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貸出の檻

貸出の檻 ー富裕層の女ー 御影 香織(45)

作者: メタル
掲載日:2025/08/31

魂なき器に、確かな命を見いだした人たちへ。


「肉は何の益ももたらさない。霊こそが命を与える。」

― ヨハネによる福音書 6章63節


「たとえ山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ、私は無に等しい」

― コリント人への第一の手紙 13章2節

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// 貸出の檻 短編:御影 香織(45) 富裕層の女

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対象者記録

氏名:御影 香織

年齢:45歳

性別:女

職業:主婦



 フェミナの本部は神戸・三宮の高層ビル街にそびえている。

公的機関として整然とした受付、透明なガラス張りのロビー、制服姿のスタッフ――

そこでは規則に則った正規の契約しか受け付けられない。


 だが香織が向かったのは、そこではなかった。


 車を走らせること三十分。ポートアイランドの倉庫街へ。

昼間でも人影の少ない一角に、古びた研究棟が佇んでいる。

外観は物流倉庫にしか見えないが、フェミナの下請け業者が入居している建物だ。

表では臓器保存やクローン管理の正規業務を担う一方、

奥の一室では“規則を曲げた依頼”がひっそりと処理されていた。


 香織が通されたのは、その裏口から続く小さな会議室。

事前に告げられていたIDコードを入力し、専用のカードキーで開かれる扉の向こう。


窓のないその部屋は、白い壁に囲まれ、無機質な照明と整然と並ぶ机と椅子だけがある。

清潔だが、どこか閉ざされた空気。

公的機関で扱う正規案件のための部屋ではなく――

“売り切り”という禁じられた契約のために用意された空間だった。


「……十八歳の体にしてほしいの」


 対面に座るのは、安物のスーツに身を包んだ男。

フェミナ正規ルートの窓口ではなく、一部で噂される裏取引の担当者。

清潔に整えられた部屋の空気はおちついているが、男の態度にはどこか事務的な冷たさがあった。


 男は無言で端末を操作し、契約記録を呼び出す。画面の光が眼鏡のレンズに反射する。


「……確認しました。香織さま、過去四年間で二度の転生をされていますね」

淡々とした声。

「そして今回が三回目になります」


 香織は唇を噛みしめた。

二十五歳、二十歳、そして今度は十八歳。

若返るたびに「今度こそ夫は振り向いてくれる」と信じてきた。だが結果は――。


「短期間での転生は、脳の同期に深刻な負担をかけます。

記憶の混濁、幻覚や妄想――そのような症例も少なくありません」


その声は忠告というより、契約内容を確認するかのように事務的だった。

しかし香織の胸の奥には、不安が鋭く突き刺さる。


――妄想。錯覚。

それでも構わない。夫の目に映るのが“若さ”であるなら、私は何度でもその檻に戻る。


「危険でもいい。お願い……十八歳の体を。必要なの」


営業担当の男は小さくため息をつき、端末の画面を閉じる。

「……承知しました。ただし、成功の保証は一切できません」


 声は淡々と続く。

「この取引は記録に残りません。異常が出ても治療費等の補償はなく、保険も適用外です。

当社は関与しない――あくまで“自己責任”ということを、ここで改めてご理解ください」


香織の胸が冷たく縮む。

しかし、迷いはなかった。


「……構わない」


夫の瞳を取り戻せるなら、魂すら削り取られてもいい。


担当者の男が端末を操作すると、契約画面に赤字の条文が浮かび上がった。



============================================================

《売り切り契約 条項》

・転生後、旧ボディは保管されず処分対象となる。

・人格・記憶は直ちに新規クローン体へ転送される。

・転送後の修正・復帰は不可能。

・異常が発生した場合も、補償・救済措置は一切行われない。

============================================================


「本取引は“売り切り”契約となりますのでご確認ください」


その言葉に、香織の喉がひゅっと鳴る。


フェミナの“売り切り”一般には「転生」と呼ばれている。

顧客が望む年齢のクローン体を用意し、そこに人格を転送する仕組み。

転送後、元の体は“不要な器”として処分される。

返却もやり直しも利かない。だから正規ルートでは実施の間隔や回数に厳しい制限が設けられている。


だが、香織のように何度も若返りを望む女たちは、そうした規制を嫌い、裏取引に身を預ける。

彼女がいま座っている椅子もまた、そんな禁じられた“転生”の装置へとつながっていた。


契約フォームに震える指先で署名すると、画面の「承認済み」の文字が淡く光った。

同時に、端末から電子音が短く鳴り響く。

――かちり。戻れない扉が閉じられる音のように。


担当者の男は端末を閉じ、事務的な声で言い放つ。


「……新しいお体の準備に一か月ほどかかります」


香織は静かに頷いた。


一か月後、私は十八歳の体を得る。

その思いだけが、彼女を生かしていた。


※※※


 一か月後、眩しい光の中で、香織はゆっくりと目を開いた。

硬い冷気が肌を刺す。慣れない感覚に戸惑いながら、自分の両手を持ち上げた。


――細い。白く、滑らか。

関節の動きさえも軽い。


 震える手で頬をなぞる。そこにあったのは、あどけなさを残した輪郭と、まだ少女のように張りのある肌。

胸元に視線を落とせば、形ばかりに膨らんだ若い乳房が上下に小さく揺れる。

呼吸するたび、肺の奥まで瑞々しい酸素が満ちていくように感じられた。


「……十八歳……」


香織は目を見開き、そこに確かに“若さ”が戻っていることを確認した。


だが同時に、頭の奥で微かなざわめきが始まっていた。

