第4話 筆を取る
王都の夜は、意外と湿っていた。
石畳が昼の熱を抱いたまま冷えきれず、そこへ川霧みたいな水気が降りてくる。灯りの輪郭がぼやけ、看板の文字がにじむ。にじんだ文字は、まるで街そのものが泣いているみたいで——いや、泣くならちゃんと泣け。こっちは泣けない仕様なんだぞ。配慮が足りない。
私は石畳を踏む。踏むたびに、足裏から音が立たない。死者の足音は軽すぎて、たまに自分が盗人みたいに思えてくる。盗んでいるのは、たぶん時間だ。人が一つずつ失っていくものを、私は強制的に延長されている。
通りには、まだ人がいる。
酒場から笑い声。屋台から脂の匂い。パンを焼く甘い匂い。人の生活の匂いが、私の胸の穴を容赦なく通り抜ける。匂いが胸を通るってなんだ。胸が換気口か。便利そうで嫌だ。
それでも、匂いは美しい。
美しすぎて怪我をするタイプの美しさだ。刃物みたいに整った美しさじゃない。もっと乱暴で、もっと正直な美しさ。汗と油と煙と香草が混ざって、誰のものでもない夜の匂いになる。生きていることの匂いだ。
私はその匂いの中で、ふと、自然の匂いを嗅いだ。
ほんの少し、苔の匂い。
石畳の隙間に、緑が住んでいる。街は征服されるのが得意だが、自然は占領されるのが下手だ。だからいつも、見えない場所で勝っている。苔は勝ち方が静かで、勝った顔をしない。そこが腹立たしいほど美しい。
私は屈んで、その苔を見た。
月明かりが濡れた石に反射し、苔の粒がきらきらしている。森の霜と同じだ。触れたら指が切れそうな透明さがある。生きていた頃なら、苔なんて「滑る」「汚れる」くらいの扱いだった。死んだら、苔が宝石になる。世界の価値がひっくり返る瞬間は、だいたい静かだ。
触れない。触れたら壊す。壊したら終わってしまう。
私は立ち上がり、胸の穴から月を覗いた。
胸を通して見る月は、不思議なほど遠かった。遠いのに、心に近い。穴があると、世界は穴越しに見える。穴越しの世界は、全部が少しだけ神秘になる。神秘は便利だが、胃に悪い。
歩く。
大年代記院は、匂いで分かった。
紙とインクの匂いは、森より濃い。森は生の匂いの集合だが、あそこは“残す”匂いの集合だ。乾いた繊維と樹脂と鉄。蝋封の甘さ。古い本の埃が、雪みたいに空気に浮いている気配。私は呼吸しないくせに、その匂いに引き寄せられる。死体が紙の匂いに釣られるのは、絵面が最悪だ。だが、私は最悪を受け入れる訓練をしている。
やがて道が開け、建物が現れた。
城じゃない。寺院でもない。どちらにも似ているが、どちらでもない。
石造りの巨大な箱が、夜空に刺さっている。壁面には文字が刻まれている。装飾ではない。文章だ。文章が壁になっている。文字列が石に固定されて、建築になっている。勝者の歴史が、物理的にここを支えている。歴史が建物を支える。比喩じゃない。こういう世界だ。
私は一歩近づき、文字の壁を見上げる。
刻まれた字が、霜みたいに光っている。美しい。整いすぎていて怖い。触れたら怪我をする。怪我は指先ではなく、記憶のほうが切れるやつだ。
入口には看板があった。
「大年代記院 記録者受付」
受付。ああ、受付。
神が私に与えた永遠の呪いの、最初の門が受付であることを、私は忘れない。世界はたまに、そういう小さな悪意を混ぜてくる。運命の物語の入り口が、役所なのは笑っていい。笑うしかない。
中に入ると、空気が変わった。
音が吸われる。人の足音が、紙に包まれて消えていく。灯りは暖色なのに冷たい。火ではなく、蝋だ。蝋の光は、熱を持たない優しさのふりをする。ふりが上手い。
長いホールの奥に、机が並び、行列ができていた。
行列の人々は、指先に黒い染みを持っている。爪の中にインク。袖の端に蝋。目の下に寝不足。これは書く人の顔だ。世界のどこでも、書く人は同じ顔をする。勝者だろうが敗者だろうが、書くと目の下が沈む。公平だ。
私は列に並ぶ。
列の人が、ちらちらと私を見る。見るのは構わない。私は胸に穴がある。見るなというほうが無理だ。むしろ見ろ。ここが入口だ。見て現実を受け入れろ。胸の穴を通して向こう側の棚が見えるのを受け入れろ。
「次の方」
受付の声がする。若い女性の声だ。よく通る。紙に負けない声。紙に勝つ声は、だいたい強い。
