表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白を縫う  作者: 那由多


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

第5話 空白と胸の穴

 骨鉛筆が紙を引っかく音は、雪を踏む音に似ていた。


 きゅ、きゅ、という湿ったかすれ。尖っていないのに、胸の奥のどこかが傷つく。傷つく場所は肉じゃない。肉はもう黙っている。傷つくのは、私の中でまだ言葉になりきれていない部分――名前の手前、叫びの手前、祈りの手前にある、濡れた塊だ。


 採録帳の白は深い。白というより、底のない静けさだ。

 そこへ黒い線を落とすと、線は沈む。沈んで、見えなくなるのに、沈んだことだけが確かに残る。


「私たちは、負けた」


 そう書いたはずの一行が、すでに紙の奥で眠っている。眠らせたのは私だ。眠らせた瞬間、胸の穴を通る風が少しだけ弱まった。まるで穴の縁に薄い膜が張られたみたいに。


 救いだと思った。思ったのに。


 その次の行を書こうとした指が、止まった。


 負けた。

 誰が。

 どこで。

 どんなふうに。


 書ける。書けるはずだ。

 私は見た。私はそこにいた。胸を貫かれた。死んだ。戻った。

 戻ったということは、見たものが残っているということだ。


 なのに、最初に出てくるのが、説明じゃなくて匂いだった。


 焼けた髪の甘さ。脂の焦げ。湿った土。血の鉄。煙の渋み。

 生きていた頃の私は、戦の匂いが嫌いだった。嫌いだったはずなのに、今それを思い出すと、胸がきしむ。胸は穴なのに、きしむ。穴の周りで、魂が歯ぎしりしているみたいに。


 私は、笑いそうになる。

 人間は、ここまで壊れても擬音を発明する。便利だ。擬音は、感情の逃げ道になる。


 逃げ道を作っても、逃げられない。


 骨鉛筆を握り直す。指が白い。血が通っていない白。紙と同じ白。似ているものは怖い。私が紙に似ていくのが、怖い。


 窓の外で、木が揺れた。


 王都の石の森の中に立つ、あの一本の木だ。街灯の光を受けて、葉が薄く光る。揺れは森の揺れと同じで、風が葉の一枚ずつを丁寧に撫でている。触れ方が美しすぎて、触れられた葉が切れてしまいそうだ。風は優しい顔をして、すぐ刃物になる。


 私はその葉の揺れを見て、ふと、思う。


 生きていた頃の私は、こんな揺れを見ていなかった。

 見ていたのに、見ていなかった。

 すぐ隣に美しさがあっても、私の目はいつも「次」を見ていた。次の命令、次の行軍、次の食事、次の眠り。次の恐怖。次の死。


 今は、次がない。

 正確には、次はある。永遠にある。いちばん嫌な形で。


 だから、世界の美しさが遅れてくる。


 遅れてきて、刺さる。


 生きているときの美しさは、肌を撫でる。

 死んでからの美しさは、骨を削る。


 私は採録帳に視線を戻す。白がこちらを見ている。白には目がないのに、見られている。紙に見られるのは、居心地が悪い。紙は全部覚える。覚えることに同情がない。覚えることだけが正義だと思っている。紙は冷たい善人だ。


 私は息を吸うふりをした。胸の穴が、ひゅう、と鳴った。

 やめろ。今、泣く場面なんだぞ。笛を鳴らすな。空気にふざける余裕を与えるな。


 私は書き始める。


 戦場の位置、風向き、火の回り方。敵の旗。味方の靴底の減り。

 そして――名前。


 名前を書こうとした瞬間、紙の匂いが一段濃くなった。


 ミラが言っていた。ページを破ると指が消える。

 彼女はいつも冗談みたいに本当のことを言う。冗談の顔をした刃物は、よく切れる。


 私は一つ目の名前を書く。


 隊の副長。

 笑い声が大きくて、酒に弱くて、なのに酒場にいるだけで場が温かくなる人だった。戦場では、その温かさがひどく頼もしかった。


 名を紙に落とす。文字が沈む。


 沈んだ瞬間、私の頭の中から「笑い声」が抜けた。


 抜けた、と分かった。抜けた跡が、ひやりと空洞になった。笑い声の記憶はある。あるはずだ。なのに、音が再生できない。無音の映画みたいに、口が開いている映像だけが浮かぶ。


