モルトゥルク編 第五十七話 幼き師弟
「お姉ちゃん!!」
僕のシャツの裾を引っ張っていた少女が、突然現れた彼女をそう呼んだ。僕のもとから離れて彼女に抱きつく。
お姉ちゃんは「怖かったね」と飛び込んできた小さな頭をさすった。
「一人で森に入ったら危ないっていったでしょ?」
「ごめんなさい…………あの子に会いたくて…………」
「会いたくて?」
そこで魔法使いのお姉ちゃんは僕の顔を見つめた。見惚れて口を半開きにして固まっている僕は、彼女の視線に胸を貫かれてお風呂上がりのように全身を火照らせた。野獣と対峙したときよりも、森で迷子になったときよりも脈がはやい。
いまだ直立不動の僕に彼女が近づいてくる。しゃがみ込んで小さな僕に目線を合わせた。
「ボク、お名前はなに? どこから来たの?」
楽しそうに魔法使いのお姉ちゃんが尋ねてくる。彼女の愛嬌があって可憐な美貌が吐息がかかるくらいの距離にある。心臓が大きく鼓動を打ち、耳元でその音が響いているようにさえ思える。彼女の柔らかな物言いにもかかわらず、うまく言葉を咀嚼できなかった。
「大丈夫?」
再度彼女が言葉を紡ぐ。
真っ直ぐに僕を見つめるその瞳に、言葉にならない溜息をもらした。彼女の澄んだ瞳が揺れるたびに胸がまた高鳴る。顔の紅潮もぼんやりとお姉ちゃんを見つめるとろけた視線も、取り繕う余裕なんて僕にはなかった。
「あ、えっと……」
かろうじで声が出た。ここで怖じ気づくと立ち直れない気がして必死に次の言葉を探した。
「た、たすけてもらって、ありがとうございます!!」
引きつった勢い任せの感謝を吐き出すように述べた。気づかぬうちに敬語を使ったのは年上だからではなくて、彼女に嫌われたくなかったからだ。
お姉ちゃんは少し驚いた表情を浮かべると、
「良い子だね!」
と僕の頭を撫でてくれた。
このときのことを思い出そうとしてもうまくいかない。赤く染まった顔面が熱かったことだけ感触として残っている。嬉しさと恥ずかしさから目を白黒させていたのだろうと容易く想像できるけれど。
魔力切れの疲労に羞恥心が重なったことで僕の身体は限界を迎えた。
結局、僕の記憶は泉で目を覚ますところまで飛ぶことになる。
目を覚ますと小鳥たちのさえずりが安らかな音色を奏でていた。澄んだ青空と心地の良い木漏れ日。『秘守の泉』のほとりで寝ていたようだ。
魔力切れと感情の乱れによって気を失ってしまったのだろう。運んでくれたであろうお姉ちゃんの姿を探そうとしたところで、後頭部に当たる柔らかな感触に気がついた。同時に、僕を真上から覗いているちょうど捜していた人物と目が合った。
当時の僕にとっては「お姉ちゃん」と呼ぶような歳の差の少女。だけれど彼女の端麗な容姿に見える少しばかりの幼さに僕は心酔してしまっていた。"恋"してしまったのだ。
――――――――そのため、膝枕をされていると気づいたときの僕の焦りようは、見るに堪えなかったと思う。
驚きの声が喉に詰まって「ア……」という情けない声がもれる。
僕は魔力切れだったことなど忘れて、上半身をガバッと跳ね上げた。柔らかな感触が後頭部から消えたことに一瞬の名残惜しさを感じたけど、羞恥に身を任せてお姉ちゃんから離れる。
ただ、逃げた先が泉だったのがいけなかった。後ろへ伸ばした足の向こうの地面が消失して、冷たい感触に片足が浸される。視線が傾くと同時に、身体が泉に吸い込まれていった。
「危ない!!」
お姉ちゃんの伸ばした手が僕の腕を掴む。傾いたまま静止した僕の身体を彼女が引き寄せる。
