は死んでいる。


 机の上に、蝋の雫がぽとりと落ちた。灯りがため息をついたみたいに。蝋は誰にも媚びない。燃えるために燃えて、垂れるために垂れる。だから美しい。だから残酷だ。


 扉が開く音がした。


 紙の匂いの重さがほんの少し動き、そこにミラが入ってきた。羊皮紙の魔女は今日も眠そうな顔で、眠そうなのに視線だけが鋭い。鋭い視線は、刃物みたいに正確で、そして、正確だから優しい。優しさはたまに刃物になるけれど、彼女の刃はきちんと用途が決まっている。


「生きてないのに寝不足の顔してる」


 開口一番がそれだ。


「寝てないので」


「寝なくていいのに寝ないのは趣味ね」


 趣味扱いされた。受付で散歩に丸をつけたのが、こういう形で効いてくるとは思わなかった。役所の丸は、時々因果になる。


 ミラは机の端に腰をかけ、採録帳の傷を指先でなぞった。なぞっただけで紙が微かに鳴る。紙が彼女にだけ返事をする。ああ、こういう人がメンターってやつか。紙と会話できる人間。人間かどうかは知らない。


「削られかけたわね。新人にしては派手にやるじゃない」


「派手にやる予定はありませんでした」


「予定は無力。覚えときなさい。書く仕事はだいたい予定を裏切る」


 ミラは布袋から細い糸巻きを取り出した。糸は白い。蜘蛛の糸より白い。霜より白い。白すぎて、見ているだけで目が痛い。あれは絶対に触ったら怪我をするタイプの白だ。


 彼女は針も取り出した。針は針だった。安心した。こういう世界は、たまに針が針じゃない。針が呪いだったりする。針は呪いだった。やっぱり安心できない。


「縫うわよ」


「紙を?」


「紙もあなたも」


 やめてほしい。私は書く道具としては雑に扱われがちだが、せめて「紙と同列」には置かないでほしい。いや、同列がむしろ待遇がいい可能性もある。紙は丁重に扱われるから。


 ミラは採録帳の傷の端に針を落とした。


 針が紙に入る瞬間、音がしなかった。

 痛みもないはずなのに、私の胸の穴がひやりと鳴った。ひゅう。笛。最悪。感情が揺れているときほど笛が鳴る。心が揺れると風が吹くのか。穴の仕様が詩的すぎて嫌いだ。


 糸が通る。白い糸が紙の繊維を縫い合わせる。縫い目は、霜が葉脈をなぞるみたいに繊細で、しかし確かだった。縫い目の美しさは、傷の美しさに勝つ。傷が残るのは悪いことだと思っていた。違う。傷が縫われた跡は、世界が「壊れても直る」を見せる証拠だ。


 私はしばらく、その縫い目を見ていた。


 生きていたころ、傷は嫌だった。

 死んでから、傷は風景になった。


 風景は残る。残るものは強い。

 強いから、奪われる。

 奪われる前に、書かなければならない。


 ミラは縫い終えて、指先で縫い目を軽く叩いた。叩くと、縫い目が微かに光った。霜の光り方。触れたら切れる美しさ。彼女は平気な顔でそれを扱う。職人の手は、刃物の扱いに慣れている。


「これで院内の削りなら、次は引っかかる。院外は知らない。世界はだいたい院外だから」


「希望がない」


「希望は紙で包めるときだけ持ちなさい。持ちすぎると破れる」


 希望の取り扱い説明をされた。死体が希望の取り扱い説明を受けるの、シュールだな、と思った瞬間、グレイヴが入ってきた。司書長代理はいつも通り、古い紙の匂いをまとっている。匂いが存在証明になっている人は強い。私は穴の風しか証明がない。


 グレイヴは縫い目を見て、頷いた。


「良い縫いだ。これで“余白”が使える」


 余白。


 その言葉が、私の中で小さく鳴った。

 余白は、本文じゃない。勝者が正面から支配するのは本文だ。余白は、まだ誰のものでもない。誰のものでもない場所は、狙われやすい。狙われやすいから、潜り込める。


「余白は逃げ道だ」と誰かが言っていた気がする。誰だ。思い出せない。思い出せないのに、言葉だけが残る。これも、私の新しい生き方なんだろうか。人ではなく、言葉の断片として生きる。


