薄暗い天幕
私はフェリクスに、指揮官用の天幕の一つに案内された。
上の方に空いた、採光用の隙間から光が入っているが、それでも薄暗い。
簡易組み立て式の机の上に、一枚の地図が広げられている。領都周辺――つまり、この演習場付近の地図だ。
地図のそばに置かれた箱の中には、木の駒に、台座付きの色とりどりの旗。紙片にペン。
今日は図上演習ではないが、一通りの道具が収められた紙箱が、差し込んだ光に照らされて浮かび上がる。
勧められる前に、丸椅子の一つに腰かけた。
フェリクスも机を挟んで座る。
色褪せた金髪は獅子のたてがみのよう。眉と頬に白い傷跡が走る精悍な褐色肌。座った位置が、丁度顔に光が当たるため細められている瞳は、金に近い薄茶色。
かつて騎士の練成課程を受けた身としては、恵まれた体格を、努力で磨き上げたような肉体と身のこなしに、思わず惚れ惚れしてしまう。
まったく、私が彼のようなワイルド系イケメンが好きだったら、差し向かいで座るだけでも楽しい時間だったろうに。
「それで、用件は?」
単刀直入に切り出した。
私は腹の探り合いや、真綿で首を絞めるような物言いも、必要ならする。
が、面倒なのは嫌いだ。
「――騎士団長として、話したいことがあってな」
彼は軍人らしく、シンプルな物言いを好む。
なので、話しやすいと言えば話しやすい。
「アーデルハイド。ヴァンデルガント領の兵は精強と名高い。あの武の公爵家"豪胆無比のハルガウ"の当主も、戦いたくない相手の筆頭は、ユースタシア騎士団と、ヴァンデルガント領軍だ……と、俺の騎士団と並び評したほどだ」
「それは光栄ですわね」
「――何か、秘密でもあるのか?」
探るような言葉。
私にしては珍しく、探られて痛い腹もないので、正直に答える。
「秘密などありませんわ。もちろん、強い軍になるよう、多少の努力はしておりますが」
「……その『努力』がどのようなものか、教えてくれるか?」
真剣な表情だった。
ユースタシア騎士団の長としての顔だ。
騎士団の強さに責任を持ち、それを高める義務を負う『貴族』としての顔。
なので、私もそれに貴族として応えることにした。
「――ヴァンデルガント領軍の給金は、王国平均と比べて、二割ほど高く設定されています」
天幕の内に、沈黙が落ちる。
ややあって、彼が口を開いた。
「……それで、続きは?」
「終わりですわ」
怪訝そうな顔になるフェリクス。
「は? ――それだけか?」
「それだけですわ」
彼の太い眉がぐいっと寄せられ、ますます眉間にしわが寄る。
「なぜ……それだけで?」
「――フェリクス。あなたの騎士団には、国中から優秀な者が集まるわね」
騎士団長が頷いた。
「ああ」
「兵士として勤め、実力が認められれば名誉ある騎士に任ぜられ、さらに叙爵もありうる。"リッター"の称号は、多くの者が憧れる栄光の象徴でしょう」
名誉を最も重要だと考える者は多い。特に若者と、老人だ。
私は実利派ではあるが、それはそれとして家名に誇りを持ってもいるので、そういうのも分かるつもりだ。
――同時に、それを求めない者がいることも。
「ヴァンデルヴァーツは、それに代わる物を用意したの。自分が王国最高の騎士になれると信じる英雄志願でなくとも、危険と給金を天秤に載せて、将来を考えた際に軍を選ぶ優秀な若者が、『他』よりも優先する要素を、一つ用意したの」
「本当にそれだけなのか?」
「本当にそれだけですわ」
私は、仕事に関することで嘘は言わない。
いや、嘘をつく仕事もあるのだが、対等な相手に、無用な嘘はつかない。
「最精鋭が集うユースタシアの騎士団でも、荒くれが集うハルガウの戦士団でもない。それでも、ヴァンデルガントの領軍には、ユースタシア全土から素質ある若者が集う。……資金も二割ほど余計にかかりますが、ね」
王国騎士団は名誉を重視する者が行けばいい。
荒々しい武を求めるなら、ハルガウの戦士団がある。
ならば我が領が求めるのは、利益を目当てに剣を取れる現実主義者となる。
「金目当ての者を集めただけだと?」
「金をばらまいているわけでもありませんし、訓練は王国の定めた王国兵の基準通りでしてよ。脱落する者もいますし、あの訓練課程をこなせば、残った者は自然と精鋭になりますわ」
訓練課程をこなせれば、の話だ。
実際は脱落者がそれなりの数、出てしまう。
そうやって選り抜いた精鋭に、最低限の契約期間で出て行かれては赤字もはなはだしいので、定着率が高いに越したことはないのだ。
「ん……それは俺の騎士団でも、ハルガウの戦士団でも課題だが」
「あなた達のところは、名誉や武勇で釣っているのでしょう。私のところは金銭で釣っているまでですわ。稼がねばならない理由がある者は、そうそう『仕事』を投げ出さないものです」
仕事と見た時、実入りはいいのだ。
特に平時ならば、ほとんど危険もない。厳しい訓練ではあるが。
「それで、理念が守られると?」
「――『誰も、飢えぬ国を作ろう』」
私は声色を変えて、芝居がかった重々しい口調でそう宣言し、続けた。
「『誰も、凍えぬ国を作ろう。誰も、刃に怯えぬ国を作ろう。それぞれが己が領分を守り、我らはこの地上に楽土を作ろう』」
フェリクスがうなる。
「……ユースタシアの初代国王……建国王の演説の一節か」
「さすが騎士団長、教養も修めていますわね」
この騎士団長殿は馬鹿ではない。
ガサツではあるが。
「それで? それがどう答えになる?」
