第5話 空白と胸の穴
骨鉛筆が紙を引っかく音は、雪を踏む音に似ていた。
きゅ、きゅ、という湿ったかすれ。尖っていないのに、胸の奥のどこかが傷つく。傷つく場所は肉じゃない。肉はもう黙っている。傷つくのは、私の中でまだ言葉になりきれていない部分――名前の手前、叫びの手前、祈りの手前にある、濡れた塊だ。
採録帳の白は深い。白というより、底のない静けさだ。
そこへ黒い線を落とすと、線は沈む。沈んで、見えなくなるのに、沈んだことだけが確かに残る。
「私たちは、負けた」
そう書いたはずの一行が、すでに紙の奥で眠っている。眠らせたのは私だ。眠らせた瞬間、胸の穴を通る風が少しだけ弱まった。まるで穴の縁に薄い膜が張られたみたいに。
救いだと思った。思ったのに。
その次の行を書こうとした指が、止まった。
負けた。
誰が。
どこで。
どんなふうに。
書ける。書けるはずだ。
私は見た。私はそこにいた。胸を貫かれた。死んだ。戻った。
戻ったということは、見たものが残っているということだ。
なのに、最初に出てくるのが、説明じゃなくて匂いだった。
焼けた髪の甘さ。脂の焦げ。湿った土。血の鉄。煙の渋み。
生きていた頃の私は、戦の匂いが嫌いだった。嫌いだったはずなのに、今それを思い出すと、胸がきしむ。胸は穴なのに、きしむ。穴の周りで、魂が歯ぎしりしているみたいに。
私は、笑いそうになる。
人間は、ここまで壊れても擬音を発明する。便利だ。擬音は、感情の逃げ道になる。
逃げ道を作っても、逃げられない。
骨鉛筆を握り直す。指が白い。血が通っていない白。紙と同じ白。似ているものは怖い。私が紙に似ていくのが、怖い。
窓の外で、木が揺れた。
王都の石の森の中に立つ、あの一本の木だ。街灯の光を受けて、葉が薄く光る。揺れは森の揺れと同じで、風が葉の一枚ずつを丁寧に撫でている。触れ方が美しすぎて、触れられた葉が切れてしまいそうだ。風は優しい顔をして、すぐ刃物になる。
私はその葉の揺れを見て、ふと、思う。
生きていた頃の私は、こんな揺れを見ていなかった。
見ていたのに、見ていなかった。
すぐ隣に美しさがあっても、私の目はいつも「次」を見ていた。次の命令、次の行軍、次の食事、次の眠り。次の恐怖。次の死。
今は、次がない。
正確には、次はある。永遠にある。いちばん嫌な形で。
だから、世界の美しさが遅れてくる。
遅れてきて、刺さる。
生きているときの美しさは、肌を撫でる。
死んでからの美しさは、骨を削る。
私は採録帳に視線を戻す。白がこちらを見ている。白には目がないのに、見られている。紙に見られるのは、居心地が悪い。紙は全部覚える。覚えることに同情がない。覚えることだけが正義だと思っている。紙は冷たい善人だ。
私は息を吸うふりをした。胸の穴が、ひゅう、と鳴った。
やめろ。今、泣く場面なんだぞ。笛を鳴らすな。空気にふざける余裕を与えるな。
私は書き始める。
戦場の位置、風向き、火の回り方。敵の旗。味方の靴底の減り。
そして――名前。
名前を書こうとした瞬間、紙の匂いが一段濃くなった。
ミラが言っていた。ページを破ると指が消える。
彼女はいつも冗談みたいに本当のことを言う。冗談の顔をした刃物は、よく切れる。
私は一つ目の名前を書く。
隊の副長。
笑い声が大きくて、酒に弱くて、なのに酒場にいるだけで場が温かくなる人だった。戦場では、その温かさがひどく頼もしかった。
名を紙に落とす。文字が沈む。
沈んだ瞬間、私の頭の中から「笑い声」が抜けた。
抜けた、と分かった。抜けた跡が、ひやりと空洞になった。笑い声の記憶はある。あるはずだ。なのに、音が再生できない。無音の映画みたいに、口が開いている映像だけが浮かぶ。
