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空白を縫う  作者: 那由多


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第2話 槍穴の契約

 

 歩き出した、と言いたいところだが、現実はもう少し嫌な感じで、私はまず自分の身体の取扱説明書を読む必要があった。


 一歩目で転んだ。


 足首が「そこ曲がるんだ?」みたいな角度にねじれて、私は土に顔から突っ込み、口の中に土を詰め込んだ。味は「土」だ。知ってる。生きているときは分からなかったけれど、土には味がある。土は土の味がする。当たり前なのに、当たり前がすでに懐かしい。


 転んだ拍子に、胸の穴から風が通り抜けた。


 すう、と。音がする。肺が空気を吸う音ではない。穴の縁を空気が撫でる音だ。誰かに触れられたような感触があって、私は思わず胸を押さえた。押さえた手のひらに、何も感じない。心臓は沈黙している。なのに、胸の穴だけは妙に敏感だ。死体のくせに、妙に。


「……感度が変なところだけ上がってないか」


 言ってから、自分で自分に軽く引いた。死んだ直後の感想がそれでいいのか。よくない。よくないが、よい。人生はそもそもよくないことに慣れる訓練だった。死後も同じらしい。嫌な一貫性だ。


 私は手をついて起き上がる。関節がぎしり、と鳴る。音が恥ずかしい。静かな戦場では、自分の体が一番うるさい。死体が音を立てるのはやめろ。やめてくれ。マナーの問題だ。


 それでも、二歩目はうまくいった。


 三歩目で、世界が変わった。


 世界が変わったのではなく、私が変わったのだ。目の焦点が合う、というより、焦点という概念が一段深くなる。生者の視界は薄い膜がかかっている。薄くて見えない膜が。忙しさとか恐れとか欲望とか、そういう薄い膜。


 死んだら、その膜が剥がれる。


 剥がれて、世界の輪郭が、痛い。


 空は、ただの灰色ではなかった。雲は薄い銀の層になって、光を砕き、地上へ降らせていた。砕けた光は刺のない針になって、焦げた盾の縁、折れた矢尻、ちぎれた布の糸一本までを照らしている。戦場の残骸ですら、美しい。美しいという言葉が許されるなら、だが私は許したくない。


 許したくないのに、許してしまう。


 風が通る。


 風は冷たい。そして、冷たさの中に、まだ冬の前の甘さが混じっている。遠くの森の匂いがする。針葉の青い匂い、湿った苔の匂い、土の匂い。焼けた匂いの下に、自然が静かに生きている匂いがある。戦が終わっても、世界が終わっても、匂いは続く。鼻が動いていようがいまいが、匂いは存在する。


 存在は、残酷に平等だ。


 私は、草を見た。


 焼け焦げた土の隙間に、細い芽が一本、起き上がっている。柔らかい緑。信じられないほど柔らかい緑。周囲の黒に対して、あまりにも無防備だ。無防備で、強い。


 私はしゃがんで、その芽に指を伸ばした。


 触れた瞬間、痛みはないはずなのに、なぜか指先が「危ない」と言った。生者の痛覚ではない。もっと原始的な、触れたら壊れるという恐れ。壊す側になりたくないという恐れ。私は指を引っ込めた。


 死んで気づく美しさは、そういう種類だ。


 触ったら壊れる。

 見ているだけで怪我をする。


 怪我というのは肉体の問題ではなく、魂のほうの話だ。魂がズタズタになるタイプの怪我だ。しかも縫えない。しかも痛いのに血が出ない。最悪だ。血が出ないのはもう慣れたけれど、痛いのに出ないのは本当にズルい。


 私は立ち上がり、歩く。


 歩くたびに、草の先が揺れる。揺れ方が美しい。揺れ方に意思がある。風に従うものの動きが、こんなに端正だとは知らなかった。生きていたときの私は、草を踏むたびに何も考えていなかった。ただ「そこにある」と思っていただけだった。そこにあるものは、そこにあるだけで宇宙の奇跡なのに。


 死んでから、世界はやたらと文学になる。


 いや、世界が文学なのではない。私の目が、勝手に文学にしてしまう。人間は理解できないものを、言葉にして誤魔化す。美しさは理解できない。だから言葉が要る。言葉は武器だ。私は今、それを授かったのだろう。呪いとして。


 そのとき、胸の穴が、また冷たくなる。


 風が通る。風が、止まる。


 止まった風の代わりに、何かが“落ちてくる”感覚がした。空から落ちてくるのではない。自分の中に落ちてくる。胃のあたりに、重い石が沈むように。


 そして、文字が浮かぶ。


 見えるわけではない。だが、理解できる。理解というのは、視覚よりも深いところで起きることがある。死んだらそういうことが増える。ありがたくない才能だ。


 書け。


 書け、とだけ。


 命令は短い。短いほど強い。短いほど逃げ場がない。


 私は立ち止まり、苦笑いをした。


「いや、分かってる。分かってるけど……」


 私は周りを見回した。紙はない。ペンもない。インクもない。あるのは灰と土と血の固まりと折れた武器だけだ。歴史を書く素材としては、最悪のスターターキットだ。


「……マジでここから始めさせるの?」


 誰に言っているのか分からないが、言わないとやってられない。


 私は戦場の端に転がっていた革袋を見つける。誰のものだったのか。知らない。知りたくない。死んだものの持ち物を漁るのは、倫理的に微妙だ。死体が言うな、という話でもある。だが、生き残った者には選択肢が少ない。死んだ者にも、さらに少ない。