思い出そうとした記憶が、霧にかき消されるように抜け落ちていく。


鏡に映る少女の姿を前に、香織は小さく息を吐いた。

「……本当の私は四十九歳。でも、今は十八歳……」


澄んだ声が、処置室内にこだまする。


 若返ったはずなのに、胸の奥ではどうしようもない違和感が膨れ上がっていく。

――これは本当に“私”なのだろうか。

そう問いかけるたび、答えは霧に呑まれ、消えていった。


 やがて彼女の視線は、遠い記憶へとさまよい始める。

最初にこの禁断の術に手を伸ばした日のこと。

あの夜、富裕層の友人に屋敷へと招かれ、目の当たりにした光景がすべての始まりだった。


※※※


――芦屋・六麓荘。


 街路樹の緑が連なり、石畳の私道の両脇に重厚な邸宅が肩を並べる。

ヨーロッパの大使館街を思わせるその一角に、香織と友人・篠宮蘭子の屋敷は並んで建っていた。

どちらも豪奢な造りだが、門をくぐった瞬間にわかる格の差。

香織の屋敷が「富裕層の邸宅」なら、蘭子の屋敷は「一族の権威」そのものだった。


 重厚な門をくぐると、庭に連なる噴水と整然と刈り込まれた植木が視界に広がった。

香織は思わず足を止める。――やはり、篠宮家は格が違う。

自分の屋敷も富裕層と呼ばれるに値するはずなのに、蘭子の屋敷の前では貧相にすら見えてしまう。


「こちらへどうぞ、香織様」

執事が恭しく一礼し、赤絨毯の廊下へと導いた。

煌めくシャンデリア、壁一面の油絵、並ぶ大理石像――。

六麓荘の邸宅の中でも格別と名高い、篠宮家のリビングへ通されるのは久しぶりだった。


執事がノックをしてから重い扉を押し開け、道を示した。

香織は一歩、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。


そこには、ドレスを纏った蘭子がソファに腰掛けていた。

数日前、フレンチレストランで奥様同士の昼食を共にしたばかり。

そのとき、蘭子が「今度、すごいものを見せてあげる」と艶やかに笑ったのを、香織は覚えていた。


――今日、こうして邸宅に呼ばれたのは、その“自慢”を披露されるためなのだろう。


「お招きいただいて……ありがとうございます、蘭子さん」

香織は微笑んで声をかける。


だが、返事はない。

顔はわずかに俯き、瞼を閉じたまま、微動だにしない。


「……お加減でも悪いのですか?」


香織が一歩踏み出したその時、背後から柔らかい声が響いた。


「いらっしゃい、香織さん」


 そこに立っていたのは、二十代前半にしか見えない若い女だった。

深紅のドレスを纏い、艶やかな笑みを浮かべている。


「ふふっ私が――篠宮蘭子よ」


 妖艶に告げられたその言葉に、香織の心臓は大きく跳ねた。

再びリビングへ視線を戻す。

この女は何を言っているのだろう?蘭子さんは目の前に座っている人だ。


「私が……蘭子?」

香織は思わず声を漏らした。

視線を戻せば、ソファに座っている蘭子は依然として微動だにせず、胸だけが規則的に上下している。

ただ呼吸を続けるその姿と、背後で笑う若い女――。

同じ名を名乗る二人が、同じ空間に存在していた。


現実感が音を立てて崩れていく。


香織が言葉を失って立ち尽くしていると、背後の若い女――いや、篠宮蘭子を名乗る女がにっこりと微笑んだ。

「ようこそ、香織さん。驚いたでしょう? フェミナを利用すれば、この通りよ」


艶やかに広げられた両手。香織は息を呑んだ。


「そこに座っているのは“前の私”。

記憶も意識も、すべてこちらに移されている」


「私が蘭子」と名乗る女は自分を指さしてそう言ってのける。


「だから、あれはただの抜け殻にすぎない……でも、美しいでしょう?」


香織の唇が震えた。

「……ぬ、抜け殻……?」

理解しようとしても、頭が追いつかない。


 蘭子はソファの背後に回り、俯いたまま動かない蘭子の頭に手を掛けた。


そして顎に指をかけ、口をぐいと無理やりこじ開けた。


ぽかん、と間抜けな形で口は開いたまま固まる。

唇も舌も力なく、閉じる気配はない。


 次にまぶたを押し上げると――眼球は不自然に片方が白目を剥き、もう片方は斜め上を彷徨っていた。


「あら……だらしないわね」


蘭子は楽しげに笑い、指で直接眼球に触れる。

ぐり、と軽く押し動かし、左右の視線を正面へ揃えた。

するとソファに座る蘭子の瞳は、ガラス玉のようにまっすぐ前を向いた。


「見て、この目。こっちの蘭子は息をしているのに、もう人ではないの」


かすかに鼻から息が漏れる音だけが響く。生きているはずなのに――そこに“人”の気配はなかった。


呼吸だけを繰り返す抜け殻。

かつての蘭子でありながら、人形よりも空虚な存在。


香織の足は冷たく硬直し、声にならない声が喉を震わせた。

「……人形……」


その言葉を吐き出した瞬間、背筋を氷の刃が走り抜けた。

理解したからこそ、逃れられない恐怖が香織を包んだ。


 若返った蘭子は、まるで舞台の女優のように軽やかにソファへ腰を下ろすと、“前の自分”の横に座り肩へ腕を回した。


「ねえ、見て。前の私も、こうして並ぶとまだまだ美しいでしょう?」


にこやかに微笑みながら、自分自身を抱きしめるその姿は、華やかであると同時に底知れぬ狂気をはらんでいた。


「でも……口を開けっ放しにしているなんて、あなたみっともないわね」


蘭子は蘭子の顎をぐいと押し上げ、かちりと音を立てるように口を閉じさせた。

力なく唇が重なり、ほんのわずかに涎が滲む。


だが次の瞬間、彼女は「ああ、そうだった」とでも思い出したように、楽しげに目を細めると、今度は反対にその口を大きくこじ開けた。


「……香織さん、ちょっと覗いてごらんなさい」


無理やり開かれた口腔から、だらりと舌が垂れ下がり、だらしなく震える。


促されるまま覗き込んだ口腔内を見て、香織は思わず息を呑んだ。

蘭子の歯にダイヤモンドやサファイアが埋め込まれ、宝飾細工のようにぎらぎらと光を放っていたのだ。


「……な、なに、これ……」


声が震える。

蘭子は愉悦に満ちた声で囁いた。


「ふふっ……もうこの子は食べることなんてないでしょう? だったら歯も役立てる必要はない。

だから、飾り付けてしまうの。口の奥まで美しく――まるで宝石箱みたいにね」


