選ばなかった選択肢
私は、二種の紋章――ヤモリと、一角獣の角付き兜――が入り交じった、領軍と騎士団の騎士・兵士達をぐるりと見回した。
「……ところで、ユースタシア騎士団側は、フェリクス騎士団長については話していたので?」
「いえ……ほら、あんまエピソードがないって言いますか……」
と言いつつ、口々に自分達の長である騎士団長について話すユースタシア騎士団員達。
「馬好き……?」
「それは誰でも知ってる」
「女より馬が好き……?」
「いや、そこ確定じゃないから」
「ソーセージは焼いたより茹でた方が好きとか」
「どうでもよくないかそれ」
……いや、どうでもよさでは、私についての話と大して変わらないのでは。
「まあ、ほら。うちの大将のことはいいんですよ。どうでも」
あはは、と笑う騎士団員達。
いや、そこはどうでもよくないだろう。
……と思いはしたものの。
彼らの気安い口調は、『うちの大将』――自分達の長であるフェリクスのことを、慕っているゆえだろう。
……あいつなら。
あの、細かいことを気にしない、豪快で、ガサツな騎士団長様なら。
自分の噂話をされている場所にも、笑って入れるのかもしれない。
自分の部下達と、もっと気安く交流して、もっと慕われることだって、できるだろう。
……私とは違って。
貴族として、公爵家として――"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の娘として生まれた、私とは違って。
フェリクスは平民として生まれ、十六の成人――入軍可能年齢――と同時にユースタシア王国軍に入り、後に王立の騎士団である"ユースタシア騎士団"へ引き抜かれ、騎士団長まで上り詰めた。
この間、十年に満たない出世劇。今も多くの少年少女を魅了するサクセスストーリーだ。
代替わり自体は先代が老齢で病死したゆえであり、若い騎士団長が望まれたのは、その反動もあるだろう。
……まあ、あいつのことはいいのだ。どうでも。
私は妹に顔を向け、口を開いた。
「帰りますわよ、レティシア」
「え?」
妹が、きょとん、とした顔で私を見返した。
「夜間演習まで見て行くつもりですか。今日の視察は、夕刻までの予定だ、と言ってあったでしょう」
「待ってください、お姉様。私はまだ、ここを離れるわけにはいきません」
背筋を伸ばすと、キリッ、とした顔になるレティシア。
「……その理由は?」
「そこのスープが出来上がったら、一緒に食べる約束をしていますので」
「…………」
ちら、と視線をやると、焚き火の上に渡された棒に、使い込まれた大鍋が、同じく使い込まれて黒々とした鎖と鉤で吊られている。
ぐつぐつと煮えていたし、意識するとなんだか美味しそうな匂いもしてきた。
「アーデルハイド様。よろしいではありませんか」
そこで、今まで黙って見守っていたシエルが口を開いた。
「シエル……」
「『共に塩を食べた仲間』ということわざもございます。――たとえ真似事であろうとも、将兵の気持ちを知るためには重要でしょう。まして貴方は正規の練成課程を終えた騎士です。……たまには、昔を思い出すのもよろしいかと」
私は、ヴァンデルヴァーツ家の当主だ。
でも、かつて騎士の称号を得るために――領軍の信頼を勝ち取るために、軍で過ごした。
よそよそしい同期。冷たい教官。心ない誹謗中傷の言葉。
実る努力ばかりでもない。自分の限界を思い知らされる。――己の心の弱さも。
恵まれた生まれで、金も時間もかかる騎士の練成課程に『特例』で加わっている身で、泣きたくなることも、辛いと思うことさえ、罪に思えて。
それでも、だんだんと同期が話しかけてくれるようになった。
教官も、厳しさは変わらなかったが、練成課程の半ばを過ぎた頃には、もう嫌味を言われたりはされなくて。
領都での買い物の際、市場で聞いてしまった『騎士団の訓練に遊び気分でやってきた領主のお嬢様』の心ない噂に、連れだって出かけた同期達は血相を変えて怒ってくれて、私が止めなければならなかったほど。
いつかの私が、血を滲むような努力で手に入れた、心地よい居場所。
『当主』になるとは、そこにはもう戻れないという意味だと、思っていた。
ヴァンデルヴァーツ家の当主は、名目上はヴァンデルガントの領主であり、領軍の最高指揮官だ。両方、頼りになる代行がいるが。
そして『悪役令嬢』になるとは、その立場に伴う責任と誇りを捨てるという意味だと、思っていた。
この世界を貫く運命がある。
運命が描いたシナリオにおける私は、『いじわるな腹違いの姉にして、人の優しさを解さぬ高慢ちきなお嬢様』。
そして妹は、とても健気で可愛くて努力家で可愛くて芯は強くて、もうとにかく可愛い。そんな『主人公』だ。
【悪役令嬢】と【主人公】が歩むべき道は違う。
でも、同じ世界、同じ舞台にいる。
――どんな舞台も、主人公は、一人では主人公になれないのだ。
脇を固める共演者が必要だ。もちろん、衣装係に小道具や大道具も。脚本は古典など既存の作品から選ぶか、脚本家が書く。演出もいる。座長は全部をまとめなくてはいけないし、自前で公演費用を賄えないなら、支援者から援助を引き出さないといけない。
私は悪役だ。断頭台へ行く。この国で、最も不名誉な刑罰を受ける。
出番が多い割に人気がなさそうな役だ。いいところがない。
そんな役を受け入れているのは、やはり共演者が妹だから……だろうか。
今でも、初対面の妹を一目見て抱きしめていれば、どうなっていただろうと思うことがある。
彼女に貴族称号を与えず、屋敷に招いて、部屋に閉じ込める。……愛玩動物を飼うように。
資金もなく、教養もなく、後ろ盾もなく。……私だけを頼らなければいけないようにして。
可愛がって、甘やかして、仲良くする。
彼女の仕事は、私がやる。
シナリオ通り、全ての布石を打つ。
妹と比較して圧倒的に可愛さが足りていないのと、攻略対象の男どもと絆を育んでいない分は、当主としての地位で埋める。
必要なら"影"と、領軍を使う。
何人を殺してでも、この国に降りかかる災厄を打ち払う。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主としての力を、存分に振るう。
そうしたら、私は生き残る。
そうしたら、私は妹と一緒にいられる……!
そうしたら。
……そうしたら?
そうしたら、それはもう、違う劇だ。
美しい小鳥を檻に閉じ込めて、調教して、歌わせて、それで満足だろうか。
純真な少女を監禁し、鎖に繋ぎ、薬を盛って、目と耳を塞いで、耳に優しい言葉をささやいて、洗脳して……そうやって、それで。
それで、満足できるだろうか?
そうして引き出した感情を、愛情と呼べるだろうか?
……それはそれで楽しそうで、やってみたいとも思ってしまうあたり、きっと私は、本当は権力を握ってはいけないタイプだ。
私は、それをできる。できてしまう。
常にその選択肢は、私の手の内にある。
今でさえ、そうしていたら、どうなっていたかと考えてしまう。
……今からでも、そうしたら――どうなるかと。
ただ、その選択肢を選ぶには、私は妹を好きになりすぎた。