机の向こうには、眼鏡をかけた事務官がいた。インク染みのない手。きれいな爪。勝者の歴史は、こういう手に守られている。手は暴力を振るわない。書類で殺す。
「登録札を」
私は胸の穴から引き抜いた骨札を差し出す。
事務官は札を見るなり、一瞬、瞬きを止めた。目の奥で、何かが計算される。死者を見る目は、恐怖と嫌悪と、ほんの少しの羨望が混ざる。羨望だけは余計だ。こっちも羨ましくない。
「……仮登録ですね。種別は」
「死者です」
即答した。こういうのは即答したほうがいい。迷うと面倒な種類の質問だ。
事務官は紙束を引き出しから出し、私の前に置いた。紙の音が、やけに綺麗だった。紙はいつも綺麗な音をする。燃えるときだけ、裏切る音になる。
「こちら、申請書一式になります。該当項目に記入を」
紙束の最初のページを見て、私は笑いをこらえるのに失敗した。
「生存状況:生存/死亡/どちらでもない」
どちらでもない。助かる。助かるという言葉を使うな。私は助かってない。だが、選択肢があるのは助かる。
私は迷わず「どちらでもない」に丸をつけた。丸をつけた瞬間、紙が少しだけ息をした気がした。紙が喜んでいる。紙も性格が悪い。
「死因:切創/刺創/圧死/焼死/不詳」
私は「刺創」に丸をつけた。槍で貫かれている。刺創でいい。貫通創という項目がないのは、役所が現実に追いついていない証拠だ。
「遺体の状態:完全/欠損/未回収/その他」
私は胸の穴を指さしてから、ペンを持っていないことに気づいた。
「ペン、借りてもいいですか」
事務官は黙ってペンを差し出した。私は受け取ろうとして、指が乾きすぎていることに気づく。滑る。握れない。死体の指先は、妙に紙に優しくない。優しくないというか、摩擦がない。人生に必要なのは摩擦だという説が、ここで急に強くなる。摩擦がないとペンが持てない。学びだ。
私はペンを落とした。
机に当たって、からん、と音が鳴った。ホールの静けさの中で、その音だけが大げさに響く。周囲の視線が刺さる。刺さるって便利だな。私は刺され慣れている。
「すみません、手が……死んでて」
言い訳が過去最悪の部類だった。
事務官の口角が、わずかに動いた。笑っているのか、引いているのか、その境界線が分からない。王都の人間は表情の管理が上手い。勝者は顔も編集する。
「指で結構です」
「指で?」
「血痕は不可です」
先に釘を刺された。血痕。私は血を出せないのに、血痕扱いだけはされる。便利だなこの世界、嫌なところだけ丁寧だ。
私は指先で丸をつけ、簡単な文字を書いた。指で書く文字は、妙に柔らかい。ペンより正直だ。指は嘘が下手だ。だから危ない。
次の項目で、私は完全に笑ってしまった。
「趣味:読書/散歩/園芸/その他」
死体に趣味を聞くな。いや、死体にも趣味はある。あるけど今じゃない。今は呪いの説明をしてほしい。
「散歩に丸つけときますね。今まさに散歩してるので」
事務官が初めて目を上げた。私の胸の穴を一瞥し、視線を戻す。その視線の速さが、都会の礼儀だった。穴は見てはいけないものではない。長く見てはいけないものだ。
「記録者の配属希望は」
「希望とかあるんですか」
「あります。希望どおりになるとは限りませんが」
希望に期待するな、という世界の教訓が、ここでも丁寧に再確認された。
私は少し考えた。復讐。真実。脚注。花。森。女の子の影。全部が頭の中でぶつかる。
「……現場に出る部署を」
事務官は頷き、紙束をめくった。紙の音が綺麗すぎて、怪我をした。怪我って便利だな。美しさに対して怪我をする体質になっている。死んだせいで。
「では、こちらに署名を」
署名。名。固定される。嫌だ。でも必要だ。
私は名を書いた。自分の名を紙に落とすと、紙がそれを噛んで飲み込む感じがした。文字が沈む。私の名が、王都の制度に吸い取られる。
その瞬間。
胸の穴が、ひやりと裂けるように冷たくなった。
背中に、視線。
私は振り返る。
ホールの奥、棚の影。そこに、黒い外套の人影があった。外套の縁が、切り取った夜みたいに真っ黒だ。顔は見えない。だが、見られているのが分かる。目ではない。消しゴムの粉みたいな意志で見られている。
私は目を細めた。あれが、勝者側の編集官か。歴史を削る手の持ち主か。
「次の方」
事務官の声が、私を現実に引き戻した。