 私は背筋が冷えた。


 契約条項が、すっと蘇る。


 汝の記憶は紙である。


 ……そういうことか。


 私は記憶を紙に移している。

 移したぶん、私の中から減る。

 私が覚えていられないかわりに、紙が覚える。


 守るために、手放す。

 残すために、失う。


 理屈は美しい。理屈はいつも美しい。

 美しい理屈は、だいたい人間を殺す。


 私は次の名前を書く。


 幼い新兵。

 指が細くて、武器が手に馴染まなくて、それでも毎晩、靴紐を結ぶのが丁寧だった。靴紐の結び目には、その人の祈りが出る。生きて帰りたい祈りと、恥をかきたくない祈りが、同じ指から出る。


 名を書き終えた瞬間、新兵の靴紐の結び方が、私の中から消えた。


 結び目が、思い出せない。

 指の動きが再生できない。


 私は採録帳を見つめた。

 紙は何も言わない。

 紙の沈黙は、いつも正しい。


 怖い、と思った。


 怖いのは、死者の身体じゃない。

 胸の穴でもない。

 怖いのは、自分が空っぽになっていく感覚だ。


 私はこれから、失われたものを残すために、私自身を失う。

 私は誰かの歴史を守るために、私の歴史を削っていく。

 それはまるで、井戸の水を汲み上げるために、井戸そのものを掘り崩していくみたいだ。


 井戸が干上がったら、どうなる。

 私の中が空白になったら、私は何で書く。

 何で怒る。何で愛する。何で恨む。


 恨みが消えたら、私は何になる。

 恨みだけが残ったら、私は何になる。


 私は骨鉛筆を置いた。


 置いた瞬間、部屋の静けさが重くなった。蝋の灯りが微かに揺れた。棚の背表紙が、一斉に小さく鳴った。紙が息を吸う音。紙の群れが、私の手を待っている。


 私の胸の穴が、冷えた。


 風が通る。

 風が痛い。

 痛いのに血が出ない。


 私は、自分の胸に手を当てた。

 当てても意味がないのに、当てた。意味がない動作ほど、たまに人を救う。救うという言葉は軽い。軽いけれど、今はそれしかない。


 ……泣けない。


 泣けないという事実が、ここでようやく私を殴る。

 目が乾いている。乾いた目は、悲しみの逃げ場を持てない。涙は排水だ。涙がないと、感情は詰まる。詰まった感情は腐る。腐ると臭う。私はもう臭うのが嫌だ。戦の匂いで、もう十分だ。


