奴隷契約
俎板を叩く。
肉ではなく、俎板を何度も。
煮え滾った憎悪を篩に添えて。
嘘ばっかりだ。
愛するが故に求めた指輪は、いつしか私を飼い殺す手段へと変わっていた。
専業主婦でいいと嘯く貴方の言葉が数年後には、悪趣味な征服行為に変貌を遂げていた。
私が下で、貴方が上。
搾取の片鱗には目を瞑って、尽くし続けた。
愛は盲目だ。
無意識に重要な部分を省いてしまう。
少しずつ露呈していった悪魔のような本性。
肉を切り、骨を断つように包丁を振り下ろす。
散った脂が、蛍光灯を鈍く染める。
既に八方塞がりなのです。
離婚出来たとして、どうするの?
病的な怯えに、喉を反射的に潰してしまいます。
今となっては、人と目を合わせることさえ叶いません。
このような状態で、前のように働くことは出来ますか?
悪循環の螺旋に思考は囚われ、羽は毟られました。
身も心も、老いて穢れ。
俎板の上で耐え忍ぶ、この生肉は私なのです。
分かり合えるのなら、こうも私の心は死んでなどいない。
杜撰な視野に疑問が挟まることは、絶対にない。
私とは価値観が違い過ぎる。
と俯瞰的に問題を明確化したところで、救いはない。
私も、所詮は悪夢の住人でしかないからだ。
針が進めば、悪魔が帰って来てしまう。
通知音や足音に怯える私の気持ちが分かりますか?
いいえ、未だに小癪な理想論を信仰し、何の犠牲も払うことなく、当然の甘露とばかりに日常を貪り続ける恥知らず共に、この絶望が、この怒りが、分かるものか。
人はいつだって何かを消費して生きている。
歯車の裏には、必ず犠牲者の影が蠢いている。
何故、疑問に思わないの?
何故、矮小な容器を度外視してまで肥えようとするの?
何故、欠陥品を許容することが正義であるかのような印象操作を平然と行えるの?
今思えば、この状況も一つの線で繋がっている気がした。
断続的に鳴り響く慟哭に、愚か者は消え去り、病的な怯えだけが顔を覗かせる。
疎遠になった友人のsnsと自分の日常を見比べて愕然とした。
馨しい花が咲き誇る他者の庭とは対照的に、私の庭には生臭いリアルが控えていた。
下僕の私に拒否権などない。
昨晩の交尾を思い出して、喉元に殺到した不快感を掻き毟る。
軋む肉体を引き摺って、募ったヘドロをシンクに委ねた。
溶け出す、ああ、肉体さえも液体と化して、消えてしまいたい。
痙攣する膝を、床に押さえ付けて支えた。
押し寄せる不快感は、喉を通過して尚も、鬱陶しい主張を繰り返す。
発狂に次ぐ、凶行。
俎板にへばりつく左腕の残骸。
喉を引き裂いて、漂白剤に浸せば穢れてしまった私でも生まれ変われるかな。
淀んだ室内の息苦しい空気に、心は既に限界を迎えている。
脳天を喰らい尽くす夥しい数の屈辱。
酷い目眩に倒錯し、饐えた亡骸を孕む。
無造作に転がった視界の底で、抱えた指の隙間には抜け落ちた髪の束が何重にも絡まっていた。
何処で、間違ってしまったんだろうな。
母のような家庭を築く筈だった私の人生が無価値に朽ちてゆく。
母さん。
侵略者から私の心を守るには、どうしたらいいのだろう。
絶え間なく助けを求める意識とは裏腹に、戒めと無気力に沈むような、悪循環の奥底で己を蔑ろにするような自傷行為を繰り返している。
お母さん、会いたいよ。
ごめんなさい。
でもね。
もう言葉を発する気力さえも湧かないのです。
今更自由になったところで、何も考えられない。
私の心は、既に死んでしまっているのだから。
老婆を今更放り出して、何になると言うのですか。
何もない、私には何も無いのです。
馬鹿の一つ覚えで、腰を折りながら、
踏み付けられた思いを、恭しく拾い集める惨めな日々でした。
時計の針が、孤独を打つ。
母の顔、声さえも、もう私の中には残っていません。
不思議です。
私は私の筈なのに、まるで赤の他人のような疎外感を覚えるのです。
もう何もかもが手遅れで、私が私を取り戻すことは不可能で。
私を私たらしめる証さえも毟られたとして、残された私はどうなってしまうのでしょうか?
