ジャムの屋台
ヴァンデルガントの領都は、迷宮に例えられることがある。
古い城塞都市はどこも似たようなものだ。今は城壁も拡張され、多少は余裕もできたが、土地が足りないのは城塞都市の宿命とさえ言える。
野放図な増築により天を目指し、時々耐えかねて崩れる建物。路地には地域住民の手で植木鉢やじょうろが置かれ、上を見上げれば張り巡らされた洗濯紐と、そこに吊るされた洗濯物で空が隠されている。
城壁の中に張り巡らされた蜘蛛の巣のような路地はどこかで、大通りか広場に出るようになっている。
私達はいくつかの路地を通り、広場に出て、露店を軽く冷やかしながら、町を散策していたが、ある広場に差しかかったところでレティシアが私の手を取って、引っ張った。
一足先に建物の陰を抜けて、光の中に躍り出たレティシアが、手をつないだまま、私を振り返る。
眩しくて、思わず目を細めてしまった。
暗い路地に慣れた目に突き刺さる光が……あるいは、レティシアの笑顔が。
あまりにも、眩しくて。
レティシアの擬態は、完璧だった。
「アデル姉様、シエル姉様! 私、ヴァンデルガントに来たら、絶対ジャムの屋台に行くって決めてたんです!」
道行く人が、その姿を見て、思わず微笑むほど。
ああ、いいものを見たとでも言いたげにして、ゆったりした足取りですれちがっていく。
当たり前の日常こそが、何よりも大切なのだと言うように。
この中の誰が、金髪を短くして、赤いリボンの麦わら帽子をかぶった彼女のことを、公爵家の令嬢だと思うだろう。
……私の腹違いの妹で、"裏町"の出身で、【月光のリーベリウム】という恋愛シミュレーションゲームとやらの【主人公】だと、誰に分かるだろう。
とりあえず、擬態は完璧だ。
「レティ。何が食べたいの?」
「全部! ……は無理だから……えっと……」
シエルの問いに考え込む妹。
そして今、優しい、まさしく私の理想のお姉ちゃんといった風情で希望を聞いたシエルもまた、擬態は完璧だ。
普通にこれが素なのでは? と思うレティシアとは、振れ幅が違う。
うちの妹も、いつもよりはしゃいでいるような気もするが、今日のシエルは、いつもとはまったく違った。
これでも、いろんなシエルを見てきたつもりだ。
私が生まれる前からの付き合いなので、まだ幼かった頃の記憶がおぼろげなのは仕方ない。
それでも、幼い声の子守歌を、ぼんやりと覚えている。
私が大きくなってからは、熊のうじゃうじゃいる森に、同意なしに連れ込むようなハードな教育スタイルだったが。
当主になるまで、私を一令嬢として――『アデルお嬢様』として扱ってくれた、養育係にして教育係は、もういない。
「アデルは? 何が食べたい?」
……でも今、私の目の前には、その時よりさらに『お姉ちゃん』らしく振る舞う『シエルお姉様』がいた。
その『役』をやりたいが、多分、私には無理だろう。
「ブラックベリー……」
「そう。どうして?」
かつてリクエストしたことさえある、自然な笑顔が常時展開されていると、心臓に悪い。
思わず、目をそらしてしまった。……相手はシエルなのに。
「今年は豊作だって聞いているから、味を見ておきたくて……」
名目上は視察だ。
いや、実際にも視察だ。……そのはずだ。
「シエル……お姉様は?」
「ストロベリーかしら」
即答するシエル。
「じゃあ私は、あえてラズベリーで!」
メニューを見て悩んでいたレティシアも決めたようだ。
「レティシア。ベリー飴で、ラズベリーは食べたわよね」
「だから『あえて』なんです」
なるほど。一理ある。
「ブラックベリーとラズベリーとストロベリーを、一つずつ」
「はい、銅貨三枚ね」
ジャム売りのおばちゃんが、それぞれのジャムの入った瓶に、簡素な木製スプーンを入れながらシエルに答える。
「あ、シエル……お姉様」
「今日は私が出すわ」
ハンドバッグから財布を出して、銅貨を素早く、ぴったり出して会計をすませるシエル。