「剣を握る前に飢えず凍えぬ環境を、ということですわ。私達貴族が支配者面をしていられるのも、財産に余裕がある間だけ。貧すれば鈍するが世の習い。逆を言えば、衣食住が足りれば、理念など追いついてきます」
フェリクスがため息をついた。
「……お前の言う、名誉と栄光を象徴する騎士団の長としては、認めていいのか分からんな」
「そういうあなただからユースタシア騎士団の長に相応しいのでしょうが、心には留めておきなさい。飢えた兵を率いて戦争をしたくはないでしょう」
我がユースタシアは強国だ。
だが、リソースは無限ではない。二代目の王が、建国王の掲げた大陸制覇という目標を諦め、ほぼ今の国境線を定めてくれてよかったと思う。
それは、血塗られた夢だ。
楽土など、理想郷など、どこにもない。
今ではない、いつか。ここではない、どこか。――そんな先の未来にさえ。
それでも、理想を語った人がいた。
今よりも少しマシな世界を、欲した人達がいた。
私達貴族は、その子孫だ。
「ああ、心に留めておこう。――有意義な時間だった。感謝する」
「役に立てたなら幸いですわ」
頷き合う。
そこで、彼が目を細めた。
瞳に反射する光が消え、薄茶の瞳が暗く陰る。
「もう一つ、個人的に話したいことがあってな」
「個人的に? では、聞く義務はありませんわね」
「この間の乗馬の件だ」
私が立ち上がるのに合わせて、彼も立ち上がった。
「あの時、何をした。――何がしたかった」
「……落馬したこと? 恥ずかしい限りですわ。――もうよろしい?」
手をひらひらと振るが、彼は机に甲冑の端をこすりながら回り込み、手首を握り込んで私の動きを止めた。
「嘘を、つくな」
軽く力が入れられる。
まだ痛くはないが、こいつが本気なら手首を握り折ることも容易い。
「お前が? 自分で育てたあの名馬に乗って? ――『落馬』?」
一言一言を刻み込むように。
「そんなものを俺が信じると、本当に思ったのか、アーデルハイド」
彼は、瞳に剣の切っ先のような鋭さを湛えて、私を睨み付けた。
「お前と、お前のとこのメイドは、今すぐ弓騎兵として俺の騎士団に欲しいぐらいの腕前だ。落ちるにしても、妹まで巻き込むものか。……あまりふざけるなよ」
「ふざけてなどいませんわ」
あれでも精一杯頑張った方だ。
今すぐ苦情を、運命か、シナリオを書いた見えざる劇作家に回したい。いや、両方に送りたい。
「何がしたいのかまったく分からん。お前は冷徹で、非情で、悪辣で、性格が悪くて――」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「だが、お前のやることには筋が通ってた」
……意外な評価だ。
ルインズ『共和国』での紛争調停において、私の進言が、彼の部下を死地に追いやった。
だから、嫌われて当然だと――嫌われるべきだと、思っていた。
実際、今も散々に言われた。
それでも職務上はそれを見せない辺り、大人なのだなと思っていたが。
「それがなんだ? 最近のお前は、意味が分からん……!」
「分からなくて結構ですわ」
実は私も分からなくなってきている節がある。
……こういうシーンも、【月光のリーベリウム】に、あったのだろうか?
この物語は、主人公である妹の視点で進む。
ゆえに、頼るべき台本である【テキストログ】にないシーンも多い。
今のように。
……悪役令嬢とは、舞台裏で、騎士団長に詰問されるものだろうか?
「……お前。レティシアのこと、どう思ってる」
「妹ですわ。腹違いの」
すぐに『事実』を答えると、彼は答えに満足しなかったらしく、問いを重ねた。
「……『お前は』どう思ってる」
――『私が』どう思っているか?
そんなもの、決まっている。
最初から、私の気持ちも、歩むべき道も、何もかも。
決まっている。
「……目障りね。視界から消えて欲しいと、思っていますわ」
「それがお前の本音か」
「ええ」
さっさと視界から消えて欲しい。
――あの子の視界から、私が。
ぐっ、と手首を握る手に力が入り、反射的にびくっと震えた。……情けない。
シエルもいない。他の"影"もいない。毒も、隠し武器も仕込んでいない。――何もできない。
それでも、腹の底に力を込めて、高い位置にある顔を、睨み返した。
ふっと、手首を握る手から、力が抜ける。
「……そうか」
フェリクスが、ぽつりと呟いた。
手が離され、彼が背を向ける。
乱暴に、机の上の箱に手を突っ込んで、駒を地図の上にばらまいた。
こちらを向かないまま、抑揚のない声で告げられる。
「もういい」
「もういいって、そんな一方的な」
「――時間を割いていただき、感謝する。ヴァンデルヴァーツ家、当主殿」
それ以上は何も言えない。
そもそも退席しようとしていたのだ。
「ごきげんよう、ユースタシア騎士団、騎士団長殿」
そう言い捨てて天幕を後にする。
意趣返しのつもりだったが、まったく気が晴れない。
……いや、これでいいのだ。悪役令嬢は、嫌われている方が都合がいい。
しばらく歩いた所で、立ち止まる。
さす……と、掴まれていた手首をさすった。
握られていた感触は、まだ残っている。
けれど、痛みは、もう残っていない。
空を見上げる。
雲一つなかった青空に、ぽつんと白い雲が浮いていた。
じりじりと肌を炙る夏の日差しの中、私はしばらくの間、ぼうっと立ち尽くしていた。
天幕に戻ることも、前に進むことも、どちらも選べずに。
さっきの薄暗い天幕の中に、何かを置き忘れてきてしまったような。
それが、大切な物だったような。
そんな、気がして。