歩むべき道
ユースタシアの宮廷医師団に憧れる若者は多い。
ソニアもまた、その一人だった。
黒いラインが入った白いコート。その医師団のトレードマークをまとう自分が、誇らしくなかったはずがない。
人を救う組織だ。……腐っている部分があったとして、全てではない。
矛盾を抱えつつ、苦しみつつ、それでも医師長の改革まで、医師団を支え続け、老いも若きも富める者も貧しき者も、この国のあまねく全てに医療を届けようと、志を保ち続けた医師達がいる。
彼女はコートを脱いだ。
……そうするしかできなかった自分が情けないと、静かに泣いていた。
「……また、医師団、に」
「もしも、医師団を退団したのが、望まぬものだったならば。また学び直し、再びこの道を歩むつもりがあるなら、僕は手を貸しましょう」
よその公爵家お抱えの高度人材を、よくもまあ、当主本人の前で引き抜けるものだと、面の皮の厚さに呆れるよりも半ば感心した。
しかし一応筋は通っている。
宮廷医師団は医療に関する限り、国王に次ぐ権限を持つからだ。
解釈次第ではあるが、医師の勧誘はそれに当てはまるだろう。
ソニアが、そっと私を見た。
眼鏡の向こうの明るい茶色の瞳には、迷いの色。――当然だ。
引き止めることは、簡単だ。
「……好きに、なさい。あなたの道ですわ」
それでも私は、選択をソニアに委ねた。
――彼女は、宮廷医師団に絶望したから、私の下に来た。
不満を持ち、違う道を考えている者を、医師団を退団した者達から芋づる式に辿って粉をかけていった。
私はそれを後悔していない。
あれほどの人材の流出を見過ごせるはずもない。野に下るならまだしも、他国へ流れなどしたら目も当てられない。ユースタシア王国にとっての損失だ。
しかし、それが本当に正しかったのかどうかは、分からない。
……私が何もしなければ、改革まで、不満を持ちながらも医師団に所属していたかもしれない者達が、多くいる。
医師長選挙の際、より大きな勢力となったかもしれない。
もしかしたら――ルイを待たずとも、医師団を改革できたかもしれない。
ルイが来てから、より早く、より良く医師団は改革されたかもしれない。
そういう『もしも』を切り捨てていくのが、歴史だ。
けれど、どうしても考えてしまう。
そして、彼女が望めば、戻れるのだ。
私は、かつての医師団を許せない。
彼女のような人間を、あそこまで追い詰めたのだ。
ソニアは、私とは違う。
生まれに恵まれていない。家庭教師もおらず、最高の教育とはとても呼べない。
それでも、宮廷医師団に勤めるまでになった。
この世界は、平等ではない。
階級という線が引かれ、平等でないスタートラインで、それでも公平に、結果で判断される。
ソニアは、結果を出してみせた。
才能に驕ることもせず。努力の果てに。……夢を叶えた。
そんな彼女が、あんなにも。
……でも、医師団は変わった。もう、かつてのようではない。
ヴァンデルヴァーツ家にとっては損失だ。
しかし医師団にとっては違う。
――ユースタシアという国にとって利益になるのがどちらの道であるかは、誰にも分からないこと。
ならば、その道は彼女にしか選べない。
「医師団への未練……は、あります。ないはずが、ない……」
ソニアが、呟くように自分の心を言葉にした。
そうだ。未練がないはずがない。ユースタシア宮廷医師団に、多くの者が憧れ、目指し、挫折する。
才能だけでも、努力だけでも、手に入らない立場。
……医師団改革後に、私の下から、あちらへ戻った者もいるのだ。
寂しい気もするが、そうと決めた者を縛っても意味はない。
居場所を失った者に『それ』を与えたから、私は忠誠を勝ち取ったのだ。
逆をすれば、私が心を殺す側になるだけ。
「医師長様。ありがたい申し出でございます」
彼女は、手を前で重ね合わせ、腰を折って一礼した。
……ああ、見限られたか、と思ったのは一瞬。
ソニアは顔を上げた。
「ですが、私は道を見つけました。――人を救う道です。私は、ここで、私の道を歩んで参ります」
はっとする。
彼女はにこりと微笑み、私にも軽く礼をした。
昔、医師団の証であるコートを着て、そうしたように。
「そうですか。……残念です」
「医師団への未練はあっても、戻ろうとは思いません。しかし、かつて同じコートを着た身として、応援しております。……また道が交わることも、あるでしょう」