ジャムの盛られたスプーンを受け取りながら、彼女を見る。
一応、私もポケットに財布を入れてあるのだが。
「……いいの? あ、きみつ」
「いいえ。……お姉ちゃんもお給料貰ってるし、大丈夫よ、これぐらい」
うっかり機密費、と言いかけた私をさえぎるようにシエルが微笑んだ。
確かにシエルは、高給取りだ。
他の客がジャムの露店の前に来て、連れだって店の前を離れながら口を開いた。
「……前から聞きたかったことがあるのだけど」
「なあに?」
公爵家であるうちは、使用人にそれなりの給金を出している。――下手な裏切りを誘発させないために。
当主補佐にしてメイド長と、使用人の筆頭である彼女は、当家で一番の額を貰っている。……"影"としての危険手当もあるし。
「……シエルお姉様は、お給料を何に使ってるの?」
――その高額な給料を使っているのを、見たことがない。
シエルが、曖昧に微笑んだ。
「……秘密」
いい女はミステリアスなものだと、この前読んだ小説には書いていたが。
……考えてみれば、部下の身辺調査を欠かさない私が、シエルの身辺調査は命令したことがない。
新たに雇い入れる時を除く、不定期の身辺調査の対象を決定し、指示するのが、他ならぬシエルなのだ。
我が公爵家の安全保障の要であり……空白地帯。
シエルは私の養育係・兼・教育係として生まれた時から仕え、当主就任から今日まで、当主補佐として勤めてきた。
その彼女が裏切るようなことがあれば――我が公爵家の歴史が終わってもおかしくない。
……しかし、無駄金を使うこともないか。
うちのシエルに限って、何の不安があるというのか。
彼女にだって、主人に言いたくないことの一つや二つあるだろう。
そう割り切ることにして、簡素な木製スプーンに載った、黒く艶やかなジャムを口に運んだ。
うん、今年のブラックベリーは出来がいい。
砂糖の甘みに加えて、黒い果実本来の落ち着いた甘みと酸味が口の中に広がる。
屋台のジャムだから種があるかと思ったら、ちゃんと濾されていて、なめらかな舌触りも心地よい。
ちら、と隣のレティシアを見ると、頬を緩め、目を閉じてじっくりと味わっているところだった。
さらにシエルを見ると……彼女もまた、笑顔を浮かべていちごのジャムを味わっている。
「……シエルお姉様は、いちごが好き?」
「ええ」
……私は、自分の一生と同じ時間仕えてくれている、最も信頼する従者の好きな食べ物さえ知らなかったことに気が付いて、情けなくなった。
私に、好き嫌いをしないように教えたのは他ならぬシエルだが。
使用人である彼女が一緒に食事をする機会がそもそも少なく、また、彼女はいつもすまし顔で、私に表情を読ませないが。
さらに、好物を知られると毒を盛られる可能性が上がる……ということで、好きな物があっても人に悟らせないようにとの教育も受けたが。
――最後の教えは、レティシアという妹が出来てから、とても役に立っている気がする。
……シエルに気付かれていないかは不安なのだが。
「……ふと思ったんですけど」
レティシアが味わい尽くして綺麗になった木製スプーンを取り出して口を開き、私達二人は彼女に注目した。
「今キスしたら、ミックスベリー味になるんでしょうか」
注目して時間を無駄にした。
「何を馬鹿なことを」
「試してみる?」
ばっさりと切り捨てようとした私と、むしろそれを待っていたらしいレティシアは、同時にばっとシエルを見た。
「冗談よ」
すまし顔のシエル『お姉様』。
彼女は普段冗談を言わないだけに、妙に真剣味があって、心臓に悪い。
……だいたい、誰と誰が。
つい、二人の唇を見てしまった。
シエルの唇を見て、レティシアの唇を見て……目をそらす。
さっき思い切り跳ねて、心拍数が上がったままの心臓がどきどきしていた。
……恋愛物語のような恋には、縁がない身だというのに。