その言葉に導かれるように、香織の視線は旧い蘭子の口腔へと吸い込まれていく。

宝石のように煌めく歯列――だが、それを支えているのは、視線の定まらない中年女性の生々しい顔。

大きく開け放たれた口からはだらりと舌が垂れ、涎が糸を引きながら顎を濡らしている。


――宝石箱の中身は、空ろな抜け殻。


香織の喉が凍りつく。美と醜が同居するその光景は、常識を超えた狂気そのものだった。


「ほら……綺麗でしょう?」

蘭子は楽しげに囁くと、白魚のような指先で涎をそっと掬い取った。

そして、それを宝石の欠片でも味わうかのように愛おしげに舐め取る。


さらに旧い自分の唇へ顔を寄せ、静かに、しかしねっとりとした口づけを落とした。

涎と紅が混じり合い、艶やかな音を立てる。


香織は息を呑んだ。

甘美な愛情表現に見える仕草が、むしろ背筋を凍らせるほど異様な光景に変わっていた。


それでも視線を逸らすことができず、震える唇から言葉が漏れる。

「……これは……いったい……」


蘭子はにやりと笑い、指先で旧い自分の頬を撫でながら答えた。


「ふふっ……これが“フェミナ”よ。人の意識を、新しい肉体へとそっくり移し替える術。

魂の転生だなんて、美しく呼ぶ人もいるけれど――要は抜け殻を捨てて、若さを手に入れる仕組みなの」


「……意識を……移す……?」


「そう。だから、この子はもうただの器。呼吸はしているけれど、記憶も心も、すべては私の中にある。

私が篠宮蘭子であり、あれはただの“残骸”にすぎないの」


誇らしげに言い放つ蘭子の姿に、香織の胸は恐怖と羨望で張り裂けそうになった。


――フェミナ・ライフサポート。

 その名は耳にしたことがある。

だが、それは生活に困窮した女性が、自分の体を“貸し出す”という恐ろしい政府の制度――そう信じていた。

生き延びるために仕方なく利用する人々の話を、どこか遠い世界の出来事として聞き流してきただけだったのに。


まさか、同じ仕組みがこんな形で富裕層の欲望を満たすために使われているなんて――。


「持ってきて」

蘭子が軽やかに命じると、執事が無言で一礼し、奥の扉の向こうへ消えた。


しばしの沈黙ののち、カツンと車輪の音が響く。

どこからともなく現れたのは、台車に横たわるひとりの若い娘。

淡い布地の、露出の多い服を纏わされている。


「さぁ――立たせて」


その隣には、金属製のスタンドのような器具が運ばれていた。

支柱の先に設けられたアームが腰を抱え込むように設計されており、執事は娘の身体をそこへ丁寧に固定した。


かちりと留め具が噛み合う音。

娘は支柱に支えられ、ぎこちなく直立姿勢をとる。

陶器のような肌、均整の取れた四肢。

瞳は虚ろに揺れているが、その容姿は息を呑むほど完成されていた。


蘭子はその肩へ指を滑らせ、胸元をなぞるようにして笑みを浮かべる。

「この子は“次の私”。どう? 綺麗でしょう?」


指先で髪を梳き、首筋を撫でながら、まるで芸術品を披露するかのように体の完成度を見せつける。

香織の胸は圧迫されるように高鳴り、目を逸らすことができなかった。


ふと蘭子は唇を寄せ、香織の耳元に囁く。

「……ねぇ、これは秘密よ。夫がね、この体を密かに持ち出して……ふふっ、あんなことをしているの。

男って、本当に分かりやすいわよね」


吐息が触れるほどの距離。香織の頬は赤く染まり、言葉を失う。

――夫が、この体に触れている?

想像した瞬間、心の奥底で何かが激しく燃え上がる。


「私も……夫に愛されたい。夫に触れられたい」


その渇望が、蘭子の狂気のデモンストレーションによってさらに強烈に掻き立てられていく。

恐怖と羨望と、抑えがたい欲望が、香織の心を容赦なく侵食していった。


蘭子は若いボディの前に香織を立たせると、満足げに自分の胸へ手を添えた。

「ふふ、見てちょうだい。今の私より少し大きくしてあるの。服の上からでも形がよくわかるでしょう?」


指先でなぞるようにカップを押し上げ、艶めかしく微笑む。

「夫がね、大きい方が好きだって言うから。あの人の目がどこに向いているかなんて、一度で覚えたわ」


次に彼女は肩へ手を置き、背筋をまっすぐに引かせる。

「身長も少し伸ばしたの。ハイヒールを履かなくても見栄えがするように。舞踏会でも写真でも、一番映える高さにね」


 香織は震えながら、その姿から目を逸らせなかった。

蘭子は自らの肉体を宝石のように磨き上げ、欲望のために“改造”を躊躇わない。

それは香織にとって、羨望と同時に底知れない恐怖でもあった。


※※※


 ――蘭子が、若い自分の胸を撫でて誇らしげに笑っていた姿。

「これは前の私より少し大きくしたの。夫の目が、どこを見ているかすぐに分かったわ」

あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。


香織はふっと我に返った。

眩しい照明。冷たいカプセルの縁。そこはもう、蘭子の屋敷ではなく転生処置の直後だった。


「――香織さま」


作業員が無機質な声で問いかける。

「旧いボディの処理は、いかがなさいますか?」


心臓がぎゅっと縮む。

頭に蘭子の笑みがよみがえる。抜け殻を愛撫し、宝物のように抱きしめていた、あの異様な姿。

もし自分が同じように“前の体”を抱え込むのだとしたら……。


吐き気にも似た嫌悪感が込み上げた。

「……処分して。焼却炉に」


絞り出すように告げると、作業員は一礼し、淡々と端末に指示を入力した。


――これで私は過去を捨てる。

そう言い聞かせながらも、香織の胸には奇妙な寒気が残っていた。


 転生処置を終え、十八歳の体を得た香織は屋敷へ戻った。

鏡に映る自分は、さらに若さを取り戻した“少女”だった。

これで、夫は必ず振り向いてくれる。そう信じて。


夫の部屋の前に足を運ぶ。

扉の内からは、談笑する声がかすかに響いていた。

胸が高鳴る。手を伸ばそうとした、その瞬間――


扉が開き、若い娘が姿を現した。

艶やかな髪を揺らし、快活な笑みを浮かべる女。


香織は息を呑んだ。

女はぱっとこちらに目を向け、明るく声を弾ませた。


「えっ――オバサン、また若返ったの? すごーい!」


香織の胸にざわめきが走る。


――この女がいるから、夫は私を見てくれないの?

