騎士が役立たずの世界
「刃は落としていますが、軽々しく扱わないように」
「はい、お姉様」
妹が、私の手を包み込むようにして剣を受け取った。
しっかりと握ったのを確認して、支えていた手を放す。
「…………」
レティシアが、両手で捧げ持つようにした剣を、ゆっくりと目の前に掲げる。
そのまま視線を上げて、切っ先を見た。
研ぎ澄まされて、こそいないが、磨かれた刃が太陽の光を反射してきらめく。
「重い……」
ぽつりと呟くような言葉。
場に、どこか厳粛な空気が満ちる。
一本の剣は、荷物のように持つならそれほどの重さではない。
しかし、これを手に持って振り回すとなれば。
当たれば肉を裂き、骨を断ち、血が流れる、人殺しの武器として握るとなれば。
その重さは、まったく違うものとなる。
「――俺は、お前に剣の重さを知ってほしいと思った」
合同演習の喧噪は、どこか遠く。
騎士団長の言葉が、染み入るように紡がれていく。
「レティシア。お前は、貴族だから。だが、お前には剣を握ってほしくないとも思っている。お前は、騎士ではないから」
バランスを保つために、ゆっくりと揺れる剣先。
フェリクスが手を差し出し、レティシアがそっと剣を下ろして渡す。
少し離れると、彼は迷いを振り払うように、受け取った剣を振った。
真横に鋭く空気を切り裂き、十字に切り下ろし、先のレティシアと同じように両手で捧げ持って掲げる。
その剣先は、微動だにしない。
「わっ……」
レティシアの感嘆の声が漏れる。
周りの騎士達からも、ほうっという感嘆の吐息が聞こえてきた。
ユースタシア騎士団の騎士団長の座は、剣の腕だけで手に入るものではない。――だが、フェリクスは「剣の腕だけで騎士団長になった」と陰口を叩かれるほどの剣士だ。
異例の若さで騎士団長となった彼へのやっかみだが、陰口さえ賞賛の体を取っているあたり、フェリクスが次代を担う若手を中心に、絶大な支持を受けていることが分かる。
経験が足りないと言われることもあるが、それに関しては、仕方ない。
そもそも、『戦争』を経験した者が今のユースタシア王国にはいないのだから。
フェリクスが指揮したルインズ公国の紛争調停は、あくまで『内部紛争』を収めるための支援。……国家間の争いではない、という名目だ。
一応は国家を名乗ったルインズ共和国には気の毒な気もするが。
いくらユースタシア王国軍とはいえ、数に勝り、士気も高い共和国軍が優勢では……という世間の下馬評に反し、こちらの被害は驚くほどに少なく――図らずも、ユースタシア騎士団の名を大陸中に知らしめた。
それでも、『被害』は出た。
公式の発言でこそないが、フェリクスをして、「あんなものは軍隊ではなかった」と言わしめた烏合の衆相手に、それでも。
我が国の騎士が死んだ。
「俺達は、騎士だ。剣を握ることが仕事だ。……血を流すことが仕事だとは、思いたくないが」
命令を下したのは、陛下。
……敵戦力の調査を命じ、その調査結果を元にして『紛争調停』のための出兵を進言したのは、他ならぬ私。
そして手を汚したのは、騎士団長率いる"ユースタシア騎士団"だ。
「……俺達は、民の生活を知っているとは言い難い。だが、民の方も、騎士の生活を知っているわけではない」
志願兵で構成されるユースタシア王国の騎士・兵士は、ほとんどが庶民出身だ。
理想に燃えて軍に志願する者もいる。
しかしほとんどの者達は、ある程度の年齢になった時、『最も現実的な選択肢』として、軍を選んだ。
門戸は広く開かれている。ユースタシアの民であることを絶対条件とし、後は、健康な身体と……少々の覚悟さえあれば、誰でも志願できる。
それもまた、民の生活と言えるだろう。
しかし、軍隊は何も生み出さない。
「【俺は、畑を耕す辛さを、森で獣を狩る辛さを、海に船を出す辛さを、本当には知らない。――けれど彼らも、剣と鎧の重さを、剣を握る辛さを、知らないだろう。……それでいい】」
彼の声に、痛みが混じった。
そのせいで、一瞬気が付くのが遅れる。――これは、【公式ゼリフ】だ。
「【血を流すのは、俺達だけでいい】」
鉄を噛むような、重い言葉。
恋愛物語に重みを足すための設定とセリフだったのかもしれないが、彼は実際に血を流した。……部下と、『敵』の血を。
「【騎士が役立たずの世界が、ようやく訪れようとしている】」
それは、幻想かもしれない。
各国の事情はそれぞれだ。恒久平和を理想としている国ばかりではない。
今の国境の全てが平和的に決まったわけではない。
血が染みこんだ土地があり、憎しみが語り継がれている地域がある。
……それでも、今この世界は安定している。
ルインズ公国のような……不幸な例もあるが。
各国が睨み合い、水面下では火花を散らしているとしても、全面戦争よりは余程いいと考える人間の方が、多いのだ。
そしてユースタシア王国が、少なくとも今日、軍隊を集めてすることが演習で、明日も戦火に呑まれないだろう立ち位置にいるのは、騎士団の精強さが大きい。
痩せて貧しい土地も多いが、広大な国土を持ち、土地の貧しさゆえに、それを補う技術を尊び、怠惰を嫌う国民性が育った。
ユースタシアに安寧を。
ユースタシア騎士団も、ヴァンデルヴァーツ家も、その一点でのみ、手を取り合える。
共に義務を果たし、忠誠を捧げることができる。
「誰より一番平和を願っているのは、自分達だという自信がありますよ」
「違いない」
「まったくだ」
騎士達が軽口を叩き、空気が緩んだ。
さらにフェリクスが大口を開けて笑い返すことで、厳粛な空気はどこかへ行った――それでも、さっきの言葉はこの場にいる者の胸に残るだろう。
私とレティシアも、淑女としての礼を失さない程度に笑う。
妹は、今ので残りの半分も惚れたかもしれないぐらい可愛い。
「アーデルハイド。お前も、久しぶりに握ってみたらどうだ?」
フェリクスが、剣の刃を下にして差し出してきた。