サマー・ハニートラップ
まるで夏の妖精で、町中をその格好で歩いて大丈夫だろうか、と姉ながら心配になるほど、うちの妹は可愛い。
襟付きの白いシャツは半袖で、普段は隠れている腕が眩しい。半袖でこれなのだから、彼女が袖なしの服など着た日には、私の目は潰れるのではないか。
シャツに重ね着している、赤地に黄色いラインが入ったチェック生地のワンピースは、大きく胸元と背中が空いていて、腰の後ろで結ばれたリボンは、ひらひらと花の間を舞う蝶々のよう。
目の詰んだ麦わら帽子に巻かれた鮮やかな赤いリボンが、爽やかな中にも情熱を添えている。
そんな夏の太陽の莫大な熱量に似た、レティシアの愛らしさを受け止めきれずに思考がおかしくなっていたが、かろうじて理性を取り戻した。
私は、いわゆるハニートラップに引っかかる手合いを、どちらかと言えば軽蔑していた。
地位に見合う、責任も、覚悟もなかったのかと。
自分好みの相手が現れて愛をささやかれるという、都合のいい状況を疑問に思わなかったのかと。
しかし、かなり有効な手法なので、私自身、実行者に特別手当を弾んで、使ったこともある手法だ。
ただ、妹が来てから、そんなつもりのないだろう彼女の愛らしさに籠絡されそうなことが、何度もある。
さすがに思うところがあって。
私、仕掛けられたことがないだけで、実はハニートラップに弱いのでは?
公爵家に生まれ、公爵令嬢として、また次期当主として、多種多様な教育と訓練を受けてきた私だが、実は対ハニートラップ訓練を受けたことがない。
シエルは、それ以外の訓練や、それによって培われた貴族家当主としての常識で事足りると思ったのだろう。
賄賂を受け取るかどうかはケースバイケースです。時にはきっぱりと断る覚悟を持つこと。さらに脅し返したり、骨の髄までしゃぶり尽くす気概も大切です。
裏取引は条件を精査してから受けるかどうかを決めましょう。清廉であることは、嗅覚を鈍らせることでもあります。
美味すぎる話には注意しましょう。ほとんどの場合そういう手合いは、潰すか、潰した後に資産や構成員ごと吸収した方が公爵家の利益になります。遠慮は要りません。
優しい口調で、『当主心得』を説き、叩き込んでくれた教育係のことを、私は信頼しているわけだが。
教育内容は、当時の当主であるお父様も公認だったと聞いているが。
あれ、成人前の子供にする教育内容ではないよな、としみじみ。
教育に悪い。
私は、公爵家の長子として生まれ、次期当主として育てられた。
今のところ、当主として『しくじって』はいない。多分。
妹が可愛すぎて断頭台に行こうとはしているが、それだけだ。妹が継ぐので問題ない。
私も平たい円筒の帽子ケースから、自分の帽子を取り出した。
これは、シエルに命じて用意させたものだ。
自分の服も妹の服も、基本はシエルと"仕立屋"の見立てに任せている。
私はシエルを全面的に信頼している。
"仕立屋"も、服飾に関してだけは信頼している。
なので、事前チェックはしていない。
それが悪かったのだろうか。
出てきた帽子は、レティシアとお揃いだった。
この世で一番夏の似合う、妖精のように、ふっと、どこかへ行ってしまうのではないかと不安になるぐらい可愛い、うちの妹と同じ、麦わら帽子。
リボンだけ色違いで、青色だ。
鏡の前で、麦わら帽子をかぶる。
振り返ると――……妹は、挙動不審になっていた。
手のひらを開いた両手を前に突き出し、ふるふると震えている。
「ふわ……帽子、お揃いですか?」
どきりとする。
確かに、これは同じ店で買った品だろう。いつかの雪下ろしの時のイヤーマフと同じ、彼女の言う『お揃い』だ。
……それを妹が、どう思うか。
妹が、ぐっと両の拳を握った。
そして、思い切り叫ぶ。
「ユースタシア一、麦わら帽子が似合う! 夏の妖精! うちのお姉ちゃんが一番可愛い……!!」
反射的に、何を頭の悪い褒め言葉を言っているのだ、この妹は? ……と思ってしまった。
その直後、よく似た、しかし、もっと頭の悪い褒め言葉が脳内を駆け巡っていた自分のことが思い出され、心にダメージを負う。
「……そのような称号は、あなたに譲りますわ。――こんな庶民のかぶりもの」
くい、と指で帽子のつばを軽く下ろし、レティシアに背を向けると、さっきの褒め言葉を反芻する。
麦わら帽子が似合う? それは妹だ。
夏の妖精? それも妹だ。
一番可愛いのは? もちろん、うちの妹だ。議論の余地を認めない。
頭の悪い褒め言葉なのは間違いないが、それで喜んで、口元が緩んでしまう私も、頭が悪いらしい。
そこで鏡に映っていることに気が付いて、慌てて表情を引き締めた。
いや、一瞬で見えていまい。
「それと、『お姉様』と呼びなさい」
「あ、はい。では行きましょう、お姉様」
レティシアが、ごく自然な動作で私の手を取った。
あまりに自然に手を引かれたので、そのまま歩き出してしまったが、いけない。ハニートラップだ。
私は立ち止まった。
「お姉様?」
そして手を振り払う。
……いや、振り払ったつもりだった。
私はちゃんと力を込めて、手を引き抜きながら振った。
つまり、振り払えていないのは、レティシアがしっかり掴んでいるからだ。
さらに振り払おうとぶんぶんと振るが、レティシアが離さないので、お互いに腕が振られるだけで終わる。
妹が首をかしげた。
「お姉様。これ、何してるんですか?」
「いや、あなたが何をしてますの?」
私が聞かれるとは思わなかった。
「お姉様と手を繋いでいるだけですが、それが何か?」
そんなまっすぐな瞳で。
え? これ私がおかしいの?
何を言っているのだ、この妹は。
この瞬間にも常識が書き換わり、世界が改変されているのではないかという気持ち悪い感覚。
【月光のリーベリウム】の存在を知った瞬間に、価値観が書き換わった。
それを受け入れるには、しばしの時間が必要だったが。
今回は、ゆっくりと受け入れている余裕がない。
いや、受け入れる、理由がない。
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
【月光のリーベリウム】の"悪役令嬢"。妹をいじめる腹違いの姉として、主人公の前に立ちはだかる小悪党だ。
「いい加減になさい。庶民のような真似を。教えられた、貴族としての振る舞いも忘れたのですか」
妹が、ほやん……とした様子で首をかしげる。
その動作だけで、愛らしさに毒気を抜かれそうになるが、ぐっと気合いを入れて耐える。
「でも、今日の『視察』は、貴族じゃなくて平民の設定ですよね……?」
…………え?
それ、屋敷でも有効?
思いもよらぬ角度からの反論に言葉を失う。
確かにそういう設定だが。
「それは、屋敷を出てから……」
「そんなすぐに切り替える必要あります?」
……妹の腰が強い。
このまま押し問答をしても、埒があきそうもない。
何より、そうまでして得られるものは何もない。
この、つないだ手を離すだけ。
やむを得ず、私が折れた。
「……これは、演技ですからね」
「……はい、お姉様」
微笑む妹が、私の手を引いて歩き出した。
私の妹は、後ろ姿も可愛いな。
「ちゃんと、分かってますから」