一瞬、そんな思いが頭をかすめた。


女は笑顔のまま軽やかに続けた。

「ふふっ、婚活?がんばってねー!」


小さく手を振ると、何の含みもなく、そのまま去っていった。


 香織は廊下に取り残されたまま、冷たい沈黙に包まれた。

若返ったはずなのに、心の奥には得体の知れない空虚が広がっていく。


女が去ったあと、香織は胸を押さえて扉の前に立ち尽くしていた。

やがて中から足音が近づき、扉が再び開く。


現れたのは夫だった。

視線が香織をとらえ、一瞬だけ驚きに見開かれる。


「……香織? 本当に……また若返ったんだな」


その目に映る驚きに、香織の胸は期待で震えた。

――今度こそ、見てもらえる。


しかし夫はすぐに視線を逸らし、静かに言った。


「……俺のことは気にするな。君には君の道がある」


その声音はやさしいはずなのに、香織の耳にはこう聞こえた。

――若い女がいるから、俺のことは放っておけ。


胸の奥がずきりと痛む。

「……こんなに若くしたのに」


心の中で呟いた言葉は、誰にも届かず、虚空に消えていった。

次の瞬間、喉の奥から叫びが漏れた。


「どうして……どうして振り向いてくれないの!」


声は涙に濡れ、身体は自分のものではないように震えた。

張り詰めていた糸がぷつりと切れる。

視界が滲み、世界がぐらりと傾いた。


――暗転。


 まぶたを開けると、見慣れた天井があった。

寝室のベッドに横たわる自分。枕元には夫が座り、険しい表情でこちらを見守っている。


薄く目を開けた香織に気づき、夫はほっと息をついた。

「……目が覚めてよかった」

その声には安堵の色があった。


低い声。安堵と戸惑いが入り混じっていた。


その向こうには白衣の医師が控えている。

往診用の鞄を閉じながら、深刻な面持ちで言った。


「短い間隔で三度も転生を重ねれば、脳への負担は甚大です。

記憶の混濁、幻覚、情緒の不安定化……。取り返しのつかない障害が残る可能性もあります」


香織の心臓は冷たく縮む。

夫が代わりに医師の言葉を聞き、頷いているのが見えた。

――私のことを案じているのか、それとも……。


 香織は涙で視界を滲ませながら、必死に言葉を繋いだ。

「……あなたは、もう私を愛していないのでしょう? あの若い女を家に入れていること、知っていたわ。

だから私は……必死に若返ろうとしたの。何度も、何度も転生をして……」


震える指でベッドサイドの写真立てを掴む。

そこには、まだ笑い合っていた頃の二人の姿が映っている。


「見て……この時みたいに戻りたかったの。

浮気なんかどうでもいい……私は、ただあなたに愛されたいの」


 夫は言葉を失い、困惑した表情で医師の方を見た。

医師は無言で小さな測定器を取り出し、香織の額に近づける。

やがて眉をひそめ、低く告げた。

「……香織さんの脳は思ったより深刻なダメージを受けているようです。記憶の混濁が激しい」


「違う!」香織は声を荒げ、涙に濡れた頬を震わせた。

「私の記憶ははっきりしている! あなたは何を言っているの!?」


部屋に緊張が走る。

夫は深く息を吐き、医師に静かに出て行くよう合図した。

扉が閉まり、寝室に残されたのは二人だけ。


 夫は私の手をそっと握った。

その瞳には、言葉にするのをためらう痛みが宿っていた。


「……香織さん。その写真に映っているのは、私の妻――あなたの双子の姉、麗華ですよ」


夫は写真立てに視線を落とし、深く息をついた。

「……それに、先ほど君が部屋の前で会ったのは――私の娘ですよ」


「……娘? あなたの娘……?」

香織の顔から血の気が引いていく。

「麗華……麗華って、誰? 妻は私じゃない……」

声は震え、言葉は途切れ途切れになった。


 夫はゆっくりと首を振り、言葉を続けた。

「香織さんには本当に助けられた。麗華は……娘を産んですぐに逝ってしまった。

私は立ち直れず、何もできなかった。そんな私の横で、君は娘の世話をしてくれたし。私を励まし、慰めてくれた」


 その瞳が揺れ、苦悶が滲む。

「私は愚かだった。君のやさしさに付けこみ、君を麗華の代わりにしてしまった。

寂しい夜に、君を抱いてしまった……。麗華を裏切り、君を汚してしまった。

本当に愚かな男だ。後悔しても後悔しきれない」


香織はただ目を見開いたまま、呼吸さえ乱れていく。


 夫は私の手を握りしめ、声を絞り出すように続けた。

「君の大切な人生を奪ってしまった。

だから――フェミナで若返ると聞いたとき、君の時間を巻き戻せると思ったんだ。

君が本来の人生をやり直せるなら、それが救いになると……」


その声はかすかに震えていた。

「まさか……僕のために若返っているとは思わなかったんだ」


 胸の奥で何かが弾け、途切れ途切れの映像が脳裏に流れ込む。


――大学付属の幼稚園の入園式。

小学校の参観日。

私はいつも“母”としてそこに座っていた。

子どもの手を取り、写真に納まり、笑顔を浮かべる。

誰も疑いはしなかった。私自身さえも。


――夫の“妻”として参加したレセプション。

ドレスをまとい、隣に並ぶ。

紹介され、祝福の言葉を受けるたびに胸が温かくなった。

その温もりを、当然のように自分のものだと信じていた。


「香織さん、いつも本当にありがとうございます」

彼が頭を下げた夜のこと。

「でも……いつまでも迷惑をかけるわけには……」


 なぜ――。

なぜ“母”であること、“妻”であることが、迷惑だというの。

私はずっと、その役を演じてきたのに。


「香織さんは、僕たちから離れて、ご自分の人生を……」


 その言葉が鋭く胸を裂いた。

私の人生は、すでにあなたたちの中にしか存在していないというのに。


「……私は……全部、思い出した」


 香織の唇から、かすれた声がこぼれた。

「麗華姉さん……私の、大好きな姉さん」


 脳裏に鮮明な光景が蘇る。

病院の白い天井。

無機質な機械音が途切れ、心電図の波形がすうっと消えていく。

その瞬間、モニターの前で泣き崩れる義兄。

そして――まだ何も知らず、無邪気に微笑む赤子を腕に抱いた自分。


「……助けなきゃと思ったの。愛する姉さんの……大切な人たちを」


震える指がシーツを掴む。

「いつしか……私は旦那さんを好きになってしまった。姉さんには悪いと思ってた

……でも……愛を繋いでも、いいって……そう思ったの」


胸の奥から、言葉と共に涙が溢れ出す。


その時――。


「叔母さん!」


 勢いよく飛び込んでくる声。

目を覚ましたばかりの香織のもとに、あの少女――姉の忘れ形見が駆け寄ってきた。


「叔母さん、目を覚ましたのね!」


その無垢な笑顔に、香織の胸はさらに締めつけられた。


再び呼ばれた医師が、慎重に診察を進める。

沈黙の後、重い声が落ちた。

「……香織さんの脳は、かなり深刻なダメージを受けています。シナプス構成が崩壊しつつある。

これは進行性で、残念ながら今の医学では解決できていません」


空気が冷たく沈む。

「ただ……神経を刺激する薬で、一時的に安定させることはできるでしょう。ただ、長くはもちません」


香織は静かに頷いた。

処方された薬を受け取り、その日は落ち着いた時間を取り戻した。


夜。

寝室の明かりの下で、香織は“夫”と、そして“娘”と共に過ごした。

重苦しいはずの空気は、不思議と柔らかく、笑い声さえ混じっていた。


「叔母さん、ずいぶん若返っちゃったんだね」

娘は興味津々に香織の腕を撫で、首筋に触れる。

「うわっ、私より肌つやつや。しかも……胸も大きいし~」


思わず夫が苦笑する。

香織も涙交じりの笑みを浮かべていた。


――この時間が、ずっと続けばいい。

そう思わずにはいられなかった。


翌朝。


香織は台所に立ち、慣れた手つきで朝食を並べていた。

パンの香ばしい匂い、温かなスープの湯気。


「無理しなくてもいいのに」

背後から夫の声。心配そうな視線が注がれる。

「そうだよ、叔母さん。休んでていいのに」

娘も笑顔で首を傾げる。


香織は小さく微笑んで首を振った。

「いいの。……これが私の生きがいだから」


――わたしはもう長くない。

けれど、自分がいなくなることよりも、まだまだ先の長い二人を残して逝く恐怖の方が大きかった。


※※※


 香織は藁にも縋る思いで、再びあの裏口を通り会議室を訪れた。

スーツ姿の担当者は顔を見るなり、深いため息をついて口を開く。


「香織さま……もう無理でございます。今度は中学生にでもなるおつもりですか?