 それでも、書かなければならない。


 私は骨鉛筆をまた握る。

 握った瞬間、指の関節が鳴った。ぎしり。古い家の音。私の身体が、私を笑う。


 私は、自分の家族の名前を書く準備をする。


 準備、という言葉が卑怯だ。

 準備すれば書けるみたいじゃないか。

 準備しても、書くのは痛い。

 痛いものは、準備で無痛にならない。


 母の名。


 母の声。

 母の匂い。

 母の手の温度。


 名を書いた。


 沈んだ。


 沈んだ瞬間、母の手の温度が消えた。


 私の手のひらから、温かさの概念が抜けていく。

 温かさが分からなくなる。

 温かさが分からないまま、私は温かさを記録した。


 言葉が、嘘になる。

 言葉が、真実になる。


 この矛盾が、喉に刺さる。

 喉は乾いている。刺さったものが取れない。


 私は次に、弟の名を書こうとした。


 そこで、止まった。


 弟の名が出てこない。


 顔は浮かぶ。泥だらけの頬。笑ったときに片方だけ上がる口角。冬、鼻先が赤くなる癖。

 それなのに――名だけが、ない。


 名は記憶の錠前だ。

 錠前がないと、記憶は開かない。

 弟という存在が、目の前で霧になる。


 私は採録帳を睨んだ。


 睨んでも、紙は変わらない。

 紙は何も奪わない。ただ受け取るだけだ。奪っているのは、私の側だ。自分で自分から抜いている。


 私は、口を開いた。


「……名前、どこだよ」


 声が震えていた。

 震える声は、生きている声だ。

 死者のくせに、生者みたいに震えるのが腹立たしい。


 胸の穴が、ひゅう、と鳴った。

 それが、今夜いちばん腹立たしかった。


 私は立ち上がり、棚に手を伸ばす。

 棚の本は、勝者の歴史だ。

 勝者のページのどこかに、弟の名があるはずがない。

 あるはずがないのに、私は探してしまう。


 人間は、絶望の中で合理性を捨てる。

 合理性を捨てるのは、弱さだと思っていた。

 違う。合理性を捨てるのは、最後の抵抗だ。

 世界が理屈で人を殺すなら、理屈を捨ててでも生きようとする。今の私は死んでいるのに、生きようとしている。


 棚から一冊の古い記録を引き抜いた。

 背表紙の文字が、冷たく光る。


 その瞬間――


 部屋の奥で、紙が擦れる音がした。


 擦れるというより、削れる音。


 消しゴムが紙をこする音。

 石で文字を削る音。

 雪を踏む音の逆、書く音の逆。


 私は振り向いた。


 外套の影が、部屋の隅に立っていた。

 受付で感じた、あの黒い外套。

 顔がない。顔のあるべき場所が、まっさらな紙の白になっている。

 白が暗い。暗い白。見るだけで目が痛い。光を吸う白。


 手には、小さな刃があった。

 刃というより、削るための道具。

 鉛筆削りの刃みたいに、単純で、無慈悲な形。


「……編集官」


 言葉が勝手に出た。


 影はうなずかない。

 笑わない。

 ただ、紙が擦れる音だけが返事になる。


 私は採録帳のほうを見た。白いページ。沈んだ文字。

 そこへ影が手を伸ばす。


 触れたら怪我をする。


 怪我をするのは私じゃない。

 そこに沈んだ名前たちだ。


 私は、息がないくせに、胸の穴から強く空気を吐き出した。

 ひゅう、という音が、笛ではなく、獣の警告みたいに鳴った。


 影の手が止まる。


 そして、私の頭の中に、声が落ちてきた。


「痛みを消そう」


 声は優しかった。

 優しさは、いつだって危ない。


「君の苦しみは、君のせいではない。勝者が決めた。運が悪かった。だから、消そう。忘れよう。名前も、匂いも、温度も。全部。楽になる」


 楽になる、という言葉が、毒みたいに甘い。


 泣けない私は、楽になれない。

 涙という排水がないぶん、感情が詰まって、詰まって、詰まって、呼吸のない胸の穴の縁にまで溜まっている。

 溜まった感情は、重い。

 重いものは、いつか崩れる。


 忘れたら、崩れないかもしれない。

 忘れたら、痛まないかもしれない。


 私は、弟の名を思い出せない。

 母の手の温度も消えた。

 もう十分だろう、と、どこかの私が囁く。


 その囁きが、悪魔だった。


 外の木が、風に揺れた。

 葉が擦れて、紙をめくる音に似た音を立てた。

 自然の音が、ここでは紙の音に聞こえる。

 世界が一つの巨大な本になって、ページを勝手にめくっていく。


 私は、その音に、ふと、思う。


 美しさは、消してしまえば楽になる。

 美しさは、見なければ怪我をしない。

 怪我をしないなら、生きていける。死んでいるのに。


 でも。


 戦場の縁の白い花。

 触れなかった花。

 触れずに触れた花。


 あの花は、私が書いたことで、少しだけ強くなった。

 存在の濃度が上がった。

 あれは、私が世界に残した小さな抵抗だった。


 痛みは、抵抗の証拠だ。


 痛くない抵抗は、たぶん抵抗じゃない。

 痛みのない歴史は、たぶん勝者の歴史だ。


