熊と配膳
「ヴァンデルガント領軍では、騎士の訓練と仕事の一環に、害獣駆除がある。参加するのは、弓の適性があると判断されたやつだけだが。毎年あるわけでもない。鹿が多い年とかだな」
思い出したことを順番に語るような語り口。
それが、途切れた。
「……その年は、やばい熊が出た」
しん……と静まりかえり、焚き火のぱちぱちという音が、天幕の陰に隠れている私に聞こえてくるほどの静寂が訪れる。
熊は、愛らしいぬいぐるみとして店頭に並んでもいるが、実際は大陸最大の肉食獣だ。
害獣駆除は狩人組合の仕事で、領軍はギルドからの要請を受けて手伝いをするという形になる。
要請が来るパターンは二つ。
一つ。数が多すぎて手が足りない。
一つ。――獲物が凶悪すぎて、狩人達が怯えている。
「重装騎兵用の軍馬の首をへし折って、引きずって持っていきやがった。ようやく見つけたら、腐りやすいはらわただけ食われて、埋められてんのさ。……こいつは自分のもんだ、って主張するみたいにな」
軍用馬には、大きく分けて二種類いる。雑役用と、騎乗用だ。
さらに弓騎兵用の、より速く走れるように選抜育成されたものと、重装騎兵用の、より重い乗り手を乗せて走れるように選抜育成されたものに分かれる。
重装騎兵が騎乗するための、体格がよく体重も重い馬を仕留め、軽々と引きずって連れ去るような真似は、最大クラスの大熊にしかできない。
そしてその年の熊は、そういう大熊だった。
「狩人組合の熊猟師と、領軍騎士と……オレ達、候補生。そん中に、アーデルハイド様もいた」
いたなあ。
というか、また私の話なのか。
「ヴァンデルヴァーツ家の管理する矢毒が、特別だって配られた。熊用の、強力な奴だ。矢に番号が振られて、管理されるんだよ。一人あたり、たった二本。そいつが生命線だ」
そこで、記憶の海に沈むように、言葉が途切れた。
「そ、それで?」
レティシアが促し、彼が話を再開する。
「いやに慣れてたよ。オレら候補生組はな、びくびく怯えてるんだ。いや、現役の騎士だってそうさ。熊猟師の中にも怯えてる奴がいた。――アーデルハイド様は、怯えてなかった」
ここまでは正しかった認識が、急に歪んだ。
内心では、めちゃくちゃ怯えてた。
「熊猟師に怖くないのかって聞かれて、こう答えなさったよ」
そこで溜める。
熊猟師に怖くないのかと聞かれたこと……あったような気もする。
「『怖いのが当たり前でしょう。でも、慣れていますから』――って」
そんな風に答えただろうか。
「……そん時のアーデルハイド様は、十六だぜ? それが、怖いのは当たり前で、でも慣れてるって……何にだよ?」
また静まりかえる。
それぞれの心の中で、先の問いの答えを思い浮かべているのだろう。
まさか、公爵家の次期当主である、爵位継承権第一位の貴族令嬢が、成人前に、教育係のメイドに連れられて、ハルガウ家とヴァンデルヴァーツ家の領地が接するあたりの"黒い森"を横断させられているとは、夢にも思うまい。
でも、あのあたりの熊密集地でもそうそう見ないレベルの大熊だったし、普通に怖かった。
私は、恐怖や動揺を他人に見せないように教えられただけだ。
「オレ達は、班分けして、熊を探してた。馬が埋められた場所に案内してくれる熊猟師が一人、現役の騎士が一人、候補生が三人の、合計五人……だったな」
確かにそういう班分けだった。
数を増やしすぎてもむしろパニックで同士討ちしかねない。少なすぎれば危険すぎる……という、ギリギリの線。単独で狩りをする熊猟師もいることを考えれば、人数は多い。
もし人の気配に怯えて奥に退くならそれもよし。そうでなければ数に任せて見つけ、速やかに駆除する。
軍用馬は、戦略物資だ。――ユースタシア王国が周辺諸国に対し、軍事的優位性を保つために、絶対に必要なのだ。
「運が良かったのか、悪かったのか……オレ達の班が、その大熊を見つけた。熊猟師が後ろから射たら、振り向いて、その矢は頭蓋骨に弾かれた。オレ達の矢もおんなじさ。突進中の奴の毛皮に弾かれたり、浅くしか刺さらなかったり……」
誰かが唾を呑む音さえも聞こえるような、張り詰めた静寂。
遠くから聞こえる、演習終わりの和やかな談笑の声さえも、その静寂に入り込めない。
最初に言った「情感たっぷりには話せない」とはなんだったのか。むしろ淡々とした語り口が内容にふさわしい。
「ああ、アイツは死んだ、って思ったよ。『熊からは、背中を向けて逃げるな』って教えてくれた当の猟師が背中向けて逃げるんだからな。すげえ速度で追いすがる熊に、オレ達は二本目の矢を射た。的がでかいから、当たるには当たる。……どこも致命傷にはほど遠い」