支配から抜け出すとか、もうそんな次元の話ではない。
私は、次の私は、一体どうなってしまうのでしょうか。
肉体的、精神的、経済的、に毟られ、培った病的な怯えに追従することを無意識に許す。掴んだ筈の幸せは、委ねた相手次第で容易く地獄へと転じる。甘えは、依存となり、依存関係は、最終的に上下関係へと繋がる。凡人とは、下を見付けて自尊心を保つ。別に珍しいことではない。貴方の尊い優しさは、言葉を介すだけの獣には都合のいい道具として扱われる。要は、必然だ。何ら不思議ではない、しょうもない帰結。
自分の首を絞めるような負荷を抱え込む根本には、都合のいい解釈を用いるのではなく、疑問を挟める豊かな心がある。雫を享受することなく苦悩に傾ける様は、楽な方へと浮遊するだけの羽虫と違って、素晴らしいことだとは思う。
しかし、何故そう思ったのかはとても重要な話になる。例えば、小悪党の甘言に影響を受けているのなら、普通に気色悪いし、その無防備な隙間にはマジで危機感を持った方がいい。単純な視野なら、貴方自身がいつか限界を迎えるだろう。
正論ならば、成る可くしてなっただけの話を理由に苦しむのは傲慢であると。
責任転嫁を図ることなかれ、呪うべきは愚かな己自身であって、他者ではない。勘違いするな、正しく生きるってのは、生半可な覚悟では紡ぐことの出来ない修羅の道なんだよ。俺は万人に罪を犯すなとは言わない、しかし肥えた羽虫の為す小賢しい罪状に、情状酌量の余地はない。そんな風に思う。
侵略者に尊厳を奪われ、一人で生きる術を失う。
結果だけを無責任に掬って、外野は滅茶苦茶なことを言う。
そいつは侵略者と同じ類の人間だ。
目を背けてしまいたい、でも目を背けるべきではない。
侵略者、異常者の多いこと。
事実として、他者を尊べる人って少数派なんだよ。
貴方が、貴方を守るには、奪われた日々を思い出すことが第一目標になる。
言葉や癖、肉体の機微や信念に生活習慣。
何を犠牲にし、何を生かすのか。
抗ったり、克服したりすることとは違う。
前のように、普通のことが出来るように。
一つだけ、確かなことがある。
間違っても、侵略者と戦ってはダメだ。
貴方の胸に植え付けられたトラウマとは、貴方が思い描くよりも深刻な問題である。
一人で完結出来るのは美徳たが、助けを求めた方がいい場合もある。
まあ、それで助けが来るとも限らないが。
少しずつでいい、不格好でも。
前歯を出して、とりあえず笑え。
嘘でもいいから。
そこからだ話は。
どこも恥ずかしくないよ。
怯えるな、
思い出せ、自然に笑えていた頃の自分を。
許可が必要か?
そうやって、異常者共の顔色を伺うのはやめろ。
他者を尊重出来るのは素晴らしいことだ。
でも、例え人として正しい行為だとしても、片方に偏ると碌な結果を招かない。
簡単な話、時には他者を蔑んでもいいんだよ。
意外と爽快だよ。
なりふり構わず、血肉を啜るのは。
凝り固まった価値観ごと、腑抜けた脳内構造をぶっ壊せ。
生きるって、そう言うことだ。
命を繋ぐって、そう言うことだ。
信じるな、疑え。
美化した善性に価値はない。
人間とは、逃げ隠れ出来ない、打ち据えた陳腐な問題を、どう対処するのかで価値が決まる。
何を許容し、何を成すのか。
罪とは、何か。
そこで、試行錯誤しながら生まれるものこそが、罪だ。