 私は採録帳の白を見た。

 白が深い。

 深い白の底で、名前が眠っている。

 眠っているなら、起こしてやらないといけない。


 影に向かって、私は言った。


「……消すな」


 声は震えていた。

 震えが、刃になる。

 刃は、私の中から生まれた。


「消したら、あいつらが二度死ぬ」


 影が、初めて動いた。


 刃が、採録帳のページに触れた。


 その瞬間、ページの白が、紙ではなく皮膚みたいに見えた。

 削られるのは文字じゃない。存在だ。

 名前が剥がされる。

 匂いが剥がされる。

 温度が剥がされる。


 私は反射的に、胸の穴に手を突っ込んだ。

 やめろ、と心が叫ぶ。

 意味がない、と理屈が笑う。


 それでも手を突っ込んで、私は胸の奥から骨札を引きずり出した。

 仮登録の札。冷たい白。制度の白。


 私はそれを、採録帳の上に叩きつけた。


 札が触れたところから、紙の上に薄い膜が広がった。

 膜は透明で、霜みたいに光った。

 美しすぎて、目が痛い。

 目が痛いのに、私は目を逸らさなかった。


 削る刃が、膜に引っかかる。


 きい、と音がした。

 金属が氷を削る音。

 冬が怒る音。


 影がわずかに後ずさる。

 後ずさり方が、まるで本の余白が狭まるみたいに、静かで、気味が悪い。


 私は気づいた。


 制度の札は、鎖でもあるが、盾にもなる。

 勝者の道具は、勝者だけのものじゃない。

 奪う側の道具を奪って、こちらの武器にするしかない。

 それが敗者のやり方だ。卑怯で、正しい。


 影の白い顔が、近づいた。

 白が、私の胸の穴を見ている。

 穴は覗くための窓だ。グレイヴが言った。


 私は穴を使って覗く。


 覗いた先に見えたのは、顔じゃなかった。

 目でも鼻でも口でもない。


 ページだった。


 白紙。

 無記名。

 無臭。

 無温度。


 ああ、と私は思った。


 これが悪魔の正体だ。


 誰かの憎しみでも、誰かの刃でもない。

 勝者の大声でもない。


 ただの空白。


 消されていく未来そのもの。

 忘れられていく結末そのもの。

「いなかったことにする」力の、静かな顔。


 空白は、世界でいちばん強い。

 空白は、抵抗しない。

 抵抗しないから、削れない。

 削れないから、残る。


 私は震えた。

 震えは恐怖だった。

 震えは怒りだった。

 震えは――美しさのせいでもあった。


 窓の外の木が揺れる。

 葉の揺れは、どこまでも綺麗だ。

 綺麗だからこそ、空白にされる前に残したいと思ってしまう。


 この欲望が、私の呪いであり、私の救いだ。


 影の刃が、もう一度、採録帳に触れようとする。


 その刹那、部屋の扉が開いた。


 紙の匂いが裂けるように入り込み、ミラの声が飛んだ。


「新人! 勝手に空白と踊らないで! 踊るなら相手選びなさい!」


 最悪に的確な叱責だった。


 その次に、グレイヴの声が落ち着いて響いた。


「刃を止めろ。ここは院内だ。規約違反だよ」


 規約違反。

 悪魔に規約で殴るの、強い。いや、強いのは規約だ。世界でいちばん強いのは、たぶん規約だ。


 影は、紙が擦れる音を残して、すっと薄くなった。

 霧が引くみたいに、余白が閉じるみたいに。


 消える直前、私の頭の中に、もう一度、声が落ちてきた。


「いずれ君は、空白に疲れる」


 優しい声だった。

 優しいから、憎い。


 影が消えたあとも、部屋はしばらく静かだった。

 蝋の灯りが揺れ、紙の埃がゆっくり落ち、誰のものでもない時間が、紙の上に積もっていく。


 私は採録帳を見下ろす。


 削られかけたページの端が、わずかに白く傷ついていた。

 傷は小さい。

 小さいのに、胸の穴が痛い。


 私は骨鉛筆を握ったまま、呟いた。


「……弟の名前、思い出せない」


 ミラが眉を上げた。

 グレイヴが一瞬だけ目を伏せた。


 その沈黙が、答えだった。


 思い出せないのは、私が弱いからじゃない。

 戦が奪ったからでもない。

 私が書いたからだ。

 残すために、手放したからだ。


 私は口の端を上げた。

 笑いではない。笑いの形をした歯ぎしりだ。


「じゃあ、書くしかないな。思い出せないことも含めて」


 書けないことを書く。

 空白を、空白として残す。

 それが負けた側の最後の抵抗だ。


 私はページの余白に、小さく書いた。


「名が出てこない。出てこないまま、ここに穴が空いている」


 文字が沈む。

 沈んだ瞬間、胸の穴の風が、また少しだけ静かになった。


 悪魔は外にいる。

 悪魔は内にもいる。

 空白は、いつでもこちらの隙を見ている。


 それでも私は、震える手で書き続ける。


 世界の美しさに怪我をしながら。

 失う痛みで、まだ人間でいながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