……これ以上は、生命に関わります」


「そうじゃないの。……私はもう限界だったみたい。

医者に言われたのよ、脳が崩れていくって。……でも、まだ逝くわけにはいかないの」


担当者は目を伏せ、机上の端末に指を滑らせながら言った。

「……手段があるとすれば、元のお体に戻すことしかございません。

ですが――既に全て処分済みのはずでしょう?」


香織の顔は青ざめ、唇が震えた。

「……そう、あの時……処分をお願いした。私が……」


 脳裏に甦る、あの夜の光景。

若返った蘭子が、旧い自分の頬を撫で、まぶたを押し上げ、ガラス玉のような瞳を見せつけた。

「生きているのに、もう私じゃないの」

そう囁きながら、抜け殻に口づけを与えた異様な姿。


――恐怖に駆られた私は、転生を終えたその足で「処分してくれ」と言ってしまったのだ。


「……私が、あんなのを見るのが怖くて……!」

声は嗚咽に変わり、香織の肩は大きく震えた。


担当者は困ったように眉をひそめ、端末の画面を操作した。

「香織さま……お泣きになられても、弊社としては既に――」


言葉の途中で、指が止まる。

画面を凝視したまま、担当者の表情が硬直した。


「……ん?」


さらに記録を遡り、別のログを開いた彼は、苦い笑みを浮かべる。

「香織さま……実は、最初にご契約された際のお体……処分されていないようです」


「……な、何ですって……?」


 担当者は複雑な顔で言葉を続けた。

「大変お恥ずかしいことですが……当時の担当者が不正を働いておりました。

既に懲戒免職となっておりますが……横流しされたリストの中に、香織さまのお体が含まれていたのです」


香織の胸に、怒りと共にかすかな光が灯った。

――私の、最初の体が……まだ。


一見穏やかな担当者は、香織の必死な様子を前に、しばし沈黙した。

やがて小さく息を吐き、端末を手元に引き寄せる。


「……通常であれば、処分済みという記録で終わりです。

ですが――今回は特別に調べてみましょう」


 指先が静かに画面を滑る。

数本の暗号通信が送られ、幾つかの内線が取り次がれていく。

まるで水面下に広がる見えない網を次々と辿っているかのようだった。


 その横顔には、普段の事務的な笑みとは異なる、冷ややかな集中の色が浮かんでいた。

――正規の職員でありながら、こうした裏の段取りを熟知している。

この男もまた、フェミナという巨大組織の“影”を生きる人間なのだ。


 やがて端末の画面に新たな記録が開かれる。

担当者は椅子に深く腰を下ろし、表情を整えながら香織を見つめた。


「……見つかりましたよ。香織さまのお体――まだ残っております」


低く抑えた声。その口調には、責任と同時にどこか誇らしげな響きがあった。

「ただし、記録上は既に処分済みとなっております。……ですので、この件はどうか、ご内密に」


香織の胸が高鳴る。

「……どこにあるの?」


担当者は端末から目を上げ、静かに答えた。

「ある個人宅に保管されています。詳細な経緯は不明ですが、現在は一般の男性が所有しているようです」


その一言が、香織の心を射抜いた。

――私の、最初の体が……まだ、この世界のどこかで生きている。


「体を取り戻せば……助かるかもしれない」

香織がかすれた声で告げると、担当者は一瞬逡巡し、深く息を吐いた。


「……ただし、香織さま。ご注意ください」


口調は穏やかだが、その声には重みがあった。

「正直申し上げて――四十代の女性の“抜け殻”をあえて購入し、保有し続ける人物です。

通常の感覚の持ち主ではないでしょう。そうした相手との接触には、相応の覚悟が必要です」


香織は思わず眉をひそめた。だが担当者はさらに続ける。


「香織さまの見た目は十八歳の少女です。中身がどうであれ、外から見れば……極めて若い女性。

……ご自身がどのように扱われる可能性があるか、十分ご理解ください」


香織の胸がぎゅっと縮んだ。

――私の体。男の家で……どんな風に。


だが不安の奥底には、それでも「取り戻せば助かる」というかすかな希望が消えなかった。


※※※


――神戸市内・某所


 香織は、担当者から知らされた住所へ向かった。

事前に「香織さまが伺います」と連絡が入っている、とだけ伝えられている。


 辿り着いたのは、香織の住む屋敷とは似ても似つかない、古びたアパートの一室だった。

壁はひび割れ、外階段は錆びつき、風が吹くたびに鉄の軋む音がする。

扉の前に立っても、そこが本当に自分の“体”のある場所だとは信じがたかった。


 インターフォンのボタンに触れることさえためらわれた。

高級な邸宅の重厚な呼び鈴ではない、黄ばんだプラスチックの安っぽい装置。

思い切って押すと、「ピンポーン」と頼りない電子音が鳴り響いた。


しばらくして、ぎし、と床板を踏む足音。

そして錆びたドアがきぃ、と音を立てて開く。


現れたのは、質素な服を着た一人の男だった。


 四十代前半くらいだろうか。

特に不潔というわけではないが、冴えない男――。

香織がこれまで関わったことのない世界の住人であることは、間違いなかった。


「どうぞ」


男は簡素に言い、香織を中へ招き入れた。

少し躊躇したが、ここまで来ては足を止めることはできない。


「……あなたが香織さん?」


男はまじまじと香織を見てから、意外そうに笑った。

「うちの“ミカ”の元の持ち主……ってことですか? ずいぶん今は若いんですね」


その言葉に、香織の胸がちくりと痛む。


――“ミカ”。

それが、今の私の体につけられている名前のようだ。


 狭い廊下を抜けると、やはり狭いリビングらしき部屋に出た。

壁紙は黄ばみ、家具はところどころ擦り切れている。

部屋の端には、古びたソファーに腰かけている五十代と思しき女性がいた。

この男の母親だろうか――そう思った瞬間、男が声をかけた。


「ミカ、お客さんだよ」


――ミカ?


