第1話 死に際の口約束
お世話になってます。那由多です。8話の短編小説です。
いつもの冒険物とは違うので暗い気持ちになるかもしれません。
毎日1話ずつ投稿します。1週間よろしくお願いします。
胸に、立派すぎるほど立派な槍が、まるで“ここが出口です”と言わんばかりに、堂々と、堂々と、いや堂々と刺さっている。二回言った。だって誇らしげすぎる。槍のくせに。
そして地面にも刺さっている。
つまり私は、空と大地を貫く一本の杭に固定された、哀れで便利な展示物になっていた。戦場の博物館。展示名は「敗者」。入場料は命。解説はなし。
息が、ない。
吸おうとしても胸郭が動かない。肺が膨らむ気配がない。なのに意識だけが、澄んだ水みたいに戻ってくる。透明で、冷たくて、やけに静かだ。耳が先に開く。風の音が、死者の耳にも平等に入ってくるのが腹立たしい。
焼けた匂いがする。木と布と脂の匂いだ。焦げた髪の匂いが、灰の中にまだ甘く残っている。甘いという表現が最悪なのは分かっている。分かっているけれど、人体は焦げると甘い匂いがする。世界は時々、説明のつかないふざけ方をする。
視界を動かす。首は動いた。助かる。槍で固定されてるのは胸で、首ではなかったらしい。人体の仕様に感謝していいのか、するべきじゃないのか、判断に困る。
空は鉛色で、雲は薄い。光はあるのに、光が弱い。戦のあとはいつもそうだ。太陽が加害者と被害者の両方から視線を逸らしているみたいで、私は昔からこの空が嫌いだった。
私の周りには、黒い土と、崩れた盾と、折れた矢と、布の切れ端が散らばっている。死体は……見ないようにしよう。いや、見えている。見えているからこそ、言葉で視線をそらす。人間はそういう生き物だ。だった。今はどうだろう。
胸の槍を見下ろす。
血は流れていない。血の赤がない。代わりに、固まった暗い茶色が槍の根元にへばりついている。私の血だったもの。さっきまで熱だったもの。ぬるい痛みすら、もう来ない。
痛みがないと、現実感もない。現実感がないと、怒りの置き場がない。怒りの置き場がないと、人は、泣く。
泣けない。
涙も出ない。涙腺も、気分的に仕事を辞めたらしい。退職届は誰に出した。神か。神に出したのか。
神。
そうだ。あの瞬間だ。胸が裂けて、視界が反転して、空が遠のいて、地面が近づいて、すべてが「終わる」という最も簡単な結論に落ちた瞬間。
私は、言った。
勝者が歴史を決める? ふざけるな。
理不尽な暴力が、火が、鉄が、歌が、祈りが、全部を踏み潰していく。私たちが季節ごとに積み上げたもの、畑の癖、井戸の水の冷たさ、母の手の匂い、弟の変な笑い方、部隊の仲間のくだらない賭け事、あの木の下で聞いた下手な笛の音。そういうものが、戦の火の前では“無かったこと”になる。
死んだら終わり。そう思っていた。
けれど、もっと嫌なことがあった。
死んだあとに、存在まで消されることだ。
「敗者は最初からいなかった」みたいに書かれることだ。
「抵抗はなかった」みたいにまとめられることだ。
「彼らは野蛮だった」みたいに断定されることだ。
そしてそれが、千年後の子どもに“真実”として教えられることだ。
それは、二度殺す行為だ。
だから私は、死に際に、祈りの形をした悪態を投げた。
神よ。なぜだ。なぜ、こんな仕打ちを許す。
侵略者が憎い。お前も憎い。
力なんていらない。失われたものは戻らない。
せめて、せめて、私たちが居たという事実だけでも残せ。
そのとき、声がした。
頭の中でも耳の中でもない。空と土の間に、ただ“音”として差し込まれた声。
汝の想いは聞き入れた。
汝は我らをも憎かろう。
神とは異なる形で現世で想いを果たすが良い。
……回想終わり。
戻ってきた現実は、槍と地面と私。
正直に言うと、神の返事に対する感想は二つある。
一つ。返事が妙に丁寧で腹が立つ。
二つ。具体性がゼロで腹が立つ。
「異なる形で現世で想いを果たすが良い」
それ、便利な言い回しすぎないか。人生相談の最後に付くやつだ。占い師でももう少し具体的に言う。
しかし現実は具体的だ。私は死んでいる。たぶん。死体だ。たぶん。
その証拠に、心臓が動かない。脈がない。呼吸がない。なのに私は考えている。考えているということは、私の中の何かがまだ働いている。脳が腐っていないのか、魂がしぶといのか、神が嫌がらせをしているのか。
嫌がらせの線が濃い。
私は試しに、地面に手を伸ばす。指先が土に触れる。冷たい。湿っている。土の粒が爪の間に入る。爪がある。そうか、まだ爪はあるのか。役に立たない情報だが、役に立たない情報ほど「生」を連想させる。
起き上がろうとする。
無理だ。
槍が地面に刺さっているから、私は槍の付属品として地面に固定されている。固定具に意思は無効。なるほど。神は、私に“歴史を書く”以前に“まず立て”という課題を与えたらしい。初心者向けのチュートリアルが難易度おかしい。