 グレイヴが机の上に、小さな紙束を置いた。紙束は薄い。薄いのに重い。紙の重さは、だいたい誰かの時間の重さだ。


「今日は君に、脚注を教える」


 脚注。


 あまりにも地味で、あまりにも凶器になりそうな言葉だ。歴史の世界で一番怖いのは、本文じゃない。本文は派手だ。派手なものは反論がある。脚注は静かだ。静かだから、刺さる。


 グレイヴは私の採録帳を開き、余白に小さく記号を書いた。小さな数字。小さな印。目立たない。目立たないことが正義だとでも言うような形。


「勝者は断言を書く。敗者は証拠を書く。証拠の一番強い形は、出典だ。出典は刃だ。刃は、振り回すな。刺せ」


「……刺す」


 胸を貫かれた私に、その動詞を渡すのはだいぶ性格が悪い。だが、性格の悪さは時々、真理の服を着てくる。


 ミラが横から口を挟む。


「ついでに教える。欠落は汚れじゃない。縫い目よ」


 欠落は縫い目。

 縫い目は、傷と紙をつなぐ。

 傷と紙。私と世界。敗者と記録。死者と自然。


 私はその言葉を飲み込んだ。飲み込む、という表現がまだ残っているのが笑える。飲み込む胃もないのに。


 グレイヴは私を見て、淡々と言った。


「弟の名が出てこない、と言ったね」


 私は頷いた。

 頷いた瞬間、弟の顔だけが浮かんだ。名は出ない。名だけがない。名がないと、顔がどこかの誰かになる。弟が弟でいられなくなる。私の中で弟が漂流する。漂流するものは、やがて沈む。


「なら、こう書け」


 グレイヴは採録帳の本文に一行、書いた。


 弟の名は[ ]である。


 角括弧の中が空白だった。

 空白が、妙に“形”を持っている。空白が箱になっている。箱になった空白は、ただの無ではない。無が輪郭を持つと、急に存在になる。


 グレイヴは余白にさらに書き足した。


 [ ]は削られた。削られたことは事実である。


 その瞬間、私の胸の穴がひやりと鳴った。

 風が一瞬止まる。止まって、また通る。通る風の温度が変わった。冷たさが、少しだけ「言葉」になった気がした。


 私は目を細めた。


「……空白が、意味を持つ?」


「盾にもなる。罠にもなる。君が空白を“記録した”からだ。空白が空白であることを、紙が知った」


 ミラが針をくるくる回しながら言う。


「勝者は空白を好む。消したいから。あなたは空白を縫う。縫った空白は、勝者の空白じゃなくなる」


 私は、胸の奥の濡れた塊が少しだけほどけるのを感じた。


 弟の名が戻るわけじゃない。

 母の手の温度が戻るわけでもない。


 それでも、空白に輪郭を与えることができる。

 輪郭があるなら、そこに「削った手」が映る。

 映るなら、証拠になる。

 証拠になるなら、戦える。


 戦い方が変わる。

 刃で勝てないなら、刃の痕を残す。


 それが変容だった。


 私は骨鉛筆を握った。


 そして、最初に自分の手を試す。


 弟の名は[ ]である。


 書いた瞬間、胸の穴の縁が、微かに痒くなった。痒いのは嫌いだ。痒さは回復のサインでもある。回復したくない。だが回復する。穴は穴のまま、回復する。矛盾はここにも住む。


 余白に、脚注を書き足す。


 この空白は、私が書いた。私が書いたという事実だけは削れない。


 削れない、と書いた瞬間、私は自分の中の何かが一枚剥がれる感覚を覚えた。薄皮みたいに。ほんの薄い、どうでもいい記憶。たとえば、私は昔どの指で笛を吹いたか。そんなことは知らない。でも、剥がれると分かる。剥がれた跡が、ひんやりする。


