焚き火とチョコレート
私は、一人で訓練を見回りつつ、シエルとレティシアを探して歩いていた。
しかし、合流できないまま、日が傾きつつある。
今日は夜間演習も予定されているが、夜戦は――グレーゾーンだ。
夜戦を禁じる条約はない。
しかし慣習では、日が暮れる前に戦闘を終えるのが一般的となっている。
――暗いと、単純に同士討ちする確率が上がる。それに、敵の指揮官は生かして捕らえた方が戦闘は早く終わるし、身代金も取れる。……貴族や上級騎士の生存率が高い理由だ。
そういった慣習のない、市民による反乱だと逆に、貴族や上級騎士は捕まった時点でだいたい死ぬ。
その場で殺されず、私刑に掛けられることもあるが、やっぱりだいたい死ぬ。
素人がやる拷問は、要は気分に任せて痛めつけ傷つけるだけであり、失血や体力の消耗といった要素に対する『気遣い』がない。
よって、救出されるまで生きている可能性はとても低い。
それはともかく、夜戦を禁じる条約は存在しない。つまり、夜戦に備えなければならないということだ。
今回は、ある程度戦力が拮抗した軍隊相手を前提にした大規模演習だが、盗賊の相手も軍隊の仕事。そういった場合は夜間に襲撃を受ける可能性もあるだろう。
とはいえ、気を張りすぎるのもよくない。
歩哨は置かれているが、警戒はその程度で、そこかしこで煮炊きの煙が上がっていた。
焚き火を囲んで、簡単な食事を共にしながら、親睦を深め合う段階だ。
これはもう、一度、シエルとレティシアとの合流を諦めるべきかもしれない。
「――では、次は俺が。ベルクホルン連峰での冬季訓練の時の話だ」
……懐かしい訓練の名前が聞こえてきて、思わず足が止まっていた。
ベルクホルン連峰。ヴァンデルガント領の中でも最北に位置する山々の総称だ。
一応、一つ一つに名前はあるのだが、地方によって呼び名が違うので、個別の名前で呼ばれることは少ない。論争の元だ。
軍事作戦時は国が定めた『正式な』名前を使う規定になっているが、その時にいちいち個別の山を名指しするかどうか。基本的には、近隣の村や町を目標地点にすることになるだろう。
「ヴァンデルガント領における騎士の練成課程の中でも、最も過酷だろう」
うんうん。
物資用の天幕の陰に隠れた私は、心の中で思い切り頷いて同意した。実際にも、ちょっと頷いていた。
「重装鎧での実戦訓練とは違い、山岳用の装備は金属鎧を着ない。――重装鎧を着て動けるような場所ではないんだ」
冬期におけるユースタシア北部は雪が深く、馬は足を取られ、重装鎧は重量で足を取られ、何より、金属鎧を素手で扱うことさえできない。
革も濡れて凍り、ひび割れやすい。必然的に、毛皮のコートを鎧と言い張らねばならないような過酷な環境だ。
騎士としてのアドバンテージを生かせない戦場だが、そこが自国の領土であるのならば、戦力を展開する必要がある……かもしれない。
少なくとも、可能性に対しては、備えが必要だ。
「その中でも、雪中行軍は過酷だ。足が沈まないように、『かんじき』という……雪山用の靴のようなものを履くんだが、それでも雪山に慣れている者ばかりではないからな。足を取られ、思うように進まない」
北部の雪深い地域出身の者は、すいすいと歩き、この訓練においては英雄のように扱われる。
なお、ここで他の者に惜しみなくコツを教えておくと後でも敬意を払われるが、ここで調子に乗ると、後で痛い目を見る。
「寝る時は、携帯用のシャベルで雪に穴を掘って、雪を積んで、寝床を作るんだ。意外と温かくてな。四人一組で一つを使うんだが……」
シエルは、自分も一緒の班になると言って聞かなかったが、もちろん認めなかった。正規の訓練手順を乱せるはずがない。
しかし、しれっと教官側――正確に言えば、事故防止のための現地協力員――に潜り込んでいたあたり、うちの教育係は底が知れない。
「……俺はそこで、アーデルハイド様と一緒だったんだ」
……ん?
今、私の名前が。
――同期か。
「俺達は、行軍中に装備の一部をなくしていてな。ほとんどは無事だったんだが、班ごとに割り当てられた行動食……それも、よりによってチョコレートがなくなっているのに気が付いたんだ」
騎士達から、あぁ~……というため息が聞こえる。多分、練成課程を受けた領軍騎士だろう。
騎士候補生は、割といいものを食べられるが、野外では限度がある。
その中で、チョコレートは軽いのに力が出るということで、軍でも採用されている行動食だ。
もちろん、人気も高い。
ことに雪山となれば、その価値は天井知らずだ。
「予備の行動食が入ってる背嚢に穴が空いてて……な。みんな個人の手持ち分は、もう食べちまってた。……アーデルハイド様以外はな」
そんなこともあったなあ、と懐かしく訓練の様子が思い返される。
つきん、と鼻の奥が痛む、雪山の刺すような冷気も。
「アーデルハイド様は、どうされたと思う?」
「ど、どうしたんですか?」
……ん?
今、妹の声が。
……確かに見学していろと言ったけど。
「四つに割って、全員に分けてくださったんだよ。……あれは俺達が食った、一番美味いチョコレートだった……」
「羨ましい……!」「ほう……」「そのチョコ美味そう」「高級菓子店でも出せない味」「殿堂入りすぎる」「なかなかできませんよね」「ギリギリの時に人の本性って出るよな」「お前できるか?」「お前の前で美味そうに食うことならできる」などなど。
なお、最初はレティシアだ。いったい何が羨ましいのか。
……何やら美談にされている。
しかし冷静に考えたら分かることなのだが。
くだんの冬季訓練は練成課程の後半だ。貴族のお嬢様風情が、という視線は薄れていた頃。
しかし、雪中行軍で疲れ果て、目がぎらついた奴らの前で、自分一人だけ、チョコレートを食えるだろうか?
無理。
厳しい訓練を共に受ける同期への連帯感とか、貴族としての好感度稼ぎとか、そういう次元じゃなくて、単純に空気の圧が無理。
後で食べようと大事に取っておいた、分けるべき理由など何一つない、個人用の割り当てだったとしても、だ。
なので、私の中では『取っておいたチョコを食われた』エピソードなのだが、どうも解釈が違っているらしい。
「じゃあ、次はオレだな。……あー、オレは、そんな情感たっぷりには話せないから、期待はするな」
その前置きが、かえって実話らしい。
すっかり出るタイミングをなくしてしまい、とりあえずこの話だけ、と、天幕の裏に、ヤモリのように張り付いて隠れながら聞くことにした。