私も、『全滅』を覚悟した。
――その猟師を見捨てるかどうか。
さらに、何人を『盾』に使うか、その判断を迫られた。
「そこで横合いから、心臓にぐさり。――そいつを仕留めたのは、アーデルハイド様の矢だった」
「わあ……っ」「いい腕だな」「熊殺し」「クマより強いヤモリ」「毒矢の扱いが上手すぎる」「いいとこ持ってくなあ」「さすが"冷……ヴァンデルヴァーツ」「お前ならできそうだよな」「どうかな。お前が襲われてるところを狙うかもしれない」……最後の二人は、さっきから仲がいいのか悪いのか。
「それも、矢を一本残してた。オレ達は早々に二本とも射ちまったのにな」
それも、事実だ。
しかし、極限状態で認識に歪みが見られる。
『トドメになった』のは確かに私の矢かもしれないが『仕留めた』のは、多分、全員分の矢だ。
弾かれた、あるいは刺さりが甘かったとはいえ、かすめるだけでも人が死ぬ猛毒だ。私が射た時点で既に弱ってはいた。
あの巨体では、毒の回りが遅い。ヴァンデルヴァーツ謹製の致死毒をもってしても、一本で殺せた気がしない。
毒矢を一本残していたのも、よく言えば確実に仕留めるためだ。
……悪く言えば、自分一人が生き延びるため。
結果的に全員が生き残ったのは、喜ばしいことだが。
さっき誰かが「お前が襲われているところを狙うかもしれない」と言ったが、それはある意味、必要な冷徹さだ。
私は、最初に襲われないポジションにいたから、冷静でいられただけなのだ。
私はあの場で、自分の命に一番高い値段を付けた。
何人を犠牲にするか、常に計算していた。
仲間を、盾や囮として見た。
道理で、記憶がおぼろげだったわけだ。
忘れていたかったと。そういうことだ。
――私にとっては、華々しい活躍とは、ほど遠い。
自分の中の醜さと、正面から向き合わざるを得なかった記憶だ。
単純に、大熊が怖かったというのもある。
「わ、私からもいいですか?」
次に聞こえたのは、若い女の声。
この話だけ、と思っていたが。……もう一つぐらい聞いていってもいいか。
「あんた、配膳係の……」
「はい。私、領軍付きで、調理と配膳をしてるんです」
「いつもお世話になってるよ!」
「そうそう!」
声が上がる。
そういえば、彼女の声には、聞き覚えがあるような、ないような……。
「ありがとうございます! ……それで、騎士の練成課程も、ほんの一部だけど、知ってます」
ああ、やはり聞き覚えがある。声を思い出すのと同時に顔も思い出した。赤毛を三つ編みにした、そばかすのある素朴な感じの娘だ。
一応、配膳係の顔は覚えるようにしていた。……安全のために。
それに何より、若い女の子が笑顔で迎えてくれるので、私達同期の中で、人気があったのだ。
「食事時になると、みなさんお腹空かして、腹の虫がぐーぐー鳴るんですけど」
懐かしい。
思い出すと腹の虫が鳴きそうで、思わずぐっと腹に力を込めた。
「アーデルハイド様はいつもすまし顔で、私はやっぱり貴族のお嬢様って違うんだなあって」
うん。イメージを崩さないために頑張った。
訓練中にどれだけ取り繕えていたかは分からないが、食事時などは公爵家令嬢として、また次期当主として叩き込まれたマナーの出番だ。
騎士ともなれば、礼儀も欠かすことはできない。
特に上級騎士になるためには、マナー講座などもある。
「……でも、ある時、一回、くぅ~……って、お腹が可愛く鳴ってですね」
え?
「ちらっと周りを見渡して、誰にも聞かれなかった……ってほっとした顔をして。それがもう可愛らしくて……!」
……不覚。
というかなんだそのエピソード。どこ向けだ。
そして重ねて不覚だ。気付かれたことに気付かなかったとは。
……いや、気付いていても何もしないけど。
「思わず大盛りにしてしまいました。無限に食べさせたい」
「分かる」
「いい仕事したな」
「自分の分を全部回したい」
サービスされていたらしい。
気付かなかった。
……人の悪意にばかり、敏感で。
ささやかな厚意にさえ、鈍感で。
「記憶をください」
「無理です、レティシアお嬢様。後、目が怖いです」
……何を言っているのだ、うちの妹は。
話が途切れたこの瞬間に、今来た風を装って場に入るか、いっそ背を向けて去るかを考えた。
しかし、戦場ではゆっくりと考えている余裕がないことも多い。
刻一刻と状況は移り変わる。
――妹の声が聞こえた。
「では、そろそろまた私の出番ですね!」
……また?