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空白を縫う  作者: 那由多


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第3話 紙の森と石の門

 森の境目は、線で引いたみたいに露骨だった。


 こちら側は、灰と鉄と、誰かの最後の息の匂い。

 あちら側は、苔と水と、まだ言葉になる前の匂い。


 戦場は「終わり」の匂いがする。森は「途中」の匂いがする。途中の匂い、なんだそれと思うけれど、本当にそうなのだ。途中は生き物がいちばん忙しい。忙しいから、匂いが濃い。葉の裏の青、樹皮の渋、腐葉土の甘さ、目に見えない菌の生活。森は、目に見えないものの集合住宅で、その共同体の湯気が漂っている。


 一歩踏み込むと、音が変わった。


 風が木の枝を撫でる音は、薄い紙をめくるみたいで、葉が擦れる音は、誰かが笑いながら秘密を隠すみたいだった。鳥がいる。遠い。鳴き声が尖っていない。戦場の叫びが、鋭い刃物だったのに対して、森の声は、よく研いだガラスだ。


 触ったら切れる。

 でも、見ているだけで泣ける。


 死んでからの世界は、そういうタイプの美しさを平然と出してくる。生きているときに出せ。いや、出してたのか。私が見ていなかっただけか。


 足元に霜が残っている。薄い膜のような白。踏むと、ぱり、と割れるはずなのに、私の足はほとんど音を立てない。死者は体重が軽いのか、それとも罪だけが重いのか。どっちも嫌だ。


 木々の間に、昨日の蜘蛛の糸が張っていた。朝の光が引っかかって、糸が銀に見える。銀というより、光の骨だ。骨は美しい。骨は真実だ。私の胸の穴も、たぶん、真実の一部なのだろう。やめてほしい。


 私は息を止める癖で息を止める。息がないのに止める。止めると、匂いがより鮮明になる気がした。これは気のせいではない。鼻の奥の“生きていた頃の習慣”が、まだ働いている。人間の習慣は、死んでもしつこい。良いところでもある。悪いところでもある。


 森の入り口に咲いていた白い花が、まだ揺れている。


 あれは、触れない。

 触れたら壊す。

 壊したら負ける。


 だから、書く。


 そう決めたのに。


 私は立ち尽くした。


 紙がない。


 インク瓶はある。革袋に入っていた。黒い匂いを放っている。けれど契約条項は「血を使え」と言っている。血は出ない。出ないものを使うよう言う。神の指示はいつだって、曖昧でわかりにくい。


「……紙、どこ」


 森に問いかけても、森は答えない。森はあらゆる答えを持ちながら、口がない。羨ましい。私も口がなければ、変なことを言わずに済むのに。


 私は歩く。紙を探す。

 紙とは何か。薄くて、書けて、残るもの。残るもの。残る。


 残る、という言葉だけで胸の穴が冷える。風が通る。冷たい風は、痛みの代わりに、覚悟を運んでくる。覚悟は便利だ。便利なものはだいたいろくでもない。


 しばらく進むと、一本の木が目に入った。


 木肌が、異様に滑らかだった。普通、樹皮は荒い。触れると、爪が引っかかる。だがその木は、まるで古い羊皮紙みたいに、均一で、淡い色をしている。光を受けると、うっすらと繊維の筋が見える。紙だ。紙の気配だ。


 私は近づいて、指先でそっと撫でた。


 危険が走る。


 触ったら怪我をするやつだ、これ。


 美しすぎる。整いすぎている。自然のふりをしているが、自然の手触りではない。誰かが作った美しさだ。作った美しさは、必ず刃を持つ。


 それでも私は撫でた。撫でないと進めない。死者の旅は、いつも背徳だ。


 指先の下で、木肌が、ふわりと浮く。


 剥がれる。


 薄い膜が、音もなく剥がれる。私は反射的にそれを受け止めた。軽い。軽すぎる。薄すぎる。紙だ。紙のような樹皮。しかも、均一に剥がれる。ちぎれない。毛羽立たない。端がやけにきれい。


「……文具店かよ、この森」


 思わず言ってしまった。森は答えないが、木は、どこか得意げに見えた。気のせいだと思いたい。木が得意げに見える時点で、私のメンタルが危ない。


 私は剥がした“紙”を両手で広げる。透かすと、光が柔らかく通る。白ではない。乳白色。血の気のない白。今の私に似ている。嫌だ。似ているものは気持ち悪い。


 それでも、美しい。

 腹が立つほど、美しい。


 私は地面にしゃがみ、紙皮を膝の上に乗せる。ペンはない。指で書く。指は筆だ、と契約が言っていた。私の身体は筆。ずいぶん乱暴な名付けだ。身体は身体であってほしい。筆は筆でいい。


 インク瓶を取り出す。蓋を開ける。黒い匂いが立つ。生きていた頃なら、頭がふらついたかもしれない。今はふらつかない。ふらつけない。体がふらつく機能をやめている。便利なようで、不便だ。酔えないのは人生の損失だと思う。