「……どうやって立ち上がるんだ、これ」
声が出た。乾いた声だ。喉が鳴るだけで、空気が震える。自分の声がこんなに遠い。死者の声は、内側が空洞だ。太鼓の裏側から叩かれてるみたいな音がする。
私は笑いそうになる。笑うほどの余裕はない。笑うほどの涙もない。ただ、口の端が少しだけ上がる。
槍を抜けばいい。理屈は簡単。
でも、槍が刺さっているのは胸だ。抜くという行為は、普通、死ぬ。
私はすでに死んでいる。だからセーフ……なのか? セーフの概念が揺れている。世界が「死」をどう扱うかに、私は今後の生活費を全部賭けることになる。
仕方ない。
私は両手で槍の柄を掴む。木は焼けていない。皮の巻きは汗で滑る。汗は出ないのに、汗の記憶だけがそこに残っている。私は、体の重さを槍に預けて、ゆっくりと引く。
最初はびくともしない。
次に、硬い音がする。肉ではない。骨でもない。もっと嫌な音。固まった血と繊維が剥がれる音。剥がれるたびに、私の中の何かが「やめろ」と言う。痛みはないのに、恐怖だけは仕事をしている。恐怖は勤勉だ。過労死しない。
ぐ、と引く。
抜ける。
抜けた瞬間、胸に風が通った気がした。穴がある。穴があって、そこに風が通る。生きていた頃の私は、その表現を笑っただろう。今は笑えない。穴は穴だ。風は風だ。私の身体は、世界の一部としてただの通路になった。
血は、出ない。
代わりに、暗い塊がぽとりと落ちる。落ちて、土に染みない。染みない血。終わったはずのものが、終わることを拒否している。
槍の穂先が地面から抜ける。私は自由になる。自由というのは、こういうとき妙に軽い言葉だ。自由になった瞬間、私は前につんのめって、顔から土に突っ込む。
人間の復活はもっと格好良いはずでは?
土の匂いが鼻に入る。鼻も生きている。いや、生きてはいない。働いているだけだ。働く死体。社会の縮図みたいで嫌だ。
私は腕で体を起こし、膝を立てようとして、膝の感覚の鈍さに気づく。肉が硬い。関節がぎしぎし鳴る。音が、私の内側からする。自分の体が古い家みたいになっている。
立つ。
立てた。
立てた瞬間、視界が変わる。戦場は広く、そして、やけに静かだった。静けさの中で、遠くの火だけがまだ生きている。火は勝者のものでも敗者のものでもない。ただ燃える。そこが、火の良いところであり、悪いところだ。
私は胸の穴に指を入れない。入れたくなるが入れない。そこに触れたら、現実に負けそうだからだ。私は、負けたくない。もう負けているのに。負けの上に負けを重ねたくない。
そして、思い出す。
私が欲しかったのは力じゃない。
取り返すための剣じゃない。
欲しかったのは、証明だ。
ここに私たちが居た。
ここに笑いがあった。
ここに季節が巡った。
ここに名前があった。
勝者が歴史を書くなら、私は何を書く?
敗者の歴史を書く?
それとも、勝者の歴史を“正しい”と認めて、脚注として黙る?
黙るな。
胸の穴が、答えをくれる。風が通る。風は言葉を持たないのに、私の中で言葉になる。
書け。
私はふと、指先を見る。土が付いている。インクはない。紙もない。だが、書くことはできる。土に。灰に。石に。壁に。骨に。心に。
私はしゃがみ込み、戦場の土に指で線を引く。ゆっくりと、丁寧に。文字の形を思い出す。あの村で、最初に字を教えてくれたのは誰だったか。父か。母か。司祭か。忘れたくないのに、すでに細部が剥がれている。記憶は戦より早く燃える。
だから書く。
最初の一行は、歴史の最初の単語だ。
村の名を書く。
私の故郷の名を書く。
書き終えた瞬間、背中がぞわりとする。寒気ではない。寒気ならありがたい。これは、誰かの視線だ。世界のどこかにいる“編集者”が、私の一行を見つけたような感覚。
空気が一段、重くなる。
風が止まる。
そして、また声がする。
今度は丁寧さが消えている。事務的で、冷たい。契約書の読み上げみたいな声だ。
記せ。
汝が見たものを。
汝が失ったものを。
勝者の筆が奪う前に。
私は、土の文字を見下ろして、笑った。
笑い方を忘れていなかったのが、少し嬉しい。少し悲しい。
「なるほど」
声が乾いた音で割れる。
「……歴史家になれってことか。しかも不死で。最悪だな」
最悪なのに、胸の奥が、ほんのわずか熱い。
血はもう流れないのに、怒りだけが熱を作る。
怒りが私を動かすなら、私は怒りを飼い慣らしてみせる。
私は立ち上がる。
胸に穴を抱えたまま。
空っぽの肺を持ったまま。
それでも、歩き出す。
勝者が歴史を紡ぐなら。
私は、敗者の糸を拾って結ぶ。
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