私は背筋が冷えた。
契約条項が、すっと蘇る。
汝の記憶は紙である。
……そういうことか。
私は記憶を紙に移している。
移したぶん、私の中から減る。
私が覚えていられないかわりに、紙が覚える。
守るために、手放す。
残すために、失う。
理屈は美しい。理屈はいつも美しい。
美しい理屈は、だいたい人間を殺す。
私は次の名前を書く。
幼い新兵。
指が細くて、武器が手に馴染まなくて、それでも毎晩、靴紐を結ぶのが丁寧だった。靴紐の結び目には、その人の祈りが出る。生きて帰りたい祈りと、恥をかきたくない祈りが、同じ指から出る。
名を書き終えた瞬間、新兵の靴紐の結び方が、私の中から消えた。
結び目が、思い出せない。
指の動きが再生できない。
私は採録帳を見つめた。
紙は何も言わない。
紙の沈黙は、いつも正しい。
怖い、と思った。
怖いのは、死者の身体じゃない。
胸の穴でもない。
怖いのは、自分が空っぽになっていく感覚だ。
私はこれから、失われたものを残すために、私自身を失う。
私は誰かの歴史を守るために、私の歴史を削っていく。
それはまるで、井戸の水を汲み上げるために、井戸そのものを掘り崩していくみたいだ。
井戸が干上がったら、どうなる。
私の中が空白になったら、私は何で書く。
何で怒る。何で愛する。何で恨む。
恨みが消えたら、私は何になる。
恨みだけが残ったら、私は何になる。
私は骨鉛筆を置いた。
置いた瞬間、部屋の静けさが重くなった。蝋の灯りが微かに揺れた。棚の背表紙が、一斉に小さく鳴った。紙が息を吸う音。紙の群れが、私の手を待っている。
私の胸の穴が、冷えた。
風が通る。
風が痛い。
痛いのに血が出ない。
私は、自分の胸に手を当てた。
当てても意味がないのに、当てた。意味がない動作ほど、たまに人を救う。救うという言葉は軽い。軽いけれど、今はそれしかない。
……泣けない。
泣けないという事実が、ここでようやく私を殴る。
目が乾いている。乾いた目は、悲しみの逃げ場を持てない。涙は排水だ。涙がないと、感情は詰まる。詰まった感情は腐る。腐ると臭う。私はもう臭うのが嫌だ。戦の匂いで、もう十分だ。
それでも、書かなければならない。
私は骨鉛筆をまた握る。
握った瞬間、指の関節が鳴った。ぎしり。古い家の音。私の身体が、私を笑う。
私は、自分の家族の名前を書く準備をする。
準備、という言葉が卑怯だ。
準備すれば書けるみたいじゃないか。
準備しても、書くのは痛い。
痛いものは、準備で無痛にならない。
母の名。
母の声。
母の匂い。
母の手の温度。
名を書いた。
沈んだ。
沈んだ瞬間、母の手の温度が消えた。
私の手のひらから、温かさの概念が抜けていく。
温かさが分からなくなる。
温かさが分からないまま、私は温かさを記録した。
言葉が、嘘になる。
言葉が、真実になる。
この矛盾が、喉に刺さる。
喉は乾いている。刺さったものが取れない。
私は次に、弟の名を書こうとした。
そこで、止まった。
弟の名が出てこない。
顔は浮かぶ。泥だらけの頬。笑ったときに片方だけ上がる口角。冬、鼻先が赤くなる癖。
それなのに――名だけが、ない。
名は記憶の錠前だ。
錠前がないと、記憶は開かない。
弟という存在が、目の前で霧になる。
私は採録帳を睨んだ。
睨んでも、紙は変わらない。
紙は何も奪わない。ただ受け取るだけだ。奪っているのは、私の側だ。自分で自分から抜いている。
私は、口を開いた。
「……名前、どこだよ」
声が震えていた。
震える声は、生きている声だ。
死者のくせに、生者みたいに震えるのが腹立たしい。
胸の穴が、ひゅう、と鳴った。
それが、今夜いちばん腹立たしかった。
私は立ち上がり、棚に手を伸ばす。