「血を使え、って言われてもなあ」


 私は胸の穴の縁を見下ろす。乾いた血の塊。そこから削るしかない。最悪だ。最悪なのに、最適解だ。


 爪で、ほんの少しだけ削る。黒い粉が指先に付く。粉は、触れた瞬間に、微かに湿る。湿る? どこで? 私の指で? いや、違う。粉が、自分で湿る。生き物みたいに。血が血として戻ろうとしている。


 気味が悪いのに、息を呑むほど綺麗だった。


 乾いたものが、命のふりをする瞬間は、だいたい美しい。美しいからこそ危ない。美しさは、毒と同じ形をしていることがある。


 私は指先を紙皮に当てる。


 書く。


 最初に書くのは、白い花だ。

 あの花を、触らずに触る方法。


 指が紙皮を滑ると、血の粉が線になる。線は黒に近い赤だ。赤の記憶がある色。紙がそれを吸う。吸い方が優しい。紙が、受け止めてくれる。紙が紙であることに、私は救われる。


 文字を書いている間、森が息を止める。


 葉の揺れが止まる。

 鳥の声が遠のく。

 水の音が薄くなる。


 世界が、私の一行を読むために黙っているみたいだった。


 私は書く。


「戦場の縁に、白い花が咲いていた。

 触れれば壊れそうなほど薄く、霜よりも冷たく、しかし匂いだけは春を知っていた。

 それは、死の隣で、生の形をしていた」


 書き終えた瞬間。


 紙皮の上の文字が、すう、と沈んだ。


 沈む、というより、紙の繊維が文字を抱きしめて、奥へしまい込む。表面から消える。消えたのに、確かに書いたという感触だけが指に残る。指が熱い。熱くないはずなのに、熱い。魂が摩擦を起こしている。


 そして。


 森の奥で、何かが、ぱちん、と弾ける音がした。


 私は顔を上げる。


 白い花が揺れている。さっきより、ほんの少しだけ、輪郭が濃い。花の白が白として固定されたみたいに、光を拒まない白になっている。霜の冷たさに負けない白。存在の濃度が上がっている。


 私は、ぞっとした。


 書いたことで、花が強くなった。

 強くしたのは、私だ。


 勝者が歴史を書く理由が、骨に染みた。

 歴史は、現実を補強する。

 書かれたものは、世界に居場所を持つ。


「……すげえな」


 感嘆のはずなのに、声は震えていた。感動と恐怖は、同じ喉を使う。


 そのとき、花のそばに、影が立った。


 人影だ。


 私は槍を握ろうとして、槍をもう持っていないことに気づく。そうだ。私は歴史家で、武器がない。歴史家って危険な職業だったのか。いや、昔から危険だった。権力に嫌われる。火で焼かれる。牢に入れられる。つまりいつもの人間社会だ。


 影は、女の子だった。


 小さな子ども。髪が短い。服は古い。裸足。土に足を汚して、花を見ている。驚くほど自然な姿だ。戦場の縁なのに、恐れていない。怖がるべき場所で、怖がらない子どもほど怖いものはない。


 私は声を出そうとして、出せなかった。喉が乾いている。乾きすぎている。


 女の子は花に触れなかった。私と同じだ。

 ただ、見て、笑った。


 笑い方が、刃物みたいに美しかった。


 美しすぎて、怪我をした。

 体ではなく、魂が。


 次の瞬間、影は薄くなって消えた。霧みたいに。朝の光みたいに。


 私は膝の上の紙皮を見下ろす。


 なるほど。

 書いたのは花だけじゃない。

 花を見た“記憶”まで、引っ張り出した。


 記録は、物に残る。

 物は、見られたことを覚えている。

 そして、文字はその覚えを呼び出せる。


 私は思わず笑ってしまった。笑いは乾いて、咳みたいになった。


「……いや、ちょっと待って。これ、私の仕事、想像よりめちゃくちゃ重くない?」


 軽口を叩かないと、心が折れる。折れた心は、骨みたいに戻らない。骨は戻らないのに、私は戻ってしまった。皮肉だ。世界は皮肉を主食にしている。


 森の中で、風が再び動き出した。葉が擦れる。鳥が鳴く。水が流れる。世界が「はい、鑑賞時間終わり」と言っている。なんだこの世界、劇場か。


 私は紙皮を丁寧に畳み、革袋に入れる。折り目がつく。折り目がつくと、そこが弱くなる。弱くなるところが増えると、壊れやすくなる。紙は、人生みたいだ。人生の折り目は、だいたい弱点になる。なのに折らないと進めない。進むために弱くなる。誰が設計した。神か。あいつか。


 森を抜けると、街道が出た。


 踏み固められた土。轍。石。道端の標石に刻まれた文字。勝者の文字だ。勝者の言語だ。読める。読めてしまうのが腹立たしい。死んでから、読めるものが増えるのは、嬉しさより気持ち悪さが先に来る。