――ある。
我が家もまた、宮廷医師団と絡む。
その時に頼りになるのは、彼女のような人材だ。
毒ではなく、薬をもって。
私ではなく、妹によって。
ヴァンデルヴァーツ家が培った力が必要になる日が、来る。
「……振られてしまいました」
ルイが笑った。
真剣だった空気が緩む。
「僕も、人を救う道は一つではないと思っています。宮廷医師団と、ヴァンデルヴァーツの薬草園。道は違えども、傷つき病んだ人を救うために」
「……ありがとうございます、医師長様」
私と、三人の攻略対象の男達の中で、医師長は一番感覚が『まとも』だ。
支配者階級の頂点――とその道具――になるべく育てられた、第一王子や公爵家当主。
平民の出だが、国家の刃としての道を自ら選んだ騎士団長。
ちら、とレティシアを見る。
"裏町"に生まれ、今は公爵家令嬢として貴族の視点を学んでいる……庶民の視点を、今も忘れていないだろう、私の妹。
私は、そういう一般的な感覚を『学んだ』。
私は、貴族だ。支配者階級であり、国家機構の一部だ。歯車として、より大きな仕組みに奉仕するための存在だ。
そういう風に育った私は、そうひどくは間違えない。
私の元には、職人組合が納める事業税や、農地使用税の徴税を通じて、どんな事業が自領で展開されているか、情報が集まってくる。
人頭税を払うことによって、民は生命や財産の権利を領主から保障される。領民と認められるためには、許可証を持つ行商人などを除けば定住が条件で、つまり、人の流れも分かる。
領主は、自領における裁判権を持つ。手ずから裁く必要はないのでいつもは領主代行に任せきりだが、大きな事件があれば記録に目を通すし、恩赦を出す場合は、決断は領主に委ねられる。
"領主代行"がいる。"当主補佐"がいる。助言や実務を行う官僚がいて、衛兵も時には耳にした不満を報告してくる。"影"も市井の情報を、時には酒場や市場の噂話といった、まったく非合法ではない方法で得る。
だから、そこそこ聞く耳を持つ領主である私は、そうひどくは間違えない。
けれど私が、治められる民の気持ちを本当に理解することは、できない。
想像するしかないのだ。
――私は、貴族なのだから。
そういう風に生まれたのだから。
そういう風にしか、生きられないのだから。
じっと、妹を見る。
彼女が受けている貴族教育は、ダンスや乗馬、礼儀作法といった淑女としての物だけではない。領地運営も含まれる。
付け焼き刃ではあるが、今でも、"当主補佐"のシエルと、"領主代行"のユーディットによる全面的なサポートがあれば、新米領主が務まる程度には、仕上がっている。
まあ、あの二人と、その部下達がいて領地運営をしくじる方が難しい気もする。
ヴァンデルヴァーツ家は、領地だけでユースタシア王国の約一割を有し、相応の経済力も兼ね備え、領軍も精強だ。
そして、築き上げた情報網と、育て上げた"影"。
それらを束ねる当主は、捨てるには惜しい、"道具"だ。
それでも、【月光のリーベリウム】の『私』は断頭台に送られる。
『ゲームの中の私』は、何を間違えたのだ?
多分、妹にいじわるをする時点で、何か間違っているのだろう。
なんでこんな可愛い妹に、いじわるをしているのかと思うこともしばしばだ。
じーっ……と、私に無言で見つめられた妹が、居心地悪そうに視線をそらした。
頬をほんの少し赤くして、髪をちょいちょいと指先で整えるレティシア。
……何か勘違いしたようだ。
彼女なら、できるだろうか。
私の妹なら。
"裏町"に生まれ、公爵家に迎え入れられ、貴族としての教育を受けている、彼女なら。
私は、思わず微笑んでいた。
私がどれだけ望んでも手に入れられないものを、妹は持っている。
『アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ』は、多分、何かを間違えているけれど。
私は、何を間違えているのかすら、今でもよく分かっていないけれど。
『レティシア・フォン・ヴァンデルヴァーツ』なら。
運命に祝福された、【主人公】なら。
彼女なら、間違えないだろうか。
レティシアが、視線を戻した。
そしてなぜか、私の瞳を見つめ返して、にこっとする。
「……私とお姉様の道は、一緒ですよ」
……何か勘違いしたようだ。