甘い香りが鼻孔を突いた。彼女の暖かな胸が僕を包み込む。すでに調子が狂っていた僕の顔は耳まぶまで真っ赤に染められた。
「わぁぁ!!」
まるで化け物に遭遇したかのような絶叫を上げて、腕を振りほどくとお姉ちゃんから数歩後ずさった。またしても泉に落ちそうになったので、横に跳んで泉を躱す。
「だ、大丈夫!?」
「え…………あ、はい」
曖昧な返事を返しながら周りをぐるっと見渡す。見慣れた空間とこちらを見つめる二人の女の子。状況を整理したら混乱が収まってきた。
我に返った僕は「すいません」と頭を下げた。お姉ちゃんがフフッと目を細めて笑う。
「急に起き上がるんだもん。びっくりしちゃった」
「ご、ごめんなさい…………その、びっくりして」
僕がそういうとお姉ちゃんは膝をついて僕に目線を合わせると
「ごめんね。疲れてるみたいだったから、地面に寝かせたくなかったの」
と謝った。
「と、とんでもないです!! わざわざありがとうございます!!」
そう言ったことで頭に残った柔らかな感触を思い出し赤面した。
嫌な気持ちにさせてしまったかもしれない、と両手を顔の前でぶんぶん振る。その必死さが面白かったのか、彼女がまた可愛らしい笑顔で笑った。
「ボク、敬語上手だね! 可愛い!!」
彼女が僕をそう褒めた。
その"可愛い"は自分より年下の子に対しての、容姿や性格ではなく存在そのものに使うただの常とう句。けれど勘違い甚だしい夢見心地な当時の僕は、
(か、かわいい――――!!)
"可愛い"を褒め言葉として受け入れて舞い上がった。"格好いい"冒険者を目指していたはずなのに単純な子どもだ。
彼女に嫌われたくないがために使っていた敬語が、相手に好かれる魔法の言葉のように感じられた。
このときぐらいからだろう、僕が誰に対しても敬語を使うようになったのは。もちろん褒められたくて使ったのはこのときだけだけど。
照れ隠しの言葉を探す僕の脳裏によぎるのは、やはりさっき見た彼女の魔法。僕の閃撃魔法の何倍も煌びやかで繊細で、とても羨ましかった。
もしかしたら僕が先に惚れたのは彼女ではなく、彼女が放った魔法だったのかもしれない。
僕を優しい眼で見つめるお姉ちゃんを前にして、どんな照れ隠しよりも先に出てきた言葉は、
「ぼくを弟子にしてください!!」
さっきと同じように頭を振り下げた。
僕の放った張りのある高い声が森に響く。間を埋めるように微風が木の葉をなびかせた。
「なに? どうしたの?」
明るい声に顔を上げる。お姉ちゃんはずっとニコニコしていて、僕の言葉を本気にはしていないようだった。
僕は近くに置いてあった魔法杖を拾いに行くと、お姉ちゃんに突き出した。
「ぼくの魔法の師匠になってください!!」
もう一度お願いした。今度はお姉ちゃんの顔をジッと見つめて。
お姉ちゃんは目を丸くして驚いた様子だった。
「私なんて魔法ぜんぜん上手じゃないよ!」
「すごくきれいでした。ぼくもああなりたいんです!!」
"綺麗"という言葉が僕の中でお姉ちゃんにも掛かったけれど、口には出さなかった。
彼女は「うーん」と唇を尖らせて考える素振りを見せると、やがて「分かった!」と白い歯を見せて笑った。
「ボク、お名前は?」
「ソラっていいます!」
「じゃあソラくん! 今から私のことは師匠って呼ぶこと!」
「いいの!? やったぁ!! ありがとう、師匠!!」
溜まっていた疲れなんて忘れて大の字に飛び跳ねた。そんな僕に歓声を浴びせるように小鳥たちが一斉にさえずる。
師匠のもとに少女が歩いてきた。ピタリと身体を寄せて師匠を自分の方へ引き寄せる。