棚の本は、勝者の歴史だ。
勝者のページのどこかに、弟の名があるはずがない。
あるはずがないのに、私は探してしまう。
人間は、絶望の中で合理性を捨てる。
合理性を捨てるのは、弱さだと思っていた。
違う。合理性を捨てるのは、最後の抵抗だ。
世界が理屈で人を殺すなら、理屈を捨ててでも生きようとする。今の私は死んでいるのに、生きようとしている。
棚から一冊の古い記録を引き抜いた。
背表紙の文字が、冷たく光る。
その瞬間――
部屋の奥で、紙が擦れる音がした。
擦れるというより、削れる音。
消しゴムが紙をこする音。
石で文字を削る音。
雪を踏む音の逆、書く音の逆。
私は振り向いた。
外套の影が、部屋の隅に立っていた。
受付で感じた、あの黒い外套。
顔がない。顔のあるべき場所が、まっさらな紙の白になっている。
白が暗い。暗い白。見るだけで目が痛い。光を吸う白。
手には、小さな刃があった。
刃というより、削るための道具。
鉛筆削りの刃みたいに、単純で、無慈悲な形。
「……編集官」
言葉が勝手に出た。
影はうなずかない。
笑わない。
ただ、紙が擦れる音だけが返事になる。
私は採録帳のほうを見た。白いページ。沈んだ文字。
そこへ影が手を伸ばす。
触れたら怪我をする。
怪我をするのは私じゃない。
そこに沈んだ名前たちだ。
私は、息がないくせに、胸の穴から強く空気を吐き出した。
ひゅう、という音が、笛ではなく、獣の警告みたいに鳴った。
影の手が止まる。
そして、私の頭の中に、声が落ちてきた。
「痛みを消そう」
声は優しかった。
優しさは、いつだって危ない。
「君の苦しみは、君のせいではない。勝者が決めた。運が悪かった。だから、消そう。忘れよう。名前も、匂いも、温度も。全部。楽になる」
楽になる、という言葉が、毒みたいに甘い。
泣けない私は、楽になれない。
涙という排水がないぶん、感情が詰まって、詰まって、詰まって、呼吸のない胸の穴の縁にまで溜まっている。
溜まった感情は、重い。
重いものは、いつか崩れる。
忘れたら、崩れないかもしれない。
忘れたら、痛まないかもしれない。
私は、弟の名を思い出せない。
母の手の温度も消えた。
もう十分だろう、と、どこかの私が囁く。
その囁きが、悪魔だった。
外の木が、風に揺れた。
葉が擦れて、紙をめくる音に似た音を立てた。
自然の音が、ここでは紙の音に聞こえる。
世界が一つの巨大な本になって、ページを勝手にめくっていく。
私は、その音に、ふと、思う。
美しさは、消してしまえば楽になる。
美しさは、見なければ怪我をしない。
怪我をしないなら、生きていける。死んでいるのに。
でも。
戦場の縁の白い花。
触れなかった花。
触れずに触れた花。
あの花は、私が書いたことで、少しだけ強くなった。
存在の濃度が上がった。
あれは、私が世界に残した小さな抵抗だった。
痛みは、抵抗の証拠だ。
痛くない抵抗は、たぶん抵抗じゃない。
痛みのない歴史は、たぶん勝者の歴史だ。
私は採録帳の白を見た。
白が深い。
深い白の底で、名前が眠っている。
眠っているなら、起こしてやらないといけない。
影に向かって、私は言った。
「……消すな」
声は震えていた。
震えが、刃になる。
刃は、私の中から生まれた。
「消したら、あいつらが二度死ぬ」
影が、初めて動いた。
刃が、採録帳のページに触れた。
その瞬間、ページの白が、紙ではなく皮膚みたいに見えた。
削られるのは文字じゃない。存在だ。
名前が剥がされる。
匂いが剥がされる。
温度が剥がされる。
私は反射的に、胸の穴に手を突っ込んだ。
やめろ、と心が叫ぶ。
意味がない、と理屈が笑う。