呼び名が胸に刺さる。ミカ、それは“私”につけられた名。

年配のその女性が、私――。

思考が白くはじけ、視界が揺らぐ。

(私は……)

身体が崩れ落ちた。




 遠い空の上から、自分を見下ろしているような夢を見ていた。

霞のような景色の中で、自分の体が床に崩れ落ちているのを眺めている――そんな奇妙な感覚。


ふと、瞼が震え、目を開く。

そこにあったのは、見知らぬ天井だった。

「……私は、どこに……」


ぼんやりと呟くと、すぐに声がした。

「あ、気がつきましたか。大丈夫ですか?」


顔を覗き込んできたのは、あの男だった。

私は気を失っていたのだ。一瞬――何かされてしまったのでは、と胸がざわつく。


「びっくりしましたよ。急に倒れるんですから」


男は苦笑しながら、ソファに座る女性へ声をかけた。

「なあ、ミカも驚いたよな」


女性は小さく頷き、視線をこちらに向けた――ように見えた。

香織の胸がどきりと震える。


その女性はソファに腰かけたまま、虚ろな目を前に向けているだけだった。

呼吸を繰り返し、かすかに胸が上下している。

しかし――そこに意思はなかった。


「……ご存じだと思いますが、ミカは話もしなければ動きもしません。分かってはいるんですけどね」

男は少し照れたように笑った。

「つい、話しかけてしまうんですよ」


その声音は軽い冗談めいていたが、どこか孤独の影が滲んでいた。


 あれは私の体。

ソファに座る年老いた女性が……“私”。


胸の奥が軋み、香織の視界は再びぐらぐらと揺れ始めた。


男は香織を見つめ、少し言い淀んでから口を開いた。


「香織さんは……ずいぶんお若いですね。その……ミカは、それなりの年齢だったものですから」


視線がソファに座る抜け殻に向けられる。

男の言葉は穏やかだが、香織の胸に鋭く突き刺さる。


本来の私はもうすぐ五十歳。

当然、私の元の体も五十歳の見た目になっている。


いまの十八歳の自分とは、あまりにかけ離れていた。

戸惑い――いや、恐怖を覚えるのは、仕方がないことなのかもしれない。


香織は改めて“ミカ”に目を向けた。


 男は質素なシャツに色あせたズボンという、貧相な格好をしている。

だがその隣に座るミカは、場違いなほど高級そうなワンピースを纏っていた。

布地の質感や色合いからして、このアパートには不釣り合いなものだ。


顔をよく見ると、拙いながらも化粧が施されている。

口紅の色は少しはみ出し、アイラインも揺れているが――確かに「美しく見せよう」という意思がそこにあった。


さらに目を引いたのは、髪。

艶を帯び、丁寧に梳かれている。

まるで壊れやすい人形を慈しむように、手入れされているのが一目で分かる。


そして――何より奇妙だったのは、その足元だった。

畳敷きの和室へと続く、この純日本式のアパートの空間にありながら。

ミカは、こぎれいなパンプスを履いたまま、きちんと揃えて座っていたのだ。


その光景は、場違いな美しさと不気味さを同時に漂わせていた。


「その……ミカさんを、ずいぶんきれいにしているのね?」

香織がおそるおそる問いかけると、男は一瞬きまり悪そうに視線を逸らした。


やがて、頭をかきながら小さく笑う。

「……ミカは、その……僕の嫁なんですよ」


香織の胸が冷たく震える。


「まあ、人形みたいなものなんですけどね。けど、手をかけてやると……なんていうか、

嬉しそうに見えるんですよ。そう思えるだけかもしれませんけど」


頬を赤らめながら語る姿は冴えない男そのものだが、その言葉の端々には歪んだ執着が滲んでいた。


「服なんか、僕よりよっぽどたくさん持ってますしね」


男は指でクローゼットを示した。

半ば開いた扉の向こうには、この狭い部屋には不釣り合いなほど色とりどりの女性用の服が吊るされている。


さらに、その下に積まれた半透明のボックス。

中にはレースやサテンの下着が整然と収められているのが透けて見えた。


香織の背筋をぞわりと寒気が走る。

――自分の抜け殻に、ここまで。

かすかな吐き気すら覚え、視線を逸らした。


男は恥ずかしげに笑いながらも、語るのをやめなかった。


「ミカとはね、毎日一緒にご飯を食べるんです。……まあ、食べるのは僕だけですけどね。

横に座っててもらうだけで、なんか安心できるんですよ」


香織の心臓がずきりと痛んだ。


「朝は声をかけて起こすんです。“おはよう”って。返事はないけど……目が合うと、

本当に笑ってるみたいに見えるんですよ。あれが嬉しくて」


男の表情はどこか幸せそうだった。


「夜はちゃんと髪を梳いて、着替えもさせてあげて。……ちょっと高かったですけど、

ネグリジェも買いました。似合いそうだと思って」


「……夜は、どうしているの?」

思わず零れた問いに、男は目を丸くし、気まずそうに視線を逸らした。


「……ええと……」

頬をかき、言葉を探すように口を動かす。


「ミカは……何も言わないし、動かないんです。でも、あったかいんですよ。

だから……隣にいてもらうだけで、落ち着く」


香織は唇をかみしめた。

――隣に、いるだけ? 本当に?