 ああ、と私は思った。


 これが代償だ。


 私はこれから、愛しい細部を一つずつ紙に渡す。

 紙が覚えるかわりに、私は忘れる。

 忘れるほど、私は軽くなる。

 軽くなるほど、風が通る。

 風が通るほど、穴が「私の形」になる。


 私は“私”の輪郭を、穴と文字で保つしかない。


 グレイヴが言った。


「現場に出る。最初の任務だ」


 そう言って、紙束の一枚を差し出してきた。そこには王都の公式記録の写しがあった。整いすぎた文章。誤差のない文章。美しい。美しすぎて怪我をする文章だ。


 そこにはこう書いてあった。


「北外縁第三村落 戦禍以前より無人」


 無人。


 私の視界の端が揺れた。揺れるのは涙じゃない。涙がない。揺れるのは怒りだ。怒りは揺れる。怒りは風を起こす。胸の穴がひゅう、と鳴る。やめろ。今、殺意に近い怒りを感じているのに、笛の音みたいに鳴るな。世界よ、ふざけるのもほどほどにしろ。


 無人。


 あの村には、井戸があった。

 畑があった。

 冬の匂いがあった。

 春の泥があった。

 笑い声があった。


 無人、という二文字が、それら全部に布をかぶせる。見えなくする。触れなくする。存在を手の届かないところへ押しやる。空白の暴力は、いつも静かだ。静かだから、誰も気づかない。気づかないから、勝つ。


「行くぞ」とグレイヴが言った。


 私たちは大年代記院を出た。


 王都の外は、夜と朝の境界で、空気が薄く光っていた。門の外の草地に霜が降りている。霜は句読点みたいに草の先を止めている。草の揺れが一瞬止まって、そして光に溶ける。自然はいつも、言葉にならない速度で進む。言葉は追いつけない。追いつけないから、書きたくなる。


 東の空が割れ、薄い光が落ちる。


 川が見えた。王都を巻く川だ。川面は黒い。黒いのに、光を一枚だけ貼り付けている。黒い紙に銀のインクを流したみたいだった。世界が比喩に協力的すぎる。気持ち悪いくらい親切だ。ありがたいけれど。


 私は川の匂いを吸うふりをした。湿った石の匂い。冷たい水の匂い。そこに、ほんの少し草の青。生きていた頃なら「寒い」で終わった匂いが、今は長文になる。死は、語彙を増やす。増えた語彙で傷つく。語彙は刃だ。


 道端の葦が揺れた。葦の先についた霜が光る。光が痛い。痛いのに、目を逸らせない。美しさは許可を取らない。美しさは逃げ道を塞ぐ。美しさの前では、私の軽口が小さくなる。


 グレイヴがぼそりと言った。


「泣けないのは不便だろう」


 私は、少し笑った。


「泣けない代わりに、筆圧が上がります」


「それはそれで迷惑だ。紙が破れる」


「すみません、私の涙は脚注で出ます」


「最悪の比喩だ」


「同意します」


 こういう会話ができるだけで、世界はまだ終わっていない気がした。終わっていないからこそ、終わらせたくない。矛盾は美しい。美しいから苦しい。


 北外縁に着くと、空気の匂いが変わった。


 人の匂いが薄い。火の匂いも薄い。代わりに、灰の匂いが土に染みている。匂いが土に染みると、その土地の過去が消えなくなる。逆に言えば、匂いが消えると、過去は消しやすい。勝者は匂いを嫌う。匂いは証拠だから。


 村は、なかった。


 本当に、なかった。


 家の骨組みすらない。井戸の石組みすらない。畑の畝すらない。あるのは平らな地面と、よそよそしい草だけ。草は美しい。美しいが、ここでは残酷だ。草が覆うのは、土ではなく、消された生活だ。