それでも手を突っ込んで、私は胸の奥から骨札を引きずり出した。
仮登録の札。冷たい白。制度の白。
私はそれを、採録帳の上に叩きつけた。
札が触れたところから、紙の上に薄い膜が広がった。
膜は透明で、霜みたいに光った。
美しすぎて、目が痛い。
目が痛いのに、私は目を逸らさなかった。
削る刃が、膜に引っかかる。
きい、と音がした。
金属が氷を削る音。
冬が怒る音。
影がわずかに後ずさる。
後ずさり方が、まるで本の余白が狭まるみたいに、静かで、気味が悪い。
私は気づいた。
制度の札は、鎖でもあるが、盾にもなる。
勝者の道具は、勝者だけのものじゃない。
奪う側の道具を奪って、こちらの武器にするしかない。
それが敗者のやり方だ。卑怯で、正しい。
影の白い顔が、近づいた。
白が、私の胸の穴を見ている。
穴は覗くための窓だ。グレイヴが言った。
私は穴を使って覗く。
覗いた先に見えたのは、顔じゃなかった。
目でも鼻でも口でもない。
ページだった。
白紙。
無記名。
無臭。
無温度。
ああ、と私は思った。
これが悪魔の正体だ。
誰かの憎しみでも、誰かの刃でもない。
勝者の大声でもない。
ただの空白。
消されていく未来そのもの。
忘れられていく結末そのもの。
「いなかったことにする」力の、静かな顔。
空白は、世界でいちばん強い。
空白は、抵抗しない。
抵抗しないから、削れない。
削れないから、残る。
私は震えた。
震えは恐怖だった。
震えは怒りだった。
震えは――美しさのせいでもあった。
窓の外の木が揺れる。
葉の揺れは、どこまでも綺麗だ。
綺麗だからこそ、空白にされる前に残したいと思ってしまう。
この欲望が、私の呪いであり、私の救いだ。
影の刃が、もう一度、採録帳に触れようとする。
その刹那、部屋の扉が開いた。
紙の匂いが裂けるように入り込み、ミラの声が飛んだ。
「新人! 勝手に空白と踊らないで! 踊るなら相手選びなさい!」
最悪に的確な叱責だった。
その次に、グレイヴの声が落ち着いて響いた。
「刃を止めろ。ここは院内だ。規約違反だよ」
規約違反。
悪魔に規約で殴るの、強い。いや、強いのは規約だ。世界でいちばん強いのは、たぶん規約だ。
影は、紙が擦れる音を残して、すっと薄くなった。
霧が引くみたいに、余白が閉じるみたいに。
消える直前、私の頭の中に、もう一度、声が落ちてきた。
「いずれ君は、空白に疲れる」
優しい声だった。
優しいから、憎い。
影が消えたあとも、部屋はしばらく静かだった。
蝋の灯りが揺れ、紙の埃がゆっくり落ち、誰のものでもない時間が、紙の上に積もっていく。
私は採録帳を見下ろす。
削られかけたページの端が、わずかに白く傷ついていた。
傷は小さい。
小さいのに、胸の穴が痛い。
私は骨鉛筆を握ったまま、呟いた。
「……弟の名前、思い出せない」
ミラが眉を上げた。
グレイヴが一瞬だけ目を伏せた。
その沈黙が、答えだった。
思い出せないのは、私が弱いからじゃない。
戦が奪ったからでもない。
私が書いたからだ。
残すために、手放したからだ。
私は口の端を上げた。
笑いではない。笑いの形をした歯ぎしりだ。
「じゃあ、書くしかないな。思い出せないことも含めて」
書けないことを書く。
空白を、空白として残す。
それが負けた側の最後の抵抗だ。
私はページの余白に、小さく書いた。
「名が出てこない。出てこないまま、ここに穴が空いている」
文字が沈む。
沈んだ瞬間、胸の穴の風が、また少しだけ静かになった。
悪魔は外にいる。
悪魔は内にもいる。
空白は、いつでもこちらの隙を見ている。
それでも私は、震える手で書き続ける。
世界の美しさに怪我をしながら。
失う痛みで、まだ人間でいながら。