子供の頃から、最も条件が釣り合い、当家に利益をもたらす――あるいは国に利益をもたらす――相手と見合わされるのだと思っていた。
コンラートが相手にという噂もあったが、それだけはない。あいつだけはない。
そもそも我が家の名に怯えない結婚適齢期の男など、ほとんどいない。
強いて言えば【攻略対象】の三人か。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の名に怯えない胆力と……地位を持つ男達だからこそ、レティシアの……ヴァンデルヴァーツの令嬢の相手役なのだろう。
公爵家当主である私は、物語のような恋には、縁がない。
だからこそ、物語が好きだった。
この世界には、美しいものが、優しいものが、あると思えた。
辛いものが、苦しいものが、けして、自分一人に背負わされたものではないのだと思えた。
物語の登場人物にされた今では、思うところもあるが。
物語が幸福な結末を迎えるなら……最も幸福になる主人公の役が妹に与えられている限り、邪魔する気はない。
ブラックベリーのジャムの跡がついた、簡素な作りの木製スプーンを、見かけたゴミ箱に向けて放った。
カラン、と先に入っていたスプーンに折り重なって音を立てる。
シエルも捨てて……レティシアだけが、自分の手に持ったスプーンをじっと見ていた。
「……なにか気になることでも?」
「……ちょっと、もったいないなって」
ヴァンデルガントのジャムの露店で使われる木製スプーンは、郊外の製材所から出る木材の切れ端から作られているはずだ。
口当たりがよくなるよう、表面こそなめらかに加工されているが、耐久性はない。一山いくらの消耗品だ。
今では、銀のスプーンも使える身だろうに。
「……今、捨てます」
持って帰ったところで、使い道などないのだ。
それは妹も分かっていたようで、私がそれ以上何かを言う前に、自分のスプーンをゴミ箱に捨てた。
今では、公爵家の令嬢だろうに。
貴族として確かな成長を見せ、【主人公】らしくなる一方で……彼女の心は、まだ"裏町"に囚われている。
物語の中では、王子に騎士団長に医師長……三人の【攻略対象】のいずれかがパートナーとなり、いずれその心の隙間を埋めるのだろう。
……けれど、どうもそこまで親密になっているようにも見えない。
全員、明らかに妹狙いなのだが、肝心の妹が、三人の内の誰かを狙っている気配がない。
不甲斐ない男どもめ、と思う一方で、私の首が落ちない内にイチャつかれたら、自制できる自信もなくしつつある。
めでたしめでたしのカーテンコールに等しい【最後の舞踏会】と……ナレーションで済ませられる【断頭台】を除けば、重要な【イベント】は、あと二つ。
恋愛面で一つ。……ストーリー面で一つ。
それをどうにかするのは、悪役令嬢の役目ではない。主人公の役目だ。
「……レティシア。どこか、行きたい所はある?」
全てを妹に背負わせる罪悪感が、私にそんな似合わないことを言わせた。
私も手を尽くすつもりではあるが、シナリオ通りなら、誰も妹の代わりにはなれない。
【月光のリーベリウム】を演じるのならば、誰でもその立場に立てる。それゆえの【主人公】。
けれど同時に、絶対に動かせないからこその、主人公だ。
「いいんですか? ……なら」
妹が、そこで言葉を切って、視線をさまよわせた。
口を一度開いて、それを言葉にする勇気を持てなかったように閉じる。
……そんなに迷うほどの場所が、我がヴァンデルガント領にあっただろうか。
宝石店とか……? 店ごと買い占めるぐらいの財力はあるけど……。
ヴァンデルガントの知る人ぞ知る一画にある、『ウサギさん』がいるお店へ行きたいとか言われたらどうしよう。
あまりの様子に、まずありえない可能性が、次々と頭をよぎって不安になる。
それでもじっと待っていると、妹が、もう一度口を開いた。
「――湖に、行きたいです」
みずうみ?