 私はそこで初めて、言葉を失った。


 言葉を失うのは、記憶が奪われるのと似ている。口が止まる。胸の穴が鳴る。鳴るだけで、何も出ない。泣けないかわりに、声も出ない。死者の沈黙は、便利で、最悪だ。


 草の間に、小さな白い花が咲いていた。


 まただ。


 戦場の縁でも、ここでも。

 白い花は、死の隣で平然と咲く。


 花の白は、霜の白とは違う。花の白は、柔らかいのに、刃物みたいに鋭い。触れたら切れる。切れるのは指ではなく、心だ。私は触れない。触れたら壊す。壊したら負ける。


 私は採録帳を開いた。


 骨鉛筆を握り、白い花の手前で、文字を置く。


「ここには村があった」


 書いた瞬間、草が一斉に揺れた気がした。

 風が吹いたのではない。揺れが、遅れてきた記憶みたいに、地面から立ち上がった。


 私は続けて書く。


「井戸があった」

「畑があった」

「冬の匂いがあった」


 書くたびに、地面がほんの少しだけ“騒ぐ”。騒ぐと言っても、音ではない。空気の粒が揺れる。光の筋が歪む。世界が、文字に反応する。文字は世界の骨だ。骨に触れば、肉が動く。


 次に私は、書けないものに手を伸ばした。


 村の人々の名。


 書きたい。書きたいが、ここにはもう名がない。名は消された。消された名は、私の中にも戻ってこない。


 なら、空白を書く。


 私は本文に書いた。


「この村の名は[ ]である」


 角括弧の中の空白が、ひとつの箱になる。

 箱になった空白は、風を拒む。胸の穴から通る風が一瞬止まった。止まって、私は初めて「温度」を思い出した。温度そのものではない。温度を求めた感情。求める心の形。


 余白に脚注を書く。


「[ ]は削られた。削られたことは事実である。削った者がいる」


 その瞬間。


 草の間の白い花の隣に、影が立った。


 小さな影。

 短い髪。

 裸足。


 あの子どもだ。


 私は息を呑むふりをした。息はないが、心が沈む。影の子どもは花に触れない。私と同じように、ただ見ている。その視線が、こちらを見た。


 そして、口が動いた。


 名前を呼んだ。


 呼んだのに、私は聞き取れなかった。

 音が耳に入る前に、私の中の何かがそれを拒んだ。拒むというより、そこが空白だった。空白が音を受け止められない。空白は耳にすらなる。


 私は、胸の穴が痛いのを感じた。

 穴が痛い、という矛盾が、今は真実だった。


 影の子どもは、悲しそうに笑った。

 笑いが美しすぎて、私は怪我をした。


 そして影は、土の上に小さな足跡を残した。


 足跡。


 確かに足跡が残った。湿ってもいない土に、軽いへこみ。存在の証拠。誰かがここに立ったという証拠。無人ではない。無人ではない、という反論が、土の上にできた。


 私は震えた。


 書いたからだ。


 書いたことで、影が足跡を持った。

 書いたことで、空白が形になった。

 書いたことで、世界がほんの少しだけ「嘘を拒んだ」。


 その瞬間、背中に冷たい視線が刺さった。


 編集官。


 黒い外套の影が、少し離れた草むらに立っていた。白紙の顔が、こちらを向いている。刃が光る。光り方が美しい。美しすぎて腹が立つ。悪意はもっと醜くあれ。頼むから。


 影が動く。

 刃が、足跡へ向かう。


 足跡を削る気だ。

 存在の証拠を、消す気だ。


 私は採録帳を抱え、骨鉛筆を余白に叩きつけるように走らせた。


 脚注を書く。

 縫うように書く。

 傷口を閉じるように書く。


「この足跡は、記録により固定された。固定された事実は削れない」

「削ろうとする行為そのものが、削った者の存在証明となる」


 言葉は刃だ。刃は刺す。

 私は余白に、針を落とすように言葉を刺した。


 すると、採録帳の縫い目が、霜のように光った。

 光が広がる。薄い膜が地面にまで伸びる。見えない網が張られる。網は静かだ。静かなものは強い。勝者が空白を好む理由が分かる。空白は静かで強い。だから私は、静かさをこちらのものにする。


 編集官の刃が、その網に触れた。


 きい、と音がした。

 氷を削る音。

 冬が怒る音。


 刃が足跡へ届かない。

 刃が空白に引っかかる。

 空白が刃を拒む。


 編集官の白紙の顔が、こちらを向いた。

 そこに表情はない。でも「不快」がある。空白の不快。空白が自分の外に輪郭を持ったことへの嫌悪。


 私の胸の穴が、ひゅう、と鳴った。

 今度の音は笛じゃない。笑いでもない。震えだ。怒りと恐怖の混じった震え。私はそれを恥じなかった。震えることは、生きている証拠だ。死んでいるのに、生きている証拠を持っているのが、私の武器だ。