男は少し笑い、照れくさそうに付け加えた。

「……まあ、その……。人間と同じですから。抱きしめて……時には、ね」


その曖昧な一言が、刃のように香織の胸を貫いた。

血の気が引き、吐き気にも似た感覚が込み上げる。


――私の体が、この男の夜を受け入れている。

その現実を想像するだけで、意識が揺らいだ。


男は姿勢を正し、真剣な表情で香織を見つめた。

「……僕は、本当にミカのことを愛しています」


その言葉に、香織の呼吸が止まる。


「あなたに言うのも変な話かもしれません。でも……ミカは楽しそうなんですよ。

ここに来たばかりの頃は、どこか物悲しそうな顔をしていた。けれど今は違う。見てください、穏やかでしょう?」


香織は思わず視線を向ける。

ソファに座るミカ――自分の抜け殻。

虚ろな瞳は空を見ているだけなのに、確かに、あの時の自分よりも柔らかな表情をしているように見えた。


胸が冷たく震える。


男は言葉を切り、一瞬躊躇したのち、低く問いかけた。

「……あなたは、ミカを連れていくのですか?」


どうやら男には、私の病状のことは伝わっていなかったらしい。

ただ「元の持ち主が取り戻しに来た」――その程度にしか思っていなかったのだ。


けれど私が、脳の崩壊と限られた時間について話すと、男は驚きながらも真剣に耳を傾けてくれた。

途中で茶化すこともなく、ただ静かに頷き続ける。


やがて、深く息を吐いて言った。

「……わかりました。ミカはお返しします」


胸が熱くなった瞬間、彼は続けた。

「でも――お願いがあります。あと数日でいいんです。最後に、一緒に過ごさせてくれませんか。

……お別れをしたいんです」


その声は、まるで本物の妻に向けるかのように切実だった。


香織の胸に、複雑な感情が渦を巻いた。

――抜け殻に、ここまでの想いを抱いていたなんて。


 男の気持ちはもっともだろう。

実に六年も連れ添った“女房”を失うのだから。


「……わかりました」

香織はそう答えて立ち上がろうとした。


だが――足にまったく力が入らない。

先ほど意識を失った影響だろうか。膝が震え、支えを失った身体がふらついた。


「大丈夫ですか!?」

男が慌てて腕を支えた。

「無理をしないでください。……よければ、今夜はここに泊まっていっても」


「知らない男の部屋に泊まるなんて……」

香織は思わず口にした。


しかし男は困ったように笑い、静かに言った。

「……あなたとは、ずっと一緒に住んでいるじゃないですか」


その言葉の意味は曖昧で、正しく理解できたわけではない。

けれど――なぜか“なんとなく”分かった気がしてしまった。


男は晩御飯を用意してくれた。

地味な男に似合わず、その味は思いのほか繊細で、香織は驚きを隠せなかった。

三人――男と、香織と、ミカで卓を囲む。


食後、男は少し言い淀みながら口を開いた。

「……香織さん。ちょっとショックかもしれませんが、やらなきゃいけないことがあるんです。

ミカのメンテナンスです」


「体は抜け殻でも、彼女は生きているんです。自分で自分の面倒は見られない。

だから……僕が世話をしないと」


そう言って男は、ソファに座る“ミカ”に近づき、ワンピースのボタンを外し始めた。


香織の心臓が高鳴る。

――見てはいけない。

そう思うのに、目を逸らすことができなかった。


ワンピースが静かに床へ滑り落ちる。

その下には、繊細なレースをあしらった下着。

思わず息を呑む。


――私の体に、こんなものを……。


やがて下着も外され、全裸となったミカの体は、排泄の処置を施されたのち浴場へと運ばれ、丁寧に清められていった。


程なくして戻ってきたミカは、髪を乾かされ、新しい下着を身につけさせられる。

ネグリジェを着せられたその姿は、まるで壊れやすい人形を慈しむようだった。


男は静かにベッドへ横たえ、布団をかける。

その一連の動作は儀式のように整然としていて、香織の胸に言いようのないざわめきを残した。


「……あなた、毎日こんなことをしているの?」

思わず震える声で尋ねると、男は手を止め、香織を真っ直ぐ見た。


「ええ。だって、しないわけにいかないでしょう」

淡々とした口調。けれど、その瞳には揺るぎない熱が宿っていた。


「生きている以上、世話をしなければならない。……それに――」


少し照れたように口元をほころばせる。

「僕は、ミカを愛していますからね」


香織の心臓が強く打ち、言葉を失った。

――自分の抜け殻を、ここまで真剣に“愛している”なんて。


香織は思わず問いかけていた。

「……どうして、この体をわざわざ買ったの? 若い子ならいくらでも選べたでしょう。

クローンだって、もっと都合のいい子がいたはずよ」


男は少し照れ笑いを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。

「僕も若い子が欲しかったんですよ。カタログに並んでいる美人のクローンの子……でも、僕には高すぎてね」


目を伏せ、続ける。

「それで大阪の中古店に行ってみたんです。『ライセア』っていう店です。

“来世”って意味だそうで、人形たちの来世を願って付けた名前だって、店主が言ってました」


言葉と一緒に、苦い笑みがこぼれる。

「そこにはいろんな子がいました。……でも、中古だから問題を抱えてる子がほとんどで。

立たされっぱなしで足の裏が壊れていたり、ひどく汚れていたり……」


一瞬、男の視線がソファの“ミカ”へ向かう。

「でも、ミカは違った。とても綺麗で、傷ひとつなかったんです。

年齢が……おばさんだったから人気がなかったみたいですけど。僕にはわかったんですよ。

きっと大事にされていた女性なんだろうなって。何らかのやるせない事情でこんなことになったんだろうって」


男は少し息を吐き、静かに笑った。

「そう思ったら……どうしても一緒に暮らしたくなって。高かったけど、借金してでも手に入れたんです」


その後の数日間、私は男と“ミカ”の三人で過ごした。

本来なら体力も戻ってきていたし、一度屋敷に帰ることもできたはずだった。

だが――なぜか、そのままこの部屋に留まっていた。


馬鹿みたいな話だ。

けれど、自分で自分の世話を受ける経験なんて、そうあるものではない。

そう思うと、不思議な興味さえ湧いてくるのだった。


――そうか。

あの蘭子が、自分の抜け殻にあれほど愛着を持っていたのは……きっと、こんな感覚だったのだろう。


ある夜、入浴の世話を観察していて気づいた。

“私の体”は驚くほど美しかった。

日々大事に扱われていた証なのだろう。


体毛までもが丁寧に整えられていたことに気づいた瞬間、私は思わず息を呑んだ。

そこまで――女として扱われている“私”を見せつけられた気がして、胸の奥がちくりと痛む。


――嫉妬。

けれど、それは嫌悪ではなく、妙な誇らしさと入り混じった感情だった。


リビングに戻り、男が裸のミカをソファへ座らせたとき、私は堪えきれずに口を開いた。

「……ずいぶんと、大事にしてくれていたのね」


指先で“ミカ”の整えられた体毛を示しながら、いたずらっぽく笑う。

「ねぇ……私は、どうだったの?