私は紙束をまとめて差し出す。差し出した瞬間、事務官の手が止まった。
「……その、胸の……」
言い淀む。王都の礼儀が崩れる瞬間は珍しい。
「穴です」
「ええ。穴が……その、風が……」
私は気づいた。胸の穴から、かすかに音が漏れている。笛みたいに。風が通るたびに、ひゅう、と鳴る。静かなホールで、死体の胸が笛になる。やめろ。やめてくれ。面白いだろ。面白いが。
「すみません、これ、私の仕様で」
「仕様……」
事務官がため息をつきかけた、その瞬間。
紙の匂いが一段濃くなった。
背後から、乾いた足音。いや、足音がないのに“来た”と分かる気配。ページをめくるような気配。蝋を割るような気配。
「その新人、私が引き取る」
声がした。
低い。乾いている。なのに、言葉の端が妙に丁寧だ。丁寧さが、刃物みたいに研がれている。
私は振り向く。
そこにいたのは、人だった。人の形をしている。だが、生きている匂いがしない。汗がない。呼気がない。代わりに、古い紙の匂いと、金属の匂いがする。長い外套。白い手袋。指が細い。美しい手だ。美しすぎて怪我をする手。書くための手。
顔は……笑っていた。笑い方が“受付の地獄”に慣れすぎている。
「司書長代理、グレイヴです。君は?」
「……仮登録です」
「知っている。胸が穴だらけだ」
言い方がひどい。穴だらけではない。穴は一つだ。だが、訂正する気力はなかった。
グレイヴは私の提出書類を一瞥した。一瞥で全部読む。読む速度が嫌だ。文字を食べる生き物みたいだ。
「趣味、散歩?」
「今してたので」
「正しい。死者は歩く。生者は忙しい」
名言っぽく言うな。妙にそれっぽいから腹が立つ。
グレイヴは事務官に向き直り、さらりと言った。
「この新人は現場配属。死者枠。記録干渉の疑いあり。上に通しておいて」
事務官が固まる。
「記録干渉……?」
私は胸の穴を押さえたくなった。押さえても意味はないが。
グレイヴは私の反応を見て、少しだけ笑った。
「君、書いたね。森で。白い花」
背筋が冷たくなる。知られている。見られていた。あるいは、文字がここまで届いたのか。歴史は遠くまで染みる。インクみたいに。
「……誰に聞いたんですか」
「紙に」
グレイヴは平然と言った。冗談みたいな真顔で。
「紙は全部知っている。君もそのうち分かる。怖いことにね」
怖いことにね、の言い方が軽い。軽すぎて逆に怖い。怖さを笑いで薄める人間の癖が、不死者にも残っている。救いなのか呪いなのか分からない。
グレイヴは私に近づき、胸の穴を覗き込んだ。礼儀の範囲を超えている。だが、彼は礼儀より実務の人間だ。
「いい穴だ」
「褒めてます?」
「道具としてね。君はこれから、穴を使って覗く。覗いて、拾う。拾って、書く。勝者が削る前に」
穴が道具扱いされた。私の身体がますます筆になる。私は自分が文房具になっていく気がした。文房具が嫌いなわけじゃない。ただ、文房具は基本、捨てられる。
グレイヴは外套の内側から、小さな布袋を取り出した。中から出てきたのは、黒い棒だ。
「これを使え。骨鉛筆」
「骨……?」
「骨だよ。君のではない。君はまだ削るには早い」
言い方が最悪なのに、真顔だ。私は笑っていいのか泣いていいのか分からず、口の端だけが上がった。泣けないので、笑いが代替になる。悲しみの代用品としてのユーモア。人間らしい。死んでも人間らしいのが腹立たしい。
グレイヴは続ける。
「インクは公費で出るが、血は出ない。出ない血を出そうとするな。新人が最初にやる自傷は、だいたい見ていて気まずい」
「自傷する予定は……」
「予定はなくてもやる。人はだいたいそう」
決めつけが鋭い。鋭すぎて怪我をした。彼の言葉は刃物だ。だからメンターに向いている。嫌だ。
グレイヴは私を促し、受付ホールの脇の通路へ歩き出す。通路は長い。壁には棚が続く。棚の背表紙が波みたいに並ぶ。文字の海。息がないのに溺れそうになる。
棚の隙間から、月光が細い刃として差し込んでいる。埃が舞って、光の中で踊る。埃の踊りが美しい。美しすぎて怪我をする。埃で怪我をする時代に入った。死後の世界は繊細すぎる。
「現場配属、って何をするんです」
私は歩きながら聞いた。聞かないと怖い。怖いものは説明すると少し軽くなる。説明は魔法だ。
グレイヴは背中越しに答える。