 編集官は一歩退いた。


 退くとき、草が揺れた。

 草は何も知らない。何も知らないから美しい。美しさは無罪だ。無罪だから利用される。利用される前に残したい。残したいという欲望は、また私の胸を傷つける。傷つけながら、前に進ませる。


 影が薄くなる前に、私の頭の中に声が落ちた。


「空白を縫っても、いずれ君は空っぽになる」


 優しい声だった。

 優しさはいつも、最後に毒を置いていく。


 影が消えたあと、私は膝をついた。


 息は切れないのに、心が切れる。

 心が切れると、世界の音が遠くなる。

 遠くなる世界の中で、白い花だけが近い。


 私は花に触れない。

 代わりに、花の隣の足跡を見た。


 足跡は残っている。

 残っているだけで、泣きたくなる。


 泣けない。


 泣けないから、私は採録帳に指を置いた。

 指が紙を押す。押す力が強くなる。筆圧が上がる。涙がないぶん、圧で出る。私はそういう生き物になった。


 私は書いた。


「無人と書かれた場所に、足跡がある」

「名がなくても、足跡はある」

「足跡があるなら、誰かがいた」


 書き終えた瞬間、私の中から何かがまた一枚剥がれた。


 今度は、私が昔好きだったパンの匂いの細部だった。

 甘さの種類。焼き目の焦げ。手で割ったときの蒸気。


 全部、紙へ落ちたのか。

 それとも、落ちる前に壊れたのか。


 分からない。

 分からないことが増える。

 増えるほど、私は薄くなる。


 でも、足跡は残った。


 帰り道、川の上に朝日が乗っていた。

 水面が銀になる。銀が震える。震えが美しい。美しすぎて、胸の穴が痛い。痛いけれど、私は目を逸らさなかった。


 大年代記院に戻ると、ミラが採録帳の縫い目を見て、満足そうに鼻を鳴らした。


「縫い目、役に立ったじゃない」


「指、消えてません」


「それが何よりの成果」


 成果が指の本数なの、世界がどこまで行っても実務的で笑える。笑うと胸が鳴る。ひゅう。やめろ。今日はよく働く穴だ。


 私は自分の机に戻り、採録帳の最初のページを開いた。


 そして、今さらだけど、必要だと分かったことを書く。


 私自身の索引だ。


 私が誰で、何を失って、何をまだ持っていて、何をもう持てないか。

 失う前提で、失い方を設計する。

 忘れる前提で、忘れたことを証拠にする。


 私は紙に書いた。


「私の名:[ ]」

「胸の穴:ここ」

「泣けない:仕様」

「それでも書く:呼吸の代わり」


 名のところは空白にした。

 空白にした瞬間、心が少しだけ楽になった。

 名がなくても、足跡は残る。

 名がなくても、花は咲く。

 名がなくても、私が書いたという事実は残る。


 それは救いだった。

 同時に、恐ろしい自由だった。


 グレイヴが背後に立ち、静かに言った。


「君は変わった。怒りで書いていたのが、縫う手つきになった」


 私は返事をしなかった。

 返事をすると、また何かが剥がれそうだったからだ。


 ただ、採録帳の白を見て、思った。


 私が空っぽになる未来が来てもいい。

 空っぽの私が残るのではなく、残した頁が残るなら。


 それは、負けではない。


 負けた者が、勝つ方法だ。


 蝋の灯りが揺れ、窓の外で木が揺れた。

 葉の揺れが、森の揺れと同じだった。


 自然は、勝者にも敗者にも同じ美しさを配る。

 だからこそ、勝者はそれすら自分のものにしたがる。

 だからこそ、私は余白に針を落とす。


 次の針は、もっと深いところへ届く。


 採録帳の上に、グレイヴが新しい紙を置いた。

 表題だけが整いすぎた文字で書かれている。


「焼却予定史料 搬送記録」


 燃やす予定。

 燃やす、と書いてある。


 私の胸の穴に冷たい風が通った。

 風は、笑っていなかった。

 風は、仕事の匂いがした。


 次はーー、奪いに行く。


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