「よかったね、ソラくん!」
そう言った少女は少し拗ねているように見えた。きっと自分のお姉ちゃんが取られそうになっているのが不満なのだ。
プクリと頬を膨らませて僕を睨む少女に「とらないから!」と慌てて首を振った。
「すっかり仲良しね」
師匠がそう笑ったことで少女と二人して赤面した。
「ソラくんってここらへんに住んでいないんだよね」
「はい。たまたま父さんたちと来てて」
「それなのに『秘守の泉』を知ってるなんてびっくり!」
「ぐうぜん、まいごになったときに見つけて」
口に出してから、迷子が師匠にバレたと強く後悔した。「格好いい子」と思われるのは諦めたけど、やっぱり好きな人の前では、たとえ年上でも格好つけたいのだ。
「ここはね、昔、幸福とか繁栄とかを願う場所だったんだって」
何事もなく話題が泉に渡ったことにホッと息を吐いた。
「『神様の拠り所』って呼ばれてたんだけど、でも最近はあんまり使われてないみたい」
「こんなきれいなのに」
「だよね! 私ここ好きなの」
泉を見つめる師匠の瞳は、陽射しを反射する水面のように煌めいていた。そして、そんな神聖なところで閃撃魔法を撃ってしまったことに申し訳なくなった。
しばらく三人で泉のほとりに座って小鳥が演奏する音色に耳を澄ませた。いつの間にか魔力切れのことなんて忘れていた。
またしても茜色の空が僕に一日の終わりを告げる。
名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、
「ぼくそろそろ帰らないと、です」
と立ち上がった。
「あしたもここに来ます。なので魔法おしえてください!」
「もちろん! あっ、どうする? 危ないから一緒に…………」
「いえ、だいじょうぶです!! じゃあ!!」
師匠が立ち上がろうとする気配を感じて一目散に森へと飛び込んだ。もっと師匠たちと一緒にいたいけど、モルトゥルクの近くで父さんたちに出会ってしまったときのことを想像し、急にさっきまでされていた膝枕が恥ずかしくなったからだ。もし父さんにバレたりしたら一生からかわれる。
もうモルトゥルクへの道順もバッチリ。無事に迷うことなくたどり着いた。
それからモルトゥルクに滞在している数日間、毎日『秘守の泉』へ足を運んでは、少女と師匠二人と落ち合い、その足で少し遠くに赴いて魔法を練習した。
師匠の魔法はいつ見ても美しかった。魔法杖を構える師匠を「かっこいいなぁ」とぼんやり眺める僕が、つい放たれた魔法を凝視してしまうほど彼女の魔法は魅力的だった。
「閃撃魔法は危ない魔法だからね。先に狙い通りの場所に撃てるようにならないと」
師匠にアドバイスを受けて、僕は威力よりも先に、狙った場所に当てるその精度を高めた。師匠が指示する目標を、時間を掛けてでも必ず一撃だけで仕留める。
当てることができたら師匠は頭を撫でて褒めてくれた。それをご褒美だと勝手に受け取って、もはや魔法の上達を二の次に、僕は彼女に認めて欲しい一心を魔法に込め続けた。
訓練の合間には少女ともたくさんお話をした。けれど少女は自分のことをあまり話したがらなかった。名前も以前答えてくれなかったので、あえて訊かなかった。少女がそんなんだから師匠の名前も訊かずじまいだった。
師匠に心奪われながらも、少女とも仲を深めて、僕のモルトゥルク生活は平穏のもとあっという間に過ぎ去っていった。
そして迎えた最終日――――――――僕の人生における二つ目の分岐点がやってくる。
ここまでお読みいただきありがとうございます
次の投稿はあさってです