 革袋を開ける。


 中身は乾いたパンの欠片と、火打石と、黒い小瓶。


 小瓶の蓋を開けた瞬間、匂いがした。鉄と、樹脂と、少し甘い匂い。インクだ。私の頭が即座にそう判断する。なぜかは分からない。嗅いだことがあるのかもしれない。部隊には書記がいた。彼が毎晩、火のそばで書いていた。私はその手元を覗いて、くだらない冗談を言って、怒られた。そういう記憶が、死んだ今、妙に鮮明に浮かぶ。


 書記はもういない。


 私は小瓶を握りしめる。握りしめた手のひらに、匂いが残る。匂いが、痛い。心が痛い。体は痛くない。心は痛い。やめろ。やめてくれ。私は今から仕事を始めるのだ。泣きたいのに泣けない仕様で。


 そのとき、胸の穴の縁が、かすかに痒い。


 痒い、という感覚があるのが変だ。痒いは生者の感覚だ。だが痒い。骨の内側が痒い。私は思わず胸の穴の縁を指でなぞった。皮膚は硬く、乾いている。縁は黒ずんでいる。肉の形が“固定”されている。


 そして、そこに——


 小さな紙片が挟まっているのに気づいた。


 紙片。いや、紙ではない。薄い板だ。骨より薄い。貝殻より薄い。半透明で、文字が浮かんでいる。


 私は息を飲む。息はないが、飲む。驚きの動作は、呼吸と関係なく発生するらしい。便利だ。


 紙片の文字は、見たことのない言語だった。だが読める。意味が直接、頭に入る。


 契約条項

 汝の身体は筆である

 汝の血はインクである

 汝の記憶は紙である

 汝が記す限り、汝は崩れぬ

 汝が黙するなら、汝は散る


 私は、じっとそれを見つめた。


「……血、出ないんだけど」


 思わずツッコミが出た。契約条項が堂々と嘘をつく。神の契約書ってこんなに雑なのか。いや、雑ではない。私が理解していないだけだ。血は出ない。でも血はある。固まっているだけだ。つまり、こいつはこう言っている。


 自分の“血”を、絞れ。


 最悪だな。


 私は小瓶のインクを見た。インクはある。だが契約は「血を使え」と言っている。インクを使うのは“妥協”で、血を使うのが“本契約”なのだろう。ブラック企業の正社員みたいな条件だ。


「……分かったよ。分かった。やるよ」


 私は胸の穴に指を入れない。入れたくない。代わりに、槍で貫かれていた穴の縁の、乾いた血の塊を爪で少し削る。削れた黒い粉が指先に付く。粉は軽い。軽いのに、重い。私の命の残骸だ。


 私は土の上に、指で書く。


 最初の一行は、さっきと同じだ。故郷の名。だが今度は違う。さっきは土に刻んだだけ。今度は血で刻む。血が土に触れた瞬間、土がわずかに赤みを帯びた気がした。赤というより、夕焼けの影のような色だ。美しい。美しいのが腹立たしい。


 書いている間、世界が静かに息を止める。


 草の揺れが遅くなる。

 雲の流れが遅くなる。

 遠くの火の揺らぎが遅くなる。


 私の指先だけが動く。


 そして書き終えた瞬間、胸の穴が、ほんの少しだけ“埋まった”気がした。


 埋まったのではない。穴は穴のままだ。だが、風が通り抜ける感触が変わった。さっきより痛くない。冷たさが少し和らぐ。まるで、書いた文字が、穴の周りに薄い膜を張ったみたいに。


 私は理解した。


 私は書かなければならない。

 書くことが、私の身体を保つ。

 書くことが、私の復讐でもある。

 書くことが、私の救いでもある。


 そして、最も嫌な理解が最後に来る。


 書くことは、世界に影響する。


 さっき、文字を書いた瞬間に世界が息を止めた。あれは偶然ではない。記録が、現実の一部になる。歴史は後から付いてくる影ではない。歴史は、現実の骨格だ。骨格を書き換えれば、肉も変わる。


 勝者が歴史を紡ぐのは、ただの自己満足ではない。

 世界の仕組みそのものだ。


 私は笑った。今度は少し、本当に笑った。


「なるほどね。だから勝者は歴史を書くのか」


 笑いながら、胸の穴が、風を鳴らす。笛みたいに。

 死体が笛の役をするな。やめろ。やめてくれ。面白いだろ。面白いが。


 私は立ち上がる。目の前の森を見る。


 森は、戦場の端で平然と立っている。木々は黒くない。葉はまだ青い。枝の先に、薄い霜が光っている。霜の結晶はガラスみたいに整っていて、触れたら指が切れそうだ。美しすぎるものは刃物になる。自然はずっとそうだったのに、生きている間の私は気づかなかった。


 私は森へ向かって歩く。


 勝者の都へ行く前に、私はまず紙を探す。

 そして、私が失ったものの名前を、全部書く。

 消される前に。

 燃やされる前に。

 忘れられる前に。


 風が背中を押す。背中に温度はないのに、押される感覚だけはある。世界が私を押すのか。契約が私を押すのか。どっちでもいい。私は進む。


 死んだ者が歩く音は、静かだ。

 静かすぎて、かえって不気味だ。


 私は自分に言い聞かせる。


「よし。まずは紙だ。紙がないと始まらない。歴史は紙が好きだからな。偉そうなくせに、紙がないと何もできない」


 そして、森の入り口で、私は見た。


 木の根元に、小さな白い花が咲いている。

 戦場の灰のすぐ隣で。

 死体の匂いのすぐ隣で。

 何事もなかったように。


 花は揺れている。

 揺れ方が美しすぎて、胸の穴が痛む。


 私は花に触れない。

 触れたら壊すから。

 壊したら、私が負けるから。


 だから、私は書く。


 花を、文字にして残す。


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