 標石には、こうあった。


「王都まで 五十里」


 五十里。遠い。生きていた頃なら、ここでため息をつく。今はため息すら出ない。便利だ。便利なものはだいたい不幸だ。


 歩く。


 道の両側に、冬枯れの草が波のように揺れる。波だ。草が波になる。生きているときは見落とした比喩が、死んだら勝手に目に入ってくる。比喩が勝手に目に入る人生は、たぶん長生きできない。私はもう死んでいるから問題ない。問題しかないが。


 夕方、空が割れる。


 雲が薄く裂けて、そこから斜めの光が落ちる。光は道を照らし、私の影を引き伸ばす。影が長い。影の中に胸の穴も入る。穴が影になる。穴は、穴であることをやめない。どんなに光が美しくても、穴は穴だ。


 でも、穴の向こうの光は、綺麗だった。


 胸の穴から夕陽が見える瞬間がある。世界が私を貫通して、向こう側まで届く。私は風景の一部になる。そんなの、許していいのか分からない。許したくない。許したくないのに、美しい。


 美しいものは、だいたい許可を取らない。


 夜、王都の外壁が見えた。


 高い。黒い。石でできている。石が冷たそうだ。冷たいのに、上には灯りが点々と続いている。灯りは暖色で、虫みたいに壁に貼り付いている。壁は生者と死者の境界線だ。戦場と森の境界線より、もっと露骨な線。


 門の上に、文字が刻まれていた。


「ここより内、記録は王のもの」


 私は笑った。


「ちょっと待て。いきなり宣戦布告じゃん」


 言い方が乱暴すぎる。ここより内、呼吸は王のもの、と言われたら窒息するしかないのと同じだ。ここより内、記録は王のもの。つまり、ここより内、真実は王のもの。


 勝者が歴史を決める。

 ここでは、それが法律であり、宗教であり、空気だ。


 門番が二人立っていた。鎧。槍。生きた目。

 私を見るなり、片方が顔をしかめた。


 そりゃそうだ。私は胸に穴が空いている。穴から向こうの壁が見える。人としての説得力がゼロだ。


「止まれ! 名を名乗れ!」


 私は名を名乗ろうとして、喉が引っかかった。名、か。名を言うと、名が世界に固定される。固定されるのは良いことか。悪いことか。今の私には、名は武器であり、弱点だ。


 私は少し考えて、正直に言った。


「……職業、歴史家です」


 門番が黙った。


 黙るな。こっちが恥ずかしい。


「胸に槍の穴が空いた歴史家です。夜間営業も対応できます。たぶん永遠に」


 言い訳がどんどん最悪になっていく。私は自分の口に軽く絶望した。死んでも口は止まらない。神よ。そこは止めてくれ。


 門番のもう片方が、小さく息を呑んだ。


 生者の息を呑む音が、やけに美しい。生きている音だ。喉の奥の湿った音。生の音。死者の世界にはない音。


「……通行札は」


 通行札?


 その瞬間、胸の穴の奥が、ひやりと光った。


 私は嫌な予感と一緒に手を突っ込み、何かを引き抜いた。引き抜いた瞬間、痛みはないのに、心が呻いた。胸の穴から出てきたのは、小さな札だった。骨みたいに白い札。表面には、私がさっき書いた文字とは違う、王都の文字が刻まれている。


「記録者 仮登録」


 仮登録。死者に対して仮。仮とは何だ。私の人生も仮だったのか。


 門番は札を見ると、露骨に視線を逸らした。見たくないものを見た目だ。見たくないのに、手続き上見なければならない目だ。役所の目だ。世界はどこまで行っても役所だ。


「……通れ」


 門が軋んで開く。


 内側から、匂いが押し寄せた。


 インクの匂い。紙の匂い。蝋の匂い。人の汗の匂い。食べ物の匂い。生活の匂い。生の匂いの洪水だ。私は足が止まりそうになる。匂いが美しすぎて、怪我をする。匂いだけで怪我をするなんて、どんな繊細な魂だ。死んだせいで魂が繊細になるの、納得いかない。雑であれ。雑で。


 私は一歩、境界線を越えた。


 外の夜と、内の夜は違う。

 外の闇は自然だ。

 内の闇は、文字で飼い慣らされている。


 王都の闇は、看板の文字が支配している。店の名、家の名、通りの名。名が多い。名が多い街は、奪うのが上手い。名を付けて、管理して、歴史にする。


 私は革袋の中の紙皮を指で確かめる。


 まだある。書いたものがある。

 触れない花に触れた証拠がある。


 そして胸の穴から、冷たい風が抜けた。


 風は、笑っているみたいだった。


 次の境界線は、もっと露骨だろう。

 王の記録の中心。

 大年代記院。


 私は歩き出す。

 今度は転ばない。

 転ぶ暇がない。


 この街の石畳は、よく研いだ刃物みたいに整っている。

 美しいものは、いつだって足元にある。

 踏み外したら、きっと切れる。


 だから私は、慎重に、軽口を叩きながら、進む。


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