置物として買ったわけじゃ無いんでしょ?」


男は少しうつむき、ためらいがちに語り始めた。

「……最初は、本当にただ……欲しかったんです。若い子が無理でも、せめて“女の形”があるものをって」


言葉を探すように息を吐き、視線を宙に彷徨わせる。

「ミカが家に来たとき……正直、興奮しました。おばさんだけど女の人が僕の部屋にいるって。

……抑えられなかったんです。ただ、がむしゃらに抱きました。気持ちよくて……女は最高だって思った」


そこまで言うと、苦笑がもれる。


「……でも、終わったあとですよ。裸のまま布団の上に転がるミカを見て……急に情けなくなった。

『人形に何をしてるんだ』って……賢者モードってやつですかね」


男は短く息を吐き、続けた。


「それでも、次の日になるとまた抱いてしまうんです。……で、また後悔して。

最低限のメンテナンスをして、裸のまま転がしておく」


香織の胸がざわめく。自分の体がそんな扱いを受けていたなんて。


男はふっと目を細めた。

「でもね……ある日気づいたんです。床に放置していたミカが、とても寂しそうな顔をしている」


香織は息を呑んだ。


「……その時、ミカはただの人形じゃないんだと感じました。

手をかけると、笑ってるように見えるようになった。

この子は女型の人形じゃなくて、自分の女だと思えるようになりました」


「それからはもう毎日ミカのことばかり考えていましたね。

こんな服は似合うかな、喜ぶかな?とか」


 男の言葉を聞きながら、香織の胸は締めつけられるように熱を帯びていった。


――私の体が、この男に“女”として扱われてきた。

抱かれ、着飾らされ、愛情を注がれて。


その想像は、嫉妬とも羨望ともつかない感情を呼び起こした。


気がつけば、唇が震えていた。

「……私より、幸せそうじゃない……」


小さく漏れた声は、驚くほど素直だった。

男は一瞬、息を呑み、それからゆっくりと首を横に振った。


「そんなことは……ありませんよ」

けれど、その瞳には否定しきれない揺らぎが宿っていた。


香織の頬が熱く染まる。

なぜだろう――“抜け殻の私”が受け取った愛情に、ほんの少しだけ心惹かれている。


香織は口を湿らせ、震える声で問う。

「……じゃあ、あなたは結局、ミカの“何”が好きだったの?」


男はしばし黙り込み、ソファに座る“ミカ”を見つめた。

虚ろな瞳、涎を垂らした口――けれど彼の眼差しは真剣だった。


「……最初は、ただ体が欲しかったんです。女の温もりが。

でも……世話をして、毎日顔を合わせているうちに気づいたんです」


ゆっくりと吐き出される声。


「ミカは、確かに“見て”くれる。無表情なのに、目が合うと胸が熱くなる。

声は出さないのに、心の奥で応えてくれる気がするんです。

……言葉にすると馬鹿みたいですけどね」


男は苦笑しつつも、その目は揺るがない。


「ある日、洗って髪を梳いてあげている時……ふと笑ったように見えたんです。

その瞬間、もう“女の形をした器”なんかじゃなくなった。

――ミカは生きている。そう信じてしまったんです」


 香織は男の言葉に凍りついた。

――人形の中に魂を見て、愛した?

胸の奥がざわめき、思わず声が漏れた。


「……じゃあ、あなたは……あの“人形の中身”を好きになったってこと?」


男は戸惑ったように瞬きをする。香織はさらに身を乗り出した。

「ねぇ……その中身は、ここにいるのよ」

自分の胸を叩く。

「私は香織。私は……ミカの中にいた“本物”なの」


一瞬、沈黙。

男の視線がソファの“ミカ”と、目の前の若い香織を往復する。


「……それは……」

声がかすれ、言葉が続かない。


香織は小さく笑った。震えを隠すように。

「おかしいでしょう? あなたが好きになった“魂”は、この私。

でも……あなたは“抜け殻”を抱きしめて、そこに私を見てたの」


その言葉は、自分に突き刺さる刃でもあった。

――本当に、この男が愛したのは“魂”なのか。それとも“器”なのか。


男は答えられず、ただ唇を噛んでいた。

沈黙が重く落ちる。


香織は視線を落とし、ふっと自嘲めいた笑みを浮かべた。


「……私、自分の体に嫉妬してるのよ」


言葉と同時に、指先が震えながらブラウスのボタンへ伸びる。

「ねぇ、どっちが“本物”だと思う? この若い体の私……それとも、そこに座ってる五十歳の私……」


ボタンが一つ、また一つと外れていく。

滑らかな肩があらわになり、男の瞳がわずかに揺れた。


「あなたは抜け殻を抱いて愛してた。

じゃあ――“中身”を持つ私を見たら、どうするの?」


声は震えていた。挑発のようでいて、必死の縋りつき。

嫉妬と羞恥、そして確かめたい欲望がないまぜになり、香織の胸を熱く焦がしていた。



数日後。


男はソファに座る“ミカ”を一瞥し、それから香織に向き直った。

穏やかな顔で、けれどどこか寂しげに微笑んで告げる。

「……もう大丈夫です。この体はあなたのものだ。六年間の生活は……楽しかったですよ」


その言葉を聞いたとき、胸の奥が複雑に揺れた。


――皮肉なものだ。

私は姉の夫と娘に必死で愛情を注ぎ続けてきた。

けれど、結局“叔母さん”の域を超えることはできなかった。


その間――私の体は、この男から絶え間なく愛情を注がれていたのだ。

拙いながらも手を尽くし、妻のように扱われ、慈しまれてきた。


思えば、私は強がっていただけなのかもしれない。

本当は――愛情をかけて欲しかったのだ。

姉の夫が「君は君の人生を生きろ」と言った、その意味を、いまになってようやく理解する。


私の生活を、私自身が大事にすること。

――それが、あの言葉の本当の意味だったのだ。


数日後――私は元の自分の体に戻ることができた。

再転送のあと、医師による診断で脳の機能も正常に回復していると確認できた。


――私は助かったのだ。


だが、十八歳の体から五十歳の体へ戻った現実は、想像以上に重くのしかかった。

全身が鉛のように重く、思うように動かない。

「……これが、本当の私」


長い間歩くこともなく、筋力は衰えていた。

けれど、私が人形として扱われていた間に与えられていた保管薬のおかげで、著しい衰えは防がれていたらしい。

それでも、立ち上がるたびに膝が軋み、腕を持ち上げるたびに肩が重く感じられる。


――これは衰えではない。加齢の重さ。

否応なく、私の中に積み重なってきた時間の証だった。


「……さあ、家に帰ろう」


小さく呟き、私は重い体を引きずるようにして歩き出した。

足取りは鈍く、若返った体のときの軽やかさはもうどこにもない。

それでも――一歩ごとに、確かに“自分の人生”を踏みしめているように感じられた。


道端でタクシーを止め、後部座席に身を沈める。

背もたれに預けた瞬間、体の重さと共に、妙な安心感が胸に広がった。


窓の外の街並みが、ゆっくりと流れていく。

――私は生きて、帰るのだ。


タクシーを降り、重い体を引きずりながら帰宅した。

玄関の扉が開き、驚いた顔が私を迎える。


「えっ……お、お帰り。ミカ……さん?」


その一言が胸に突き刺さる。

私は息をのみ、ゆっくりと微笑んだ。


――そう。私はミカ。

あなたに愛される、ミカよ……。



※※※


同じ頃――。


十八歳の香織のボディは、契約通り「処分」扱いとして搬送されていた。

木製の簡素な箱に横たえられ、淡い照明の下を無造作に運ばれていく。


意識は――戻っていた。

脳の奥に火花が散るような感覚。

――ここは? 私は……転生は成功したの?


目を開けたい。声を出したい。

だが瞼は鉛のように重く、喉も凍りついたように動かない。

ただ、耳だけが外の世界を拾い続ける。


「ったくよぉ、こんな上玉の十八歳を焼いちまうなんて、もったいねぇな」

「ま、仕方ねえさ。契約は契約だ。俺らにゃ口出す権利もねえ」


下卑た笑い声が頭蓋を震わせる。

――やめて……ここにいるの。私はまだ……!


次の瞬間、箱の底からじり、と熱が這い上がった。

息が詰まる。皮膚が焦げる匂いが鼻腔を満たす。


――あ、熱い……助けて……!


叫びたい。暴れたい。

だが体は石のように硬直し、焼けつく痛みだけが全身を貫く。


炎が回り、視界の裏側を真紅に染めていく。

意識が溶ける直前、掠れた声が喉奥から漏れた。


――たすけ……


木箱を呑み込む炎の轟音が、それをかき消した。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

本作は「フェミナ・ライフサポート」という制度を舞台にした短編です。


御影香織という一人の女性の物語を描きました。

若さを追い求め、愛を取り戻そうとした彼女が出会ったのは、想像もしなかった“別の愛”でした。

本当に大切なものは何か――その問いは、彼女に限らず、私たちすべてに向けられています。


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