「聞き取り。採録。証言の固定。焼かれる前の紙を拾う。燃やされる前の声を拾う。君は敗者の糸を拾いたいんだろう?」
私は黙った。黙ると胸の穴が鳴る。ひゅう。やめろ。今、真面目な場面だ。
グレイヴは少しだけ歩みを緩めた。
「忠告だ。君の筆は強い。強すぎる。文字が現実を補強するのは知ったね」
「……はい」
「補強は、時に骨折を治す。時に骨折を作る。勝者はそれを知っている。だから削る。だから焼く。君が書けば、幽霊が増える」
「幽霊」
言葉が喉の奥で引っかかった。戦場で見た影。花のそばの女の子。あれは……。
「記録された声は、居場所を得る。居場所を得た声は、歩き出す。歩き出したものは、時に恨む。時に守る。君は選べない。書いた瞬間に、生まれる」
グレイヴはそこで立ち止まり、扉を開けた。
部屋の中は、紙の森だった。
机が並び、棚が並び、紙束が積まれている。天井から吊るされた灯りが、蝋の色で揺れる。揺れが柔らかすぎて、逆に怖い。ここは夢の部屋だ。文字に溺れる人間が見る夢。
部屋の中央に、もう一人いた。
古い衣装を着た、背の低い女性。髪は銀。目は黒。指先はインクで染まっている。手つきが美しい。美しさが危ない。触ったら怪我をするやつだ。
彼女は私を見るなり、にやりと笑った。
「穴あき?」
初手がそれか。
グレイヴが肩をすくめる。
「紹介しよう。羊皮紙の魔女、ミラ。ここでは“紙の生成”と“呪いの縫合”担当だ」
ミラは私の胸の穴を見て、まるで布のほつれを見るような目をした。職人の目だ。つまり私は布だ。だんだん人間をやめてきた。
「穴は塞がないの?」
「塞がるなら塞いでます」
「塞がらないなら、飾りね。素敵」
誉めているのか分からない誉め言葉を、魔女は平然と投げる。私はもう少し傷ついていいはずなのに、笑ってしまった。なぜなら、彼女の言い方が悪気のない残酷さで、それが妙に救いだったからだ。世界の残酷さは、悪意があると耐え難い。悪意がないと、少しだけ耐えられる。
ミラは棚から一冊の帳面を引き抜き、私の前に置いた。
表紙は、白い。白すぎる。骨の白だ。紙の白だ。雪の白だ。触れたら怪我をする白。
「採録帳。君の現場用。ページを破ると、君の指が一本くらい消えるから気をつけて」
「脅しですか」
「注意喚起」
言葉の選び方が上手い。役所の人間と違って、命の重さを知っているタイプの事務だ。嫌いじゃない。怖いけど。
グレイヴが私の肩に手を置いた。手袋越しに冷たい。冷たいのに、落ち着く。紙が冷たいのと同じだ。紙は体温を奪う。奪う代わりに残す。残す代わりに縛る。
「君の最初の課題は簡単だ」
グレイヴは淡々と言う。
「君自身の敗戦を、書け。戦場で何が失われたか。何が残ったか。誰がいたか。誰がいなかったか。名前をできるだけ残せ。勝者に消される前に」
私の胸の穴が、ひやりと鳴った。
簡単ではない。簡単なはずがない。
ミラが肩をすくめる。
「簡単よ。痛いだけ」
痛いだけ、って言うな。痛いが一番難しい。
私は採録帳の白を見つめた。白は深い。白は底なしだ。そこへ言葉を落とす。言葉は沈む。沈んで、世界の骨になる。
私は骨鉛筆を握った。今度は握れた。骨は滑らない。骨は死者に優しい。嫌な親切だ。
そして私は、書き出そうとして、ふと、窓の外を見た。
窓の外の夜空に、月がある。雲が薄く流れ、月の輪郭がぼやけ、街の灯りが下から揺れている。その間に、一本の木が見えた。石の街の中に、一本だけ立っている木。枝先が風に揺れて、葉が音を立てる。
その葉の揺れが、森の揺れと同じだった。
勝者の都にも、自然は住む。
敗者の記憶にも、自然は残る。
戦場の灰の隣にも、花は咲く。
美しさは許可を取らない。
だからこそ、奪われる前に残さないといけない。
私はページに、最初の一行を書いた。
「私たちは、負けた」
文字が沈んだ。
沈んだ瞬間、胸の穴の風が少しだけ静かになった。
グレイヴが、ほとんど聞こえない声で笑った。
「ようこそ。書く側へ」
その笑いの奥に、古い疲れがあった。永遠の疲れ。紙で拭えない疲れ。
そして私は気づく。
受付ホールで感じた視線——黒い外套の影——が、この部屋の外にもいる。
私が最初の一行を書いた瞬間に、世界のどこかで誰かが消しゴムを握った。
次は、悪魔の番だ。




